この前ポッドキャストを聞いていたらTOEICで何点取っていても英語を聞き取ることはできなかったけれど文脈が理解できた時に初めて言葉が頭の中に流れてきた。という話を聞く。昔々養老孟子が『バカの壁』で話を通じない人としてオタクやオウム真理教の信者のはしりみたいなのを書いていて、それと似たようなものかもしれないと感じる。同じ日本人で日本語は理解できるのだけれど言っていることがさっぱり分からないというあれだ。養老孟子が発端ではなく実はこういう概念って昔からあったんじゃないかと思う。ツイッターでも時々それに似たような話が出てくる。バカの壁と言うと相手が傷つくので言い換えると、文脈の壁というものがある。この壁があると言葉は理解できても相手の言っていることが理解できない。
文盲というディスがある。文章を読めないアホという意味だがこれって文脈を読めていないってことだと気付く。言葉は読めているようなのに曲解としか思えないような受け取り方をする人がいる。これは心が歪んでいるのではなく単にその人が持っている文脈が違うだけではないだろうか(もちろん相手をやり込めるための曲解もあるだろう)。私たちは究極のところ文脈のやり取りをしていているのだろう。人は見た目が9割なんて本もある。何かの本の名言を読んでもピンとこないのも、その文章が出てくるまでの文脈が抜けているからだ。そう考えると言葉の本質は文脈ということになる。小説もつまるところ言葉を書くのではなく文脈を作る作業っぽい。小説をイメージする時は言葉じゃなくて文脈で捉えているしね。
文脈って何なのだろう。形はないけれど存在している。でも「文脈をここに出してください」と一休さんみたいなことを言われても無理で、文脈の正しさや間違いを言い争うことは不毛というかそもそもできない。人それぞれに持っている文脈があり、受け取り方も違う。そう考えると文章自体が持つ文脈も存在しないことになるが、それは違う気がする。どう違うのかとか言われても困るけどね。文脈は真っ直ぐだとか、歪んでいるだとかも分からない。まぁ自分は真っ直ぐだとはみんな思っているだろう。自分の文脈と合っているのなら真っ直ぐと感じるのかな。牛野小雪があんまり売れないのは世間の文脈と外れているからなのかもしれない(笑)
小説にはリズムやアクセントがある。こっちは文脈と違ってそんなに語られる印象がないが、やっぱり存在している。そして形はない。テンポが良いとか悪いとかはあるが行間にBPMや音符は示されていない。それでもやっぱりある。
『ご冗談でしょう、ファインマンさん』にファインマンがイタリア語の調子を真似て喋る話があるが、実は言葉はでたらめで、それでも他の人にはイタリア語が話せると思われるし、なんとイタリア人にも通じてしまう。
ありゃ~、こうなってくると文脈より大事なのは文脈じゃなくてリズムやアクセントだ。そういえば文章のリズムの話をするのも書くタイプの人だ。私たちは究極のところ言葉でも文脈でもなく音楽の交換をしているのかもしれない。歌が上手いとモテるのもそれが理由。本質的な意味で話が通じるからね。言葉がどうとか文脈がどうとか言っていたら全宇宙的に正しくても絶対にモテない気がする(笑) 村上春樹だって文体を音楽的に捉えていると何かの本に書いてあった記憶がある。モテるにはノリが大事。言葉も文脈もいらねぇや。何を言うかではなく、どう語るかを考えよう。How to本はあってもWhat to本はない。ほら、これが答えだ。
モテたいのならモテるやつの真似をしろ。が正しいなら、文章が上手くなりたいなら上手いやつの真似をしろということになる。ああ、なんてこった。文章を写す文体練習を写経といって別段新しい練習方法ではないのだが、一体何の効果があるんだろうか。読むだけじゃダメなのかとずっと疑問だった。しかしやっと謎が氷解。写経の狙いは漢字を何度もノートに書いて憶えるように、モテる文章を何度も写してリズムを憶えろということだったのだ。くそ~ようやく謎が解けたのだがお手本になる文章がどこにあるのか分からない。誰かモテモテの文章を教えてください。
(おわり)
牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪
文盲というディスがある。文章を読めないアホという意味だがこれって文脈を読めていないってことだと気付く。言葉は読めているようなのに曲解としか思えないような受け取り方をする人がいる。これは心が歪んでいるのではなく単にその人が持っている文脈が違うだけではないだろうか(もちろん相手をやり込めるための曲解もあるだろう)。私たちは究極のところ文脈のやり取りをしていているのだろう。人は見た目が9割なんて本もある。何かの本の名言を読んでもピンとこないのも、その文章が出てくるまでの文脈が抜けているからだ。そう考えると言葉の本質は文脈ということになる。小説もつまるところ言葉を書くのではなく文脈を作る作業っぽい。小説をイメージする時は言葉じゃなくて文脈で捉えているしね。
文脈って何なのだろう。形はないけれど存在している。でも「文脈をここに出してください」と一休さんみたいなことを言われても無理で、文脈の正しさや間違いを言い争うことは不毛というかそもそもできない。人それぞれに持っている文脈があり、受け取り方も違う。そう考えると文章自体が持つ文脈も存在しないことになるが、それは違う気がする。どう違うのかとか言われても困るけどね。文脈は真っ直ぐだとか、歪んでいるだとかも分からない。まぁ自分は真っ直ぐだとはみんな思っているだろう。自分の文脈と合っているのなら真っ直ぐと感じるのかな。牛野小雪があんまり売れないのは世間の文脈と外れているからなのかもしれない(笑)
小説にはリズムやアクセントがある。こっちは文脈と違ってそんなに語られる印象がないが、やっぱり存在している。そして形はない。テンポが良いとか悪いとかはあるが行間にBPMや音符は示されていない。それでもやっぱりある。
『ご冗談でしょう、ファインマンさん』にファインマンがイタリア語の調子を真似て喋る話があるが、実は言葉はでたらめで、それでも他の人にはイタリア語が話せると思われるし、なんとイタリア人にも通じてしまう。
ありゃ~、こうなってくると文脈より大事なのは文脈じゃなくてリズムやアクセントだ。そういえば文章のリズムの話をするのも書くタイプの人だ。私たちは究極のところ言葉でも文脈でもなく音楽の交換をしているのかもしれない。歌が上手いとモテるのもそれが理由。本質的な意味で話が通じるからね。言葉がどうとか文脈がどうとか言っていたら全宇宙的に正しくても絶対にモテない気がする(笑) 村上春樹だって文体を音楽的に捉えていると何かの本に書いてあった記憶がある。モテるにはノリが大事。言葉も文脈もいらねぇや。何を言うかではなく、どう語るかを考えよう。How to本はあってもWhat to本はない。ほら、これが答えだ。
モテたいのならモテるやつの真似をしろ。が正しいなら、文章が上手くなりたいなら上手いやつの真似をしろということになる。ああ、なんてこった。文章を写す文体練習を写経といって別段新しい練習方法ではないのだが、一体何の効果があるんだろうか。読むだけじゃダメなのかとずっと疑問だった。しかしやっと謎が氷解。写経の狙いは漢字を何度もノートに書いて憶えるように、モテる文章を何度も写してリズムを憶えろということだったのだ。くそ~ようやく謎が解けたのだがお手本になる文章がどこにあるのか分からない。誰かモテモテの文章を教えてください。
(おわり)
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