8月から武士道や大和魂について調べていて、それも行き詰まってきたので、最近は外国人が日本について書いた本を読んでいる。『ニッポン放浪記』という本を読んでいると三島由紀夫や大江健三郎の翻訳をした人の本ということが分かって、久しぶりに小説の世界に帰ってきた気分がした。

 プロットラインは一応最初から最後まで引けたが、元々の武士道や大和魂とは全然かけ離れたものになってしまって、一体この一ヶ月の間に私は何をしていたのだろうという気分になった。おまけにまだこのプロットでは書き出せないと感じていて、創作ノートをつけるようになって二ヶ月が経とうというのに全然本文を書き始める気配がない。

 とはいえ、毎日それなりに何かを発見するなり、気付きがあったりで、ノートは充実していく。でも本文のクリティカルになりそうな部分は全然進んでいないのも事実で、この『何かしらは進んでいる』というあやふやな達成感を抱いたまま時が過ぎていくのではないかと予感してゾッとする瞬間がある。

 たぶん今あるノートで書いて書けないことはないと思う。今年の夏に書いたのは中編でノート2ページで書き始めて、最終的に52ページまで書いたが、今回はまだ本文を一文字も書いていないのに23ページも書いている。武士道とか大和魂がどうのというのを除いても10ページはある。これは長編を書こうとする量だが、書こうとしているのは中編にする予定だ。でも聖者の行進も長めの中編を目指して書いたので、もしかしたらこれも作者の予想を超えて長編になるかもしれない。そういえば聖者の行進も書き始める前にノートもけっこう書いていた(奇遇にも23ページだ)。

 来年の群像の結果が出るまで時間があるので、目一杯に時間と手間をかけられるだけかけてみようと、この小説に着手したのだが、本当に時間をいっぱい食っているので恐くなってきた。いつもはノートを書き始めれば一ヶ月で書き始めているのに、今はまだ気配すら感じず、11月に入ってもまだノートを机の中心に置いている自分の姿をありありと想像できてしまうほどだ。この調子だと今年中に書き上げるのは不可能だが、あっという間に書けてしまうのではないかという気もしている。なまじ今年の夏は書け過ぎてしまったので、こんなことを考えるのかもしれない。

 今のところ一つだけ決まっているのは、もしこのノートを書いている小説を書くのだとしたら『山桜』にしようと思っている。

しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

 という詞から取った。花が抜けているのは語呂が悪いから。『山桜』という題名にしようとはもう9月の時から考えていて、今も山桜以外に良い題名が思い付かない。よっぽどプロットの大きな変化がない限り『山桜』しかありえない。サラリーマン侍を書こうと武士道とか大和魂を追い求めていたのも全くの無駄ではなかったということだ。

 このように進んでいないようでも何かしら進んでいる。こうやって少しずつ進んでいけば、どこかに到達できるだろうか。

(おわり)