題名:猫との密約
作者:T・S・カウフィールド
いつかいつか。あるところに牛野小雪とかいう冴えない小説家がいました。
彼はとある新人賞を審査員の満場一致で受賞し、華々しく小説家としてデビューしたのは良かったのですが、あとは鳴かず飛ばず。年に四回新作を出しては今度こそヒットするようにと祈る日々を過ごしていました。
というのも小さなヒットでも良いから一本でも出さないと、とても大長編を書く余裕など無かったからです。満場一致で新人賞を取った小説は四回増刷されましたが、それ以降はどれも初版しか印刷されていません。印刷されないと印税は入ってきません。彼は初版だけの印税を頼りに生活をしていました。
ある日彼は執筆に詰まり散歩がてら近所の神社へ行きました。困った時の神頼み。(どうか次こそはヒットしますように)。彼はあまり期待せずに願い事をしました。今まで何度も願ってきた事ですが、まだひとつも叶ってはいません。
参拝が終わると彼は猫を探しました。この神社にはいつも黒ぶちの白い猫がいて、参拝したついでに撫でていくのが習慣でした。
その猫は鳥居のそばにある石碑の上で背中を干していました。
(猫や、猫。次の新作はヒットするようにしておくれ)
彼は心の中で猫に願い事をしました。
実は新人賞を取った時もこの猫に願い事をしていたのです。そのときはバカらしいと自分でも思っていましたが、まさかの受賞を果たしたので、それ以来この猫を頼りにしていました。
猫を石碑から下ろし胸に抱いて撫でていると、ふと魔が差してこのままこの猫を連れ帰ってしまおうと彼は考えました。この猫をそばに置いて執筆すれば筆が進むかもしれないという気がしたのです。
彼は期待に胸を膨らませて家に帰ると、猫を懐に抱いてさっそく執筆の続きにとりかかりました。しかし、筆は進みません。一日過ぎ、二日過ぎ、三日が経ちました。
初めは三日で神社に帰そうと考えましたが、三日も飼っているとだんだん猫が自分の猫のような気がしてきたのです。猫も初めからこの家に馴染み、一週間後にはもう神社に帰すかどうかも考えなくなくなりました。
一週間経っても執筆は一文字も進みませんでした。
頭の中に物語のイメージはあるし、今度こそヒットさせる自信もある。ただそれが言葉や文章にならないのが問題でした。
「なあ、猫。何で書けないと思う? こんなセコい小説ひとつ書けないなんて、俺には才能が無いんだろうか? もう一週間一文字も書いていない。早く一本でもヒット作を出して本当に書きたい小説を書く余裕が欲しいのになあ。こんなこと誰も信じないだろうけれど、本当に書きたい話はいつも頭の中にあるんだよ。最初から最後まで。それも世界中の人間をあっと言わせるような凄いやつが。ただそれは書けないんだ。時間と金の心の余裕があれば必ず書けるのになあ。まあ、こんなことは猫のお前に言っても仕方がないけど。猫の手も借りたいっていうけれど、その手じゃペンは持てないし、キーボードは打てない。困ったもんだ。そろそろ神社に帰るか?」
「うん、これはまさにお前にしか書けない究極のオリジナリティだ。凡百の輩には到底理解できないだろう」
もちろん彼にも理解できないものでしたが、妙に感心したところがあったのでわざわざプリントアウトして部屋の一番高い場所に貼り付けました。
「おい、かつおぶしを持ってこい」
どこかから声が響いてきました。あまりに大きな声なので牛野小雪は怯えながら辺りを見回しました。
「かつおぶしを持ってこい。俺は下だ」
彼が膝の上にいる猫を見ると猫も彼を見上げていました。
「さっきのはお前か?」
牛野小雪が猫に話しかけると
「そうだ」
と返事が返ってきました。
「なんてこった。とうとう幻聴が聞こえるようになったか。本当に現実のようにしか聞こえない。どうやら気違い一歩手前まで追い込まれたらしい。きっと次が俺の最後の作品だな。そこまで精神が持つだろうか。まだ冒頭も書き終わっていないのに」
「そんなことはいいから早くかつおぶしを持ってこい」
「分かった。そんなに言うならかつおぶしを持ってきてやる」
幻聴に返事をしてその言葉通りに動くのは彼自身おかしいとは思いましたが、執筆は進まないし他にすることもないので、声の指示にしたがって猫にかつおぶしを一袋やってみることにしました。
「本当は凄い小説を書きたいのか?」
猫がかつおぶしを全てなめ終えると猫の口は閉じたままでしたが、また声がします。声はどこから聞こえてくるのか分かりませんが、その声は頭に直接響いてくるようでした。。
「どれくらいだ」
「そうだな。世界中の人が読むぐらいかな。きっと世界的な大傑作になるよ。たぶん一生に一回しか書けない。」
「大きく出たな」
「夢だけはどれだけ膨らませても場所は取らない」
「よし、それなら手は貸せないが口は貸してやろう」
「なんだって」
「はやく机の前に座れ」
猫の指示に従って彼は机の前に座りました。すると猫がある物語を語り始めました。冒頭の一文を聞いて牛野小雪ははっとしました。それはまさに彼が書こうとして書けなかった頭の中の物語だったからです。
彼は信じられない気持ちで猫の言葉をキーボードで打ち込みました。一時間で一万字も書きました。途中で一時間の休憩を挟み、また一時間一万字を書きました。それを繰り返して、その日は六万字も書きました。時計を見ると深夜の十二時を越えて日付が変わっています。
「どうした猫。もうこれで終わりなのか? 全然まだ途中じゃないか?」
「かつおぶしを持ってこい」
「腹が減ったのか?」
「かつおぶしを持ってこい」
猫はかつおぶしとしか言いませんでした。それにかつおぶしも今日やったのが最後の1パックだったので、今日はそこでやめることにしました。
翌朝、朝一でスーパーへ買い物に行くと、かつおぶしと猫のエサと自分が食べる物を買ってきました。帰ってくると、猫にかつおぶしとエサをやり、彼もその間に自分の分を食べました。
エサとかつおぶしを食べ終えると猫はまた喋り始めました。牛野小雪も食事を途中でやめて机のパソコンへ向かいました。食べては書いてを繰り返して、深夜に三時間ほど眠り、また食べては書いてを繰り返して十二日後についに大傑作が完成しました。
彼は書きながら既にこれは推敲する必要がないと分かっていました。そして間違いなく超大ヒットになることも分かっていました。そうでなければ世の中が間違っている。そんな大傑作でした。
「やったな、猫。これは絶対に凄い小説になる。伝説になるぞ。まさか猫からこんな話が出てくるなんてな。猫に小判じゃなくて、猫から大判小判だ!」
彼は猫を抱いて部屋を踊り回ったのですが、猫は彼の手を離れて床に下りると静かにこう言ったのです。
「この事は絶対に秘密だ。もし誰かに喋ったら殺す」
「えっ」
牛野小雪は驚いて訊き返しましたが猫は返事をしませんでした。声を出してもニャーと普通の猫の鳴き声しか出てきません。
やっぱりあれは幻聴だったのかと思いましたが、猫が最後に言った『もし誰か喋ったら殺す』その言葉は決して忘れることがありませんでした。
猫の語った小説は本当に大傑作になりました。日本で二千万部売れて、世界でも十億部売れました。しかもまだ年に四回は大増刷されていて、この勢いだと40年後には地球人口より多く印刷されるそうです。
一躍時の人に登りつめた牛野小雪は出版社と良い契約を結べたので、一年に一回じっくりと長編を書ける執筆環境を得ることができました。書評家からは凡庸な作家でただの一発屋と専らの評判ですが、それは彼自身がよく分かっていました。
ただその一発があまりにも大きすぎたので人気が人気を呼んで出した本は必ずベストセラーになりました。あるとき、この人気なら白紙の本を出しても売れるのではないかと考えて『無』という題の500ページ白紙の本を出しました。帯には『この本にはすべてが書かれていない』という売り文句があるだけです。
その本は牛野小雪二番目の大ベストセラーになりました。世界的にも大ヒットして、とある大御所作家のTが「もう小説家として生きるのが馬鹿らしくなった」と断筆宣言する事件まで起こりました。
猫の語った小説を出してから十年が経ちました。その間に牛野小雪は可愛らしいお嬢さんをお嫁さんにもらって、大きい家を建てて、たくさんの子どもも儲けました。小説家としての人気は衰えるどころか年々その勢いは増すばかりです。
さて、彼の運命を変えた猫はというと新しい家を建ててから一年後に姿を消しました。ある初夏の日、ふいに姿を消したのです。暑さをしのぐために窓を開けていたので、そこから外に出たのかと始めは考えていましたが、夏の間ずっと窓を開けていても猫は帰ってきませんでした。
猫は死ぬ間際に姿を消すというので、きっと死んだに違いないと彼は考えました。
それ以来猫が消えた日を命日にして、わざわざ高知から取り寄せてきたかつおぶしを一本丸ごと猫が好きだったタンスの上に置いてやることにしました。不思議とその日は猫がタンスの上でかつおぶしをなめている夢を必ず見ました。
さらに十年経ちました。彼の人気は衰えることなくある出版社が牛野賞という新設の新人賞を創設しました。彼の名を冠した賞なので当然彼はその授賞式に出席しなければなりません。
普段は人前に姿を現さないので、これを機にマスコミがどっと押し寄せました。出版社もそれが狙いでこの賞を作りました。
彼は式が終わるとすぐに家に帰ろうとしましたが、牛野小雪の人気はその辺のベストセラー作家の比ではありません。世界中に彼の新作を待ち望んでいる熱狂的なファンがいます。授賞式が行われた会場にはそのファン達がわずかでも言葉を聞こうとビルを取り囲んでいました。何も言わずにその場を去ることなどとうていできそうにありません。
コソコソ逃げようとしているところを記者に囲まれるのも恥かしいので、彼は急遽記者会見をする事にしました。
訊かれたのはいつ新作が出るのかということや、会場に集まったファンに一言など色んなことでした。彼は賞を受賞した新人作家のことを絡めながら色々と喋りました。
一時間半も会見は続き、最後の質問になりました。
司会者がある若くて色気のある女記者を指名しました。
その記者は二十年前に書いたあの大傑作はどうやって執筆したのかという質問をしました。
場内がしんと静になります。その質問をすると彼の機嫌がとたんに悪くなるというのは記者の間だけではなくファンの間でも常識でした。
世間知らずのその記者はそうとは知らず、その質問をしてしまったのです。
しかし、彼はどういうわけかその日は機嫌を損ねることなく彼女の質問に答えました。
「こんなことを言っても信じてもらえないでしょうが、実はあの小説は猫と一緒に書いたんですよ。昔、新人作家だった頃にどうしても次の新作が書けなくて、精神が弱っていたときがあったんです。そのとき猫が急に喋りだしましてね。私は猫が喋る言葉を必死でキーボードで打ち込みました。これまた信じてもらえないかもしれませんが、それは私がどうしても書こうとして書けなかった物語でね。ちょっとびっくりしました。でも、そこまでしてくれた猫にあげたのはかつおぶしだけなんですけどね。まあ、みなさん。猫は大事にするといいですよ。どんな恩返しがあるか分かりませんからね。これは私の作り話じゃありません、本当に。ハハハハ」
牛野小雪が笑いながら首をのけぞらせると、どこからともなく宙から猫が舞い降りてきて彼の首もとに噛みつきました。彼はその猫を抱くように声も出さずに床に倒れました。
記者達が彼のもとへ駆け寄るとすでに彼は死んでいました。
彼の胸の上でも一匹の老いた猫が死んでいました。
黒ぶちの白い猫です。それはある夏の日にふいに姿を消したあの猫でした。
『もし誰かに喋ったら殺す』
牛野小雪にしてもその言葉を忘れたわけではありませんでした。
人生を変えた大事件の最後に放たれた言葉は一日たりとも忘れたわけではなく、女記者に質問された時もそれは覚えていていました。
しかし、猫がいなくなってからもう何年も経ってしまったし、あの猫も死んでいるだろう。そう考えた心の隙が秘密の暴露へと繋がってしまったのです。
エジプトでは猫は神の一員であるし、ヨーロッパでは魔女の使いとされている。日本においても猫又伝説、鍋島の猫騒動、お松権現と数えればきりがないほどだ。
猫の魔力は霊験あらたかであり、猫との約束は鉄よりも固く金よりも重い。殺すと言えばたとえ死んでも殺しにくるのである。決して破ってはならない。
(おしまい)
○2/22は猫の日と聞いたので書きました。
○2015/3/28 全面改稿
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