才能の話

 

(2015年11月24日 牛野小雪が記す)

 

 自分に才能があるかどうか。時には自画自賛で「俺は天才だ」と良い気分になる時もあれば、「自分には才能なんてこれっぽっちもない」と疑う時もある。でもやっぱり心の底では才能があると思っているのかもしれない。

 私は生まれてこの方野球選手になろうとは露ほども考えた事がない。そのせいか野球は全然駄目だ。当然知識もあんまりないので、何でさっきのがアウトでいきなりチェンジになったのか分からないという時があるぐらい分からない。(きわどいプレイという意味ではない。でも何故かツーアウトになってチェンジになったという不思議に思った事は記憶に残っている。とにかく不思議に思うことが多い)

 また鳥の様に空を飛びたいと思った事はあるが空想や妄想ではなく、現在の延長線上にある未来において空を飛ぶということではない。多分私には野球の才能はないし、空を飛ぶ才能、というか羽がないのだから最初から考えもしないのだろう。その論でいけば曲がりなりにも小説を書こうとしている私は才能があるのではないかと思う。少なくとも自分ではそう思い込んでいる。それがどこまであるかというところが問題なのだろう。

 子どもの時から野球選手を目指しても野球選手になれない人はたくさんいるが、それは単にプロ野球の世界で通じなかっただけの話で、同世代から見れば異次元の才能はあるわけだ。どの世界でも努力すれば何とかなると言う事は少なく、努力は入場券みたいなものでそこから先は才能の世界になる。もしくは才能が入場券で努力が物を言う世界かもしれない。どちらにしろ才能は必要で、これが無ければ話にならないわけだ。

 努力という物は罪なもので、これは才能が無くてもできる。でも、それが実るかどうかは自分では決められない。努力と成功の関係性は宝くじに喩えられる事があるが、才能が無ければハズレくじばかりの箱に手を突っ込んでいるということで、宝くじなら金が減って、それが人生ならを体力と精神を磨り減らしていく。刀なら鋭くなるが、河原に落ちている石ころなら細くなるばっかりだ。でも、悲しいかな。才能というのは目には見えない。少なくとも努力している本人には見えないわけで、あきらめない限りはずっと磨り減っていく。

 何者かになろうとした人が夢をあきらめる時、どうやってそれを受け入れるのだろう。磨り減った石の中から何かを見出したのか。それとももう磨り減る事ができなくなったから自然にあきらめた?

 手前味噌なのだが『長い寄り道』という短編集の『マリッジブルー』という話に夢が終わろうとしているバンドマンの話を書いた。題名通りに結婚前の憂鬱を書いた話なのだが、夢が終わろうとしている男の話だと月狂さんに言われて初めて気付いた。言われてみれば確かにそうだ。でも、それを意識して書いてもやっぱりああなるだろうなぁ。ドラマチックな挫折という物が思い浮かばない。案外夢の終わりは諦めるという大げさなものではなくて、生活の中に埋もれるように沈んでいくものなのかも。誰もかつて彼が夢を抱いていたことも知らず、本人すら忘れることもあって時々思い出しては苦い思いをするみたいな。

 私自身を振り返ってみれば、昔々夏目漱石を読んで小説を書く自信を根元からぶち折られた事がある。100年前にすでにこんな奴がいたのかと。でもそれは夏目漱石ほどではないと落ち込んだだけで、有る無しの問題では有ると思っていたのかもしれない。その後も年に数回はちびちびと書いていたわけで、完全に夢をあきらめたわけではないと振り返れば思う。

 時々自嘲することもあった。何で書いてんだよ、と。それでもちびちび書いていたのは屋台骨が吹き飛ばされても土台は残っていたってことなのかな。今はどれぐらいの物が建っているのかは分からない。もしかするとそこには荒地が広がっているのかもしれない。自分では分からないことだ。でも今は小説を書こうとしている。

 

 

 

この本を読んで考えたこと。

テーブルの上のスカイラーク (新潟文楽工房)

テーブルの上のスカイラーク (新潟文楽工房)

 

「山彦」書評(すごい人出てきた…) - ペンと拳で闘う男の世迷言

ヤマダマコト『テーブルの上のスカイラーク』に見るスポーツ小説の難しさ : 徒競走 † 殻無蝸牛

ヤマダ マコト『テーブルの上のスカイラーク (新潟文楽工房)』:感想 | satokazzz.com

(藤崎さんもヤマダさんも同じことを考えているのかもね)

 

 

これが長い寄り道↓ 

 書評はこっち↓

「長い寄り道」書評 - ペンと拳で闘う男の世迷言

 

ちょうどタイムリーな記事があったので貼っておく。

tm2501.hatenablog.com

 

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