フミヒト(文人)はバックパックの中を確かめた。ここ数日何度もやってきたことだ。今まで荷物を足したり減らしたりしていたが、今ではそれも無くなった。三日前からバックパックを背負って一日中近所を歩いた。それを見た近所の人や知らない人からがんばれよと声をかけてくれた。一言だけならこちらも頭を軽く下げるだけだが、散歩中のじいさんが彼を呼び止めて話を始めた時には参った。
初めは月の歩き方を教えてくれるのかと思っていたが、そんな話は最初だけで彼自身の人生哲学とそれを活かしてどれだけ自分が立派に生きてきたかの自慢話が始まった。歩くだけでもよぼよぼだったのに、話をしている最中はほとんど息継ぎもせず一時間近く立ちっ放しで喋り続けた。自慢話が終わると今度は今の若い奴がいかにだらしないかの話に変わって、フミヒトが知らない人を口汚く罵っていた。一人の話が終わると『なあ、あんただって、そう思うだろう? そりゃそうだ。誰だってそう思う。俺は寛容なぐらいだ』と同意を求める言葉を挟んだ。しかし、フミヒトがそうだとも違うとも答える前に話は次の人に移るのだった。
結局、その人は二時間近く話をしてフミヒトから離れた。足取りはよぼよぼだったが、どことなく溌剌とした勢いがあった。それとは逆にフミヒトは二時間立ちっ放しだったので、膝の軟骨がぺしゃんこに潰れてしまったように感じた。バックパックを背負っていたのでなおさらだ。歩くより体の負担が大きいと思った。老人よりもよぼよぼとした歩みで近くのベンチに腰を降ろすと、一時間近く足を休めた。
二日目からは多分バックパックを背負って一日中歩けるだろうと分かってきた。三日試したのは念のためだ。
もう一度バックパックの中身を確認する。荷物の量は個人に任されている。多くの荷物を持てばそれだけ重くなり、歩みは遅く日数もかかる。荷物を少なくすれば反対に歩みは速く短い日数で事が終わる。
これから三日後に彼はムーンシティを出て、アルテミス山に一人で登らなければならない。15歳になれば誰もがすることだ。いつから始まったのかも分からない成人の儀式で、父も祖父も、そのまた曽祖父もみんな15歳になるとアルテミス山に登った。先祖に例を辿らなくても、同級生のレツヒト君は誕生日が早かったので、学年の初めにやはり登った。彼は自信があったので少ない荷物を担いで、短い日数で帰ってきた。また親友のマサヒト君は大きな荷物を担いで、長い日数をかけて戻ってきた。あまりに長い時間戻ってこないので彼は死んでしまったのではないかとフミヒトは恐くなったものだ。彼の両親もまた心配していたようで、シティのゲートでマサヒト君を待っていると、毎日彼の両親の姿を見つけた。
成人の儀式で死んだ子もいるらしい。毎年そんな話を聞く。ただ、本当に死んだ子の話をフミヒトは聞いた事がなかった。同級生の誰も知らなかったし、父も知らなかった。ただ祖父の同級生が一人運悪く隕石にぶつかって死んだということがあるらしい。データベースを検索してみたが、本当のことか分からなかった。
隕石に限らず成人の儀式で死んだ噂はいくつある。テントの生地が破れて死んだ。空気の残量が足りなくてドームを見ながら死んでいった。アルテミス山の頂上は重力が弱く、そこから宇宙へ飛んでいってしまい月に戻れなくなった。中には宇宙の闇からやってきた大きな化け物に襲われて死んだという怪しげな噂もあった。もしくはUFOに攫われたとか。どれも本当のことか分からないということだけが共通している。
アルテミス山は見ようと思えばいつでも見る事ができる。ムーンシティの端へ行けば、月の砂漠のその向こうにそびえたつギザギザの山。それがアルテミス山だ。そびえたつというと大げさだが、実際はドームの頂上より少し高いくらいらしい。らしいというのは実際に登った事がないからで、教科書やデータベースに載っているデータを元にフミヒトが想像したことだ。でも、他の人に聞いた話を考えると、そう間違ってはいないと予想はしていた。
担いでいく荷物を確認する。多分使わないであろうと思える物がいくつかある。でももしかしたらと頭がよぎる。だれかに相談することはできない。荷物を決めるのも儀式の一つだからだ。2週間前、うかつに父に訊いてしまったことがあるが、父はそれを優しく諌めただけだ。ただ答えられるなら答えたいという複雑な顔はしていた。
母は直接言葉にはしないが、とにかく荷物を持たせたがった。フミヒトも初めはそうしたが、そうすると荷物が重たくなりすぎるので、途中からは減らし始めた。それでも減らしきれない物がいくつも残った。時にはバックパックから減らしたこともあるが、日が変わるより先にそれは元に戻った。減らしきれない無駄な荷物は自分の不安なのだと分かってきた。分かったからといって減らす事はできない。結局は担いでいくことにした。
それから出発の日までは体を休めることにした。するのは荷物とアルテミス山までの道程を確認すること。成人の儀式があるからといって学校が休みになることはなく、いつも通りに出席した。ただし、宿題はしなくても特に怒られる事はない。制度として決まっているわけではないが、慣習として大目に見られていた。噂ではテストで悪い点を取っても成績には響かないらしい。こんな時に宿題をする馬鹿はいない。先例に倣ってフミヒトも学校へ行くだけで宿題は一切しなかった。学校から帰るとベッドで横になり頭の中で月の砂漠を歩いたり、アルテミス山に登ったりを繰り返していた。
やがてフミヒト15歳の日になった。今日はまだ太陽が出ない時間からベッドを出て服に着替えた。両親も静かに起き出して部屋を出たり入ったりした。特に何かを放したわけではない。朝食を食べて、朝のニュースを少し見て、普段は読まない新聞の見出しを端から端まで読むと、フミヒトが決めた出発の時間になった。ザックを背負って玄関へ行く。フミヒトは言った。「それじゃあ、ちょっと行ってくる」
父は居間で新聞を読みながら座っていた。母は玄関の外まで出てフミヒトを見送った。ここはまだドームの中だが、すでに儀式は始まっているのだとフミヒトは思った。
一時間ほど歩くとムーンシティのゲートまで来た。マサヒト君がそこにはいた。彼は軽く手を上げただけで何も言わなかった。フミヒトも手を返して口には笑みを浮かべた。
すぐに彼を通り過ぎて、ゲートの中に入った。そこにいる警備員に生徒手帳とドーム外活動許可証を提示した。彼は軽く目を通しただけですぐにゲートの先に促した。そこにはもう一人成人の儀式を受ける子がいてフミヒトより大荷物だった。彼は既に宇宙服を着込んでいて、何か話しかけられる状態ではなかったが、フミヒトは彼に笑みを投げかけた。彼の方でもヘルメット越しに笑みを返してきたが、固い笑みだった。もしかすると自分もそんな顔をしているのかもしれない。
シティドームと外の間にある気圧調整室の中でフミヒトは宇宙服を半分だけ着た。ゲートが開くまでは時間がまだまだあるのだ。それでいえばもう一人は少し気が早すぎると思った。
それでも時間はあっという間に過ぎて、すぐにゲートが開く時間になった。その頃にはフミヒトも宇宙服を着終えていた。
ゲートが開いた。そこには黒い空に灰色の砂漠が広がっていた。さらにその先でアルテミス山が黒い空をギザギザに切り取っている。
フミヒトから灰色の砂漠に一歩を踏み出す。砂埃が膝の下まで舞った。すぐにもう一人も砂漠へ出てきた。少し歩くと後ろの方で振動を感じて、二人とも振り向くと、ちょうどゲートが閉まったところだった。
もう一人の方が顔を戻したが泣きそうな目をしていた。フミヒトもあと一つ何かあれば泣いてしまうかもしれないぐらい胸の動揺を感じていた。すぐに顔を前に戻して歩き始める。
初めはもう一人の子と一緒に歩いていたが、すぐに引き離してしまった。歩く速さが違いすぎるのだ。体格ではそれほど変わらないが、荷物の差がここで出てきた。先を歩いているからといって、心に余裕が出たわけではない。むしろその逆で、もしかすると自分は荷物を軽くするために何か大事な物を忘れているのではないかと常に不安になった。
白い太陽に照らされながら灰色の砂漠を歩き続けた。目の前のアルテミス山はいつ見ても同じ大きさに見えた。不安になり後ろを振り向くと、小さくなったムーンシティが見えたので、確かに前に進んでいると感じる事ができた。小さく揺れ動く点はもう一人の子だろう。
太陽が真上を通り越して山に近付いた頃、フミヒトはザックを降ろして圧縮テントを地面に置いた。ボタンを押すと中の装置が働いてテントが膨らんできた。その間、フミヒトは歩いてきた砂漠を振り返り、すでに設営されたオレンジ色のテントを見た。自分は遅いのかもしれないとまた不安になった。フミヒトのテントは蛍光色のグリーンだ。そのテントが出来上がったので彼は中に入った。気圧調整室で一時間ほど過ごし居住スペースに入る。ザックを降ろし、宇宙服を脱ぐと、やっと気分が落ち着いてきた。
携帯宇宙食を出して食べた。不味くはないが美味くもない。それでも腹がふくれるまで食べていた。こんなものを腹一杯に食べるなんて昨日までは想像も出来なかったが、実際に来てみるとその通りだった。もう一人の子も今頃は腹一杯に携帯宇宙食を食べているんだろうかと考えていた。
新品の宇宙テントは化学繊維の冷たいにおいがする。そこに寝袋を敷いて中に潜ったがなかなか眠れなかった。出発するまで宿題をわざとしなかったこと。新聞を読んでいた父の頭、玄関まで見送りに出た母の手、ゲートで待っていたマサヒト君などが頭に短く浮かんではすぐに消えた。それが何度も続いた。
夜の間、それがずっと続いて疲れが取れないまま朝になった。携帯宇宙食を食べると宇宙服を着て外に出た。テントのボタンを押すと、中の空気が圧縮されて40センチ四方の大きさまで縮んだ。それをザックの下にストラップで縛り付けた。荷物の中ではこれが一番重い。背負う前と後ではっきりと重さが分かった。
また歩き続けた。後ろの子はしばらく目をこらさなければ見つけられないほど離してしまった。ムーンシティも気を抜いていると風景に紛れるほど小さくなった。アルテミス山はやはり同じ大きさに見える。
太陽が沈む前にテントを張った。今日は後ろの子は見えなかった。体には二日分の疲れが溜まっていた。
テントの中で宇宙食を食べて寝袋の中に潜り込む。相変わらず眠れなかった。頭に浮かぶのは過去の事ばかりで、不思議と将来のことは浮かんでこないと気付いた。公園の噴水に頭から落ちたこと、父のライターを勝手に持ち出してマサヒト君と一緒に新聞紙を燃やしたこと、自転車でムーンシティの端から端まで行こうとして半日でやめたことを思い出す。
また眠れない夜を過ごして朝になった。昨日よりは体の疲れが抜けた気がする。それでも一昨日の分の疲れはそのままだし、昨日の疲れも半分は残っていると感じた。まだ山にも着いていないのに大丈夫だろうかと不安になった。
三日目にようやくアルテミス山の麓に着いた。足元が詰まって壁にぶつかったようだった。それでふと上を見上げると山の麓だった。突然現れたように感じた。少し登って平らな部分があったのでそこにテントを張った。
テントの中でザックの中身を広げると、やはり必要なかったと思える物がある。次の日の朝はそれをその場に置いて先に進むことにした。どの道帰りは同じ道を歩くつもりだ。荷物を置いた分だけ歩みは速くなった。山を登り始めて三日目にまた荷物を減らした。
四日目にはテントを置いて出発した。頂上は見える位置に来ていたし、GPS上でも半日かからずに着く場所だ。
宇宙服と僅かな荷物だけで山を登った。今までで一番足取りが軽かった。予想より早く頂上に着いた。 頂上にはアルテミスの神殿があって、そこにある端末にフミヒトの情報が入ったカードを差し込む。端末の画面が変わって『登頂完了』の4文字が出た。
フミヒトは息を吐いた。これであとは帰るだけだ。
彼は下山する前に神殿の階段に腰を降ろした。神殿は頂上にあるので遠い場所にある丸いムーンシティの光がはっきりと見えた。それと灰色の月の砂漠。ゲートから見た砂漠はとてつもなく広く見えたが、今は歩き通せないこともないと思えた。実際に歩いてきたのだから。
目を上に向けると白い地球が見えた。フミヒトは地球へ行った事がないが、そこでは月と違って、石英の白い砂漠がどこまでも広がっているらしい。赤道上に点々とある黒い点は太陽光発電のパネルで、そこで発電した電力を目には見えないレーザーに変換して月へ届けるんだそうだ。
マサヒト君のお父さんは保守点検の仕事をしていて、二年に一度、地球で半年過ごしてくる。彼はいつも体を鍛えていて、筋肉隆々の凄い体をしているが、地球から帰ってくると、もっと凄い体になって帰ってくる。そんな彼でも地球では自分の体が重く感じられるそうだ。地球へ行く前に体を鍛えておかないと地球の重力で体が潰れて何もできないとも聞いた。その代わり宇宙服無しで外を歩けるそうだし、水もおいしいそうだ。
自分が生きている間に地球へ旅行できる日が来るかななんて考えながらフミヒトは腰を上げた。あとになって太陽光パネルの保守点検員になろうとは考えなかったなとも思った。将来は月の田舎から火星へ行って、ユートピアタウンでスーパースターになり、マリネラス渓谷辺りにピンク色のデカイ家を建てるんだとずっと考えていた。
山を下って、テントの場所まで戻るとそのままそこで一夜を過ごした。
朝になるとテントをザックに入れて山を下っていく。そういえば夜は何も考えずに眠りについている事に気付いた。
自分が置いていった荷物を回収してさらに下っていく。荷物は増えていくが歩みは速い。
下山開始から三日目にもう一人の子とすれ違った。ヘルメット越しに笑みを交し合う。彼は良い顔をしていた。どこかで見た事がある顔だとも思ったが、そのまま通り過ぎた。
最初に荷物を置き去りにした場所まで来た。フミヒトの物とは別の荷物がそばに置いてある。きっとあの子の物だろう。自分の物だけをザックに入れて先へ進んだ。これで出発した時と同じ重さになったが、今は軽く感じられた。
山を下りきってからテントを張り、夜を過ごすことにした。久しぶりに色んなことが短く頭を巡り、なかなか眠れなかった。
ふとある顔が浮かんだ。幼稚園の頃に転校したケイタ君で彼は僕と同じ誕生日だった。家も近くで一緒にお互いの誕生日ケーキを食べ合う仲だった。その顔と山ですれ違った顔が重なる。なんだ、あれはケイタ君だったのか。確かめたわけではないが、フミヒトは確信していた。あれはケイタ君だと。翌朝アルテミス山に目を向けたが、そこを登るケイタ君は見えなかった。
それから月の砂漠を二日歩いてムーンシティに帰ってきた。気圧調整室からドーム内に入ると警備員の人が言った。
「おかえり」
久しぶりに聞いた人の声だった。何でもない言葉に胸が揺れて泣きそうになったが、そこは耐えてフミヒトも「ただいま」と言葉を返した。
家に帰ると今度は両親から「おかえり」の声を聞いた。なんだか恥かしくて、フミヒトはすぐに自分の部屋に入った。ベッドでほんの少し眠るつもりが一日中眠っていた。
成人の儀式は終わって一週間が経った。だからといって何かが変わったわけではない。両親からは相変わらず子供扱いされるし、夜遅くに外でいると警官に補導されそうになる。宿題はしなくちゃならないし、輝ける大スターへの道はまだ見えてこない。ケイタ君とはあれっきりだし、同じクラスのエミちゃんとは話せないままだ。それでも彼の成人の儀式は終わった。
(終わり)
この世が最悪の世界だと見抜いたタクヤは、
夜行バスに乗り徳島へ家出したが
彼の乗ったバスは徳島へ到着しなかった。
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