悪人の系譜/月狂四郎
赤ちゃんは言葉を喋ることができない。
「あの、おっぱい吸わせてもらえませんか?」
「お尻拭いてもらえませんかね?」
「そろそろ眠りたいからそっと抱きしめててほしいな」
などと言葉を出したら非常にびっくりするだろう。
ある本によれば人間が最初に覚える感情は怒りらしい。
何かあれば怒る。本当かなと調べてみると赤ちゃんが笑うのは生後数ヶ月たってからで、最初は寝るか泣くからしい。
赤ちゃんにできることは泣くことだけで、これひとつですべての用事を済ませている。中には眠気でも泣くことがあるそうだから大変なものだ(どうやって調べたんだろう?)。
もしそれが本当なら赤ちゃんからの記憶がある人は「俺は怒りと共に生まれてきた」なんて言うのだろうか。(でも胎児の頃の記憶がある人はいるらしい。そういう人に聞き取り調査したのかな。ほとんどの人は3歳以前の記憶は無くなってしまうそうだ。)
余裕のある人は笑っている。余裕のない人は怒っている。それがさらに進むとしょげかえっている。
さて本題に入るとちょっと前に月狂さんの『悪人の系譜』読んだ。
天龍墓石(とうむ以下トム)は怒っている。いつも怒っている。でも最初はしょげかえっていた。親から有形無形の暴力を受けていた。でも体が成長してくると暴力の方向が反対になった。でも彼の心が癒やされることはないわけだ。
彼は心の乾きを癒やすように暴力の世界に塗れていく。幸いにも天性の才能があって修羅の世界を気持良く泳ぐことができたが、それでもやっぱり気持ちは収まらない。暴力の方向性が変わっただけで心の傷はずっと疼いている。
対人関係のトラウマの克服で一番難しいのは、傷を負わせた相手を許すことではなく、過去の自分を許す自分を許せないことだそうだ。「お前、あんなことをされたのにあいつを許すのか」的な。
トムには妹がいる。彼女も実は心の傷を持っている。彼女は親から虐待を受けていた。彼は彼女を親から救い出し、それから身から出た錆の暴力も救いだした時に何故か母を許すことができる。
よくよく考えて見るとトムは全然救われていないような気もするんだけど、自他の境界が無いような世界を想像すると彼は自分と同じ境涯の人間を救うことで自分を救っていたのかもしれない。
かつて何かで苦しんでいた人を見て、それを助けてあげることで自分の中で何かが癒やされることでもあるのだろうか。理屈で考えればいかにもおかしいことだけれどありそうな気はする。
この世は愛されるよりも愛したいマジでの世界なのかもしれない。
でもさ、なかなか人って愛せないよね。嫌いになるのは簡単なのに好きになるのは難しい。続けるのはもっと。そういえば赤ちゃんが最初に覚える感情は怒りだっけ? 嫌いってのは怒りを伴っている。怒るのは簡単だ。表に出せるか出せないかの違い。
ディスるのは簡単で賞賛するのが難しいのと同じで、嫌いから好きへ回転させるのは難しい。自分でさえ持て余す。自分と同じような人間を見つけることができれば何か変えることができるのかな。
(おわり)
ナノマシン反対!: 月狂四郎
去年は万能細胞が世を騒がせたが、人口義肢の発達も結構進んでいて、用途が限られた競技用では生身の人間に迫る勢いだ。人間が考えたことは何でも実現するといわれているので、もし第三次世界大戦なんかがあれば生身を越える人口義肢が出てきてもおかしくはない。もしかしたら人工内蔵だって。
そうなったら健康な人でも生身の体を捨てて機械の体になる人が出てくるんだろうな。攻殻機動隊の世界だ。凄い便利だとは思うけれど私はそんなの嫌だなーと思ってしまう。事故か病気でそうなるならともかく、進んで機械化したいとは思えない。マンガ『攻殻機動隊』の世界では普通に全身義体、電脳化されている人ばかりなのだが、中には私と同じ考えの人がいる。
でも、その人でも生身では時代についていけないから手だけは義体化していた。攻殻機動隊の世界は生身がハンディになる世界だ。続刊だと義体化、電脳化していない人達はスラムに住んでいる。
技術が発達すると世の中が便利になる反面、最先端の技術はいつしか日常の物になり、技術を使えない人は不便になる。今の時代インターネットが使えないと不便だろう。まともな仕事はできないかもしれない。もちろん使わなくても問題ない人もいるが、そういう人は他人に使わせているから問題ないだけで、間接的には使っているわけだ。
ああ、嫌だなぁ。機械の体になんてなりたくないなぁ。でも、機械が確実に生身を越えるようになったら、そうしないと社会的には死んでしまうんだろうなぁ。
便利な時代になるよりもダメ人間でも生きていける時代になってほしいなんて考えていた。
私が今日こんなことを書いたのは月狂四郎さんの『ナノマシン反対!』を読んだからです。
使っている技術はナノマシンだが働き自体は攻殻機動隊の電脳みたいなもので、作中に出てくるco.Akumaというナノマシンはどのように振る舞えば意中の相手を落とせるかナビーゲーションしてくれる機能がある。co.Akumaというシリーズがあるぐらいだから、co.Satanなんかだとクールなビジネスパーソンになるにはどうすればいいかナビゲートするのかもしれない。
物語の主人公はco.Akumaのささやきで愛を得ることはできるけれど、幸せとは何かと問いかける哲学的な側面もある話だった。毎日新聞に載っていてもおかしくないと私は思う。他にもテクノロジーの発展に警鐘を鳴らす短編が二編収録されています。
(おわり)
トモエちゃんと読む『名無しの挽歌』←どうやら月狂四郎さんが書いたっぽい
牛野小雪です。今日は新しく助手が入ったので紹介します
はじめまして、
トモエちゃんは公園の日向のベンチに座って本を読んでいるようなアウトドアかインドアか分からないような文学少女だ。だから日に焼けているのかな?
プライベートのことには触れないでください。セクハラですよ
……う、うん。さっそく本題へ行こうか(時給換算130円だから怒っているのかな)
トモエちゃん、この前『名無しの挽歌』という本を読んだよ。どうも月狂四郎さんが書いたものらしい。
どんな話でしたか?
これはわなびの話だ。普通はワナビ(wanna be)と書かれるが何故かこの小説ではわなび。夢追い人って意味は変わらない。
同じ意味でも肯定的な時はドリーマー、否定的な時はワナビですね。ドリーマーも蔑称といえば蔑称ですけど。
いいぞ、トモエちゃん。いい感じだよ。その調子で頼むよ
セクハラです
(何がいけなかったんだろう……? 管理職は難しい)
本の紹介文にも書いてあるように、この話はルーザー。負け犬の物語なんだ。作家になろうとしてなれない。主人公はわなびから抜け出せないんだ。
まるで牛野さんみたいですね
もうちょっと優しくしてくれるかな?
そんなことない! 牛野さんは犬じゃない! 立派な金の牡牛です!
(やるじゃないか)
小説を書いたから作家だなんて言葉遊びはやめよう。一口に作家と言っても色々ある。この主人公は、いや、ほとんどのわなびは有名作家になることを夢見るわけだ。自分が書いた小説が世界に認められて、金と名誉、自尊心、色んなものを求めようとする。この小説には作家以外のわなびも出てくる。俳優や女優を目指しているんだ。でもここはハリウッドじゃない。わなびはわなびの最後まで変わることができない。いや、変わらないならまだ良いほうで夢を追えば追うほど色んな物を失っていく。夢を追うにも参加料がいるってことなんだ。
それはお金だったり、時間だったり、体力や精神力。夢を追うにも持たざる者は参加できないってことですね
うん、だからわなびは夢追いの舞台からどんどん退場していく。主人公も先行きの見えない崖っぷちで揺れている。ゴールは見えない。はっきり感じるのはすぐそばにある谷底だけ。それでも夢を追いかけることは止めない。止めることができない。
で、最後は命まで失うと
わなびは死ぬ。主人公は死なない。
?
主人公のモチベーションは自分の外にあった。小説の新人賞を取る。誰かに認められたい。親や弟を見返す。でも彼はそれができなくて消耗していくわけだ。そして最後には失うものがなくなって、死ぬ。でもそれはいわゆる肉体の死ではなくて精神的な死。わなびである彼が死ぬんだ。
夢敗れてというやつですね。 で、小説を書かなくなって昔は俺も夢を追いかけたことがあるんだとしみじみ思い返すというわけですか。
いや、一度は書かなくなったが小説は書く。作家としての彼は一度死んで、もう一度蘇る。
やっぱりわなびはやめられない?
生まれ変わった主人公はいわゆるわなびではない。彼のモチベーション、書く動機は自分の中に移ったんだ。これは強い。途中まで周りの世界に翻弄されていた彼の心は自分の殻でしっかりと守られている。わなびとしては死んだが、作家としてはひとつ成長したんだ。
実は負け犬の話ではなくて、とある作家の成長物語?
わなびを抜け出すにはわなびは死ななくてはならない。蕾が花を開くには蕾としての存在を止めて花になる必要がある。それと同じでわなびのまま何かになることはできない。
種は死んでこそ芽が出る。種がいつまでも種のままなら実を結ばぬまま腐ってしまう
一度死んで生まれ変わった彼はそのまま自分を殺さずに作家になれるような気がするんだ。実際的にみれば売上の勝ち負けはあるだろう。でも生まれ変わった彼は売れても売れなくても変わることはない。そういう事とは無関係な人間になったんだ。
最近読んだ王木亡一朗さんの連載小説も似たような話でしたね【Our Numbered Days:最終話「I Am The Resurrection」|王木 亡一朗|note】←Resurrectionとは復活という意味。
あっちはワナビ物ではないけれど一度死んで別人に生まれ変わるという象徴的な仕掛けは同じだったね。あっちはもろに赤ちゃんが生まれたりする。思うに、最近はKDPの中でお互いに作品の影響を受けあっているような気がするんだ。出しているだけの人はたくさんいるんだろうけど、アクティブな作家は少ないからね。繋がりも短いからすぐに波が伝わる。もしかしたらここからひとつのムーブメントができたりしないかなと予想しているんだが、考え過ぎかな。
Hey Hey Hey 時には起こせよムーブメント
!?
何かを叫んで自分を壊せ!
牛野さんが起こしてもいいんですよ
ありがとう、トモエちゃん! 俺がんばるよ!
…………
……あのさ、今日はこれで終わりだけど、また来てくれるかな?
……牛野さん……わたし……!
ダッ!
トモエちゃん! (おいおい、こんな急展開ありか!?)
ガシッ!
どうりゃぁあー!
うわぁああー!
ドグシャァァッ!
ふぅ、どうやら巴投げをされたらしい。なかなかの武闘派じゃないか。これだけ気合が入っているということは、また来てくれるということかな?
(おわり)
私が口ずさんだ『Hey Hey Hey 時には起こせよムーブメント』の曲へのリンクです。タイトルもほとんど同じでしたね。月狂四郎さんの『名無しの挽歌』もこの曲のイメージとぴったりでした。プレミアがついていて新品の値段が大変なことになっているけど……。ブックオフに行けばまだあるかな? iTunesにはありませんでした。
- アーティスト: H Jungle With t,小室哲哉,久保こーじ,カラオケ
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時には変わった物にぶつかる時もある、視界の外側からコツンと
ある程度小説やマンガ、映画に触れていると似たような話があって、似たような展開があって、似たような終わり方に出会うものだ。作家や脚本が稚拙だと、もしかしてこうなるのではないかと予想していたら、本当にそうなったということが起こるのでビックリしてしまう。そしてちょっとガッカリするのだ。『妻が僕を選んだ理由』もそういう予断を持って読み進めていた小説で、冒頭は美人でお金持ちで若い女の子に見初められて、いきなり結婚するところから始まる。結婚生活もうまくいって、何だかうまくことが運んでいるような気もするのだが、ここからパターナリズム的な虐待の物語が始まり、旦那の脱出劇に展開していくんじゃないかと思っていた。よっぽど強いネタがない限り、そういう話になるのだ。そうでなければ物語として破綻する。
タイトルの『妻が僕を選んだ理由』はたったひとつのシンプルな理由だった。そして納得できることでもあった。でも話の閉め方は、ちょっと変わってるね、そう来たのね、って終わり方だった。世の中の事なら大体何でも知っていると思っていると、時にはこうやって横っ面を叩かれることもある。
実は世間知らずなだけでありきたりな話なのかもしれない。だけど、そういうやり方もあるのかと私は感心した。うまくひねられた気分だ。
(おわり)
妻が僕を選んだ理由 [Kindle版]
余談:エバーホワイトを出版からまだ一ヶ月も経っていない。それまでは何も書かないつもりなので、huluで『ウォーキング・デッド シーズン7』を見ている。提督が死んだ辺りからちょっと失速気味だったが、シーズン6の終盤から脚本が変わったんじゃないかと思うぐらい面白くなった。今までは早く最終回にしてドラマを終わらせろとイラついていたが、今は早く次を見せろという状態だ。原作はKindleでも読める。1巻は無料。『なんだ、こりゃ!』ビックリすること間違いなし。アメリカにおける文化系の才能はハリウッドとテレビの世界に集まっているようだ。日本はマンガとアニメではないだろうか(ゲームも入れていいかも。でも洋ゲーもなかなかだから。あえて日本と括る必要はなさそうだ)。
Q.そんなに言うほどはマンガも映画もテレビも見てはいないと思う。特に最近。どうしてみんな最新の映画やマンガ、アニメを追えるんだろう? おまけにゲームまで。体が3つあるんじゃないか。
A.同じ物ばっかり繰り返し見たり読んだりやったりしているから
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このKindle本を読め!『ゲーテ ファウスト第一部 現代語翻訳版/水上基地』
牛野:かつてゲーテのファウストを読んだことがある。奇怪な話ではあったが、心掴むものはあったので若いころは何度も読んだものだ。擦り切れるほど読んだ本は今はもうどこかへ行ってしまったが、 このたび新たに現代語訳されたファウストを読むことにした。翻訳したのは水上基地とかいう聞いたことのない男だ。いや、男かどうかは分からぬ。だが男に違いない。股を見なくてもその人の所作、言葉遣いから男か女か、誠実か、卑怯者か。そう言ったことは自然と伝わるのものだ。彼の人の言動から察するに男でなければよっぽどの悪女だ。そうでなければ悪魔だ。
牛野: ぷ、ぷ、ぷ、ぷ、プードルちゃん!? ええい、水上基地め。さっそく馬脚を現したな。これだからセルパブ作家は! 読者が素人だと思って侮っているな。私は確かに覚えているぞ。何度も読んだからな。メフィスト・フェレスが初めてファウストの前に姿を現した時、彼はむく犬の姿をしていたのだ。それを可愛いプードルちゃんだとは笑わせる。お前の誤訳はグーグル先生に教えてもらえばすぐに分かるのだ。お前には知らせずAmazonに直接報告して出版停止に追い込んでくれるわ!
蝿 :いいえ、夢でもありませんし、想像の産物でもございません。私はたしかにここにいますよ
牛野(独白): どうやらこの蝿は喋るらしい。話しかけてきたところから察するにどうやら今すぐどうこうする気はないようだ。相手は蝿だが言葉は通じる。それなら話が通じないことがどうしてありえよう。よし、勇気を絞って話しかけてみるぞ。男ではないか
牛野:君は誰だね?
蝿:見ての通りただの蝿でございますよ。今まで見たことがありませんか?
牛野:バカを言え。私は蝿どころか、ナメクジ、ウシガエル、南京虫、その他醜い物。お前達がその姿になる前のウジでさえ見たことがある。だが、お前のように巨大な蝿は見たことがない。どうやら通常の蝿ではないようだ。
蝿:そうですか。まぁ私も同族の中では多少経験を積んだ方でしてね。中には蝿の王と呼ぶ輩もいますが、なに、大したことありません。ただの蝿でございます。
牛野:蝿の王だと。蝿にも王がいるのか
蝿の王:そのあたりは人間と違いがありません。人が集まれば身分の上下ができるように、蝿のような者でも数が自然と増えれば王と家来が誕生するのです。
牛野:蝿とはいえ王とは恐れ入る。しかし蝿の王が私に何のようがあるのか
蝿の王:おひとりでは寂しい思いをされているのではないかと
牛野:なるほど。王は王でもやはり蝿の王か。お前のような醜悪な者と共に過ごすのなら、どこか南の孤島で千年の孤独を味わったほうが遥かにマシだ。
蝿の王:ロビンソンを気取るには300年ほど古いようですね。今はもう流行りませんよ。それに彼にもヤギのお供がいて、そのヤギもまた私と遠い親戚なのです。つまりは今のあなたと同じというわけで
牛野:なるほど。蝿だ。大きい分だけ大きく人の神経を逆撫でる。もういい。君はそこで大人しくしていたまえ。羽音も立ててはいかん。ヤギにしても囲いで大人しくしていたはずだからな。
蝿の王:ええ、それは構いませんが、ひとついいですか?
牛野:なんだ
蝿の王:どうやらドイツ語のファウストではschwarzen Pudelで黒いプードルらしいですよ。 むく犬でもいいのですがね。
牛野 :なんだお前。それだけを言いに現れたのか
蝿の王 :他にもございましたら何でもお応えいたします。
牛野:いい。もう帰ってくれ
蝿の王: 考えてもみてください。天井にも届きそうな蝿と一緒に本を読んで会話までした。そんなことをした人が今までいますか。ゲーテだってしていないはずですよ。これは請け合います。年寄りが老後のすさびにプードルと話したことはあっても、蝿と話すなんて聞いたことがないでしょう。それにあなたは作家ですから、こんなまたとない奇怪な機会を逃すのは、作家として名折れではございませんか?
牛野:なるほど。蝿の王だけに言うことはもっともだ。いいだろう。好きなだけ部屋にいたまえ。ただし部屋の物には触れないように
蝿の王: 同族が息を潜めていそうな場所なので退屈はしないで済みそうです
牛野:人は私の部屋が乱雑だという。だがそうではない。使いやすいようにしたらこうなっただけのことだ。なるほどたしかに色んな物が乱雑に置かれている。だがそもそも人間の体は四角四面にできているわけではない。あるところは伸びていたり、あるところはへこんでいる。また時と場合によっては必要な物は近く、使わないものは遠くへ。そうやって部屋を人間に合わせれば自然とこうなるのは必然ではないか
蝿の王:つまり乱雑なのは部屋ではなく、あなたの心というわけですね
蝿の王、部屋にある本を手に取り様子を見るが
牛野が気が付かないので元に戻す
牛野:やはりそうか。『失楽園』の方が200年近く先に出ている。もしかするとふたつの話は当時キリスト教の教えに逆らうロックな話として受け入れられたのではないか? 常識的に考えてみるとこのファウスト先生、悪いことばっかりやってるじゃないか。人は殺す、田舎娘をやり逃げした後は洞窟にひきこもる。気晴らしに祭りに出ている間に、娘は死ぬことになる。おまけに二部では詐欺師に転職するしな。DQNも真っ青だ。しかし本当の悪魔はやはりメフィストだな。こいつがいなければファウスト先生もDQNにならなかった。
蝿の王:でもね、ファウスト先生もやはりその気があったのではないでしょうか?
牛野:なんだと?
蝿の王:メフィストなる悪魔はたしかに彼を悪の道に引きずり込みました。しかし、彼自身は手を出していないのですよ。無理強いもしていない。ファウスト先生、それに田舎娘もですが決して罪を犯すのを避けられなかったわけではない。必ず選択があるのです。純粋無垢な田舎娘も一度はファウスト先生に疑問を抱きますからね。メフィストには終始疑いの目を向けていた。ですが、どちらも欲に目が眩んでメフィストの罠にはまってしまうのです。悪魔は誘惑しても罠に落とすことはないのですよ。
牛野:それでは登場人物全員DQNだ。神はファウストの愛情を確かめたいメンヘラだ。他の人物はヤク中か気違いだ。そう考えると悪魔の方がマトモな気がしてきた。
蝿の王:ええ、その通り。あなたも物の道理が分かってきたようですね。上の者が下になり、マトモが気違いになってようやく世の中が回るのです。誰かが下で支えていないと底が抜けますからね。
牛野:なにはともあれ第一部はあっという間に読んでしまった。これも何かの縁なので第二部のも読むことにする。ファウスト先生の悪徳伝説を。
(つづく)
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このKindle本を読め!『lost in canversation/王木亡一朗』
相沢総一郎君、君はモテモテだね。僕は君みたいなモテ男が嫌いだよ。そう言いたくなるような物語であった。
基本的には亜季という女の子がいなくなって、それに傷付いた四人の同級生のお話。
特にモテ男の総一郎君は彼女がいなくなったのは自分のせいではないかと罪の意識に苛まれている。それでは『lost in canversation』とは贖罪、あるいは罪の意識から救済される物語なのか。いいや、そうではないんだな。
canversationの意味を調べてみると会話という意味らしい。
ということはタイトルを直訳すると失われた会話になる。
亜季ちゃんがいなくなった事件をきっかけに総一郎くんはおかしくなってしまって、仲の良かったジュンくん、あおいちゃん、内山くんも彼と接することがなくなってしまう。それはきっと総一郎君の事を誰も罰することはできないし、救うこともできなかったからではないのかな。彼らは目の前にそびえた問題に打ち勝とうとしていたが、どうにもそれはできそうにないので無力感に打ちひしがれていたのだ。
亜季ちゃんを失ってそれぞれに思いはある、でも誰もそれについて話すことはない。話そうとしても誰も真剣に受け止めようとしない。そのことによってさらに傷付いていく姿がなんとも言えない寂寥感がある。
最後の最後まで総一郎達には贖罪も救済もない。それどころかみんなさらに傷を増やしていくのだけれど、亜季ちゃんを失ったことによる悲しみは遠くなっていく。癒やされるわけではなく、傷は塞がらず、しかし遠ざかっていくのだ。
人生に勝利はなく、負けないでいることが生きること。どこまでも転がり続けろ。行けるところまで。亜季ちゃんはもう二度と戻ってこないし、彼らの傷が消えることもないし、むしろこれから先もさらに別のことで傷付いていくだろう。それでも人生は続く。
もし『lost in canversation』に副題を付けるなら私は『like a rolling stone』と付けるだろう。ノーベル文学賞取らないかな。それは言い過ぎか。なにはともあれ今までの王木亡一朗からはとても考えつかない意欲作だったと断言できる。それぐらいの物であった。彼が一年間抱え込んだ名作に乾杯。
(おわり)
余談:月狂四郎(敬称略)がレビューでセカチューを引き合いに出していたが、私はむしろ村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の方が近いと思った。毛色は違うけれど『lost in canversation』を読んだ後はこちらもオススメする。
このKindle本を読め!『金色天化/ヤマダマコト』
タイトルにもある天化(てんげ)の天化師とは、祭りや能、人生の特別な時に化粧を施す職業のこと。今でいうメイクアップアーティストみたいなものか。作中では天化師の特別な化粧を施されると気持ちが上がるという設定があるのだが(上げるだけでもないが)、現実でも化粧をすると気持ちが上がるらしい。私は化粧しないのでその気持ちは分からないが、女の人にそこのところの意見も聞きたいものだ。男の子が棒切れ持って気持ちが上がるみたいなもの? それじゃあ化粧した女の人は棒切れ持った子どもってことか。
おっと、話が危険な方向に進みそうになった。話を戻そう。
いきなりネタバレしてしまうと山際和樹君は死んでしまう。
なぜ彼は死んだのか。
坊やだからじゃない。居場所がなく孤独だったから。
彼は粟島という元住んでいた島を出て、新潟市にある塾に通い、国立大の医学部に入って、将来は元住んでいた島に戻り医者になるはずだった。まぁそういうものを目指すぐらいだったから元々それなりの素質はあったのだろう。しかし、どうも自分は国立大の医学部に入れそうにないという予感を感じ始めたところから悲劇は始まる。
なりたい自分が存在するとき、同時にまだなれていない自分が存在する。
山際君の場合は医者の自分と、医者になれない自分。いや、まだ受験期間はあったので、成績の良い自分と、そうでない自分ぐらいだったかもしれない。そのふたつに埋められない距離があると分かったとき、それは絶望になる。なりたい自分がなれない自分を責める呪いになるのだ。
希望なくして絶望なし。彼の医者になる夢を自分から求めたものであれ、他人から求められたものであれ、なりたい自分、そうであらなければならない自分があるとそれが重荷になる。耐えられなければジ・エンド。死ぬか精神病むかの二択だ。好きな方を選んでくれ。山際和樹君は死んだ。
死んだ彼の居場所は未来においては島の医者、現在においては医者を目指す学生であった。そして未来の居場所が断たれたと思ったとき、今を生きる彼の居場所は意味をなくしたのだ。そこまでが『金色天化』の冒頭で起こる話。
なりたい自分となれない自分に引き裂かれるのなら、どうすればいいのか。道は一直線ではない。山際君の場合でいえば、別に医者にならなくても良かったのに、彼はそれだけが人生と思い込んでいたところに不幸がある。医者になんかならなくてもいいと決めてしまえば、偏差値が1まで落ちたところで屁の河童なのである。
偏差値の話が出たついでに話をちょっと脇に逸らせると、偏差値は上下共に50から離れると、上は上がりにくく、下は下がりにくくなるようにできている。テストの点数とは違うのだ。だって偏差値100とか0とか聞いたことないでしょう? せいぜい上は70、下は30ぐらい。それ以上以下の数値は相当珍しい(まぁ、いるところにはいるんだろうけど)。 数学の先生が仕組みを教えてあげるべきだったね、いや、ホント。さっき読み返したけど、偏差値は下がったんじゃなくて、伸びなかった(上らなかった)だけなんだよ。その辺の仕組み知っていたら死ななかったんじゃないかな。この仕組みを知らなくて現実でも死んだ苦学生が何人かいるかもしれない。
『金色天化』に話を戻すと、主要な登場人物は『なりたい』と『なれない』の間で揺れ動いていて、みんな居場所を求めている。体を傷付けて自分の中に居場所を刻んだ人がいたし、世界の方を傷付けて隙間を求めようとする人達もいた。居場所を求める戦いは、それを持たない人間にとって生きるか死ぬかの戦いなのだ。だが、戦う以外にも方法はあるのではないか? 例えば擬態するとか。昆虫だってそうしているし、人間だって最近はそう。別に上っ面だけの話ではない。喋る内容や、態度、生活にもそれが含まれる。その象徴がフェイスブックだ。あれは自分のステイタスを化粧している物じゃないか。だからそこに欺瞞を感じる人がいる。てめえ、カッコつけてるんじゃねえ。本当はそんな人間じゃねえだろ、と。
しかしである。フェイスブックでいいね!を集められるような人間がこの世に居場所を得られるのはひとつの真実である。だからSNS疲れしてもやめられない人が多い。お肌に粉をはたくだけではなく、人格やステイタスを飾ることも化粧のうちと考えると、案外この世は化粧だらけだと気付く。
うん、でもさ。見栄を張るというと最近ダサい風潮だが、私は見栄を張っている人間が好きだな。やせ我慢とか。しょせん人はみんな心の中にクソを抱えているのさと露悪的になるブリブリ左衛門は好きじゃない。せめてティッシュぐらい被せろよと言いたくなる。己の見栄を張るために他人を利用するのはもっとクソだけど。
何だかんだで見栄を張った人間は見ていて気持ち良い。見た目が栄えるで見栄だしね。カッコ悪くなるのは見栄を張りきれていない時だ。パンッとシワを伸ばさないと見栄もやせ我慢も粋ではない。
『何者でもない私』が強引に『何者かになっている』のもしょせん見栄でウソだ。実態はない。しかしウソが力を持つこともある。見栄を張り切った時、それはもうマコトではないだろうか。ウソから出たマコトという言葉もある。ウソに実態はないがこの世の出来事でもあるのだ。たまには大見栄きってみると人生変わるかもしれない。『海賊王に俺はなる』とか世界が広がりそうでいい。
冒頭で早々に死んだ山際くんも『離島医に俺はなる』と見栄を見栄と知りつつ張り続けられたら死ななかったかもね。生活には張りが大事ってこと。
最近、見栄張ってますか?
(おわり)
金色天化 (新潟文楽工房) [Kindle版]
余り:魔法みたいな効果がある天化にしても、天化した自分の顔を見なければならないというところが妙に人間くさい。やっぱり見栄の一種なんだろう。それに魔法みたいな効果があるだけで、本当に魔法がかかっているわけでもない。女の人も鏡を見ないで化粧したら元気出ないかもね。実際のところどうなのか、ここまで読んでくれた奇特な人は、ついでにコメント欄で報告してくれると嬉しい。情報を求ム。
このKindle本を読め!『ピコピコ 秋葉原高校音楽研究部/下田祐』
なんて若いんだ!
この本を読んでいて、何度かそう口に出しそうになった。
萌えもなく、カワイイもなく、ただひたすらに若い。搾りたての若さ100%。とにかく若さが燃えている。萌えではなく、燃えだ。内容紹介にはバンドコンテストの賞金100万円を目指すとあるが、本質は燃え。若さのキャンプファイアー。
燃えといっても熱血のスポ根みたいな物を期待するち裏切られる。なぜ目標に向かって一直線に頑張らなければいけないのだろう。将来に向かって頑張らなくても良いじゃないか。ゲームして何になるの? 本を読んで何になるの? ギターなんか弾いて何の意味があるの? これらの問いには、そんなことをしていて将来働く時に何の役が立つのと問われている。違う。大人は何も分かっちゃいない。若さが漏れそうだから燃やさなきゃいけないんだ。若さが自分から漏れると何か大変な事が起きそうな気がする。だから燃やさなきゃいけない。底が見えるまで。一刻も早く!
とにかく脳と体が発火するところに若さをぶち込みたい。本当にただそれだけ。身近に音楽という熱源があったから、そこに若さをぶちこむだけの小説。そこに意味はない。
エピローグでたまたまある一人は職業に繋がったように書かれているが、それは結果論に過ぎない。高村光太郎の詩にあるように僕達の前に道はなく、後ろに道ができるのだ。
ただ純粋に煌めいた青春の一冊。『大人なんて嫌いだ』という人は読んでみるべし。
ピコピコ 秋葉原高校音楽研究部 (ProgressiveGames) [Kindle版]
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セルパブには『ブッダブッダブッダ!!!!!/王木亡一朗』という女子高生バンド物があるが、ここはあえて『風の歌を聴け/村上春樹』を推しておく。Kindle版でも読める。
風の歌を聴け (講談社文庫) [文庫]
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でも一応名前も出したことだし、こっちも推しておくか。物語は似ているが雰囲気はぜんぜん違う。読み比べると面白いかもしれない。ソリッドな読み味が好きなら断然こっち。
ブッダ ブッダ ブッダ!!!!! [Kindle版]
このKindle本を読め!『死徴/あだちしんご』
弟が部屋でひとり死んだ後、彼が両手に持っていた本から自殺ではなく殺人の可能性を見つけ出すところから不思議な世界に入り込んでしまう話。短編だが、その間に主人公は色んな人の死と、殺人をほのめかす不可解なメッセージを立て続けに見て、何が起こっているのか混乱するが最後にある考えに行き着く。
この小説はある種の思想書とも読める。どんな思想か、かいつまんでいえば人間には死への欲求、破壊衝動があるということだ。それはまあ否定はしないが、しかし、もう一歩進めばそれでも人は生きているじゃないかとも私は思う。この世は良い悪いで分けられる物ではなく、撚られた糸のように善悪定からぬ状態で存在しているのだから。
(おわり)
死徴 [Kindle版]
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淡波亮作の『ケプラーズ5213』が半分ぐらいまでイメージが重なっているのではないかと思った。こっちは長編なのでもうちょっと踏み込んで、文明の持つ暴力に対して、ある種の答えを出している作品。私は結末にちょっと驚いた。毛むくじゃらは嫌だなぁ。
ケプラーズ5213 [Kindle版]
作者の意図がどうであれ、ケプラーズの対になるのが『孤独の王』ではないだろうか。とあるファンタジーの王国では魔法の腕輪がある種の暴力装置として働いていて、国民達はそれに寄りかかっているように私は感じた。彼らがそれを否定したあとに訪れた悲劇が、ある種の文明を否定した集団の末路ではないだろうか。否定する者は否定されるし、排除する者は排除される。光があれば影あり。影を無くすためにかえって光を消すようなことがあるかもしれない。ということを以前レビューで書いた。
【小雪の読書メモ NO.2】『淡波亮作/孤独の王』~闇が深くてびっくりした~
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