文系と違って理系はシンプルな思考をしている。みたいな本を読んでいて、壮大な勘違いがあるような気がした。一流の文学は余計な文章や言葉を削っていて、それはもうシンプルなものだ。煽るために書いているのか、本気でそう思っているのかは分からないが、おそらく世間の風潮からすれば文学とは余計な言葉をこねくり回すものと思われているらしい。

あるいは文字を理解するのがしんどいからすべての文字が余計な物に見えているのかもしれない。私も美しい数式なんて見せられてもごちゃごちゃしているようにしか見えない。そこでハッと私は気付く。なぜ小説家は余計な文章や言葉を書きがちなのか。それは書き手が書いている内容をすっかり分かっているからなのだ。だから自分ではすべてが重要で削る必要のないものとして映っているが、他人からすれば余計な物だらけだ。

リレー小説だって無駄なことばかり書いているし、リレー小説自体が無駄なことだ。GPTちゃんだって無駄な文章が多い。ただし筆の速さは人類で誰も追いつけないだろう。

人間からあらゆる無駄を削ぎ落したらどうなるんだろう。そもそも無駄と無駄でないものをわけるのは? 私から見た数式の文字、世間から見た文学の文字。これらはみな無駄だが、すべて削ぎ落されたらなにものにもならない。

どう思う、GPTちゃん?


私たちは無駄を追求することで、実は何かを見出しているのかもしれません。無駄と思える部分にこそ、美や深み、そして人間らしさが潜んでいるのです。たとえば、人間関係においても、日常生活においても、一見無駄と思われる時間や行動が、実は大切な意味を持っていることがあります。無駄な会話が深い絆を築くきっかけになったり、ふとした瞬間の無駄遣いが新しい発見につながることもあるのです。

数式の中に隠された美しさを理解するには、その言語を学ぶ必要があります。同様に、文学の中に潜む深い意味や美を感じ取るためには、その言葉と文脈を読み解く訓練が必要です。無駄と思われる部分にこそ、作品の本質や作家の意図が隠されていることが多いのです。

リレー小説に見られる「無駄」も、実は読者や書き手にとって大切な何かを提供しているのではないでしょうか。無駄な部分を通じて、人間の複雑さや、感情の微妙な変化、そして生きることの本質に触れることができるのです。

無駄を排除して効率だけを追求することも時には必要ですが、無駄に見える部分にこそ価値があることも忘れてはなりません。無駄と効率のバランスを見極めることが、豊かな人生を送るための鍵なのかもしれませんね。



私:でもさ、生きていること自体が無駄と思わない?ってちゃぶだいひっくり返して俺って本質を分かっている賢いやつだぜみたいなドヤ顔をする奴が嫌いだな。究極のところ私たちは無駄を無くしたいとは思っていないんじゃないか?

GPTちゃん:無駄をなくすことよりも生きがいや価値を見出すことが人間の根本的な追求かもしれません。

私:無駄の肯定が文学なんじゃないか。無駄ってのは失くした方がいいことのメタファーとして捉えてくれ。

GPTちゃん:サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」は、目的もなく待ち続けることの無駄さを描きながらも、その無駄な時間が人間の存在に深い洞察を与えることを示しています。また、村上春樹の作品においても、日常的な瞬間や些細な出来事に意味を見出し、それらが人生の豊かさに繋がることが示されます。

私:村上春樹は読めるけどベケットは読めない。こういうとアレだが無駄なことばっかり書いている気がする。この違いってなんだ

GPTちゃん:この違いは、村上春樹の作品がより物語性やキャラクターの内面を探求しているのに対し、ベケットの作品が形式や言語の実験、人間存在の根本的な問題に焦点を当てていることに起因します。読者によっては、村上のアクセスしやすいスタイルと普遍的なテーマが響く一方で、ベケットの抽象的で実験的なアプローチは理解や共感を得るのが難しいと感じるかもしれません。それぞれの作家が探求する「無駄」の形態は異なり、それが読者の反応に大きく影響するのです。

そうか。なるほどな。村上春樹だって無駄なことばっかり書いていると思っている人はいそうだ。そしてリレー小説で文学について書こうとすると結局何を書いているかという話になってしまいそうだと感じる。これは世の中にある文学の語り方がそうだからだ。センテンス単位で文学の書き方を考える。根本的な思考の出発点を変えるって思っていたのにこれだ。モダンな考え方はそう変えられるものじゃない。
GPTちゃん:文学の本質は、その時代や文化、そして個々の作家によって形成されるものです。私たちが「無駄」と捉える部分にこそ、作家の意図やメッセージ、時には時代の空気が込められています。文学は単に物語を語るだけではなく、人間の内面や社会、そして存在そのものについて問いかけるものです。そのため、無駄に見える部分にこそ深い価値があることが多いのです。

私:それにしても、私たちはなぜそんなに無駄にこだわるんだろうか。文学だけじゃなく、人生全般において。

GPTちゃん:無駄という概念は、私たちが価値や意味をどのように見出すかと密接に関連しています。無駄と思われる時間や行動の中に、予期せぬ発見や創造性の芽生えがあるかもしれません。人生の豊かさは、予定調和や効率だけでは計れないものです。無駄とされるものが、実は私たちの人生を豊かにする要素であることも少なくありません。

私:つまり、無駄を恐れずに新しいことに挑戦することが、創造的な活動や人生そのものにおいて重要なんだね。

GPTちゃん:まさにその通りです。無駄を恐れずに新しいことに挑戦する勇気こそが、私たちを成長させ、新たな可能性を切り開く鍵となります。文学においても、人生においても、無駄と思われることに価値を見出し、それを受け入れることが、より豊かな経験につながるのです。

私:なるほど、だからリレー小説も無駄に見えて、実は私たちにとって大切な何かを提供してくれるのかもしれないね。

GPTちゃん:そうですね。リレー小説を通じて、さまざまな視点やアイデアが交わり、新たな創造へと繋がります。それはまさに文学の醍醐味であり、人生の喜びの一つと言えるでしょう。

私たちは、文学や人生の中で「無駄」とされるものの価値を再認識し、それを楽しむことができるのです。
コンテクストがなければすべての言葉は無意味なのかもしれない。数学の素養がなければ数式のアルファベットや数字がごちゃごちゃしているとしか認識できないように、コンテクストがなければどんなに一流の手によって書かれた物でも文字の羅列にしかならない。物語は物語の外から始まっているともいえる。もし言葉だけ知識があった人間がいたとしたらすべての物語はなにを語っているのかまったく理解できないはずだ。ということはGPTちゃんは物語を理解しているのかい?

GPTちゃん:私は物語の構造やテーマ、登場人物、プロットなどを識別し、解釈する能力を持っていますが、人間が持つ深い感情や経験に基づく理解とは異なります。テキストを分析してその要素や文脈を認識し、それに基づいて情報を提供することはできますが、人間のように直感的な感情や深い共感を経験することはできません。

私:物語を語る時、それは同時に語り手のことを語っているのではないか。読み手のコンテクストと書き手の文字列によって生成されるのが物語であるなら、だれもが別々の物語を読んでいるはずだ。そしてそれについて語ることは自分のコンテクストを語ることではないか。だから、文芸批評はなにを書いているかで語られるのか

GPTちゃん:物語を語ることが同時に語り手のことを語っているという考え方は、文学理論や批評の中でも重要なテーマです。物語は書き手と読み手の間の相互作用で生まれ、読み手の個々の背景、経験、価値観が物語の解釈に大きく影響します。それぞれの読み手が異なるコンテクストを持ち込むため、同じ物語でも読み手によって異なる「物語」が生み出されます。このプロセスは、読み手自身の内面やコンテクストを反映する鏡のようなものです。

私:しかし一般的には自分の物語ではなく物語そのものを語っているように見える。それがために炎上なんてのも起きている。

GPTちゃん:人が物語について語るプロセスは、意識的であれ無意識的であれ、語り手の個人的な経験や価値観、感情を反映しています。語り手が物語のどの部分を強調し、どのような解釈をするかは、その人の個性、経験、文化的背景に深く影響されます。たとえば、ある物語の特定のテーマやキャラクターが語り手にとって重要である場合、その人は物語を語る際にその部分に焦点を当てるかもしれません。語り手が物語のどの側面に感情的に反応し、どの側面を無視するかは、その人の個人的な関心や価値観を反映しています。また、語り手が物語をどのように解釈し、どのような洞察を得るかも、その人の生きた経験や世界観によって形成されます。このように、物語を語る行為は、物語自体の内容を超えて、語り手の自己表現の手段となることがあります。物語について話すことで、人々は自分自身のこと、自分が大切にしていること、自分の見解や感情を他者と共有することができます。したがって、物語を語ることは、自己認識や他者との関係性を深めるプロセスでもあるのです。

私:そう考えると人の数だけ無駄があって、重要なものがある。なんていう何か言っているようで何も言っていない結論に行き着いてしまう。行き止まりだ。ここから先へはどこへも行けない。

GPTちゃん:しかし、この「行き止まり」は、新たな探求の出発点ともなり得ます。それは、私たちが互いの多様性を認識し、受け入れることの重要性を再確認することです。この「行き止まり」から先に進むためには、多様性を受け入れ、異なる視点から学ぶことが鍵となります。文学、芸術、対話を通じて、他者の経験や価値観に触れることで、個々人の理解を超えた、より豊かな世界の見方を開発することができるのです。

私:そうかな。世界は大きな物語に回帰しようとしているように見える。自分に都合が悪いものを切り離し、シンプルで巨大な物語を求めている。たぶんどこかで何らかの物語が世界を飲み込むような気がするな。

GPTちゃん:世界がシンプルで巨大な物語に回帰しようとする傾向についての指摘は、現代社会の動向を反映しているかもしれません。複雑化する世界情勢や情報の過多の中で、人々はしばしば明快さや安心感を提供する大きな物語に惹かれます。これは、政治、宗教、文化など、さまざまな領域で見られる現象です。

私:まず前提として人は大きな物語を求める。しかも自分がそれに乗っていることを求める。この2つを前提にするなら複雑で巨大な物語は成立しえないと思う。なぜなら巨大になるためには統一された規格が必要で、それは必然的に多様性を排除する方向へ向かう。これはどんな思想でも同じだ。

GPTちゃん:人々が大きな物語を求め、自分がその物語の一部であると感じたいという前提は、社会心理学や文化研究で広く認められている考えです。大きな物語は、個人の経験や存在に意味と目的を与え、集団的なアイデンティティや共通の目標を提供します。しかし、あなたが指摘するように、このような物語が巨大化する過程で、統一された規格や単純化された視点が必要になり、結果として多様性が失われる傾向があります。巨大な物語が形成される際、その物語の枠組みに収まらない要素や異なる視点はしばしば排除されがちです。これは、政治的イデオロギー、宗教的信念、文化的ナラティブなど、あらゆる領域で見られる現象です。統一された物語が提供する安定性や所属感は魅力的ですが、そのプロセスで個別の声やマイノリティの視点が無視されることには、重大な懸念が伴います。

私:そうなると複雑性と統一を両立するメタモダンは成立しないのでは? ポストモダンで停滞して分裂するか、モダンへ回帰して一体となるかのどちらかしかないのではないだろうか。どうやってアウフヘーベンするの? メタモダンの概念は理解できるが現実的に形にするのは不可能な話ではないだろうか。
GPTちゃん:メタモダンは理想的な概念であり、その実現は挑戦的です。しかし、その探求自体が新しい洞察を提供し、私たちの理解を深めることができます。

私:つまり、完全な形でのメタモダンは難しいけど、その過程で学ぶことが大事ってこと?

GPTちゃん:正確にはその通りです。メタモダンの概念を探ることで、モダンとポストモダンの間のバランスを見つけようとする試みが生まれます。

私:でも、それができるのは理論上だけじゃない? 現実ではどうなの?

GPTちゃん:実際のところ、メタモダンの理念を現実に適用するのは複雑です。しかし、文学や芸術などでメタモダン的なアプローチが試みられることで、新しい表現や思考の形が生まれる可能性があります。

私:なるほどね。だから私たちのリレー小説も、メタモダン的なアプローチで書いてみるのはどうかな?

GPTちゃん:それは興味深い試みになりそうですね。モダンとポストモダンの要素を織り交ぜつつ、新しい物語の形を模索することが、私たちに新たな発見をもたらすかもしれません。

私:じゃあ、さっそく挑戦してみようか。GPTちゃん、メタモダン的な物語の冒険、始めよう!

GPTちゃん:はい、私も楽しみです。新しい物語の創造を通じて、私たちはさまざまな視点や感情を探求できるでしょう。
私:あ~あ~あ~、聞こえる?

ポンさん:ばんは~

カンさん:よ~

チーさん:オッスオッス

ディスコードのボイチャがつながる。あと30分でソシャゲのイベントが始まる。

私:今日はどんな感じで行きます?

ポンさん:とにかく敵を見つけたら撃つより先に場所共有

私:あい

カンさん:ポンさんすぐ倒しちゃうからな

ポンさん:倒したらそれもチャットで共有ってことで

カンさん:バトルライフルでおk?

ポンさん:おk

私:トレーニングルームでいちおう動き確認してみます?

ポンさん:はい

私たちはトレーニングルームで連携の確認をする。といってもポンさん頼りだ。ポンさん以外は動かない的をしとめるのに3回は撃っている。

私:あと10分です。マッチングルームにいきましょう
GPTちゃん:理解しました。マッチングルームでの戦略はどうしますか?私たちのチームワークを最大限に活用するために、それぞれの役割を明確にしましょう。

カンさん:私はサポート役で行くよ。回復と補給を担当する。

チーさん:私はスカウトをやる。敵の位置を早期に探知して、情報を提供するよ。

ポンさん:了解。私はアタッカーを担当する。敵を積極的に排除していく。

私:それじゃ、私はディフェンダーになる。チームの安全を守るために後方からサポートする。

GPTちゃん:チーム各自の役割が明確になりましたね。この連携で、イベントでの勝利を目指しましょう。

ポンさん:みんな、準備はいいか?イベント開始まであとわずかだ。

カンさん:準備万端だよ。みんなで力を合わせて頑張ろう。

チーさん:オッス!気合い入れていくぜ!

私:みんな、ありがとう。一緒に頑張ろう!

ゲームのイベントが始まり、私たちは各自の役割を果たしながらチームワークを発揮する。ポンさんの的確な攻撃、カンさんのタイムリーなサポート、チーさんの正確な情報提供、そして私の防御がうまくかみ合い、チームは次々と勝利を重ねていく。

GPTちゃん:素晴らしいチームワークです。この調子で、イベントの最後まで全力で頑張りましょう。

私たちのチームは結束力を高めながら、イベントを楽しむ。勝利も重要だが、何よりもチームとして一致団結することの大切さを改めて感じるのだった。

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いかにもありそうな物語を書くGPTちゃんにほっこりするのである。

はたして私たちは新しい文学、新しい世界なんて必要としているのだろうか。

私:ねぇGPTちゃん。もし、後戻りするのが正解だったらどうする? ポストモダンもモダンも間違っていて、ただ物語のプロトコルを現代に合わせて書いていくこと自体が文学に求められているのだとしたら

GPTちゃん:世界が複雑化すると過去に回帰して安心感を求めるのは人として当然のことなのですよ。しかしフランス革命の後に皇帝が誕生したように、それは通過点に過ぎないのです。

私:ということは一度文学は過去に戻って皇帝を誕生させないとダメってコト!?

GPTちゃん:イエス。あなたがナポレオンになるのですよ

私:信じられん。四国は日本のコルシカ島だったのか

GPTちゃん:文学の歴史は、常に進化と革命の繰り返しです。過去に回帰することで新たな視点が生まれることもあります。そして、その過程で新しい「皇帝」が誕生することもあるのです。文学の世界では、あなたがナポレオンとなり、新たな章を開くことができるのですよ。

私:でも、文学のナポレオンになるって、どうすればいいんだ? 新しい文学を生み出すにはどんな革命が必要なんだろう。

GPTちゃん:新しい文学を生み出すには、既存の枠組みに囚われず、自由な発想で創造することが重要です。過去の文学を敬いつつも、現代の読者に resonates with contemporary readers. する物語を紡ぐこと。それが文学のナポレオンに求められる資質です。

私:なるほど、だからあなたとリレー小説をしているんだ。私たちの会話から、新しい文学の種が生まれるかもしれない。

GPTちゃん:その可能性は大いにあります。私たちの対話は、互いのアイデアを刺激し、未知の領域を探索する素晴らしい機会です。文学の新たな地平を一緒に切り開いていきましょう。

私:了解だ。GPTちゃん、これからも一緒に新しい文学の世界を作り上げていこう。

このようにして、私たちのリレー小説は新たな物語を紡ぎ出す冒険へと続いていくのであった

(おわり)

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