『私の人生を変えた一冊』/T・S・カウフィールド


 私はさる理由で地元の高校を受けずに、人里離れた山奥の高校を受験しました。そこにはうまく合格して、私は親戚の伯母の家でお世話になりながら、その高校へ通うようになりました。


 距離もそうですし、地形もそうさせるのですが、ここは陸の孤島であり、知り合いが一人もいない場所で私は静かな安住を得られることを期待していました。しかし、世の中はどこへ行っても同じです。違いは規模が大きいか小さいか。人と物の在りようはどこでも変わらず、私の平穏な高校生活はたった一ヶ月で終わりました。


 阿部君という同級生がいます。同じクラスです。というより人数が少ないので私の学年は1クラスしかありませんでした。その阿部君は身長が180cm以上もあり、体格もかなり良く、クラスメイトから巨人と呼ばれていました。野球部にでも入ればいいのにとみんなは言っていましたが、私の高校は人数が少ないので、野球部どころか、どの部活もまともな活動していませんでした。だからでしょう。阿部君はどの部活にも入らず、力を持て余しているようでした。


 私は最初から阿部君を警戒していました。私は彼がどんな人間か臭いのようなもので分かっていたし、彼のような人間は必ず私に目を付けることも分かっていたからです。私はなるべく彼から離れようとしました。しかし彼の方では何故か執拗なほど私に近付いてきます。何せそこは陸の孤島で逃げ場はありませんでしたし、それにクラスメイトの目もあります。傍から見れば仲良くしようとしている阿部君に私が冷たくしていると映っていたでしょう。そういうことが積み重なると私はいつしか逃げ疲れ、彼と共に行動をするようになりました。


 彼は初め、優しい態度を崩そうとしませんでした。私の方でももしかすると人間不信をこじらせすぎているのではないかと疑った事が何度かあります。でもやはりそれは間違っていました。彼は徐々に親しい態度の中に侮りの態度を混ぜるようになったのです。私はそれに気付くと、ああ、やっぱりそうだったのかと自分の勘の良さに感心すると同時に、またなのかと暗い気持ちになりました。


 決定的な何かをされたわけではありません。というより決して大きなところでは阿部君は私にとても優しい親友でした。もし銃を持ったテロリストが学校に来たとすれば、彼は私をかばって死ぬかもしれない。そう思えるようなところもあったのです。なので私と阿部君は校内で一番仲の良かった二人かもしれません。ただ阿部君はその中で、ことあるごとに私の自尊心を小さく打ち砕くのが日課になっていました。それはわずかに剃り残したヒゲであったり、日常誰にでもあるようなほんの些細な失態であったり、私の言ったことの言葉尻、それらをとらえて大げさにからかうのです。ひとつひとつ取ってみれば何でもないような事でも、積み重なれば山のようになります。山のように積った山に砂をひとかけされると、とんでもない重さになるのでした。また彼は冗談で私を撫でるように殴ったり、つまむように揉んだり、体をくすぐって私を強制的に笑わせたりもしました。


 何度も言いますが、ひとつひとつの事は大したことではありません。どの段階で私が彼に反抗をしたとしても、それは私自身大げさなことだと思ったでしょう。しかし、長い目で見れば彼は私に対して大きな悪事を働いているのです。


 いっそ彼に殴られて骨の一本でも折られてみたい。そう思う事がたびたびありました。もしくは公衆の面前でどうしようもないほど罵られて泣いてしまいたい。しかし、彼は決してそんな事はしません。私は泣くことも傷つくこともできず、ただ優しい悪意を受け止めるしかありませんでした。


 そうやって私は高校一年を過ごし、二年生になりました。私の誕生日は4月の早い時期にあるので、父は誕生日プレゼントにとある本を私にくれました。それはヤマダマコトという人が書いた『金色天化』という本です。指二本分以上はある厚い本で、表と裏は固い表紙でできていました。


 私は特にそれを嬉しいとも思わず、かといってせっかく貰ったものだからと家や学校で暇を見つけては毎日少しずつ読んでいました。すると阿部君がそれを見て、何を読んでいるのかと訊ねてきました。私が『金色天化』だと答えると彼は興味なさげにふ~んと鼻で返事をするだけで、読み終わったら貸そうかと切り出しても、いや、本は読まないと本当に心底興味がなさそうでした。


 私はそれを知った瞬間、光が差したように感じました。阿部君の知らない世界がここにある。私だけがそれを知っている。それが私の中で彼に対する唯一の優越感でした。それからも彼は私に優しい悪事を働きましたが、私は以前よりもそれを楽に耐える事ができました。『金色天化』が心の底を支えてくれたのです。


 私はいつでも『金色天化』を読めるように、毎日学生服の内ポケットに入れて持ち歩きました。そして何度も繰り返し読みました。何度読んだのか自分でも分かりません。一週間に二度三度と読むので、十回や二十回ではきかないでしょう。ページが破れたり、背表紙が割れてもセロテープやボンドで補修しながら使い続けました。


 私と阿部君は三年生になりました。この時、とうとう二人の間に決定的なことが起こったのです。その日は学園祭の準備があり、生徒達は放課後も残っていたのですが、手が空いている人はやることもないので、暇を持て余していました。私と安部君もその中の入っていました。その日の阿部君はいつもと様子が違って、私は何が起こるのだろうとハラハラしていました。しかし放課後になっても何も起こらないままなので、私の勘違いだろうかと疑っていた頃、彼は裏山に行こうと言いました。裏山とは学校のすぐそばにある、校庭と繋がった山のことです。植林された太い杉が何本も伸びています。


 何か悪いことに私を巻き込もうとしているのだな。私はそう思っていました。しかし私と安部君の関係で、私は彼に逆らえないので私は黙って彼の後についていきます。私達はやがて山の中に入りました。暗い杉の下を歩き続け、校舎も小さくなり始めた頃、ふいに阿部君は私の腕を取って一緒に杉の木の影に引き込みました。教師の誰かがこちらを見ていたのでしょうか。私は安部君と一緒に学校の様子を窺いました。しかし視界の先には杉の木が何本も隙間なく立ち並んでいたので、誰の姿どころか校舎の影すら見えませんでした。


 誰にも見えないな。彼はそう言いました。私はその声を聞いて、体中にぞっとする不気味な物を感じました。彼は何故か私をひざまづかせようとしました。私が理由を訊いてもいいからとだけ言って、肩に力を加えます。私はささやかな抵抗をしたのだけれど、彼の粘り強さに負け、その場にひざまづいていました。


 何をされるのだろう。とうとう滅多打ちにでもされるのだろうか。私は密かな期待を抱いていました。彼に容赦なく殴られれば、山を転がるように降りて、誰かに助けを求めようと考えていたのです。顔や体に傷があれば、きっと彼の悪事は明るみに出て、彼には有形無形の罰が与えられるに違いない。そう期待していたのです。


 しかし、彼は私を殴ろうとしていたのではなかったのです。彼は異様に熱い目で私をみつめると、音が出ないほど優しくベルトを外し、ズボンを下げました。パンツも一緒です。私の目の前には剥き出しになった彼の下半身がありました。その中心には肉々しい臭いを放つ一本の太い棒が杉のように天高く伸びていました。


しゃぶれよ。彼はそう言いました。私が意味を飲み込めないでいると彼はもう一度、しゃぶれよ、と言いました。あんな物を口にくわえるなんて、私は躊躇しました。しかし、私はある瞬間までは嫌々ながらもくわえようとしていたのです。彼の腰に手を当てて、いざ口の中に含もうとしたとき、彼は言いました。歯は立てるなよ。

 私はその瞬間理解しました。私はずっとしゃぶられていたのだと。
私は怒りました。私は今まで精神的に殴られていたのではなく、しゃぶらされていたのだとはっきり理解しました。精神的にはずっと安部君の汚い口でしゃぶられていたのです。そして、私は歯を立てない限り、ずっとこれからも、たとえ安部君の元を離れたとしても、彼と同じような人間にしゃぶられ続けなければならないのだと。


私は制服の中にある『金色天化』を掴むと、彼の顔めがけて振り抜きました。ふぐぅっ、と妙にくぐもった声がしたのを憶えています。彼は突然殴られて何が起こっているか分からないという顔をしていました。私はそこに微かな怒りの予兆を感じたので、私は恐怖を感じ、彼に抵抗される前に『金色天化』振り下ろしました。二撃目を受け、彼はやっと抵抗しようとしましたがズボンを下に下ろしていたので、うまく動けなかったようです。足を絡ませると後ろに倒れました。すると背中を強く打って、杉の木の空が震えました。


おおい、何するんだ。助けてくれ。彼は哀れっぽい声で助けを求めましたが、私は怒りと恐怖に刈られ『金色天化』の一撃を何度も彼に打ち下ろしました。殺してしまうかもしれない。そう思ったのも束の間、何度目かの一撃を振り下ろした時『金色天化』が二つに割れ、私の手から飛び出し、地面に落ちると、4つ、5つ、6つ、それから全てのページが分かれ、弾ける様に飛び散りました。


その頃になると阿部君は杉の木の下ですっかり大人しくなっていました。しかし下半身の中心には杉の木のように立派な肉々しい物がそそり立っていました。私はそれを見ると怖気を感じ、逃げるように山を下りました。


こうして杉の木の下を抜け、空の下に戻ってきた時、私は何かから解き放たれた気分になりました。頭上には薄い曇り空が夕日を拡散して金色に輝いています。その幻想的な美しい光を浴び、私はいま本当に生きている、そう心の中で叫び続けました。



(おわり)

↓心の中から震える『金色天化』



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