一昨年の暮れから去年の前半はずっと改稿をしていて、毎日の改稿字数を計測していた。それによると一週間休んでから二週間後に改稿字数のピークがくることが分かった。夏に群像に送った小説もやはり14日目にピークがきた。ついでに今書いている小説も15日目が一番書けた。どうも二週間後にピークがくるというのは生理的現象らしく、気合ではどうにもならないようで、その後は必ずペースが落ちる。ピークから二週間後にはほとんど書けなくなるので一週間休む、するとまたじわじわ書けだして二週間後にピークがくる。
何だか嫌になる。自分とは関係ないところで執筆は進む。14日頃は寝不足で今日はダメだと思っても書けてしまう。28日頃は前日にぐっすり眠れて心も体も万全という状態でも1000字書くのがやっとだったりする。
私が私と思っている人間は、実は二重人格の従人格かもしれない。主人格は私に現実を任せて、意識の裏側でしこしこ小説を書いているのではないか。前に二重人格の本を読んでから、そんなことを考えている。少なくとも小説は私だけの意思では書いているとは思えない。これはどう考えても書けるだろうという時に書けなかったり、頭が真っ白な時でも書けてしまう時がある。私が二重人格かどうかはともかく、私が認識できないところで別の原理が働いているのは間違いないことで、しかもそちらの方がよっぽど私より強い。
ホントに嫌になるけど休養から二週間後にピークがくるのは、ほぼ間違いない。なので二週間後に最後の締めを書けるように一週間休むことにした。今までのペースなら14日目に(おわり)と書けるだろう。
でも本当に14日目にピークがくるのかな、と不安に思っていると、ニュースで錦織圭が全豪オープン前に一週間休むというのを聞いた。全豪オープンは1月の14~27日にある。決勝はほぼ二週間後だ。錦織圭と同じなんだと背中を押された。
時々私は小説の神様に愛されているんじゃないかと思う時がある。こうやって偶然を装って、それでええんやでと教えてくれているような気がする。それなら毎日一万字ぐらい書けて、小説も飛ぶように売れるようにしてほしいものだが、そこまでは溺愛されていないらしい。まぁでも嫌われてはいないんじゃないかな。
山桜もだいぶ先が見えてきた。超絶好調の日がくれば、その日のうちにでも書き終わりそうだけど、それだとかえって二週間後のピークに締めが来ないので、ほどほどに進むぐらいで良いよと思いながら書いている。だから、ほどほどに進んでいる。
(おわり)
※二重人格の従人格は主人格を認識できないが、主人格は従人格を認識できる。ということは、もし仮に私が二重人格なら、私は主人格を感覚として認識できていないので従人格ということになる。必要なくなれば消えてしまう。吹けば飛ぶような将棋の駒だ。
何だか嫌になる。自分とは関係ないところで執筆は進む。14日頃は寝不足で今日はダメだと思っても書けてしまう。28日頃は前日にぐっすり眠れて心も体も万全という状態でも1000字書くのがやっとだったりする。
私が私と思っている人間は、実は二重人格の従人格かもしれない。主人格は私に現実を任せて、意識の裏側でしこしこ小説を書いているのではないか。前に二重人格の本を読んでから、そんなことを考えている。少なくとも小説は私だけの意思では書いているとは思えない。これはどう考えても書けるだろうという時に書けなかったり、頭が真っ白な時でも書けてしまう時がある。私が二重人格かどうかはともかく、私が認識できないところで別の原理が働いているのは間違いないことで、しかもそちらの方がよっぽど私より強い。
ホントに嫌になるけど休養から二週間後にピークがくるのは、ほぼ間違いない。なので二週間後に最後の締めを書けるように一週間休むことにした。今までのペースなら14日目に(おわり)と書けるだろう。
でも本当に14日目にピークがくるのかな、と不安に思っていると、ニュースで錦織圭が全豪オープン前に一週間休むというのを聞いた。全豪オープンは1月の14~27日にある。決勝はほぼ二週間後だ。錦織圭と同じなんだと背中を押された。
時々私は小説の神様に愛されているんじゃないかと思う時がある。こうやって偶然を装って、それでええんやでと教えてくれているような気がする。それなら毎日一万字ぐらい書けて、小説も飛ぶように売れるようにしてほしいものだが、そこまでは溺愛されていないらしい。まぁでも嫌われてはいないんじゃないかな。
山桜もだいぶ先が見えてきた。超絶好調の日がくれば、その日のうちにでも書き終わりそうだけど、それだとかえって二週間後のピークに締めが来ないので、ほどほどに進むぐらいで良いよと思いながら書いている。だから、ほどほどに進んでいる。
(おわり)
※二重人格の従人格は主人格を認識できないが、主人格は従人格を認識できる。ということは、もし仮に私が二重人格なら、私は主人格を感覚として認識できていないので従人格ということになる。必要なくなれば消えてしまう。吹けば飛ぶような将棋の駒だ。
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