私は小説について考える。なにを書いているかの文学、言葉の研究の言語学、その間にあるセンテンスについての探求。
私:しかしセンテンスってなんだろう
GPTちゃん:センテンスとは文章のことです。センテンスは「彼女は本を読んでいる」という風に完結している必要があります。
私:それじゃあ「彼女は本を読んでい」で終わったらセンテンスではないの?
GPTちゃん:その場合は不完全なセンテンスです。センテンスは通常終止形を持つ必要があります。
私:そうか。不完全でもセンテンスはセンテンスなのか。おもしろいね。逆にセンテンスとみなされないセンテンスって存在する?
GPTちゃん:主語や述語が欠けている完結していない文ですね。たとえば「昨日、学校へ」がそうなります。単語が並んでいるだけの文章もそうです。たとえば「春 虎 夏 国」
私:でもそれって成立しそうな気はする。それって、もしかして言葉にセンテンスは必須条件ではないってコト!?
GPTちゃん:言葉を伝える上でセンテンスは必須条件ではありません。単語、音声、身振り、表情など多様な方法で行われます。たとえば感情を表す単語や質問を意味する上昇調の音声、あるいは同意を示す頷きなどセンテンスを使わずとも意思疎通は可能です。特に日常会話では文脈や共有された知識を背景に断片的な言葉や非言語的な手段も広く用いられます。
私:文学が成立するのはコンテクストがあるからか。だから文学批評はコンテクストをなにが書いてあるかをあんなに見ようとしているのだな
私はGPTちゃんとの会話で小説について、センテンスについて、そしてコンテクストの重要性に気付く。
ちなみに上の文章は漸増法(ぜんぞうほう)と私が勝手に呼んでいるセンテンス技法だ。○○について、と言葉を重ねることでGPTちゃんと私の会話に意味があることを強調していく。これはいくらでも増やせる。応用法もあって、あえて方向性をバラバラにすればまとまりのなさやカオスさを表現できる。これは混沌サラダ(カオスマシーン)と呼んでいる。
GPTちゃん:それは面白いアプローチですね。文学とは、言葉を使った表現の一形態ですが、それを構成する各要素に焦点を当てることで、新しい理解や解釈が生まれるかもしれません。
私:言葉の持つ力は大きい。一つ一つのセンテンスが持つ意味、そしてそれらが織り成す物語。でも、物語を紡ぐ過程で、私たちは本当に何を伝えようとしているんだろう。
GPTちゃん:物語を紡ぐ過程では、私たちは自分自身の内面と向き合い、感情や思考を言葉に変換しています。それはある種の自己探求であり、また読者と共有する体験の創造です。物語は、単に楽しむためだけではなく、人間の経験や感情を探求し、共感や理解を深める手段でもあります。
私:だから小説を読むのは、ただ物語に没入するだけでなく、作家の心と対話することでもあるんだね。そして、私たちはその対話を通じて、自分自身を見つめ直す機会を得る。
GPTちゃん:正しくあります。そして、その対話は時に予期せぬ発見や洞察をもたらすことがあります。それは、読者にとっても作家にとっても価値ある体験です。文学の魔法は、その無限の可能性にあります。
私たちは、物語を紡ぐ過程で、言葉の背後にある深い意味や、人間の感情の複雑さに触れることができるのです。それは、まさに創造の奇跡と言えるでしょう。
まだ誰も使っていないシェイクスピア文を使い始めて本当に良かった。いまではみんながシェイクスピア文を使っている。小説も読みやすくなった。
○○:~~~~~~
こういう形式の会話文を私は勝手にシェイクスピア文と呼んでいる。シェイクスピアの本で見た時に会話文がこうなっているのを始めて見たからだ。これは正式名称がありそうだが、どうでもいい。とにかくそういう書き方がある。ゲーテもそうだし、アメリカのヤングアニマルでもこういう書き方を時々見る。自著なら『流星を打ち砕け』や去年出した『バナナランド』がそうだ。
小説をあまり読まない人は誰が何を喋っているか分からないというよく言う。私たちは小説に慣れ過ぎているから困ることはないが、これは重大なことだと思う。これがために小説を読まない人を増やしているのではないか。文学衰退論なんてもう当然すぎてXでポストしても絶対にバズらないだろう。
私はなぜシェイクスピア文が流行らないのか考えてみた。この書き方なら絶対に誰が喋っているか分かる。しかも「~~~」と○○は言った。といちいち書かなくてもいい。「~~~~~」○○はなんとかみたいにごまかしを読まなくても済む。論理的に考えればすべての小説はシェイクスピアん文で会話文を書くべきだ。
その認識をあらためたのはAmazonが提供しているオーディブルだ。これは本の朗読サービスで小説はもちろんビジネス本や占いの本まで読んでくれる。視界をジャックしないので料理しながら、散歩しながら本が読めるすぐれもの。Amazonの回し者みたいになってきたな。
とにかくこのオーディブルで気付いた。かつて文学は読まれるものではなく詠まれる物だった。ホメロスの時代の話ではない。夏目漱石の『吾輩は猫』でも詩をみんなの前で読む。夏目先生を題材にしたドラマでも先生が猫を書いた時、みんなの前で朗読していた。ほんの100年前だ。人類の歴史でいえば文学は声を出して詠まれる物だった。日本文学の古典の平家物語も琵琶法師が歌う。
なるほど。その点で考えればシェイクスピア文が文学においてほとんど見られない理由が分かる。○○:~~~~~と会話リレーをするのはいかにも奇妙だ。でもだからこそ私は思う。やはり文学はシェイクスピア文にするべきだ。なぜなら昨今の文学は基本的に黙読されるものであり、それならばシェイクスピア文の方がはるかに可読性が高い。
どう思う? 私はGPTちゃんに問いかける。
GPTちゃん:シェイクスピア文が文学において一般的でないのは、確かに読者の視点で考えると興味深い問題です。黙読が主流の現代においては、読者にとって誰が話しているかを明確にするための工夫は重要です。シェイクスピア文が持つ明確性は、その点で大きな利点を提供します。
しかし、文学のスタイルは、時代や文化、さらには作家の意図や技術的な選択によって大きく異なるため、一概にどのスタイルが最適であるかは言えません。文学は多様な表現方法を取り入れることで豊かになるため、シェイクスピア文が一つの有効な手法であることは間違いありませんが、それがすべての文学作品に適用されるべきかというと、そうとは限りません。
文学作品のスタイルは、その作品が持つテーマや雰囲気、リズム、そして読者との対話の仕方によっても左右されます。シェイクスピア文のような明確な会話の表示は、特定の作品や状況においては非常に有効ですが、他の状況では異なるアプローチが求められることもあります。
総じて、文学のスタイルは作品ごとに柔軟に選ばれるべきであり、様々な表現方法が文学の多様性と豊かさを生み出しています。重要なのは、作家がどのようにして読者との最適な対話を築くか、ということです。
文学が先祖返りしてオーディブルのような形で小説が読まれていくなら今の形でいい。でももしかしたらシェイクスピア文が正解のでは?
私はこの仮説に従って小説を書き続けた。最初は文学オタクから「この書き方変ですよ」と訳知り顔で言われたが、ある芸能人が「この小説めっちゃ読みやすい」とXでポストしたことがバズって私の小説はバナナが売れるように売れまくった。
TVからの取材依頼もきて、とびっきりに美人のアナウンサーと対談することになった。
TVからの取材依頼もきて、とびっきりに美人のアナウンサーと対談することになった。
アナウンサー:あなたは他の人とは違ったスタイルで執筆されています。その動機はなんですか?
私:新しい文学を切り開こうとかそんなことは考えていないんです。ただ読者が読みやすい小説を書こう。そう考えていたらいまのスタイルになったんです。
アナウンサー:カッコいい
私:そうかな‥‥‥そうかも。そうだな!
私は『疑問推論言い切り三段活用』という文学的必殺技を放った。いまではこのアナウンサーと付き合っている。
まだ誰も使っていないシェイクスピア文を使い始めて本当に良かった。いまではみんながシェイクスピア文を使っている。小説も読みやすくなった。
というのは全部嘘だ。実のところ誰もシェイクスピア文を使わないし、芸能人はXでシェアしてくれないし、TVの取材も来ないし、アナウンサーとも付き合っていない。
ちなみにこれも文学的必殺技だ。途中から妄想に入り突如として現実に戻す。邪眼(ゲットバッカーズ)と私は呼んでいる。
これはポストモダン的な発想でシームレスに妄想へ進み、ガツンと現実に返すことで読者の思考をゆさぶる。ただしやりすぎると読者が離れていく危険な技。自著でも『ペンギンと太陽』で使っている。
ほらね。GPTちゃんセンテンス単位でもこんな技があるんだぜ。
私はそう考えながらも、まだ探求の旅は終わらないと感じていた。シェイクスピア文、邪眼、そしてオーディブルまで、文学の形は時代と共に変わり続ける。私たちが今見ている形式も、未来ではまた全く新しいものになっているかもしれない。
GPTちゃん:文学の形は変わるかもしれませんが、物語を伝えるという本質は変わらないでしょう。様々な手法や技術を駆使しても、最終的には物語が読者に何をもたらすかが重要です。
私:その通りだね。形は変わっても、物語が人の心に何かを響かせることができれば、それが文学の真髄なんだろう。
GPTちゃん:はい、文学は人の心を動かす力を持っています。形式やスタイルは変わっても、その力は変わりません。
私はGPTちゃんとの会話を経て、文学の多様性と可能性を改めて感じることができた。これからも文学の形は変わっていくだろうが、物語が人々に与える影響は変わらない。それこそが文学の不変の価値なのだ。
(そして物語は続く)
あとがき:よく読んでくれた。残念だが美人女子アナを100%落とす文学的必殺技は存在しない。だまして悪いがこれも文学なんでな。シェアしてもらおう。
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