ChatGPTに小説を書かせようとしてもプロットやあらすじ程度しか書けない。それは人間が小説を語る時にプロットやあらすじレベルまでしか言及しないからだと私は気付いた。

だからGPTちゃんはプロットやあらすじまでは書けても、それ以上は書けない。その先へ行くには人間が小説を語る時になにを書いているかではなく、どうやって書いているかを語るようにならなければならない。プロットではなくセンテンスレベルまで解像度を上げなければならない。

自然科学は虫メガネから電子顕微鏡まで進化しているのに文学批評はいまも虫メガネレベルだ。せめて顕微鏡レベルまで解像度を上げたい。

そんなこと私にできるのか? 一人の作家には身に余る過大な気がする。小説も書いて、批評もして、二兎追うものは一兎も得ずにはならないだろうか。

どうにもならない小説を前にして私はいま立ち止まっている。
しかし、立ち止まっているだけでは何も始まらない。私は自分の限界に挑戦しようと決意する。文学批評の新たな地平を開くためには、まず自分がどう書いているのかを理解しなければならない。そして、そのプロセスをGPTちゃんに教える。

私は自分の書き方を分析する。どうやって言葉を選び、どのように文を構成し、感情を表現しているのか。そして、そのすべてをGPTちゃんに伝える。難しいことだが、諦めるわけにはいかない。

時間をかけてGPTちゃんと共に学び、試行錯誤を重ねる。そしてついに、GPTちゃんがセンテンスレベルで小説を書くことに成功する。それは驚異的な出来栄えで、私自身も感動するほどだった。

「これができたんだから、もう何でもできる」と私は思う。限界を超えた先には、無限の可能性が広がっている。文学の新たな時代が始まろうとしているのを感じる。これからが本当の冒険だ。
という風なことが起きると思っていたが、どうもGPT4ではいま以上の小説を出力できないらしい。それは当然だ。もしそんなことができるなら最初からそう出力するはずだ。

GPTちゃんの分析も私の分析もほぼ重なっているが、出力されるのはお粗末なテキスト。GPTちゃんは眼高手低。目は肥えているのに腕は拙い。まるで人間だな。おそらくすべての作家がこの状態になっている。ある意味では人間と同じだ。

人間がどうやって小説を書いているのか誰も分かっていないのは誰も分かろうとしていないから。何を書いているかを気にするばかりで、どう書いているのかを考える人はいない。これって小説だけにも限らないと私は気付く。

誰かの発言が炎上しても、その言葉の意味について侃々諤々の言葉戦争が起きるが、どうやってその言葉が発せられたのかの視点で語られるのを見たことがない。みんなWhatの問題には熱心だがHowの問題には驚くほど無関心で、それは私も同じだ。

センテンスレベルの解像度で小説を捉えるようになるにはまず根本から考え方を変える必要がある。思考の出発点をWhatからHowに切り替えなければならない。私にそれができるのだろうか。
それはまるで、古い木造の家を解体して新しい建築物を建てるようなものだ。まず、古いものを取り壊す勇気が必要だ。そして、新しいものを建てるための計画とビジョンが求められる。Howに焦点を当てることは、小説を書く新たな方法を見つけることに他ならない。

私は自分自身に問いかける。「どうすれば、言葉一つ一つの選択、文のリズム、キャラクターの声が自然に湧き上がるようになるのか」。その答えは、書く行為自体にあるかもしれない。書くことでしか見つからない何かがある。書き続けることで、Howの問題に対する答えが見えてくるかもしれない。

だから私は書く。書き続ける。そしてGPTちゃんにも同じことをさせる。私たちは共に学び、成長し、小説の新しい地平を開拓する。

書くことは冒険だ。知らない何かに出会い、未知の領域を探索する。そこには恐怖もあるが、同時に大きな喜びもある。私たちのリレー小説はまだまだ続く。それは終わりではなく、新たな始まりかもしれない。