修羅になったタロウ

題名:修羅になったタロウ
作者:牛野小雪

     1

 タロウは物心が付いた時にはもうその家にいました。
 主さんとその奥さんと二人の娘のエミちゃんが住んでいて、タロウはそこで飼われている犬でした。全身真っ黒で肉球まで黒い犬です。大きい耳は下に垂れていました。
 エミちゃんは学校から帰ってくると、タロウを散歩させる決まりでした。いつもは家の中にいるけれど、散歩のときだけは外へ出ることができたのです。 
 タロウは外の世界を見るのが好きでした。エミちゃんが帰ってくると尻尾を振りながら玄関で彼女を出迎えます。
 エミちゃんがランドセルを降ろすが早いか、タロウはリードを咥えて彼女の足元に座りました。
 時にはずっと外を出歩きたいと思う日もあるけれど、長く歩いているとエミちゃんが疲れたにおいを出すので、そんな時はすぐに家へ足を向けます。
 エミちゃんが友達の家へ遊びにいった日でした。その日は主さんと奥さんが家にいて、タロウは早くエミちゃんが帰ってこないだろうかと窓の外を見ていたら、主さんが言いました。

「タロウ、散歩へ行こう」

 エミちゃんがいない時は主さんか奥さんが散歩をしてくれることがあったけれど、この時は何だか酸っぱいにおいがして、嫌な気分がしました。それでも散歩へ連れて行ってくれるというので、リードを自分で咥えてタロウは玄関で主さんを待ちました。
 その姿を見て主さんは言いました。

「タロウは賢い。これならきっと大丈夫だ」

 何だか分からないまま外へ出ると、家の敷地を出ずに車に乗りました。遠い場所へ行く時は車に乗るのだけれど、そんな時はたいていエミちゃんも一緒です。何だか変ですが、主さんが車の中で待っているのでタロウも車へ乗り込みました。
 車が動き出しました。助手席から外の景色を眺めていると、いつもと違う道を通っているのに気付きました。車は川を越え、山を越え、海ばかり見える場所まで来たのです。
 白い砂浜の前で主さんは車を停めました。

「タロウ、ここで遊ぼう。楽しいぞ」

 主さんはそう言いましたが、何だか様子がおかしいので、タロウは助手席から動かずにいました。

「どうしたんだ。お前の好きなボールもあるんだぞ。ここなら思いっきり遊べる」

 主さんがボールを振りながら外へ誘うと、それに釣られてタロウは車から降りてしまいました。

「よ~し、行け!」

 主さんがボールを砂浜へ向かって投げると、タロウはそれを必死に追いかけてボールを口に咥えると主さんの所へ戻ってきました。

「よ~し、よしよし、タロウは良い子だな」

 主さんはそう言いながらタロウの頭と顔をくしゃくしゃに撫で回しまた。それから口からボールを受け取ると、また砂浜へボールを投げました。それをタロウが拾ってきて、撫でてもらう。それを何度か繰り返しました。

「よ~し!今度は取れるかな?」

 主さんは思いっきり振りかぶって、ボールを遠くまで投げました。ボールは目がかすむぐらい高くまで上って、波打ち際に落ちました。
 タロウは風のようにボールへ突進しました。ボールは波でゆらゆら揺れています。なかなか咥えることができず足が海水で濡れました。 タロウはやっとのことでボールを咥えると後ろを振り向きました。
 主さんがいません。
 タロウは元の場所まで戻ってみましたが、主さんも乗ってきた車がありません。あまりの不思議さに咥えていたボールも落としてしまいました。



        2

  場所を間違えたかもしれないと辺りを歩き回りましたが、主さんも車もいっこうに見つかりません。そうこうしている内に日が暮れてきました。
 砂浜を出てしばらく歩くと、タロウは公園を見つけました。ただし、いつも行っていた公園とは違う場所のようです。
 夜もふけてきたので公園の茂みで体を休めようとすると、後ろからヒタヒタと足音が聞こえてきました。鼻に胸に刺さるような臭いがします。

「おい、お前。何をしている」

 後ろを向くと、一匹の赤犬がタロウをにらんでいました。

「迷子になってね。ちょっと疲れたから休もうと思って」
「疲れた?そうか。そりゃ災難だったな。だが、そんなことは関係ねえ。さっさとここから出ていきな。ここは俺の縄張りだぜ」
「そんなことを言ってももう疲れたから。今日一日ぐらい構わないだろう?」
「うるせえ!さっさとここから出て行け!臭うんだよ!お前は俺と同じじゃねえ!」
「とにかくもう疲れたから、その話は明日しよう」

 タロウが言うと赤犬が首を噛もうとしてきました。しかし、タロウはとっさに避けて、逆に赤犬に飛びつきました。彼の威勢は激しかったのですが力は大した事が無く、あっさりと押さえ込むことができました。

「とにかく今日はここで寝るから邪魔しないでくれ」

 タロウが言うと、赤犬は「ちくしょう!」と捨て台詞を吐いて、尻尾を垂らしながらタロウから離れていきました。
 朝目覚めると、昨日と同じ場所へ行きました。砂浜を端から端まで歩いてみましたが、主さんは見つかりません。
 公園へ戻ると、そこにはおばあさんがいて、赤犬にパンをあげていました。タロウは昨日の昼から何も食べていないので腹が減っています。
 おばあさんがこちらへ来たので、足元へ近寄ってみると「あら、あなたもいたの。ごめんなさいね。今日はもう無いの。お終い」と声が降ってきました。
 後ろからヒタヒタと足音がします。

「何だ、お前。まだいたのか」

 昨日の赤犬でした。

「うん、まだ見つからなくてね」
「おめでたい奴だな」
「何が?」
「早く気付けよ。お前は捨てられたのさ」
「そんなはずない!」

 とっさに出した言葉があっという間に色褪せていきました。本当は昨日から捨てられた事に気付いていて、それを認められずに砂浜を歩いていたのかもしれなかったからです。

「なに、捨てられたのはお前が初めてじゃない。俺ぐらいこの辺で生きているとそんな奴には何匹も出会う」
「いや、でも僕を忘れたのかもしれない。きっと迎えに来るはずだ」
「ハハハ、みんなそう言うのさ。まあ、もう少し待ってみなよ。嫌でも間違いだって気が付くさ。実を言うと俺もその口でな」
「お前とは違う!一緒にするな!」

 タロウは牙を剥いて赤犬を噛もうとしましたが、昨日のうちに勝負は済んでいたので赤犬は一目散に逃げ出ました。タロウは空腹のまま夜を過ごしました。次の日も赤犬の言う通り主さんは見つかりませんでした。
 公園に行くと、きのうのおばあさんがいて、タロウを見ると手招きをします。

「ほら、今日はあなたの分も持ってきたから食べなさい」

 おばあさんはパンをくれました。ソーセージまで付いています。しかし、タロウはそれを食べませんでした。もし、このパンを食べれば、主さんが一生迎えに来ないという気がしたからです。むしろ、このまま腹を空かせて死にそうになれば、主さんがきっと迎えに来てくれると信じていました。

「おい、食べないと体に毒だぜ」赤犬が言いました。
「どうしたの?食べないの?」おばあさんも言います。

 それでもタロウがパンを食べなかったので、赤犬が横から全部食べてしまいました。それを見たおばあさんは「あらあら、大変」と言います。彼女はタロウと赤犬の頭を撫でると公園から出ていきました。
 太陽が真上に昇って暑くなってきたので、タロウは赤犬と日陰で横になっていました。

「次は何か食わないと死んでしまうぞ」と赤犬が言いました。
「いや、このまま何も食べずに待っていれば、それを見かねた主さんが迎えに来てくれる」とタロウは答えました。
「馬鹿だなあ。主さんは迎えになんか来ないさ。ここまで車に乗ってきただろう?それも長い時間をかけて。それはお前が絶対家に帰ってこれないようにするためさ。ここは元居た場所よりうんと遠い場所さ。空でも飛ばない限り、一生家には帰れない」
「まさか。ほんのちょっと忘れただけさ。きっと疲れていたんだ」
「嘘だと思うのなら確かめてみな。ほら、あそこに山が見えるだろう?あの山の頂上から向こうの町を見下ろしても全然知らない場所だって分かるはずだ。それだけ遠い場所で捨てられたってわけさ」
「よし、それじゃあ確かめてくる」
「おい、太陽がまだ熱いぜ」

 赤犬の言う事は無視して、タロウは山を登り、その頂上から町を見下ろしました。全然知らない場所でしたが、思えば山から町を見下ろしたことはありません。とにかく山を降りて町へ入ってみましたが、やはりそこは知らない場所で、そもそも済んでいた町とはにおいが違いました。元居た場所はこんなに塩辛いにおいはしません。
 道路の水溜りで水を飲んだ事までは覚えていました。そこから後の記憶はありませんが、タロウは気付くと元の公園に戻っていました。すぐそばには赤犬がいます。

「なっ、俺の言ったとおりだろ」
「うん・・・・・・」

 タロウはそれだけ言って、茂みの陰に横たわりました。何もする気が起きません。かといって眠れるわけでもありません。じっと横たわったまま夜が過ぎました。 そばで寝ていた赤犬は明るくなると、茂みから一度出ていきましたが、すぐに戻ってきました。

「今日はあのばあさん来ないらしい」
「毎日来るわけじゃないのか」
「毎日エサをくれるのは主さんだけさ。あとは気まぐれよ。雨の日や風の日は来ないし、冬になって寒くなるとまず来ないな」
「詳しいね」
「三年も暮らしているとさすがにな」
「今日はどうする?」
「なに、いざというときの食い繋ぎ方は心得ている。お前もついてくるか?」

 あまり気乗りはしなかったけれど、空腹に耐えられずタロウは赤犬についていくことにしました。



      3  

 砂浜を歩いていると白い猫が一匹いました。

「なあ、お前。俺はここにいるから、後ろからあいつの後ろに回ってくれないか」
「どうして?」
「あいつの後ろに立っているだけでいい。そうすればあとは俺がやるから」「何を?」
「ちょっと驚かせてやるのさ」

 腹が減っているときに何を言うのかと思いましたが、タロウは猫を遠回りに避けて、その後ろに立ちました。猫がタロウを気にして後ろを向きます。 する、と突然けたたましい足音とうなり声が聞こえました。赤犬が白猫に突進していたのです。猫はもちろん逃げようとしましたが、その方向にはタロウがいたので一瞬動きが止まってしまいました。
 赤犬は猫の頭にかぶりつくと、背中に足を置いて、首を横に振りました。ゴリッ!という固い音がすると、猫の体は一度跳ねて柔らかくなりました。

「君、何しているんだ!」
「こいつはびっくりしただろうよ。なにせ死ぬことも気付かずに死んだんだから」
「いくら猫とはいえ、ひどすぎる。殺すことはないだろう」
「猫なんかいくら死んでもいいさ。それより食っちまおう。新入りだから腹を食って良いぞ。俺は頭と足を食うから」
「えっ」

 赤犬は頭からかぶりついて、ずるっと顔の皮を剥がして、血にまみれた肉を一筋食いちぎりました。その様を見るとタロウは恐ろしくなってきて、空腹を忘れて公園まで走り帰ってきました。 タロウは茂みの陰に隠れて、さっき見た事は本当だろうかと疑いました。夢ではないかとさえ思いました。しかし、夢にしては鮮明でにおいまであったのです。
 昼頃になるとヒタヒタと足音が近付いてきました。それに混じって血のにおいが鼻を突きました。茂みに現れたのは赤犬でした。

「お前なんで逃げたんだ。お前に腹はやるって言ったのによ。残すのはもったいないから全部食ってきたぜ」
「君はあの猫を食ったのか」
「ああ、エサをくれる奴がいない時はそうやって食い繋ぐのよ。でも猫は不味いほうだな。もっと美味い物がある。まあ、俺はごちそうを最後までとっておくタイプだから今は熟成中さ」
「でもかわいそうじゃないか」
「そうでもしなけりゃ生きていけないだろうが。お前は主さんに捨てられて野良犬になったんだから、野良は野良らしく生きていかなきゃ駄目だぜ」「それならもう生きたくない」
「へっ、勝手にしろや」

 また一日が過ぎました。このまま死んでしまいたいとも思いましたが、腹が減るのはどうしようもありません。茂みから出て、公園を歩き回っていると、一昨日のおばあさんがいて、「今日は食べるかしら」とパンとソーセージをくれました。
 タロウは何も考えずにそれを食べました。気付くと横に赤犬がいて、パンとソーセージを前にして座っています。

「まあ、これも食べとけ。俺は昨日猫を食ったから三日は食わないでも平気だ。というより腹が減ってないんだな」
「本当に良いのか」
「ああ」

 タロウは赤犬の分も食べました。食べたあとに、これでもう主さんは迎えに来ないだろうと思いました。タロウは満腹になった腹で自分は野良犬になったことを理解しました。



    4

  タロウと赤犬は公園で一緒に暮らすようになりました。力ではタロウが上でしたが、野良暮らしの知恵は赤犬が上だったので、タロウは自然と赤犬に頭が下がりました。
 あるとき、エサをくれる人がいないので食べ物を探しに行くと、畑に大きなスイカがいくつも成っていたので、タロウがそれを食べようとしたら、赤犬はすぐにそれを止めました。

「おい、そこのは食うんじゃない。いいか、四角に区切った場所、真っ直ぐな線が引かれた場所は人間の場所で、俺達が何かをすると人間がすっ飛んでくる。変なことはするんじゃないぞ」

 またある時は、子供がいたので一緒に遊ぼうと近くに寄ろうとすると、赤犬はそれも止めました。

「おい、人間に近付くんじゃない。もし何かあれば、何でも犬のせいにされるぞ。人間を見たらすぐ逃げろ。いいな。近寄っても良いのはエサをくれる人間だけだ。他のに関わると保健所に連れて行かれるぞ」
「保健所ってなんだい?」
「さあ、知らねえ。ただ保健所に連れて行かれた奴等は一匹として帰ってこねえ。たぶん食われるか何かされているんだろう」

 雨の日はたいていカエルかバッタを食べました。晴れの日はエサをくれる人がいましたが、それもないときは猫を食べることもありました。タロウは初め食べる気が起きませんでしたが試しに一度食べてみると、猫は肉が柔らかくて意外においしい味がしました。メスの子猫などは姿を見かけるとよだれが垂れそうになります。
 やがて冬がきました。
 外が寒くなると、家の外に出る人も少なくなります。公園にいつも来ていたおばさんもやってきません。池にカエルはいないし、草むらにもバッタはいません。幼い猫と年老いた猫、それに頭の足りない間抜けな猫は冬になる前に全て食べてしまったので、残っているのは若くて賢い猫ばかりです。そうやすやすと食べさせてはくれません。それどころか向こうから襲ってくることもあります。

「ここから離れよう。収穫が少なくなってきた」

 赤犬が言いました。タロウはどこへとも聞きません。空腹と寒さで口を開くのも面倒でした。それに今まで赤犬の言う通りにしてどうにかなったので、今回も彼の言う通りにしていればどうにかなるだろうという心積もりでした。
 タロウと赤犬は町から離れて山へ入りました。
 山の斜面に穴を見つけると赤犬はそこを掘りました。するとそこには白いウサギが体を丸くしていました。赤犬はウサギの頭にかぶりつくと、首を振ってすぐに骨を折ってしまいました。

「こいつを食っちまおう」
「君が見つけたウサギだろう。僕が食べてもいいのか?」
「俺達は協力して冬を越さなきゃならねえ。俺が見つけることもあればお前が見つけることもある。どっちにしても二匹で分け合うんだぜ」
「そういうことか」

 タロウと赤犬はウサギの皮を残して全部食べてしまいました。ウサギは猫より美味しい物でした。骨は次の獲物が見つかるまで口にくわえてしゃぶります。 次も赤犬がウサギを採りました。今度は茶色のウサギです。 さらにその次はタロウが採りました。また茶色です。
 どちらが採るにしてもウサギは二匹で分け合って食べました。一番美味い太ももの骨も二匹で分け合います。 冬の間はウサギと猫みたいな茶色い生き物を食べました。赤犬が言うにはイタチという名前だそうです。あっという間に殺さないとお尻から臭いガスが出て、とても食べられません。 二匹は山で狩りを続けていましたが、徐々に収穫は落ちてきました。腹が鳴るのはそう珍しい事じゃありません。骨ですらしゃぶり尽くしてしまう日が何度もありました。
 タロウと赤犬は二手に分かれて獲物を探すことにしました。どちらかが獲物を採れば遠吠えで知らせることになっています。しかし、タロウはまだそれを聞いた事がないし、遠吠えをしたこともありませんでした。
 昼の日向は暖かいときもありますが冬はまだ終わりません。
 タロウと赤犬は体力を使わないように昼の明るいうちに歩いて、夜になると枯葉に体を沈めてじっとしていました。夜は寒くてとても眠れません。眠るのはいつも太陽が出てからです。
 その日は珍しく夜でも暖かい日だったので、タロウは枯葉に包まって夜の内から眠りました。
 しかし、タロウは夜中に目覚めました。寒いからではありません。何かの気配を感じたからです。草むらの向こうからガサッと枯葉を踏む音が聞こえました。気のせいではありません。足音から猫より大きいようです。
 タロウは言いました。

「誰だ?」

 すると、草むらの向こうから走り去る足音が聞こえました。
 こんな夜が何回も続きました。タロウが眠っていると必ず草むらの向こうから何かがやってくるのです。しかも昼夜の区別はありません。おかげでタロウは寝不足になりました。そうするとただでさえ採れなかった獲物が余計に採れません。


      5  

 また暖かい夜が来たのでタロウは夜から眠ることにしました。一度枯葉に体を静めたのですが、用心して木の影で眠る事にしました。今夜は幸い暖かいので何とか寒さはしのげそうです。さっき体を静めたところには後ろ足で枯葉をかけてタロウが埋まっているように見せました。
 さてタロウが眠っていると、突然物凄いうなり声と枯葉を蹴散らす騒がしい音が聞こえました。タロウはすぐに身を起こして、さっき枯葉を積み上げた場所を見るとそこには赤犬がいました。

「毎日草むらの向こうから僕の様子を伺っていたのは君だったのか」

 しかし、タロウはそこから言葉をなくしました。夜の闇の中で赤犬の目がするどく光っていたのです。 
 赤犬は一声うなるとすぐさまタロウに襲いかかってきました。

「うわっ、なにをする、やめろ」

 赤犬は襲い掛かるのをやめません。それでタロウも抵抗して赤犬の背中や腹を爪で引っ掻いたり、口で噛んでやりました。お互い傷つけあって、息が切れてきたので二匹は一度距離を取りました。

「君、あまりにしつこいぞ。それに本気で噛んでいる。ただごとじゃないぞ」

 タロウが言うと赤犬は言いました。

「俺はお前を食う」
「なんだって?」
「あと一回肉を食い繋げば春になる。そうすれば生き延びられる。だからお前を食いに来た」
「ウサギは?」
「もういない。この山にいるのは俺とお前だけ」

 赤犬はそれだけ言うと、すぐにまた飛びかかってきました。タロウも負けじと抵抗します。以前は軽々と赤犬を撃ち伏せる事ができたタロウも今は空腹で力が入りません。それに対して赤犬は元気がありました。どうやら見つけたウサギは独り占めしていたようです。
 このままでは負けてしまう。負けてしまえば食われてしまう。タロウは必死で抵抗しましたが、ついに赤犬の牙がタロウの首筋に刺さりました。タロウも首をひねって赤犬の首筋に噛み付きました。 お互いの首を噛み合っていると目の前が暗くなってきました。首には赤犬の牙と暖かい息、口には赤犬の暖かい首筋。感じるのはそれだけでしたが、それもやがて無くなりました。
 タロウが風の冷たさで目を覚ますと、まず最初に見えたのは枯葉でした。次に首の痛みで意識が戻ってきます。すぐに赤犬の事を思い出して首を回すと、タロウのすぐ横には赤犬が横たわっていました。
 タロウは彼の体を揺すってみましたが反応はありません。それに体が冷たくなっていて、石のように動かなくなっていました。赤犬は死にました。 しかし、タロウはすぐには彼を食べませんでした。そのまま三日が経ちました。
 タロウは赤犬の毛を一度なめてみると意外に美味しかったので、さらになめつづけていくうちに段々と勢いがついてきて、とうとう赤犬の体に牙を立てました。 赤犬の体は固く冷たいので、中々肉が離れません。それでもしゃぶるように削るように彼の肉を食べていくうちに、とうとうタロウは皮と骨を残して全部食べてしまいました。
 ちょうどその頃、冬の寒さが遠のいて春の暖かい風が戻ってきました。
 タロウは赤犬の太ももの骨をくわえると、山を降りて町へ向かいました。それ以来タロウは、強きものには尻尾を振り、弱きものには牙を剥きました。猫を殺し、バッタを殺し、時にはカラスを殺して食べました。これからもそれは続くことでしょう。タロウの散歩はまだまだ続きます。


 (終わり)

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