現代社会は多様性の時代だと言われているが、そんなことは嘘っぱちでせいぜい数バリエーションの人しか受け入れ先はない。腕が6本あったり、目からビームが出たり、指の間からアダマンチウムの爪が出たり、体が岩でできている人間を想定されてはいない。社会の要請する人間で無いならば、特に誰かが排除しなくても、そもそも居場所がないので、彼らは社会の力学で勝手に外側へと導かれる。

 身体能力だけでもそうなのに、心や精神でだって多様性はない。変わったキャラは『変わったキャラ』という枠を越えた途端に受け入れられなくなる。社会に存在する数バリエーションのキャラを越えた人間は静かな真空によって、社会の外側へ吸い込まれていく。人間って数パターンしかいないよな、というのはある意味では正解で、数パターンのキャラしか社会は受け入れられないからだ。内心は自由でも表現は限られている。こいつら没個性だなと思っている人も、社会の中では没個性の人間としか出現せず、そこから逃れようとしても、せいぜい『個性的』という型にハマるぐらいだ。個性的な奴が出てこないと言っている人も、本当に『個性的』な枠を越えた個性的な人が目の前に現れたら、受け入れられないことはほぼ間違いないし、認識することさえできないかもしれない。『』の中に入るのは何でもいい。それは真面目だとか、天才だとか、面白い、カッコイイ、かわいい、弱者、変態、無個性でさえ入れることが可能だ。

 直接の描写はないが前山田君は何のキャラにもなれない無能である。自尊心とお金を払ってまでいじめられっ子というキャラを社会(学校)の中に見出したが、親の金を盗まなければならないほど追いつめられた時に、つまりキャラの維持費が彼個人の裁量を越えた時に、とうとうこの世から居場所がなくなり、オサラバすることになった。

 現代社会は映画の『JOKER』と違って、銃とマレー・フランクリンが存在しないゴッサムシティだ。マレー・フランクリンみたいな人がいれば笑いものにしてくれる。一緒に笑えば居場所を得られる。もしかしたら表舞台に引き上げてくれることだってあるかもしれない。銃があれば自分を笑う奴を撃ってテロリストになればいい。しかし残念ながら社会に受け入れられない人にマレー・フランクリンは現れないし、銃、あるいはそれに準ずる力さえも手に入れることはできない。『JOKER』のアーサーだって自分の力で銃を手に入れたわけじゃないしな。『JOKER』はしょせんフィクションで、舞台装置として銃を手に入れただけだ。現実は静かに死ぬか、腐りながら生きていくしかない。

 上でも書いたように社会に受け入れられない人間は認識すらされない。前山田君にいじめられっ子というキャラが付いていた時は主人公が同情してくれたのに、自殺した理由がいじめでないと分かった途端に、前山田君はいじめられっ子というキャラから逸脱して、キャラが剝ぎ取られた無キャになってしまう。半年後もすればいじめっこの前山田君は記憶に残ったとしても、仮面が外れたむき出しの前山田君は存在していたことさえ忘れられるだろう。社会的な『』にくくられない真の無キャは『当てつけ』さえ亡きものとされてしまうのだ。

(おわり)

※前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよってタイトルに書いたけど、そもそもこの小説、平成に書かれた物だったので、やっぱり二重の意味でねえよ。

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20



ジョーカー(字幕版)
ザジー・ビーツ
2019-12-06



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