気ままに振る舞う自由は、嫌われる自由とも隣り合わせ
執筆中にこんな文章がふと思い浮かんだ。よくできた言葉なのでどこかの本にある文章だと思ったけど、Google先生に問い合わせてみたら予想通りアドラーが最初に出てきた。少し前に流行った『嫌われる自由』という本だ。
しばらくして自発的に、原哲夫の『花の慶次』で「意地を張り通す自由は斬り殺される自由とも隣合わせだった・・・・」的なことを言って若い傾奇者(傾奇者=不良、DQNみたいな人)が死ぬところを思い出した。
自由、自由といくら喧伝されても結局人が自由に生きられないのは嫌われたくないからで、嫌われてもいいのなら何だってできるんだよなぁ、と思うのである。そもそも人は元から自由であって、純粋に技術的な問題なら人を殺すことでさえ縛られていない。知識があれば爆弾を作って駅前を吹っ飛ばすことだってできる。それができないのは人から嫌われたくなかったり(他人からでなくても自分に嫌われたくないということもあるだろう。悪人だって自分の手は汚したくないものだ)、罰せられたりしたくないから。失うものが何もない人間の怖さってのはそういう縛りがないところにあるんだな。野生動物に恐怖を感じるのも、向こうはこっちに好かれたいとは微塵も思っていないことを感じるからかもしれない。牧場から逃げた牛は生きたまま牧場に帰れても、山から出てきたイノシシが生きて山に帰れないことがあるのはそういう理由?
『自由が欲しい』という綺麗な言葉に感じる奇妙な不快さ。そこには『私は自由に振る舞うけど、他人はそれを好意的に受け止めろ』というワガママが見え隠れするから、というのは斜めに見すぎているだろうか。自分の行動の自由を欲していても、他人の感性に自由を認めないのは片手落ちのように感じる。自由に振る舞う自由があるなら、相手に嫌う自由があってもいいではないか。すべての自由を好意的に認めろというのはワガママ過ぎるんじゃないかなと思う。『俺のひり出すクソを美味そうに食え』と同じ意味じゃないか。まっ、よっぽど権力か暴力に恵まれていない限り、そんな自由は実際のところ認められていないわけで、結局人はしがらみに縛られて自由に振る舞うことはできないんだけど。
逆に言えばみじめに野垂れ死にする気持ちさえあればいくらでも自由になれるんだろうね。樽の中で暮らしていた哲学者ディオゲネスはアレクサンドロス大王でさえ羨む自由を持っていた。私も羨ましいと思うときがある。とても真似はできないけれど。
どうせ縛られるなら金銀宝石の鎖に縛られたいものだ。
(2017/01/09 22:21 牛野小雪 記)
追記:『花の慶次』は佐渡編が最高。本が破れるまで読んだ。原作の方はあんまり。同じ作者なら『影武者徳川家康』の方が面白い。これも原哲夫で漫画化されているが打ち切り。でも原作を魔改造した『SAKON』の方は名作。『吉原御免状』も漫画化されていたら面白そうだったのになぁ。
追記:書いているのは原作開発プロジェクトに出す予定の短編
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