パイロット版を試し書き

現在新作を鋭意構想中なのですが、なかなか物になりません。
どうしても作中のある場所で書ききれないと予想される場所が出てきました。
これは現地取材する必要があるなと思いつつも手間と時間を考えると躊躇しています。それとお金。
いっそ別の物にしようかなとも考えています。それか世界観自体を書き直すか。
まあ、一応パイロット版みたいな物を書いてみたのですが、最後まで書き通すにはやっぱり足りないなと思いました。

読みきり短編小説『成人月歩』
読みきり短編小説『I'm walking』

まあ、暇つぶしにどうぞ。

人はいつ嵐に飲み込まれるか分からない

 昨日台風が来ました。一時は905hpになったりしてどうなるんだろうかと心配しましたが、近づいてくるうちに勢力が弱くなってきたので、まあ大丈夫だろうと検討をつけました。ふたを開けてみるとやっぱり大したことがありませんでした。ニュースじゃ瓦が飛んだり川が増水してタヌキが流されていたりしたそうですが半径50mじゃ全然です。
 8月の時は玄関の手前まで水がきて、先週もちょっと危ない感じだったせいか、今回の台風では事前に家を出て避難した人がいました。それに台風が上空で吹いている間は消防車がしょっちゅう見廻りに来ました。どれも徒労に終わったようです。
 ちょっと気の抜けた話ですけれど、もし今回の台風で町を沈めるほど雨が降って、家の土台を吹き飛ばすほどの台風だったなら、事前に避難した人は命を拾って、消防団は人を助けたことでしょう。
 台風に限らず、火山、地震、火事、雷、おやじ、世の中には危険がいっぱいで、どれも事が起こる前にいつ遭遇することを知ることはできない。もし今回の台風が大したことがないことを知っていたのなら台風が来る前に避難することもないし、御嶽山が噴火することを知っていたのなら山は登らなかっただろうし、地震がきて津波まで来ることを知っていたのなら、それこそ前日のうちに高台へ避難していたでしょう。
 この世の災難はどれも未来を知ることができれば簡単に避けることもできるけれど(避けられないのは寿命と遺伝的な病気ぐらい)、どれだけ力んでもそれは無理でしょう。
 ひょっとしたらこの世には超能力者がいて、これから起こることを全て知っている人はいるかもしれませんが、公にそれを知らせることもないようなので、凡人の私達はいつ来るか分からない災難を受けるしか方法は無さそうです。
 台風は毎年来るし、地震はいつ揺れるか分からない。富士山や阿蘇山も噴火の可能性は充分にある(イエローストーンだって)。自然災害でなくても明日自動車に殺される確率は宝くじで一等が当たるより高いそうです。私は今まで自動車に3回跳ねられた事がありますが、最後の3回目なんかは交通量の多い国道に飛ばされたので、宙を飛んでいる最中からこりゃヤバイことになるぞと肝を冷やしたのですが、幸いにも私が道路に投げ出された時には車が通っていなかったので無事でした。そんなことを考えると今生きているのは偶然なんだなぁと思うときもあります。普段は当たり前だと思っていますけど。
 人はいつ嵐に飲み込まれるか本当に知ることができない。嵐に限らず全ての災難がそうで、どれだけ考えたって仕方がないことだから真剣に考えることがない。でもいつ襲われてもおかしくはない。そんな時にうろたえて見苦しい様を見せないようにしたい。
 たとえ今この瞬間に地球が二つに割れようと涼しい顔をしていられる太い肝を持てたらなあと思いました。

どこから殺してもかわいそうじゃないのか

 細かい区切りはあるけれど、俗に言うベジタリアンとは肉を食べずに野菜だけを食べる人のこと。家畜は不経済なのできたるべき食料危機に備えてという理由もあるのですが、生き物を殺すのはかわいそうだからという理由もあります。
 前者はともかく後者はよく理由が分かります。小さい頃は豆腐と玉子ときな粉ばかり食べていた時期が僕にもありました。でも今は何も考えずに肉も刺身も食べています。たぶん理由は給食の残りを食べきるまで放課後まで残される小学校の悪しき習慣(今もある?)が理由かもしれません。親はそのへん寛容で肉を食わないでも放っておいてくれていたから、もし小、中学校が弁当制だったなら今も菜食主義だったかもしれません。
 
 でも不思議なことで、家畜を殺すのがかわいそうなら植物を殺すのはどうしてかわいそうじゃないんでしょうか。家の裏で野菜を育てていると植物だって生きている。それにわりと動くってのもわかります。
 だけど植物を収穫するのに何の躊躇いも感じません。そういえば動物でもハエや蚊はさらっと殺せます。潰れた体をみても、ああ死んだなとさえ思わない。
 これがゴキブリぐらいになるとたまに情けをかけるときがあり、丸めた新聞紙や棒なんかで潰された体を見ると少しかわいそうに思うことがあります。
 鳥ぐらいになると通常の心境じゃきっと殺せないだろうなと想像できますし、他人が殺すのでもちょっと嫌でしょう。犬猫なら言うに及ばずです。

 体の大きさでかわいそうかそうじゃないかで別れるのかと思いきや、同じ人間でも何かの拍子で死んで欲しいなと思う人はいるし、猫に腕を引っ掻かれると一瞬殺気が湧く。ああ、でもどっちもさらっとは殺せない。やっぱり体の大きさで軽く殺せるかどうかが分かれるんでしょうか。
 それでも植物なら自分より大きな木を根本から三つに分けて斬り倒したことがあり、そのときは何の罪悪感もなく、それどころかやりきったという爽快感さえあった。

 結局かわいそうとかわいそうじゃないの境目ってよく分かりません。
 これから先、よっぽど切羽詰まらないと自分で牛や豚は殺せないだろうし、腹が減らなくても食卓に料理された肉が出たら、かわいそうなんて微塵も考えずに食べるのは間違いないでしょう。
 それでもやっぱり殺される牛や豚、鳥や魚を考えると(めったに考えないが)かわいそうだと思うし、野菜や果物は収穫されても全然かわいそうとは思わない。

人類は地球の釜で茹でガエル?

 茹でガエルとは、熱湯にカエルを入れるとすぐに逃げてしまうが、水からゆっくり茹でれば何もせずに茹でられてしまうという喩え話。実際は温度が上がると普通に逃げてしまうそうです。

 地球温暖化による海洋資源の損失は1兆ドル(109兆円)だそうで、とんでもない話だなあと思いました。
 昔から温暖化温暖化と騒いでいますが、何だかちっとも効果が出ていないような気がします。私自身何かしているかと問われれば、何もしていない。誰もいない部屋の電気を消すぐらいで、それも温暖化を意識してやっているわけじゃない。

 もし本気でやるなら徒歩三十分圏内ぐらいは歩いて行くぐらいの気合いをみせなきゃならんでしょうが、実際30分以上歩くのは夜の散歩ぐらい。徒歩十分の距離でも車を使っています。これって環境的にはずいぶん罪深いなあ。でもやっぱり明日も車を走らせるのは間違いないなあ。大した人間でもないので1日40分ぐらい余分に歩くことに消費したって別に困りはしないし、そもそも夜の散歩30分を日常歩くことに融通すれば実質的には10分の消費だけれども、やっぱりやるつもりはない。

 たぶんこれは貨物用途以外で個人が車を走らせるのはけしからん、または車を走らせるのはダサいという風潮が出てくる。もしくはガソリンの値段が高くなって車を走らせるのがもったいない(そこまでいくと車を持つ人がいなくなる?)。ぐらいになるまで続くんじゃないだろうかと予想します。

 結局、茹でガエルが実際には茹で上がる前に鍋から飛び出すようにと、人類の過半数が温暖化で不利をこうむるようになってくれば自然と地球温暖化も止まるんじゃないでしょうか。

何もない状態を文章にするのは難しい

 何もない状態を文章にするのは難しい。
 たとえば今夜の散歩を文章にすると"散歩した"の一言で済んでしまう。
 煙突のあるレンガ造りの家があるとか、踏み切りが狭くて車が邪魔だとか、台風の日から蛍光灯が切れた電灯があるとかあるけれど、別段それを意識して歩いているわけじゃない。
 何もせずにぶらぶらしたいから歩いているわけでそんなに気を張って歩いてはいないからそう書くのは嘘になる。何にも考えていないから何もない。ただ"半時間歩いた"の一言だと半時間歩いたというのは実感として伝わらない。何もせずに半時間ぷらぷら歩いたのをうまく文章にできたらと最近ずっと考えています。
 『真論君家の猫』でミータンが平成町という町から大化町へ歩いていくという部分があるんですが、その途中で明治町、保元町、その他いくつかの町でストーリーがあります。そこは本来何も無くて、ただ何日も歩き続けて大化町に行き猫又のアラーニャンと対峙するという構想だったのですが、それだとミータンが平成町を出てすぐに大化町へ着いてしまった風に感じられてしまいそうだったので、それじゃあ駄目だなとストーリーを挿入しました。
 月狂四郎さんはそこの部分を『長い』と言ってくれたので、ある意味目論見通りなのですが、本当はあそこをただ長く歩いたというのを言葉だけの意味ではなく『あぁ大化町まで来るのは長かったなあ』と実感できる文章を書きたかった。でも、できる気がしなかったので事件を書いてしまった。
 最近書いた短編もやはり文章に書かれている部分よりは歩いている時間が長くて、本当に書いてみたいのはそこなんですが、無いものは書けないというのが現状です。
 これが書ける人いたら個人的に凄いと思うんですが(歩く歩く歩く歩く歩く を羅列するのも違うんですよ。だって歩くときにそんなことを考えないでしょ?)、今のところ私の知っている範囲で書いた人はいないようです。
 長距離を歩くことが描写されている物でもそこに事件は必ず書かれています。何もせず、何にも遭遇せず、ただぷらぷら歩いたということを感じさせられる文章に出会ったことはないです。
 自分で書けたらなとは思っていますが、今のところはかけらも書けそうにありません。
 夜、歩きながらもこれを文章に残せたら凄いのになといつも感じます。でもそこから言葉は掴めない。
 もし書ける人書いている人がいたら教えてください。

二つの月の伝説を追って 1日目

 徳島県上勝町の福原旭という場所があるんだけど、台風や大雨がくるとたいてい3桁台の降水量があるのでいつの間にか名前を覚えてしまった。
 それでこの前の台風があって、あそこっていつも大雨が降るなあという話をしていたら、あそこって月が二つ見える場所があるらしいという話になった。
 それで『月が二つ見える』で検索すると村上春樹の1Q84が引っかかったので、それに福原旭や上勝町を足して検索してみたが引っかからない。ホンマかいなと怪しくなってきたので、もう一度話を聞くと確かに見えるらしいと答えが返ってきた。若い人は知らないけど年寄りなら知っているらしいから訊いてみると良いだってさ。
 この時代にネットに上らない話があるなんて逆に新鮮なので、早速土曜日の夜に調べに行った。

 道中は山の中で人家は少ない。時々対向車線から車がやってくるだけだ。最初は意気揚々と出発したが、段々恐くなってきた。幽霊が出てきそうで何度かビビりながらバックミラーを覗いた。
 やけに暗いと上空を見てみると月が出ていない。なんてこった。でもまあ場所のあたりぐらいはつけておこうと先へ進んだ。
 上勝町の手前にある勝浦町へ入ると道の駅があったので、とりあえず車を止めて中に入ってみた。
 そこで店のおっちゃんと目が合う。
 黙っているのもおかしいので、こんばんはと挨拶して上勝町で月が二つ見える場所を知らないか訊いてみると、聞いたことがあると返事がきた。
 噂は本当だったのだと胸が小さく沸く。
 そのあとどこからその話を知ったのかきかれたので経緯を話すと、おっちゃんは「ちゃんとした場所は知らんなあ、ちょっと待ってみ~よ」と言って携帯を出すと、どこかへ電話をかけた。
 それは他の人に月の出る場所を聞くためとすぐに分かったのだが、最初は二つの月を追う者は殺される掟があるんではないかと不安になった(一瞬だけね)。
 色んな人に電話をかけてくれて、大事になってしまったなあと恐縮する。
 その途中で イクミ神社 ミツミツキ という言葉と電話番号をおっちゃんが紙に書いていくのを私は見た。
 結局分かったのは「明日ここへ電話せえ」という事であった。おっちゃんは紙に書いた電話番号を写させる。それは上勝町役場の電話番号だった。
 私はおっちゃんに御礼を言って、店を出た。初めは何か買っていこうとも思ったけれど、だんだんここまでしてくれて何かを買っていくのはかえって失礼になるのではないかと思えてきたからだ。おっちゃんも自然と私を店の外へ導いた。
 空を見上げると月はなく星がいくつか出ていた。そこでおっちゃんはまた少し話をしてくれた。
 要約すると、月を見たって話は聞くけれど本当かどうかは分からない。そんなもん言うたもん勝ちじゃ。ほんな思い詰めて探すようなもんちゃう。ということだ。思い詰めているように見えたんかな。
 どうせ月は出ていないし、闇の山道は恐いので明日明るいうちにまた行くことにしてその日は帰った。

 次の日に知ったことだが、その日の夜は棚田のライトアップがあった。勇気を出して進めば変わった風景を見られたのに残念。虎穴に入らずんば虎児を得ずだ。
徳島県内のニュース 闇に棚田の曲線美 上勝でライトアップ、家族連れら神秘的な風景堪能 2014/10/19 10:00
 

二つの月の伝説を追って 2日目

 昨夜は山が暗くて恐かったので明るいうちに行くことにした。
 昼ご飯を食べてから家を出る。ほどなく昨日の店を通り過ぎる。店には昨日のおっちゃんがいた。
 川を左に見ながら山を登ったり降ったりしていると月ヶ谷温泉という場所まで来た。橋を渡ると道路の看板も上勝町となった。
 山深い道を走り続けると四角い建物が見えてきた。
 それは上勝町役場だった。おっちゃんは昨日そこで話を聞けばいいと電話番号まで託してくれたのに私はそれを無視して通りすぎた。ゴメンおっちゃん。わいはシャイボーイなんよ。
 昨日のおっちゃんの話では棚田がどうの、神社がどうのと言っていたのでそれを探せばなんとかなるだろうと高をくくっていた。
 左に棚田を見ながら神社を探していると、山の小道に通じる看板に『樫原の棚田』『三体の月』という物を見た。
 この瞬間、昨日見たミツミツキが→三ツ身月→三体の月と繋がるのを感じた。私はその小道にハンドルを切る。
 そこは急な坂の小道で車一台が通るのがやっとでガードレールもない。最初は何でもなかったが、高くなってくると恐くなってきた。これでこの先何もなかったらこの道をバックで下らなきゃならんのかと不安になりながら登り続けると駐車場のような開けた場所に出たのでそこで小休憩した。道から下を見ると谷底が遠くに見えたが、川の流れる音が聞こえた。
 再び小道を進むとほどなく大きな看板が立ててある道に合流した。看板では三体の月の伝説と山犬嶽という山の説明が書かれていた。

 
秋葉神社 三体の月伝説
旧暦7月26日の秋葉神社の夏まつりの夜、同神社境内から東の橘湾 方面に、一夜に三度月が上がったと伝わっています。毎年旧暦7月26日に同神社境内に集合し、三体の月をみようと心を弾ませています。

山犬嶽
1660年の夏、旱天(かんてん)続き、雨乞いのご祈祷をしたがいっこうに雨の降る気配がなかった。そこで厩肥(きゅうひ=たぶんウンコのこと)をもって山を穢(けが)して祈ったところ、にわかに天上かきくもり7日7晩にわたって雨が降り続き、山頂より岩石が崩れ落ちたと伝えられている。山頂から眼下を見下ろすと黒ずんだ巨石が累々と雑木林の間に見ることができる。ハイキングコースを進めば、落葉原生林に巨石、苔の群生地の神秘的な世界が広がっている。

 
二つの月は三つの月でわりとメジャーな扱いだった。三体の月も上勝だけではなくに熊野という場所でも伝承があるそうだ。
三体の月

 上勝の三体の月は旧暦の7月23日に見えるそうだ。具体的な日にちは分からないがきっと時期は過ぎているんだろうなあ。
 ちなみに山犬嶽に登る場合、看板を少し進んだ場所にある駐車場に車を止めてから行くように進められている。駐車場が無いんだそうだ。
 稲刈りをしている棚田を見ながら山を進むと山犬嶽の入り口を発見、確かに駐車場はなかった。そこから秋葉神社を探して進むと道は暗くなり、山を下り始めた。あれ、おかしいなと思ったけれど、道は狭いし下りは急でどんどんスピードが出る。ブレーキガバガバにされてしまうなあと思いながら進むととうとう地図のある場所まで来た。やっぱりどこかで道を間違えたらしい。でも山道で疲れたし、大体の場所も分かったのでそのまま山を下った。

 車に乗ったまま昨日の店を覗いてみたがおっちゃんの姿はなかった。二つの月の噂を突き止めたと報告したかったが仕方がない。そのまま帰る。

アンチエイジングとドラキュラ伝説

人体で一番大きな細胞はど~こだ?
ヒントはほとんどの人が鶏のこの部分を食べたことがある。

答えは卵子。
卵の黄身がそれ。
ちなみに一番大きな細胞はダチョウの卵子だそう。
人間のは0.1mm


それじゃあ一番小さい細胞はど~こだ?
ヒントは白い。

答えは精子。
人間の場合は0.06mm。頭部だけだと0.005mm。
つまり大きさのほとんどは尻尾ってこと。


まだまだ続くぜ。
一番寿命が短い細胞はど~こだ?
ヒントは細長いくて表面積が大きいところ。皮膚じゃないよ。

答えは小腸。
なんと2、3日のサイクルで生まれ変わっている。
ちなみにウンチの水分以外(ウンコの半分以上は水)の成分は半分が小腸のカス。もう半分が腸内細菌の死骸。残りの申し訳程度に食べたものの残りカス。


最後の問題。
一番数が多い細胞はど~こだ?
ヒントは皮膚じゃないよ。体の中にあるもので、子供の頃はよく目にしたかもしれない。

答えは赤血球。
侮るなかれ。人体の細胞数60兆といわれるが、そのうち赤血球の数はおよそ20兆!
もう人間の体はほぼ赤血球でできていると言っても過言ではない。



 ある本でこの事を知って、アンチエイジングやスキンケアなんかは表面の皮膚を手入れするよりも血液の手入れした方が良いんじゃないかと思った。
 皮膚の細胞は体の表面だけで細胞数はしれているが血液は体全体を巡っている。それに皮膚の元となる真皮も血液の供給がなきゃ死ぬばかりだ。

 そういえば西洋の妖怪ドラキュラは美女の生き血をすするという。それで不老不死を保つんだそうだ。
 人間は血をすすって生きるわけにはいかないが、トマトジュースを飲んでおけば意外と不老不死の片鱗に触れられるかもしれない。トマトが赤くなれば医者が青くなるという諺もある。

冒頭の冒頭を執筆中

 今週の初めからまた新しく書き始めています。
 パソコンで書いているとファイル名を付けなきゃならんので、仮題として『TURN  WORLD』と付けました。
 今回は異世界物です。予定としては長編になりそうです。剣と魔法は出てきません。いや、魔法はきわどいかな。怪物も出てこないでしょう。猛獣は出てくる予定ですが。
 前作もある意味では異世界物なのですが、猫の世界というのは一貫していました。今回は元の世界から異世界へ行くというお話。
 今は9000字くらい。高崎望や猫を読んだ方なら知っているでしょうが、私の小説は冒頭が長いので、9000字でも冒頭の冒頭です(でも、冒頭だけ切り出しても短編として読めるようには書いているんですよ)。
 KDP じゃ短編が有利と囁かれていますが、物になりそうなネタを考えていたらずいぶんと伸びてしまった。短編でも書くぞという気持ちを持って考えなきゃ短編は書けないようです。ネタもストックしてませんしね。
 16000ぐらいで場面展開の予定だったのに20000でもやり遂げられるかという不安。それよりも最後まで書ききれるのか?とビビるのも定番。
 ただ今回のテーマはわりと早く決まった。まあ、それも書ききれるか分からないが、今まで3回できたのなら4度目もできると思い込むしかない。
 それと今まで書いた部分を読んでの感想は何か小説っぽくないなという感想。まあ、無いことも無いだろうが、こう、自分の頭の中にある小説っぽさが感じられない。ひょっとしたらとんでもない駄作かもしれない。それとも新しい境地が開けるのか。はたまた今までの調子に戻るのか。
 『真論君家の猫』を書いてから明らかにMP(物語ポイント)が薄くなったと感じる。そういえば『グッドライフ高崎望』を書いたあとは短編二つ書いたんだった。やはりここは短編をいくつか書いておくべきなのかな。

文章の巧拙を問う ~言葉よりもリズム~

 英語圏の人が話す日本語。韓国語圈の人が話す日本語。インド人の話す日本語。中にはうまい人もいますけど、やっぱり外人の話す日本語という感が抜けない。
 これが何かと原因を考えるとリズムなんじゃないかなと思うんです。英語圏の人は英語っぽいリズムで話すし、韓国語圈の人は韓国語っぽいリズムの話し方、インド人はやっぱりインドっぽいリズム。
 ちなみに同じ日本人でも関東と関西で全然違うし、県単位でもちょっと違う。

 日本の英語教育が何年かけてもうまくいかないのは単語の意味とかrとlが聞き取れない、語彙が少ないとかじゃなくて、英語を日本語のリズムで話す練習をしないからじゃないかな。
 英語のリスニングはネイティブ(最近は違う?)で行われるけれど、これを英語を学んだ日本人にやらせれば今よりうまくなるでしょう。
 ネイティブにこだわる必要ってないんじゃないかな。たぶん英語が完璧に話せるって自慢する人もネイティブからすれば日本人が話す英語に聞こえるだろうし。
 
 音楽は世界中どこでも通じるという言葉があるように、洋楽の英語歌詞を歌える人ってのは普通にいる。というより日本の歌に英語が混じっていることはそう珍しくない。
 英語が喋れないのにそれを歌えるのは、世界で通じる音楽のリズムに合わせて口に出しているからで。
 もしカラオケで「あなたがさっき歌った部分を普通に喋ってみてください」と言われたら、流暢に話せる人はなかなかいないんじゃないかな。たぶんいないと思う。
 ついさっき自分で試してみたけど、教室でお馴染みの片言英語になってしまった。

 口に出す言葉にリズムがあるように、文章にもリズムがあるように思えます。文字を追っている最中にドンドコ音が鳴ったりしませんが、波のようなものはあります。 
 お前は適当な事を言っている。証拠を出せといわれても出せやしませんが、音楽を言葉にできないように、文章のリズムだってこれこれこうでこんな物と出すことはできません。でも音楽を聴けばそれと分かるように、文章だって読めば分かります。
 書かれている事の興味あるなしで面白い面白くないは分かれますが、文章の巧拙は問えるように思えます。
 あの人は文章が上手い、あるいは下手というのは、その文章のリズムが良いか悪いか。それで分けられるんじゃないでしょうか。

今日の自分は昨日の自分ではない

 先週から書き始めて、ずっと気になっていたことがあり今日は最初から書き直した。まだ始まったばかりだし、1度通った道なので元の場所に戻るのはそう大変なことではなかった。
 高崎望の時と同じ文章を書こうとしていたけれど、今はあの時の文章が書けない。書けたとしても違和感がある。ちょっとショックだ。
 自分で書いたのだからいつでも書けたって良いはずなのにそれができない。退化したのか進化したのか分からないけれど、変わったことだけは確かだ。
 変わった中でベストを尽くすしかない。


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