最初は別の小説を書こうとしていたので正確な日時は不明だが、雑感帳に隕石が落ちることが言及されたのは2019年5月19日。同20日に『千秋とミーナ』という仮題が付けられたが、22日に『流星を打ち砕け』にする。これ以外にない!と決定する。
それから資料を集めがらプロットラインを引き始め、6月18日から仮書き(下書きみたいな物と思って欲しい)を始める。途中で何度もプロットラインを引き直しながら、一周目の仮書きが終わったのが10月8日。全体を見直して、またプロットラインを引き直して、2周目の仮書きを始める。
いわゆる執筆、wordを開いて文章を書き始めたのが2019年10月25日。終わったのは12月17日。たった56日だ。全部で198,107字。準備八割仕事二分というが、執筆したのはほんのわずかな期間だ。例によって書かない日を挟みながら書いたので実質的な執筆日数は27日しかない。文句なく過去最高の速さだ。
まぁこれは話の種にするために出した数値で、毎日執筆していたらこれだけ書けることはなかっただろうし、5月19日から計算すれば1日1000字ほどだ。これからする推敲の分を入れれば1000字を下回るだろう。トータルではいつも通りの速さだ。エネルギー保存の法則は変えられない。
今作は執筆中は神を感じていた。毎日書けるかどうか不安だったが、最初の一行を超えられれば、後はどんどん言葉が出てきて、ほほの裏側に神の顔が重なっているような感覚を毎日味わっていた。こういうことは『真論君家の猫』を書いている時も味わったが、あれは5章の後半から、シラコさんがいなくなった辺りで、もう最後の最後の方だったので、すぐに終わった。『流星を打ち砕け』は最初から最後までそうだった。
そういう感覚とは別に、これが小説の神の恩寵ではなく自分の行いによるものだとも理解していた。半年近く書き溜めてきたプロットや仮書き、メモが現在の私を押し上げているのだと。その証拠に最後の最後で執筆が2周目の仮書きに追いつくと目に見えて執筆速度が落ちた。正確に言えば6割減だ。1周目の仮書きとプロットはあるが、2周目の仮書きがないというので計算は合う。ありえないほど奇跡的な執筆も冷静な目で振り返れば奇跡ではないのだ。
とはいえ執筆中に神を感じていたという体感は事実だ。書いている時は脳と心臓に冷たい風が吹いて魂が浄化されていくような爽快感があった。おまけに世界の全てが自分に味方しているような感覚があって、文字がきらめいていた。そのきらめきからまた言葉が繋がって出てきた。あまりに美しく幻想的な時間で永遠に執筆が終わって欲しくないと思ったほどだ。リズムを崩さないために毎日決められた時間で執筆を断ち切るのだが、かなり名残惜しかった。もしあの感覚のままずっと書き進めていればどんな物が出てきただろうかとは考えたが、小説全体の崩壊が恐かったので踏み止まった。それがこの小説にとって本当に良いことだったかは分からない。もしかしたらとんでもないものが生まれていた可能性もあるし、やっぱり駄目になっていたかもしれない。究極のセンテンスのために小説全体を天秤にかける勇気は出なかった。
そういうことを差し引いても執筆中に私が現実離れした感覚を味わっていたのは確かで『2019年世界で一番幸せな小説家は誰だ!?』というコンテストがあれば12月分だけで私が1位になるのは間違いない。あの感覚を他の小説家が味わったことがあるなんて信じられない。私も二度と味わえないかもしれない。あんな体験が1年も続いていたら、きっと死んでいただろう。執筆中は死ぬんじゃないかといつも不安だった。それぐらい強烈な体験だった。
(おわり)
追記:昔読んだ本に側頭葉を刺激すると神を感じる場所があると読んだので、ちょっと調べてみた。側頭葉には連想・比喩を司る場所もあるらしい。確かに今回は比喩が多し、大きい。もしかして側頭葉の位置は数年前に大きな円形脱毛症ができた場所と同じかもしれないと調べてみたが、私が禿げたのは頭頂葉の側面から前頭葉のかけての部分だった。でも頭頂葉も前頭葉も言葉に関係ないわけでもない。小説によって使う場所が違うのかな。ちなみに体感としては大脳より、頭の後ろを使っているような気がする。後頭葉より下の小脳の辺りだ。でも小脳は知識よりも運動を司っているらしい。案外、サッカー選手とか、野球選手、あと格闘家に小説を書かせると、新しい文学が生まれるのかもしれないね。以前TVで長谷川穂積が、相手を倒すには力を込めたパンチではなく相手の意表を突かなければならないと言っていたので、ボクサーが書いた小説はたぶんトリッキーだろう。
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それから資料を集めがらプロットラインを引き始め、6月18日から仮書き(下書きみたいな物と思って欲しい)を始める。途中で何度もプロットラインを引き直しながら、一周目の仮書きが終わったのが10月8日。全体を見直して、またプロットラインを引き直して、2周目の仮書きを始める。
いわゆる執筆、wordを開いて文章を書き始めたのが2019年10月25日。終わったのは12月17日。たった56日だ。全部で198,107字。準備八割仕事二分というが、執筆したのはほんのわずかな期間だ。例によって書かない日を挟みながら書いたので実質的な執筆日数は27日しかない。文句なく過去最高の速さだ。
まぁこれは話の種にするために出した数値で、毎日執筆していたらこれだけ書けることはなかっただろうし、5月19日から計算すれば1日1000字ほどだ。これからする推敲の分を入れれば1000字を下回るだろう。トータルではいつも通りの速さだ。エネルギー保存の法則は変えられない。
今作は執筆中は神を感じていた。毎日書けるかどうか不安だったが、最初の一行を超えられれば、後はどんどん言葉が出てきて、ほほの裏側に神の顔が重なっているような感覚を毎日味わっていた。こういうことは『真論君家の猫』を書いている時も味わったが、あれは5章の後半から、シラコさんがいなくなった辺りで、もう最後の最後の方だったので、すぐに終わった。『流星を打ち砕け』は最初から最後までそうだった。
そういう感覚とは別に、これが小説の神の恩寵ではなく自分の行いによるものだとも理解していた。半年近く書き溜めてきたプロットや仮書き、メモが現在の私を押し上げているのだと。その証拠に最後の最後で執筆が2周目の仮書きに追いつくと目に見えて執筆速度が落ちた。正確に言えば6割減だ。1周目の仮書きとプロットはあるが、2周目の仮書きがないというので計算は合う。ありえないほど奇跡的な執筆も冷静な目で振り返れば奇跡ではないのだ。
とはいえ執筆中に神を感じていたという体感は事実だ。書いている時は脳と心臓に冷たい風が吹いて魂が浄化されていくような爽快感があった。おまけに世界の全てが自分に味方しているような感覚があって、文字がきらめいていた。そのきらめきからまた言葉が繋がって出てきた。あまりに美しく幻想的な時間で永遠に執筆が終わって欲しくないと思ったほどだ。リズムを崩さないために毎日決められた時間で執筆を断ち切るのだが、かなり名残惜しかった。もしあの感覚のままずっと書き進めていればどんな物が出てきただろうかとは考えたが、小説全体の崩壊が恐かったので踏み止まった。それがこの小説にとって本当に良いことだったかは分からない。もしかしたらとんでもないものが生まれていた可能性もあるし、やっぱり駄目になっていたかもしれない。究極のセンテンスのために小説全体を天秤にかける勇気は出なかった。
そういうことを差し引いても執筆中に私が現実離れした感覚を味わっていたのは確かで『2019年世界で一番幸せな小説家は誰だ!?』というコンテストがあれば12月分だけで私が1位になるのは間違いない。あの感覚を他の小説家が味わったことがあるなんて信じられない。私も二度と味わえないかもしれない。あんな体験が1年も続いていたら、きっと死んでいただろう。執筆中は死ぬんじゃないかといつも不安だった。それぐらい強烈な体験だった。
(おわり)
追記:昔読んだ本に側頭葉を刺激すると神を感じる場所があると読んだので、ちょっと調べてみた。側頭葉には連想・比喩を司る場所もあるらしい。確かに今回は比喩が多し、大きい。もしかして側頭葉の位置は数年前に大きな円形脱毛症ができた場所と同じかもしれないと調べてみたが、私が禿げたのは頭頂葉の側面から前頭葉のかけての部分だった。でも頭頂葉も前頭葉も言葉に関係ないわけでもない。小説によって使う場所が違うのかな。ちなみに体感としては大脳より、頭の後ろを使っているような気がする。後頭葉より下の小脳の辺りだ。でも小脳は知識よりも運動を司っているらしい。案外、サッカー選手とか、野球選手、あと格闘家に小説を書かせると、新しい文学が生まれるのかもしれないね。以前TVで長谷川穂積が、相手を倒すには力を込めたパンチではなく相手の意表を突かなければならないと言っていたので、ボクサーが書いた小説はたぶんトリッキーだろう。
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