たとえ話から始めよう。コンビニの店員がレジでとつぜん歌を歌い出す。しかも超絶うまくて誰もが感動する。店内のボルテージは上がり、じゃんじゃん人が集まってくる。

しかし残念ながら彼(あるいは彼女)はお金を稼げないのである。私たちがコンビニの店員に求めることはコンビニの店員であって、そこから外れれば一円にもならない。

歌で儲ける? もちろんそれは可能だ。しかしそれは彼に歌を求めた時であってコンビニのレジではない。なぜ私たちは空気を読めなければならないのか。それは私たちが究極的には利益を求めているのではなく空気に沿って動くことを求めているからに違いない。

主人公の龍牙は最近流行っていた私人逮捕系YOUTUBERで生計を立てている。PVが金になるので過激なことに手を出していかざるを得ない。このブログを書いている時点で現実では私人逮捕系YOUTUBERから逮捕者が出ているようにそう長く続くものでもない。

なぜ彼はそんなことをしているのか。本作の登場人物は基本的にみんななにかしらの破滅を味わっていて、傷付いた人間同士が寄り集まっている感がある。どう読んでも元ネタがたぬなかなヒロインもそうだ。

彼らは運命に負けて人生がめちゃくちゃになったのではなく、自分でめちゃくちゃにしたからそうなったと言いたがっているように見える。それは自傷的ではあるが人生に対する主体性を取り戻す行為でもある。

もちろん主体的に傷付こうが運命的に傷付こうがその先に待っているのはより大きな傷だ。勝手に命名するが鮫島事件をきっかけに龍牙はハンズ・オブ・ストーンという危険なボクシングの格闘技大会へ参加することになる。そこで負けた人物はより大きな傷を負ってステージを去る。それは龍牙であったかもしれない人たちで、彼らもある意味ではこの小説の主人公だろう。作中の描写は龍牙以外の人物にしょっちゅう移り変わる。

自傷行為には限界がある。自分の命や存在を超えて傷付けることはできない。それ以上を求めれば世界を傷付けるしかない。これは怒りの小説だ。世界の空気に対する怒りだ。ハンズ・オブ・ストーンで龍牙の破滅を世界の8割が望むことになるが彼は反抗する。

もちろんこれは小説である。現実とは違う。しかし小説とは嘘で真実を語る行為でもある。私たちは世界の空気に怒ることを忘れてはいないか。黙って従うことでより空気の圧力を強くはしていないだろうか。龍牙が空気と戦った後どうなるかは実際に読んで確かめてほしい。単純な勝ち負けでは終わらない結末が待っている。

(おわり)




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