記憶と文字の量は一致しないようで、タクヤが山奥で野犬達と退治する場面が一万字もないことに驚いた。あそこは2万字くらいあると思っていた。それとは逆にタクヤと猫が出会って焚き火で●ンコを包んだ新聞紙を燃やすところまでで2万字近くあるのにも驚いた。作者の思い入れが大きいほど文字数は少なくなるらしい。それとも気合が入っているから密度の濃い文章が書けるんだろうか。

 改稿ばっかりしているせいか、あんまり本を読んでいないので折羽ル子さんの新作を読んだ(短いし)。マックでハッピーセットを頼んだら、当店のパテは生肉100%で安全管理は杜撰ですという説明を読まされた後、店の奥にあるトイレで水がシャーと流れて、カウンターの向こうで八頭身のウサギが小躍りしているという感じがした。でも一言で表すなら縄文土器。

 何かの本で、何故ドストエフスキーとかヘミングウェイが後世に残って、当時は彼らより凄かったベストセラー作家が何故消えたのか解説していて、それによると前者の方が文学的に重要だからという理由をあげていた。凄いだけじゃダメなんだなぁと目の開かれる思いがした。日本史における真田幸村と徳川家康の違いみたいなものだ。

 そういう風に考えていくと聖者の行進のレビューで良きにつけ悪しにつけ過去の誰かを引用して語られているということは、この小説が重要な物ではないという事を証明している。19世紀初頭における一個の飛行機は革命だったが、現代では徳島の空にさえ飛んでいるようなものだ。もちろん今でも飛行機は多大な資力と人力が投入されて作られているが、ある一個の飛行機が世界的に重要かとなるとそうはならない。そう考えていくと現代作家が重要な小説を書こうとするのなら100年先のまだ影も形も存在していない意識を見据えて書かなければならないのではないか。

 今まで何か足りないとは漠然と感じていたが牛野小雪には未来が足りないのかもしれない。season3はそういうことも考えながら書いてみたい。

doki


(おわり 2018年3月3日 牛野小雪 記)

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