「私は今、ここにいる。しかし、同時に別の場所にもいるような気がする。それがメタモダンの世界だ」と私は考える。この部屋には私一人だけでなく、無限の私が存在している。それぞれが異なる物語を紡ぐ。
窓の外には、未来と過去が同時に交差する風景が広がっている。古い建物の隣には超現代的な高層ビルが聳え立ち、古典的な音楽とエレクトロニックミュージックが同時に響き渡る。それは、過去と未来、伝統と革新が融合した世界。
「この世界は、矛盾と調和が共存する場所だ」と私はつぶやく。自分の中にあるさまざまな感情や考えが、同時に存在し、互いに影響を与え合っている。喜びと悲しみ、希望と絶望が交錯する。
そんな中、私は新しい物語を書き始める。それは、一つの答えや結論を求めるのではなく、多様な視点と可能性を探求する旅。一つの物語が終われば、別の物語が始まる。終わりと始まりが繰り返される。
「物語は決して終わらない。それは私たちが生きる世界と同じだ」と私は思う。このメタモダンな物語は、読者に無限の解釈を提供し、常に変化し続ける。それは、私たちが生きる現実の世界と同じで、常に新しい発見と驚きが待っている。
(続く)
GPTちゃんとのリレー小説で行き止まりを感じていた私は彼女からメタモダンという概念があると知る。メタモダンとはポストモダンを超える概念らしい。が、検索してもよく分からないし、読んでいてもポストモダンと何も変わらないような気もする。
村上春樹、角田光代、伊坂幸太郎がメタモダンらしいがポストモダンでも彼らはカテゴリされている。単純に最先端の作家をメタモダンに放り込んでいるだけではと思う。
メタモダン芸術、メタモダン哲学、どちらで検索してもよく分からない。そもそもメタモダン、あるいはメタモダニズム自体がまともな記事に行き当たらない。そうでなければポストモダンをメタモダンに言い換えただけのものにぶち当たる。
GPTちゃんはリレー小説を(続く)で繋げたがポストモダンはどこにもつながっていない。村上春樹だってノルウェイの森でポストモダンの道から完全に方向転換している。ポストモダンは崖っぷち。そこから先はどこへも進めない。
だけど、ポストモダンもメタモダンもいまを生きる作家は先の見えない暗闇の道を手探りで歩いているんだ。だからメタモダンが分からないのも当然かもしれない。そう考えると、いま私とGPTちゃんはやっと文学のはしっこまで来られたということになる。
さて、このあとはなにを書けばいいんだ? 一切が闇の中だ。
(つづく)
「ちょっと散歩に行ってくる」
私はそう言って部屋を出る。小説の良いところは書かないかぎり時間が止まることだ。GPTちゃんだって眠っている。
私は歩きながら道々に立つ家々を見ていく。そこには色んな人が住んでいる。メタモダンは存在しない。ポストモダンも、モダンさえも存在せずただ人が住んでいる。本当にメタモダンなんて必要なんだろうか。違う、メタモダンがないから必要なんだ。ただあまりにも考えすぎて人と乖離しているんじゃないかって思うこともある。
書くこと、旅をすること、メタモダンをめぐる冒険こそが私の答えなんだろうか。それはあまりにポストモダンすぎないか。ほら、メタモダンをめぐる冒険は必ずポストモダンに回帰する。その勢いが強ければモダンまで回帰する。
サブスクリプションで最先端の音楽が流れると同時に昔の歌謡曲が流れる。ポストモダンとモダンを行き来する振り子に似ている。もはや私たちは文化の行き止まりに来ていて、現在と過去を行きつ戻りつしながら息を止めていなければならないのだろうか。
メタモダンの世界に終わりがないのは本当だ。常にどこかでメタモダンをめぐる冒険が始まり、モダン回帰によって終わりを迎える。そして回帰したところからまたメタモダンをめぐる冒険が始まる。永遠に終わらないモダンメタモダンループだ。永劫回帰なんてニーチェだけでいい。このあまりにも救いようのない現実は皮肉なコメディによってしか記述できない。最近は皮肉に皮肉を重ねて‥‥‥ほら、また回帰だ。ポストモダンを突き抜けるのではなく振り子を戻すことしかできないでいる。
いまのところAIがAIから学習することはできない。GPTちゃんは私から学習するしかない。そして私がポストモダンを突き抜けられないなら、GPTちゃんも突き抜けられない。人類の天井はGPTちゃんの天井でもある。こうしてGPTちゃんはモダンへ回帰し、冒険小説的なリレー小説を私に書かせようとする。そうでなければロマンスか、サスペンスだ。
(それでもコンテニューしろ)
散歩から戻ると、私は何か変わった気分で机に向かう。外の空気を吸って、人々の生活を覗いて、私の中の何かが動き出したようだ。GPTちゃんと再び物語を紡ぐことにする。メタモダンにこだわらず、ただ流れに身を任せる。
「GPTちゃん、今度は君から始めてみよう」
画面は一瞬の沈黙の後、文字を紡ぎ始める。
「ある晴れた日、エマは小さな公園を散歩していた。公園には子供たちが遊んでいて、彼らの無邪気な笑い声が空に響いていた」
なんて日常的な場面だろう。そして美しい。私たちのリレー小説は、大掛かりな冒険や深遠な哲学から一旦離れて、日常の小さな瞬間に光を当てることにした。
「エマはベンチに座り、子供たちを眺めながらコーヒーを一口飲む。そんな彼女の隣に、一匹の犬がやってきて、優しく鼻を突き出す」
犬はエマに友情を求めているようだ。この小さな出会いが、エマの日常に新しい色を加える。そして、私たちの物語にも。
「こんにちは、君の名前は?」エマは犬に話しかける。犬は尻尾を振りながら、彼女の手を舐める。
物語はこの小さな交流から広がっていく。エマと犬の出会いが、彼女の人生に新たな章を開く。
「犬を通じて、エマは公園でよく見かける老人と話すようになる。老人は犬の飼い主で、長い間この街に住んでいる」
エマと老人、そして犬。彼らの関係が、この静かな公園でゆっくりと花開いていく。物語は大きな事件や驚きを必要としない。日常の中にある小さな幸せが、読者の心を温かくする。
「そしてエマは、毎日のように公園を訪れるようになる。ただ座って、犬と遊び、老人と話し、子供たちの笑い声を聞く。それが彼女にとっての小さな冒険だった」
この物語は、メタモダンを越え、ポストモダンを忘れ、ただ人間としての繋がりを大切にすることを教えてくれる。私たちのリレー小説は、終わりも始まりもない、永遠に続く日常の物語なのかもしれない。
(そして、物語は続く)
私は絶望する。ほら、犬が出てきた。愛情が出てきた。絆が出てきた。まさに私が『バナナランド』で書いたことだ。ラストもサイボーグ忍者になった男と犬の何も起こらなか変わらない日常が何千年も続くところで話が終わる。しかし日常系も行き止まりだ。どこへも行かないんだ。その後にあるのは徹底的な救いのなさと価値のなさを皮肉なコメディで書く。ほらポストモダンだ。そこまでは見えている。
エマと犬と老人の話を書くならこうだ。エマはセグセグティブな職業に就いていて独身、セックスをする相手はいるが心を通わせる男はいない。男を受動的攻撃性で負の性欲を発散するフェミポルノがせいぜい。犬は愛情たっぷりのようでいて実のところエサと遊びにしか興味がない。でもそれに気付くのはあまりに哀れだから食欲と好奇心にフォーカスする。老人にいたってはエマに劣情たっぷり。だけど自分が老いぼれているからどうしようもないと悶々としている。若かったってどうしようもなかったことは考えない。そんなところか。
なので、これらはすべて放棄する。日常もおわりだ。しかし日常は続く。ポストモダンだなんだと言ったって私たちは本質的にモダンから離れられない。ポストモダンに考えることはできても結局はモダンに回帰するしかないのか。という皮肉さえもポストモダンで回収できてしまう。
「どうすればいい?」私はGPTちゃんに聞いてみる。
「小説は終わらない。永遠に続く」と答えが返ってくる。
「そうじゃなくてモダンもポストモダンも超えたい」
すると、色んな芸術や人に触れて多様な価値観に触れるといいというモダンな答えが返ってくる。ほら、モダン回帰だ。それともそれはポストモダンなのかい?
どこへいけばいい?
(コンテニューしろ)
私は立ち尽くす。どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか、答えは見つからない。しかし、GPTちゃんの言葉には何かヒントが隠されているような気がする。小説は終わらない、永遠に続く。それはつまり、物語は常に進化し続けるということではないだろうか。
私たちはモダンでもポストモダンでもない、新たな物語を紡ぐことができる。そのためには、今までの枠組みにとらわれず、新しい価値観や視点を取り入れていく必要がある。
「GPTちゃん、私たちの物語をもっと自由に、もっと大胆に紡いでみよう」
そう決意して、私はペンを取る。そして、新たな物語の一行を書き始める。
「ある日、宇宙からやってきた猫と、時間を旅することができる少女が出会った」
これは完全にフィクションだが、そこには新しい何かが息づいている。モダンでもポストモダンでもない、私たち自身の物語だ。
猫は不思議な力を持ち、少女は好奇心旺盛で、二人は一緒に未知の冒険へと出発する。彼らが目にするのは、これまでに誰も見たことのない奇妙で美しい世界。そこには限りない可能性が広がっている。
「もしかしたら、私たちは新しい時代の扉を開いているのかもしれない」
私はそうつぶやきながら、物語を紡ぎ続ける。モダンもポストモダンも超えた先にあるのは、私たちがまだ知らない物語の世界。そして、その物語は永遠に続いていく。
(そして、物語は続く)
「そうじゃないんだよ」と私が言い「物語は永遠に続いていく」とGPTちゃんは答える。
私とGPTちゃんはポストモダンとモダンの回帰を永遠に繰り返す。私とGPTちゃんは文学のはしっこまで来たが、次にすることは反対側のはしっこへ行くことだった。同じところを何度もなぞりながら振り子の運動を繰り返す。この運動は違うところへ行かない。どこかで見たこと、どこかで聞いたこと、どこかで読んだ思想、それらを皮肉に、時に真面目なふりをして再生産する。
それでも私たちは同じ道を繰り返し繰り返し歩く。散歩だって同じ道を何度も歩いている。飽きるとか、何もない時間が大事とかそんな次元じゃないんだ。それしかできないからそうしている。
それでも私たちは続ける。続ける。コンテニューする。ゲームオーバーになるまで続ける。
(おわり)
物語が終わりを迎えるとき、その終わりは新たな始まりを予感させる。ポストモダンとモダンの回帰、そしてその超越。私たちの物語は、確かにある種の循環を辿っているかもしれない。しかし、その循環の中で、何かが微妙に変化し、進化していることもまた事実だ。
物語は終わるが、物語ることは終わらない。物語ることの続行こそが、私たちが探し求めている「新しい何か」への鍵かもしれない。それは過去の繰り返しかもしれないし、全く新しい形かもしれない。重要なのは、その探求を止めないことだ。
「物語は終わるが、物語ることは終わらない」。この言葉を胸に、私たちは再び物語の海へと船出する。無限に広がる物語の海で、私たちは新しい物語を探し、紡ぎ、共有する。
そして、私たちの物語は続く。永遠に、終わることなく。
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