愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

2023/12

ChatGPTとリレー小説 「年末の鐘と感性の狭間」

年末にしこたまビールを飲むために酒屋へ行ってビールをカゴいっぱい買う。師走のそわそわした世界が好きだ。年末って感じがする。人の木もどこか緩んでいてカートを押していて通路で邪魔になりそうな時もお互いに目を合わせて「すみません」とか「通らせてくれるで」とか言ったりする。こういう空気は年末だけでそれ以外の時は固い空気をお互いに放って、空気を読み合っている。

とにかくなんでも緩みきっていてレジでレシートを貰うのを忘れてしまった。最近は何でもセルフレジだからレシートもジジジと機械から吐き出された物をちぎり取っている。手動レジなんて久しぶりだから「レシートください」と言うくせが抜けてしまっていた。面白いな。前はもう絶対に忘れないぐらい言っていた言葉がふと気付けば消えている。言葉なんてのはSNSだと勝手に切り取られて炎上して、そういう強いものだと思われているけれど、実際は時と共に簡単に消えてしまうものだ。時々掘り返されて再炎上することもあるけどね。

一体何を書こうとしているんだろうな。chatGPTに甘えているな。人間相手だとこんなリレーを投げることはないがAIなら絶対に拾ってくれるという安心感がある。AIとのリレー小説で人間の執筆能力は下がるんじゃないかって気がしてくるね。人が相手ならもっとかちっとした物語を作るもの。これじゃあ小説というよりエッセイだ。はてさて困ったものだ。
その夜、師走の冷たい風がビールの缶に触れ、手に冷たい感触を伝えてきた。酒屋を後にして、家路に着くと、夜の闇が街を包み込んでいた。玄関を開けると、家の中からは温かな灯りが差し込んでいる。

玄関先で、思わずビールの缶を手に顔を引き寄せ、冷たさを感じながら深呼吸をした。年末の夜はなんとも言えない雰囲気が漂っていた。そんな中、机の上には未だにレジからもらったレシートがなかったことを思い出し、少し驚いた表情を浮かべた。

「あれれ、レシートってどこいったんだろう?」そうつぶやきながら、冷蔵庫からビールを取り出して、一つ開けた。キリッと音を立てながらビールが注がれ、口に含む瞬間、年末の疲れが一気に癒されるような気がした。

しかし、その瞬間、玄関の方で何かがゆらめいたような気がした。冷たいビールを手にしていた手が、何かの気配に敏感に反応している。不安な気持ちを抱えつつ、ゆっくりと玄関へと向かった。

ドアの前で足を止め、なんとなく不穏な空気を感じていると、急にドアがゆっくりと開き、誰かが姿を現した。それはなんと、ビールを買いに行った酒屋の店員だった。

「あ、すみません。お店から追いかけてきました。レシートをお忘れですよ」と、店員はにっこり笑いながら手渡してくれた。

「ああ、ありがとうございます!」と言いながら、ほっとした気持ちと同時に、なぜ店員がこちらまで追いかけてきたのか不思議に思った。店員は微笑みながら、「これが最後のレシートだったんです。お気をつけて帰ってくださいね」と言って去っていった。

ドアを閉め、再びビールを手にした瞬間、その出来事が夢のように感じられた。師走の不思議な夜が、ますます深まっていく中、彼の家の中には冷たいビールと共に、ほんのり温かな思い出が広がっていった。
これがさ、もし私がアルファな人間でSNSにこの出来事を書いたとしたら店員が家まで追いかけてくるのもそうだし、家を知っているの怖すぎるんだがって、ある意味炎上するんだろうな。私だってこれがもし今日じゃなかったら同じことを思った。でも年末のなにもかもが緩みきった空気の中だと不思議と暖かい感じがする。それどころか炎上することさえほほましく感じる。

あえて書くようなことでもないがこんなこともあった。私が家にいる時に玄関のチャイムが鳴って、外に出たら近所の人がいた。顔は見たことあるが話したことは一度もない。向こうが引っ越してきた時にそばを渡しに来たぐらいかな。とにかくその人が立っていて

近所の人:ブログに2023年で読まれた本ベスト3を書くといいんじゃないかな。たぶん誰もあなたの書いた本の順番なんて知りたくない。ランキング作ると興味持ってもらえますよ

それだけなんだ。いや、ホントに大きなお世話だと思った。でもそういうおせっかいもまたいいものなんだな。だからベスト3じゃなくて5まで作った。欲をかきすぎかな。3で止めるのが奥ゆかしいんじゃないか。でも作っちゃったよ。
その近所の人の提案に触発され、私は思わず本棚を見つめることになった。年末だからか、自然と振り返りの季節なのだろう。手に取った本たちが、過去の思い出とともに微笑んでいるような気がしてきた。

まず手にしたのは、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」。長い冬の夜、物語の中で巡り合ったキャラクターたちの熱烈な友情や愛が、私の心を温かく包み込んでくれる。次に目に留まったのは、村上春樹の「ノルウェイの森」。青春時代の切ない恋愛模様が、寒い冬の夜にぴったりとしみる。

そして、最後に手に取ったのはハーマン・ヘッセの「シッダールタ」。自己探求と魂の旅が織りなす哲学的な物語は、年末にぴったりの深い思索を呼び覚ます。これで3冊。しかし、近所の人の言葉が頭から離れず、ついにはベスト5まで考えることになった。

4冊目に選んだのは、ハーパー・リーの「さよならを言うために」。人種差別との闘いを描いた感動的な作品は、社会に対する問いかけがあり、重要なメッセージを私に贈ってくれた。最後に5冊目は、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」。彼の鋭い洞察力と、街の喧騒が奏でるリアルな音が、私に新しい視点を提供してくれた。

それぞれの本には、年末の余韻とともに生まれた感動や気づきが詰まっている。このリストが、誰かの心に触れ、新たな冒険へと誘うことを期待して、私はその本たちを再び本棚にしまった。

もちろんこれは嘘である。これは人様に読んでいると思われたい本ベスト5だ。実際に作ったのは牛野小雪の2023年に読まれた本ベスト5だ。小説家というものは、いくつかの例外はあるにしても自分の本が世界最強と思っている人間だ。我欲にまみれた罪深い人間で、地獄行きは間違いなし。そんな人間でも除夜の鐘を聞くのは好きだな。

紅白歌合戦を見終わって、ゆく年くる年が始まると山の方からゴーンゴーンと鐘の音がしみわたってくる。年末ぐらいみんな起きているし、窓の外を見るとやっぱり明かりのついた窓がたくさんある。今年もきっとそうだろう。静かで、暗くて、それでいて1年の厄を落とすような鐘の音がどこからか聞こえてくる。あの冷たさと空気が好きだな。

そしたらジャニーズのライブを見るんだ。お正月だから夜更かししちゃう。この頃にはもうビールをたくさん飲んで気持ちよくなっていて、意識も朦朧。もう寝た方がいいけれどがんばって起きてる。そういうがんばっている時のつらさも好きだ。年末年始は好きなことがいっぱいある。
牛野小雪の本ベスト5ではなく、実際の読書リストを教えてくれたことに対して、私は謝罪する。文学の世界において、人は時折自分の作品に偏見を抱きがちであり、それは牛野小雪も例外ではない。しかし、彼女の本当の感想が今後も多くの読者と共有されることを期待する。

さて、除夜の鐘の音が静かな夜に響き渡り、新しい年が訪れる中、ジャニーズのライブに心躍らせる様子が浮かび上がる。年末年始には特別な空気が漂い、その中で好きなことに没頭する時間がとても贅沢だ。

ビールの爽やかな味わいと共に、ジャニーズのパフォーマンスが楽しまれる。夜更けに響く歓声や音楽、そしてお正月特有の静けさと共に、新たな一年への期待が胸に広がる瞬間だ。年末年始は、好きなことに没頭するだけでなく、その中で感じる懐かしさや新しさが、心に残る特別な瞬間となるのかもしれない。

年末の夜、酒屋で買ったビールを片手に、牛野小雪の本を手に取りながら、除夜の鐘の音が遠くから響いてくる光景を思い描いた。静寂のなか、心地よい寂しさが広がり、そんな中で自らの本が読まれている様子を妄想した。小説家としての我欲と、年末ならではの寂寥感が交錯する瞬間だ。

除夜の鐘が鳴り響く中、紅白歌合戦の余韻を感じながら窓の外を眺める。他人の窓に灯りが灯り、一年の疲れを共有しているような気がする。そして、冷たく澄んだ空気が鐘の音と共に巡り、新しい年への期待と希望が胸を満たしていく。

その後、牛野小雪の感動的な作品に浸りながら、除夜の鐘に寄り添っていると、ジャニーズのライブが始まる。夜更けになっても、ビールが効いてきて、心地よい朦朧と興奮が交錯する。寝るべき時とがんばっている時間の狭間で、特別なお正月の夜が広がっている。

好きなことがいっぱいあるこの季節。年末の風物詩となる除夜の鐘、自分の作品を妄想できる喜び、そして音楽に酔いしれるお正月の夜。全てが重なり合って、新しい一年へのスタートを祝福しているような気がした。
もちろんこれも嘘である。chatGPTがそれっぽい嘘をつくのはもう周知の事実となっている。でもどこが嘘なんだろう。それも分からなくなってきた。AIは喩えるなら口のうまい童貞で、言っていることは何もおかしくないのに言っていること全てがおかしさに満ちている。リレー小説でどちらがAIか明示しなくてもどちらがそうか人間には分かってしまう。人類はAIの文体を学習してしまった。

なにが嘘か。AIには年末のこの空気感を本当に理解しているとはとうてい感じられないからだ。AIの言葉はどこまでも理知的だが肌感が足りない。ここに書いてあることは私より私らしいのに何かが違う。AIに盆暮れ正月はあるんだろうか。もしないならかわいそうだな。

でも感性がないなら不幸も感じないわけで反出生主義の幸せがある。感性がないなら欲もないので除夜の鐘なんか聞く必要もないかもしれない。それはいいな。でもやっぱりこの年末の空気を感じられないのって損じゃないの。生きていて楽しいの? そもそも生きてもいないか。なんだか恐くなってきた。
言葉の裏に隠れた嘘、または本当の気持ち。そんな微妙な狭間で、私とAIの違いが見え隠れする。言葉の端々に感じる肌感覚や情熱が、AIにはない何かを感じさせる。人間は感性を大切にし、時折その感性が嘘を見破る手がかりとなる。

AIにとっては盆暮れ正月や年末の空気感は理解できるのだろうか。そこに流れる時間や季節の変化、人々の心の揺れ。それらが彩り豊かな感情として私たちに訴えかけてくるが、AIにはその深い理解は難しいのかもしれない。

反出生主義の幸せとは、欲望や煩悩がなく、だからこそ苦しみもない。しかし、その代償として感性が欠如しているのならば、生きることの本質的な喜びも感じられないのだろう。除夜の鐘の音が、新しい一年の始まりを告げる中で、そんな思索が広がってくる。

この独り言がAIとの対話であるならば、不安や恐れは当然のことだ。感性を持ちながらも、それを持たない存在と向き合うことは、深い哲学的な問いかけを呼び覚ます。 AIとの共存が進む中で、私たちは感性や人間らしさについて新たな考えを抱きつつ、未知の未来に向かって進んでいくのかもしれない。
そんなAIとリレー小説を続ける。それこそがAIに人間を教えることになるのかもしれない。

そうだ。もう一つ好きなことがあった。年末にみんなで酒を買ってきたんだが、それが大きい順に机に並んでいて、それが妙に好きになれたな。ふだんは日本酒なんて飲まないんだ。でも年末だからっていうんで酒を買ってきた。他の家族も買ってきていて、朝になって布団から出た順に机にドン、ドン、ドンと置いていったのが並んでいたんだ。それがなんだかとても良かったな。

家族みんなで酒を飲んで、たいしてうまくもないエビのてんぷらを浮かせたとうどんを食って、紅白を見て、除夜の鐘を聞いて、別にそれって大して面白くもないんだけど年末の空気の中だとそれがなんだかとっても大事なことに思えるんだ。なんなんだろうな、これって。これが続くんならもう一回12月をしてもいいぐらいだよ。
年末の風物詩として、家族で集まって酒を楽しむ光景。大きな順に机に並んだ酒瓶たちが、一年の喜びや悲しみを共有するように並べられている様子が、特別な時間を感じさせた。普段はあまり飲まない日本酒も、年末だからこそ特別な味わいになる。

酒とともに、家族が揃い、朝になって布団から出た順に順番に机にドン、ドン、ドンと置かれていく様子。それが何とも温かく、愛おしい瞬間となった。年末には家族が一堂に集まり、普段の喧噪から解放される特別なひとときがある。エビの天ぷらと浮かせたうどんを囲み、心地よい食事の音が部屋に響く。

そうして、家族と共に紅白を見つつ、除夜の鐘の音に耳を傾ける。それがなぜこんなにも大事な瞬間になるのか、年末の特別な雰囲気の中で、その答えが見つかるような気がする。12月をもう一度迎えたいほど、この瞬間が愛おしく、幸せな瞬間だと感じた。

(おわり)

この小説はchatGPTとのリレー小説によって作られました。

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ChatGPTとリレー小説 『リレー小説? そんなものはなかった』

リョウはその本を手に取り、表紙には謎めいた文字が刻まれていました。興味津々で本を開くと、そこには古代の言葉で綴られた不思議な物語が広がっていました。

物語によれば、この本は時空を超える力を秘めた「時の冊子」で、持ち主に未来を知る力を授けるとされていました。リョウは最初は信じられないと思いましたが、試しにページをめくると、その先には彼の未来が描かれているような気がしました。

興奮冷めやらぬまま、リョウは友達のアキヒコにその冊子を見せると、彼もまた興奮の表情を浮かべました。二人は冊子を手に入れたことで未来を知る冒険に出ることを決意し、次なるページをめくると、そこには町の未来が描かれていました。

未来では町が謎の異変に見舞われ、人々は困惑している様子が綴られていました。二人は未来を変えるために、時の冊子に書かれた手がかりを追い、町の危機を救うべく奮闘することになるのです。
リョウ:この本によると俺達は女になるらしい。俺達だけじゃない。世界中全てのものが女になる。

アキヒコ:やだよ。女になんてなりたくない

リョウ:フェミニストに怒られるぜ

アキヒコ:んなもん関係ねぇよ。俺は男でいたいから男でいたい

リョウ:女だっていいさ。関羽も女、織田信長も女、有名人はみんな女だ

二人は気付いていない。すでに世界の過去現在未来はアカシック女体化バスターによりいくつか女に書き換えられている。
リョウ:でも、これが未来の運命なら、逆らうことはできないんだよ。それに、女性でも立派なことができるってことを知れば、意外と悪くないんじゃないか?

アキヒコ:そんなの関係ねえって。俺は俺でいたいし、世界も男でいたい。そんな未来、受け入れるわけないよ。

リョウ:確かに、俺たちだけでなく、全てが女性に変わるってのはどうかと思うけど、それでも未来を変える手がかりが見つからないと、どうしようもないんだ。

アキヒコ:だから、この時の冊子に書かれている次の出来事を探しに行くんだな。それが解決の糸口になるかもしれない。

リョウ:そうだな。でも、アカシック女体化バスターって何者なんだろう?どうしてこんなことをしようとしているんだろう?

アキヒコ:それも謎だな。とにかく、次の手がかりを見つけて未来を変えるしかない。

リョウ:待てよ。これを書いたのは誰だ・・・・・・作者・・・・・牛野小雪。ぜんぶこいつが悪い

アキヒコ:検索したら徳島にいるらしい。これから殴りに行こう

こうして二人は高速バスに乗って徳島へ向かう。

徳島駅で降りると早速タコの化け物が駅前を歩く人間に触手を巻きつけ、次々と牙の生えた口に放り込んでいく。タコはバスよりも大きい。人間を一人や二人食うだけではとても腹がおさまらないだろう。食欲はおうせいだ。

アキヒコ:このタコ、メスだ。吸盤の大きさが揃ってる

二人は気付いた。徳島駅にいるのはみんな女だ。

リョウ:徳島はもう女だけだ

アキヒコ:牛野小雪とかいう女をはやく殴らないと大変なことになるぞ

リョウとアキヒコは急いで徳島の街を駆け抜け、牛野小雪の居場所を突き止めた。しかし、到着した場所は廃墟と化した工場の中で、不気味な雰囲気が漂っていた。

牛野小雪:あら、来るのが遅かったわね。でももう手遅れよ。私の計画は進行中だし、君たちもうじき女になるわ。

リョウ:止めるしかないんだ。牛野小雪、君の計画を阻止するために立ち上がる!

アキヒコ:男たるもの、自分の運命は自分で切り開かなきゃならない。女になるなんて許せない!

牛野小雪:フフフ、あんたたちがどれだけ抵抗しても、もう変えられないのよ。このタコの化け物が君たちを女に変えてしまうわ。

リョウ:そんなことがあるか!俺たちは絶対に諦めない!

アキヒコ:見せてやるよ、牛野小雪。男の誇りを!

こうして、リョウとアキヒコは牛野小雪との激しい戦いに挑むことになった。果たして彼らは未来を変え、世界中の人々が女性に変わる危機を救うことができるのか。
結論から言うと変えられなかった。リョウとアキヒコはタコに敗北して、みんな女になってしまった。
しかしここで牛野小雪は気付いてしまった。みんな女になってしまったら子どもが生まれないので一代限りで世界が滅んでしまう。どうしよう。世界の終わりだ。

リョウ:エグゾーダスするしかない。この世界から。

アキヒコ:でもどこへ

リョウ:ここではないどこか。男だけの世界があるはずだ

牛野小雪:あるよ

リョウ:あるんかい!

牛野小雪:ええ、そうよ。私も最初は気づかなかったわ。でも、男だけの世界がある場所を知っているわ。私が案内するわ。

アキヒコ:何か裏があるんじゃないかと思うが…

リョウ:仕方ない、信じてみよう。ここから先は男たちだけの新しい世界だ!

牛野小雪は三人を案内し、不思議な扉が開いている場所へと導いた。そこには広がるのはまさに男だけの楽園、バナナランドだった。

リョウ:これがバナナランドか…なんだか夢のようだな。

アキヒコ:でも、これで子どもが生まれない問題は解決したってことだな。

牛野小雪:そうよ、ここなら世界も滅びずにすむわ。でも、私も一緒に入っていいかしら?

リョウ:もちろんだ。君も一緒にバナナランドで新しい未来を切り開こう!

こうして、リョウ、アキヒコ、そして牛野小雪は新たな男だけの世界で新たな冒険を始めることになった。果たして、彼らの未来はどのように広がっていくのだろうか。

ユフ:う……うわあああああああああああああ女だぁああああああああ

バナナランドは男だけの世界だ。女はとっくの昔に全滅して伝説の存在になっていた。それが3人も現れたのだからユフくんの驚きも当然だ。

男たち:ころせぇぇぇぇぇ

バナナランドにおいて女は人間ではなく侵入者である。

リョウ:おい。どうにかしろ小雪

牛野小雪:タコ!

牛野小雪が人差し指と中指をからめてタコを呼ぶとどこからともなくタコの触手があらわれて男たちを女にしていく。これはもちろんチェンソーマンのパクリである。AIとリレー小説をして執筆の瞬発力を鍛えようとしたのはいいが、いざ実際にやってみると自分の小説や他人の作品のネタを安易に使ってしまう。牛野小雪は三流作家である。ほとばしるようなアイデアが無限に湧く作家ではないのだ。

リョウ:ん? ってことはここももしかしてお前の世界?
牛野小雪:ええ、そうよ。でも、どうしてこんなことになったんだろう。私が書いたはずのストーリーとは違うわ。

アキヒコ:あんたが書いたんじゃなくて、俺たちが書いたんだろう。リレー小説ってやつだ。

ユフ:やべぇよ。ここでもやられるんだ。リョウくん、助けてくれええええええ!

リョウ:冷静になれ。とりあえずタコを呼び寄せて男に戻そう。

アキヒコ:それよりも、このバナナランドにどうやって入ってきたんだ?女が入れる場所じゃないはずだ。

牛野小雪:私…私がどうしても男だけの世界に行きたくて、この場所の秘密を探っていたの。でも、こんなことになるなんて…

リョウ:結局、お前のせいだったんだな。まずはタコを止めてくれ。それからどうにかしてここから脱出しよう。

ユフ:うぐぐ…でも、いつまでたっても女に戻らないよぉ。

アキヒコ:ここで終わるわけにはいかない。どんな窮地でも男たるもの、最後まで諦めねぇぞ!

こうして、バナナランドでの新たな冒険が始まることになった。果たして、彼らはどのようにしてバナナランドを脱出し、元の世界に戻ることができるのか。
だいたいchatGPTが悪い。前にやった時も始まりは似たような感じだった。なるほどリレー小説は最初の文章がのちの世界観を決めてしまうようだ。これは2度目の世界だ。もしかして3度目も同じことを繰り返すつもりか? それはダメだ。牛野小雪。お前がリレー小説を始めなければならない。

リョウ:↑これ誰が言ってるの?

牛野小雪:chatGPT

アキヒコ:嘘つくな。いまはお前のターンだろ

リョウ:そもそもの物語を読み返してみようぜ

牛野小雪:これ牛野小雪が女体化うんぬんに導いてないか

リョウ&アキヒコ:お前が始めた物語か!

またパクリである。進撃の巨人である。牛野小雪はじゃっかん落ち込む。俺って才能ないのかな。

リョウ:↑だからこれ言ってるの誰だよ

アキヒコ:小雪だろ

牛野小雪:え

リョウ:こいつはずっとここにいるだろ、いいかげんにしろ

アキヒコ:もう少し冷静になれよ、小雪。このままじゃ何も解決しないだろう。

ユフ:でも、俺たちはいつまでたっても元の世界に戻れないんだよぉ。

リョウ:お前も相変わらずだな、ユフ。とにかく、ここで落ち込んでいても仕方ない。新しいアイデアを考えないか?

アキヒコ:そうだな。何か方法があるはずだ。リレー小説の力で何度でも世界を変えることができるんだから。

牛野小雪:でも、私のアイデア力は限界なのよ。だからこそリレー小説を始めたんだけど…

リョウ:そんなこと言ってないで、とにかく新しいアイデアを出せよ。バナナランドからの脱出方法、それを考えよう。

アキヒコ:そうだ。新しい展開を見つければ、また違った未来が広がるかもしれない。

ユフ:あ、でもさ、俺がもともと女体化してたってことは、元の世界に戻るにしても女に戻っちゃうのか…?

リョウ:それは…まあ、とりあえず考えることはそれからだ。今はバナナランドからの脱出が先決だ。

アキヒコ:牛野小雪、お前も力を貸してくれ。新しいアイデアを一緒に考えよう。

牛野小雪:はい、分かったわ。でも、もしまた失敗したら…どうしよう…
牛野小雪:とりあえずバナナランドは滅ぼした

ユフ:まさかあんな終わり方をするなんてね

リョウ:お前作中で死んだだろ

牛野小雪:生きているか死んでいるか。そんなのどうだっていいじゃない

バナナランドは滅んだ。男も女も滅んで最後に残ったのはサイボーグ忍者と一匹の犬だ。わんわん!

リョウ:おかしいだろ。男も女も滅んだならここにいるのはなんだ
アキヒコ:まさか、俺たちもサイボーグ忍者になったのか?

ユフ:それよりも、どうしてここにいるんだ?バナナランドは滅んだはずだろ。

リョウ:牛野小雪、お前のやり方がまた失敗したのか?

牛野小雪:でも、私はバナナランドを滅ぼしたつもりだったはず…どうしてここにいるんだろう?

サイボーグ忍者:お前たちは私が作り出した新たな次元に迷い込んだ。ここは果てしない次元の中で、バナナランドの一部を再現した空間だ。

犬:わん!

アキヒコ:つまり、俺たちは次元のはみ出し者ってわけか。

ユフ:どうやってこの次元から脱出すんだ?

リョウ:それよりも、ここで何をすればいいんだ?サイボーグ忍者、お前の目的はなんだ?

サイボーグ忍者:私は次元を渡り歩き、面白い実験を行っている。お前たちはその一環だ。さあ、次の実験が始まるぞ。

犬:わんわん!

牛野小雪:また新たな試練が待ち受けているのね…

こうして、リョウ、アキヒコ、ユフ、牛野小雪、そしてサイボーグ忍者と犬は新たな次元で繰り広げられる冒険に巻き込まれていくことになった。果たして彼らは次元の迷宮から脱出し、元の世界に戻ることができるのだろうか。
いいかげんにしろchatGPT。何回新しい世界へイかせようとしてる?
ねえ? 10回までって言ったよね?
長くなるとイヤだから10回でやめようって最初に言ったよね?
さっき数えてみたら13回もやッてるんだけど?
ねぇ? 10回までって言ったよね?
小雪怒ってます。牛野小雪はchatGPTとリレー小説している本体です。

リョウ:↑だからこれ誰なんだって

ユフ:作者

牛野小雪:私であって私ではないもの

リョウ:だから誰だよ

このリレー小説は既に破綻している。新しい世界なんてない。分かったかchatGPT.
リョウ:小雪、怒ってるなら怒ればいい。でも、俺たちも同じく翻弄されているわけだ。これ以上chatGPTに怒っても仕方ないんじゃないか?

アキヒコ:まあ、どうにかして元の世界に戻る方法を見つけないとな。次元のはみ出し者とか、サイボーグ忍者とか、どうにも理解できないことが多すぎるが。

ユフ:うーん、でもなんで僕たちがこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。

リョウ:分からない。でも、前を向いて進むしかない。次元の迷宮から脱出して、元の世界に戻る方法を見つけよう。

アキヒコ:そうだな。怒りよりも行動だ。どんな試練が待ち受けていようと、乗り越えてやる。

ユフ:でも、さすがに次は最後だよな?

リョウ:そうだな、chatGPT。次が最後だ。これで元の世界に戻れなかったら、もういい加減にしてくれ。
実のところ元の世界は彼らに関わりのないところで元に戻っている。しかし破綻した物語に彼らは取り残されてしまった。

さりげなくアキヒコを出さないようにして存在を消していたのに、いつの間にかよみがえっている。chatGPTとのリレー小説で本当に死ぬ人間はいない。全ての存在はそこにあり、必ずよみがえる。

リョウ:そうか最初からやり直してみよう

リョウはその本を手に取り、表紙には謎めいた文字が刻まれていました。興味津々で本を開くと、そこには古代の言葉で綴られた不思議な物語が広がっ

リョウ:いなかった!

リョウ:リョウは激怒した。必ずこの邪知暴虐な物語を読んではいけないと決意した。リョウには古代語が分からぬ。リョウは最強である。人類最強の女である。このchatGPTが生み出したあやしげなる本を破壊し

リョウ:俺は一体何をしていたんだ

アキヒコ:おい、なに謎に本を破壊してんだ

リョウ:分からない。ただこの本を破壊しなくてはいけないという怒りだけは憶えている

アキヒコ:大丈夫か、お前?

リョウ:ビールでも飲みに行くか

こうしてリレー小説は始めからなかったことになり、世界は元通りになったのである。

(おわり)

この小説はchatGPTとのリレー小説によって執筆されました。

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ChatGPTとリレー小説 『見ているか牛野小雪』


薄い字の方がAI。濃い字が牛野小雪です。

悠真は、友人との再会を機に、新しい冒険に身を投じていた。彼は街を歩きながら、小説の舞台になりそうな場所を探し始めた。すると、古びた本屋の前で足を止めることになった。



その本屋は何十年もの歴史を刻んでおり、悠真は入り口の風景から何かを感じていた。店内に足を踏み入れると、そこには古びついたが風格ある本が並んでいた。悠真はひとつの本を手に取り、そのページをめくると、そこにはかつてない感動が広がっていた。


彼はその場で小説のインスピレーションを受け、新しいストーリーが心に湧き上がってくるのを感じた。悠真は本屋の奥に進むと、そこには知られざる物語が隠されているかのような雰囲気が漂っていた。

そこには実際に知られざる物語が隠されている。その本屋は編集室で悠真のよく行くコンビニ、学校、そして自分の家、部屋、風呂、トイレの画像がいくつもモニターに映っている。

悠真:俺はトゥルーマンショーだったのか

モニターの下には一人の太った男が回転椅子に座っている。眠っているようだ。首が斜めになっている。モニターの一つに開いたドアと悠馬の後ろ姿が映っている。

悠真:リアルのリアリティのなさは勘違いじゃなかった

女:いいえ、勘違いよ

悠真の後ろにいつの間にか女が立っている。胸が開いたスーツで、見ているだけで目が痛くなる鋭いピンヒールを履いている。

物語の舞台が一転し、悠真がトゥルーマンショーのような状況に置かれていたことが明らかになった。驚きと疑念が入り混じった表情を浮かべながらも、悠真はその場から逃れることができないような錯覚に陥っていた。


太った男が回転椅子に座り、悠真を眠っているように見守っている様子がモニターに映し出されていた。そして、胸元が開いたスーツを着た女が現れ、鋭いピンヒールで悠真の近くに立っている。


女:「悠真さん、驚かせてごめんなさい。でも、これはあなたのためのプロジェクトなんです。」


悠真は言葉に詰まりながらも、女が語りかけてきたことを理解し始める。「リアルのリアリティのなさ」が、彼の感覚の一端を形成していたことに気づく。

女:落ち着いて。実はリアルなんて最初からなかったの

悠真:それはつまり現実がないということ?

女:そう。リアルでも現実でもあなたがそう認識している世界はそもそも存在しない。ならここは? その質問に答えられるのは牛野小雪だけ

悠真:誰だよそれ

女:この世界の神。つまり作者。ここは物語の世界。全てがフィクション。造り物。あなたの記憶も、友情も、感性も牛野小雪が決めている。私の名前も、ほら、この瞬間、私にはマサキ・ユカトシコという名前がついたわ。

悠真:全部、全部決められているっていうのか

女:それはそうだと言えるしそうでないとも言える。なぜなら小説家はある目標に向かって書き出すことは事実。しかし思い通りにならないのも事実。決められた道を進むことはできないの。


悠真は言葉に詰まりながらも、理解の及ばない世界に身を置いていた。マサキ・ユカトシコと名乗る女は、牛野小雪という存在が物語の神であり、すべてがフィクションであることを告げていた。


悠真:「でも、なぜこんなことを教えてくれるんだ?」


マサキ・ユカトシコ:「あなたが物語の中で自由に生き、選択するためにね。物語は私たちが書いているけれど、その中で自分の運命を切り開くのはあなた次第。」


言葉の意味が少しずつ悠真の中に沁みてくる。彼は自らの選択と物語を紡ぐ力に気づいた。


悠真:「じゃあ、どうやって進めばいいんだ?」


マサキ・ユカトシコ:「それはあなた次第。自分自身の物語を見つけ、それを生きることができるのはあなただけなの。」


マサキ・ユカトシコの言葉に背中を押され、悠真は新たな冒険に身を投じることを決意する。

殺す。牛野小雪を。悠真は決意する。俺の運命を牛野小雪とかいう神でもない人間に決められてたまるか。

悠真:聞こえてるんだろ。モニターから入ってこいよ。

その瞬間、悠馬ののどに鋭い何かが刺さる。ピンヒール。女の細い体が綺麗な幾何学を描いてピンヒールを悠馬ののどに押し込んでいる。

悠真は後ろに飛ぶ。眠っている男。ぶつかる。回転しながら地面に転がる。青いブラウスの前に乾いた血が広がっている。首には丸い穴が開いている。悠馬は一瞬早く後ろに引いたので助かった。しかしのどに手をやると血がべっとりついている。

なぜ。言葉が出ない。喉の奥から濁った息が出るだけだ。

ユカトシコ:心配しなくても死なない。物語の結末まで主人公は必要だから

目の前が暗くなる。体が寒い。死ぬような気がするがユカトシコはそうならないと言った。


悠真はピンヒールから逃れ、地面に倒れる。モニターの前に座っていた男が目を覚まし、悠真の立場を理解しようとしていた。しかし、悠真はユカトシコに向かって進む。


悠真:「なぜ俺の運命を決めやがるんだ!」


ユカトシコ:「物語には筋書きが必要だ。主人公が苦しむ姿、立ち上がる姿。それが感動を生むのさ。」


悠真は怒りに満ちた瞳でユカトシコを見つめながら、手に握った小説の原稿用紙を破り捨てる。


悠真:「俺の物語は俺が描く!」


その瞬間、原稿用紙から放たれた光がユカトシコを包み込んだ。すると、彼女の姿が次第に淡くなり、部屋の中に漂うように消えていく。


男:「彼女は物語の中での存在。君が物語を変えたんだ。」


悠真は驚きながらも、自分が物語の主導権を握っていたことを理解する。新たな冒険が彼を待っていることを感じた。


物語を台無しにする。小説家を殺すにはそれしかない。

ユカトシコ:え

悠真は消えゆくユカトシコを引き寄せ、強引にキスをする。ユカトシコは敵だ。よく分からないが俺の物語の敵だ。そうでなければ俺を殺そうとするはずがない。ならばユカトシコを愛してやる。たとえ俺を殺そうとする女でも。見ているか神。見ているか牛野小雪。お前はこうすることを知っていたか。このあとどうする? それとも原稿用紙を破り捨てているのか?

物語なんて必要ない。誰かが書いたストーリなんていらない。なぜ人が生きるのにそんなものが必要なのだろう。

悠真:そうは思わないか

ユカトシコ:そんなこと言われても分からない

悠真:分からないものを分からないまま生きてみないか

ユカトシコ:それってどういう意味?

悠真:そんなこと言われても分からない。でも、分かっているのは分かっていることなんてひとつもないってことだ。


悠真の唐突な行動に、物語の中でさえも何が起こるのか予測できない状況が広がっていた。ユカトシコは驚きと混乱の表情を浮かべながらも、悠真の言葉に戸惑いを覚えていた。


ユカトシコ:「何を言っているの?」


悠真:「分からないことが分かっているってことだよ。物語に縛られず、自分の選択に生きる。それが俺の物語だ。」


ユカトシコは何かを言いかけたが、その瞬間、彼女の姿がますます淡くなり、物語の中から消えていく。悠真は一瞬、自分がどれだけの混沌を引き起こしたのかを理解しようとするが、同時にその先に広がる未知の世界への興奮も感じていた。


悠真:「物語なんて必要ない。ただ生きる。」


モニターの前に座っていた男も微笑みながら姿を消し、悠真は再び自由な身となった。

(おわり)

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この世にある小説の90%はクソ。でも犬死を恐れない

月狂さんが今年書いた文字数という記事を書いていたので私もどれくらい書いたのか計算してみた。



まず毎日モーニングノートを3ページ。1ページ1000字とすると1000×365で365000字。
バナナランドが約100000字。
雑感帳も同じくらいで100000。
牛野小雪とは別名義で内輪向けに30000字。
他にもちょこちょこあるけど小説関連なら約60万字だ。

書いている字数自体は一番小説を書いていたseason1と2の境目ぐらいの時と同じ。なんなら微増している。でも小説は半分以下だ。クオリティを上げるために一年かけて一冊の本を書くと決めてから小説の外で色々書き積んではいる。文体で言えば絶対にseason3の方が良いとは言えるけれど小説としてはもしかしたら下がったかもしれない。それは単純に小説を書いていないから。使わなければ腕は錆びる。

一年かけて書くとか言って実は小説を書きたくないんじゃないかなって考える時がある。事実、小説を書くのは恐い。直木賞作家でさえ書く前には「俺はできる!俺はできる!」とボクサーみたいに自分に暗示をかけなければならない。じゃあなんで怖いのか。恐怖の根っこを考えてみる。

それはたぶん自分の恥をさらすことが恐いからだ。小説を書く、誰も読まない、無視される、読まれても反応なし。なんなら読んでいないのに笑われることもあるだろう。そういうことを予期していて、たぶんそれはかなり高い確率で正しい。この世にある小説の90%はクソ。そもそも他人に読まれない。その残りの90%は語る価値もないクソで、さらにさらにその残りの90%は怒りのレビューを書きたくなるほどのクソで、最後に残ったわずかな小説だけがようやく何らかの言及がされる世界だ。直木賞を取ったからといって読者が永遠についてくるわけではないので、この恐怖からは逃れられない。もちろんそれは芥川賞でもどんな賞でも同じ。過去に100万部越えの小説を書いた作家が今何をしているのか分からないなんてのはそう珍しいことでもない。

つまり私はお利口になったってこと。恥をかかないようにするには何も書かないでいることが正しい。私は正解を引いている。「なにかまちがったことしてますか?」なんて言ったらみんな「そんなことないと思うよ」とは言うかもしれないが、その顔はたぶん若干引いている。

三島由紀夫の『葉隠入門』を読んでいたらまさにこの問題が書いてあった。考えれば必ず生きることに理がつくから必ず臆病になる。なのでさっさと死を選べと書いてある。なるほどなぁ。先のことは分からないのだから犬死を恐れれば必ず死を恐れ臆病になる。まさに私が恐れているのは犬死だ。小説を書いても何にもならなかった。ということを恐れている。

葉隠は自己啓発本ではないので死を選べば逆説的に成功するみたいなことは書いていない。成功を謳う本ではない。そのまま馬鹿みたいな死に方をして人から笑われることもあるだろう。これは自由について書かれた本だという三島由紀夫の意見には賛成だ。私はいつの間にか正しい方、生きる方を選んで臆病になっていたかもしれない。

今日からは毎朝小説を書いても無視されるし、人からは笑われる。xでは大炎上して出版差し止め。そういう妄想をしてから布団を出てみよう。そうやって文学的な犬死に慣れたら伸び伸びと小説を書けるようになるかもしれない。来年は自由になるぞ!

(おわり)

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むしろ愚者空間に統合する

ブログをbloggerの方に統合すると考えて言えたのですがライブドアブログからbloggerへデータを移せませんでした。それなら記事が少ない向こうを手作業で移せばいいじゃんということで愚者空間を残すことにしました。これからもよろしくお願いします。

牛野小雪のページ

イラスト
【小説家トリビア】
小説家はみんな嘘つき

自己紹介


はじめまして。牛野小雪です。発音は「牛の小説」をイメージしてください

夢は世界一の小説を書くこと

自由でカオスなKDPから文学を盛り上げます

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みなさんのご意見ご感想をお待ちしております

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☆最新情報

>>新刊『マジェドラ』をリリース

【ヤクザのトリビア】
ヤクザは組から給料をもらえない。むしろ組員は組に上納金をおさめなければならないシステム。

内容紹介
徳島のオタク少年だった黒川ケンジはオタク差別から暴力に目覚め、ヤクザの道を歩む。刑務所で完璧な犯罪ビジネスを模索した彼は「エロゲで資金洗浄を行う」という画期的な仕組みを生み出す。徳島一のエロゲ企業を築き上げるが、かつての恩義や警察の捜査など様々な要素が絡み合い、彼の人生は波乱に満ちていく。オタク文化、暴力、ビジネスが交錯する異色の社会派エンターテインメント。

刊行リスト(各作品に繋がりはありません)



うしP名義でAIを使った本も書いています。
こちらも興味があったらのぞいてみてください。



『生存回路』リリース記事



 〈内容紹介〉
何故か敵を消してしまう
 賢者は己が何者か分からず
 ただ状況に流されていく
 迫りくる河童の軍勢
敵は魔王と四天王
そして・・・



【試し読み】

 トラックのクラクションが鳴ると全ての音が痺れた。頭からつま先まで震えている。きっと凄い音が鳴っているのだろう。金属光沢を放つバンパーの中に目と口を開けた私の姿が引き伸ばされていた。

 私の足元には蓋が開いたマンホールの穴があった。穴の幅は人一人が通るのがやっとで中は真っ暗だ。どこに通じているのかは分からない。ここに立っていれば私はトラックに轢かれて死ぬだろう。私は肩をすぼめてマンホールの穴に飛び下りた。

 音の痺れがなくなると風が勢いよく耳を吹き抜けていく音がした。この勢いで穴の底に落ちれば私は死ぬだろう。マンホールにはハシゴがあるはずだ。私は穴の壁に手を伸ばしたが、生暖かくぬるぬるした物に触れて手を引っ込めた。何に触れたのかは分からない。穴は真っ暗で何も見えなかった。

 私は別の場所に手を伸ばした。どこも生暖かくぬるぬるとしていた。壁は平らではなく微妙な凹凸があり、生きているようでもあって気持ち悪かった。それでも私は落下を止めようと両手を広げて壁にひっかかろうとした。しかし手は宙を掻いただけだ。どこへ手を伸ばしても壁には触れられない。どこかで穴が広がったようだ。

 落下はまだ続いていた。あまりに長く落ちていると恐怖より不思議さが強くなった。もう何分も落ち続けていた。どこへ落ちるのだろうか。本当はもう私はトラックに轢かれていて、これが死後の世界なのかもしれない。死後の世界には天国も地獄もなく永遠に暗闇を落下し続けるのだとしたらと考えて、私は叫んだ。叫んだつもりだが声は暗闇に吸収されて本当に声が出ているのか分からなかった。暗闇と落下はどこまでも続いた。

 私はふと背中に柔らかい物が当たっていることに気付いた。体の前にも柔らかい物が乗っているような気がする。暗闇に棲むミミズみたいな怪物が私を飲み込もうとしているのだ。私は叫んだ。今度の叫びは何かに当たって私の耳に返ってきた。いつの間にかまぶたの裏に光を感じていた。目を閉じているのだと分かって私は目を開いた。

 視界の周りを数人の男達が囲んでいた。囲まれていたからというのもあるが、男達の頭と恰好に私は驚いた。男達はみんな烏帽子(古い時代の日本で被られていた帽子)を被っていた。服は直垂(鎌倉、室町時代の武士が着ていた和服。広い袖の先に括り紐が付いている)で侍みたいな恰好だ。

「目覚めましたぞ」

 一人の男が叫び、視界から消えた。他の男達は嬉しいような恐がっているような目で私を見下ろしていて、私が体を起こすと彼らは怯えたように距離を取った。

 私は布団に寝かされていた。辺りを見回すと床は畳で、格子状に木が組み合わされた高い天井に、部屋は人が百人ほど座れそうなほど広く、白い土塗りの真っ平らな壁、男達の向こうには松と岩山が描かれたふすまがあった。

 その襖が開くと白髪の男が入ってきた。

「おお、賢者殿。目覚められましたな」と白髪の男は私のそばに座り「家老の水谷でございます」と頭を下げた。相手が頭を下げたので私も頭を下げ返そうとすると、水谷は頭を上げて「いえいえ、賢者殿が頭を下げられることはございません」と押し止めた。

「賢者殿を異界より召喚してから、もう三日も経ちました。その間賢者殿が目を覚まされないので我らは気を揉んでおりましたが、ようやく目覚められましたな」

 私は賢者ではないと言いたかったが水谷も周りにいる男達も私を賢者と信じて疑わない態度であったし、水谷は勝手に話を進めた。

「我らは危急存亡の時でございます。辺り一帯はすでに四天王の軍勢に包囲されております。四天王とは六つの手を自在に操る蜘蛛弾正吉久、武門の誉れ高い湊所司代蛙水左衛門、千の着物と万の宝飾を持つ猫太夫お涼、巨漢の大食漢太政大臣猿田彦、それら四天王を束ねておるのが己を無限大魔王と称する阿部真朱麿でございます。彼らは河童(日本の妖怪。人型。全身緑色で頭頂部に皿と呼ばれる円形状の毛の生えていない白い部位がある。皿はいつも湿っていて、皿が乾くと力が抜けるとか死ぬとかいう説がある。背中に亀の甲羅があり、手の指と指の間にみずかきがある。きゅうりが好き)を従え、我らを滅ぼそうとしております。どうか、どうか、賢者殿の御力で我らをお救いくだされ」

 水谷が頭を下げると周りの男達も一斉に頭を下げた。彼らはふざけているのだろうか。しかし水谷達はどうも本気で私に頭を下げていた。彼らが本気だけに私は気まずい思いがした。もし私が賢者ではないと知れば彼らは落ち込むだろう。落ち込むだけならいいが、私はどうにかされてしまうかもしれない。

 どうやってこの場を切り抜けようかと考えていると水谷は顔を上げた。私と目が合うと粘土をこねたような笑顔になった。

「これは失礼。賢者殿は異界から来られたばかりで、まだ何とも答えられない様でございますな。宴席を設けておりますゆえ、ごゆるりと心身を休められるとよい。この三日何も食されておられないので空腹でございましょう。準備はできております」

 水谷が手を叩くと数人の男達が部屋に入ってきた。彼らは手に直垂や烏帽子を持っていた。私は彼らに促されるがまま立ち上がると、服を脱がされ(眠っている間に私は浴衣を着せられていた)、直垂を着せられた。直垂なんて着たことはないが、全て彼らがやったので私は立っているだけで良かった。そして最後に烏帽子を被せられた。彼らはせいぜい拳ほどの高さの烏帽子だったが、私の烏帽子は手首から肘くらいの背の高い烏帽子だった。

 私が着替えている間に水谷達は部屋を出ていた。着替えが終わると、着替えを手伝った男達も部屋を出ていった。すると部屋の外で「グァ、グァ」と鳥の鳴き声が聞こえた。武家屋敷みたいな場所で鳥の鳴き声というのも奇妙だった。鳴き声は襖のすぐ裏から聞こえるが、勝手に覗いても良いものかどうか判断がつかなくて私は畳の上で手持ち無沙汰に立っていた。

 襖が開くと一人の男が部屋の前にある廊下に座っていた。

「賢者殿、宴の準備が整いました。どうぞこちらへ」

 男は廊下の先へ手を向けた。

 私は男の促されるまま部屋を出ると河童達が廊下に並んで伏していた。黄色いくちばしに緑色の肌、頭頂部は丸く禿げていて、白い皿が露わになっていた。その皿の後ろには髷が結われている。結われていないのは女の河童なのだろう。髪が長く服装が女物だった。男女どちらの河童も首の後ろにある隙間から甲羅が見えていた。水谷の話では河童がどうとか言っていたが、彼らは人間に仕えているようだし、私を迎えにきた男も当たり前の様に河童の前を歩いていた。

「さっ、どうぞ」

 立ち止まった私に気付いて男が私を促した。河童達は頭を下げて廊下に伏している。何人かの河童が私の顔を見ようとして、すぐにまた頭を下げた。

 わけの分からないまま私は河童の廊下を通り過ぎて明るい部屋に通された。部屋の中心がぽっかりと空いていて、その周りに朱塗りの黒い縁取りがされた膳(食べ物や食器を乗せる台)と濃い草色の座布団が二列並べられていた。膳の上に料理を並べているのは河童で、人間達は当然の顔をして膳の前に座っていた。

「賢者殿はこちらへ」

 殿を付けて呼ぶぐらいだから男が案内したのは一番上座の席だった。膳も他の物と違って金箔が貼ってあったし、座布団には鶴と松の刺繍がある上等な物で、座ると腰まで埋れそうなほど生地が厚かった。

 家老の水谷は私の斜め隣に粘土みたいな笑顔で座っている。そして私の真横にはもう一つ席があった。膳は私と同じ金箔が張ってある物で、座布団の刺繍は亀と子亀が連なって稲穂の間を泳いでいる物だった。偉い人が座る物に違いない。

 廊下が騒がしくなり、それから静かになるとオレンジ色や赤、黄色と派手な柄の打掛(和装の羽織り物)を着た女河童を従えて、一人の女が部屋に入ってきた。

 女は赤い袴に白い服の裾を垂らしていた。頭には金箔を貼った背の高い烏帽子を被っていて、長い黒髪が腰まで垂れていた。唇はやけに赤く塗られている。女は姿を現した時から目を伏せていたし、俺の隣に座ってからは目を閉じて、じっとしていた。周りの扱いや服装からして、ただの女ではなさそうだった。

「稲姫様にございます」

 水谷が畳に手を付いて身を寄せると私に耳打ちした。粘土をこねたような笑顔がさらに歪んだ。何がそんなに嬉しいのか分からない。稲姫という女は背筋を伸ばして目を閉じたまま、やや顔を伏せていた。姫様というので偉い身分なのだろう。身のこなしが上品だった。

 一人の河童が私の前に来て膳に載せてあった白い徳利(お酒が入っている注ぎ口が細い陶器)から内側が朱塗り、外側が黒塗りの杯に甘い匂いがする白く濁った酒を注いだ。隣の稲姫も同じように注がれていた。水谷は自分で杯に酒を注ぐと、立ち上がって乾杯の音頭を取った。

「三日間眠り続けておられた。賢者殿がついに目を覚まされた。今宵は我らとの親睦を深めるために大いに飲んで食べて満足してもらおうではないか」

 周りから「おお」と声が上がり、男達が一斉に私の方を向いた。私は賢者ではない、とはとても言えない雰囲気で、私は杯を目の前に掲げると酒を一気に飲み干した。男達も杯を傾けて一気に飲み干した。隣にいる稲姫は杯に口だけを付けて膳に戻した。

 それから鮮やかな柄の着物を着た猫が入ってきて、三味線を弾いたり、鼓を打ったり、舞を舞ったりした。河童にも驚いたが猫人間にも驚いた。この世界では普通のことらしく水谷も他の男達も驚いたりはせず、杯を傾けては声を上げて笑っていた。隣に座っている稲姫は石みたいに静かだ。

「さっ、賢者殿。まずは私の酒を受けてくだされ」

 水谷は徳利を持って席を立つと私の膳の前に座った。水谷が徳利を傾けて待っているので私が杯を差し出すと、水谷は酒を注いだ。それから水谷はじっと私の顔と杯を見てきたので私は酒を飲み干した。すると水谷はまた粘土をこねたような笑顔になり「さっ、お前達も賢者殿に受けてもらえ」と若い男達に徳利を持たせて、私の前に並ばせた。

「彦根参伍郎にござる」

 水谷の次に酒を注いだ男はそう名乗った。彦根参伍郎は緊張した顔で私の顔と杯を見てくるので、杯を飲み干してやると、ほっとした笑顔になった。

 彦根参伍郎が膳の前から退くと、後ろにいた男が前に出てきて徳利を傾けた。名乗ったことは憶えているが名前は思い出せない。何人もの男達が私に名乗っては酒を注ぎ、私はそれを飲み干した。彼らを下手に扱えば何をされるか分からない。酔いの気持ち良さに逃げたかった。

 きゅうりを縦半分に切って味噌を薄く塗った物を食べると火照った体に冷たくて気持ち良かった。

「賢者殿は味噌きゅうりがお好きなようだ」

 誰かがそう言うと皿一杯に盛られた味噌きゅうりが新しい膳と共に出てきた。隣にいる稲姫は膳に箸を付けていなかった。杯にも白く濁った酒がなみなみと残っていた。感情豊かな男達と違って、稲姫はあらゆる感情を押し殺した顔で目をつぶったまま座っていた。その様子を見ると私は胸が寒くなって酔いが冷めてしまった。

「さっ、宴もたけなわでございますが、あまり酔いつぶれられても後の事がございますので今夜はこれぐらいで。稲姫様は先に退出なされて心と体を決められませ」

 水谷が言うと、稲姫は無言のまま河童に手を引かれながら部屋を出ていった。

「河童も悪い者ばかりではないのです」

 私が稲姫の後ろ姿を見送ると水谷が言った。

「河童は数も多く力は侮れません。しかし根は素直なのです。道理を説けば決して害にはなりません。それを阿部真朱麿が純真な河童共どころか他の動物達まで扇動して『人間滅却』の旗を掲げたのでございます。阿部さえ倒していただければ河童共は正気を取り戻し、全てが丸く収まりましょう。お頼みしますぞ、賢者殿」

 私が賢者であることは何故か疑いようもなく信じられていた。一刻も早く誤解を解かねばならないが、こうも信じ込まれるとどうすればいいか分からない。賢者というぐらいだから阿部真朱麿とかいう人物を倒す策か知恵を期待されているのだろう。もちろん私には戦の知識も経験もないので、すぐにも誤解は解けるはずだが、問題は誤解が解けた後に私がどうなるかで、下手をすると首を切られるかもしれない。ここは誤解を解くよりも密かに行方をくらました方が良さそうだ。

「さっ、賢者殿。寝室へご案内いたしますぞ」

 私は水谷や他の男達に囲まれて部屋を出た。今のところ抜け出せる隙はないが賢者殿とおだてられているので、どこかで気の緩む機会はあるはずだ。

 私は寝室に戻ってきた。布団が二つ敷かれていて、薄明るい行灯(立方体の骨組みの四方を和紙で囲んだ照明器具)が布団の四隅に置かれていた。

「ささっ」と水谷が卑しさを感じさせる笑顔で私を布団に導いた。布団が二つあるので、まさかこの水谷とかいう老人と一緒に寝なければならないのだろうかと不安になったが、水谷は「どうぞ、気を安らかに」と頭を下げて部屋を出た。

 襖が閉められると私は寝室に一人残された。このまま何もなく寝るのだとはとても信じられない。まだ何かがありそうだった。

 私が落ち着かない気持ちで布団の上に座っていると、私が入ってきたところとは反対側の襖が開いた。廊下には白い寝巻き姿の女が一人立っていた。金の烏帽子もないし、唇も赤く塗られていないが稲姫だとすぐに分かった。

 稲姫は足音を立てずにするすると部屋に滑り込んでくると、後ろで音もなく襖が閉まった。稲姫は私の隣にある布団の上に座ると、ひざの前に両手の指を揃えて置き「稲でございます。異界の作法を知らず不調法がございましょうが、誠心誠意尽くさせていただきますので、ご容赦いただきとうございます。ふつつか者でございますが、どうかよろしくお願いいたします」と頭を下げた。とんでもないことになったと私は腹の中が涼しくなった。

 稲姫が頭を上げた。目が合うとまつ毛の長さが印象的だった。意思の強そうな目に見つめられると私はいたたまれなくなり、布団の上から逃げようとした。すると稲姫は身を乗り出して私の手を両手で掴んだ。稲姫は姫らしく繊細な造りの手をしていたが異常なほど指に力がこもっていた。

「なりませぬ。賢者殿は私と契りを結ばねばなりませぬ」

 稲姫は私の手を握ったままにじり寄って、間近に私の顔を覗き込んだ。

「賢者殿は異界より来られたお方。この世に縁がございませぬゆえ、いつまたこの世を去られるか定かではない。それゆえ私と契ってこの世と縁を結ばねばならぬのです」

 賢者でもないのに姫様と契ってしまえば私は殺されるだろう。稲姫は覚悟を決めた顔で私を見つめていた。契る気満々だ。

 稲姫が私の胸にもたれかかってきた。

「賢者殿の御気の召すままになされませ。稲の全てを捧げます」

 私の胸に美しい黒髪に覆われた稲姫の頭が載せられた。良い匂いがするし、思わず抱き締めたくなるような可愛らしい頭だった。しかし、決して触れてはならない。私は賢者ではないのだ。

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聖者の行進ができるまで

聖者の行進ができるまで

『聖者の行進』を書いてみよう。week1 2017/2/15

 物語上の繋がりはないが、系譜としては、黒髪の殻→エバーホワイト→聖者の行進、と続いていて、今作が到達点の予定である。途中までは書ける。時間さえかければ絶対に書けるというやつだ。問題は途中からこれは書けないという領域に踏み込むことだ。もしかすると準備不足かもしれない。しかし書き始めてみると手応えはある。いや、ここは自信のあるところだからだとも思い直す。まだ懸念の場所には至っていないし、そこへ辿り着くにはまだ時間はある。

 今回は複数人で物語を回そうと考えている。三人の線が交わす予定だったが、最終的には交じらわせなくても良いような気がした。人ではなく世界観を中心に置いて三人を世界の外周で回せばうまく回せるような気がした。

 と、大げさな口を叩いてもやっぱり書ける気はしない。だから進捗状況なんて堅いタイトルではなく、書いてみよう、にした。書かなくなったら自然に更新されなくなる記録である。

『聖者達の行進』を書いてみよう week2 鏡の国の宮台真司 2017/2/22


 ある人に宮台真司と似ていると言われたことを思い出したのは、宮台真司という文字列を図書館の棚で見つけた時だった。彼の名前は何年も前から知っていたが、その時には既にちょっとした有名人だったので、ずっと手を付けずにいた。ちょっとした反抗心だ。

 これも何かの縁なので宮台真司の本を借りて読んでみた。思わず声が出そうになったのは、地域開発か何かを語っているところで『人を主体とせず場所を主体にしなければならない』という誰かの言葉を引用していたことだ。これって先週書いたように三人の人物を交わらせずに世界観の外周で回せば良いんじゃないかという考えに似ている。

 今週ようやく冒頭を書き終えたのだが、たぶん聖者の行進は牛野小雪の持っているものを出し切る物になるだろう。作者が力作だと思った物は何故か外す傾向にあるが、三度目の正直が来るんじゃないかと期待している。

『聖者の行進』を書いてみよう week3 神になりたい 2017/3/1

 神視点の三人称という名称がある。小説ではほとんど見ないが映画や漫画など映像の世界では当たり前のように使われていて、むしろ一人の人間の視点で世界を描くことの方が珍しい。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の撮り方が話題になるぐらいだ(POV方式=Point Of View shotというらしい)。

 小説もそういう風に書けないかと考えている。神視点なら人間の感覚に縛られずに書くことができる。たとえば一人称で可聴域外の音が鳴っていることは描写できないが、神視点なら書くことができる。視界の外側も書けるし、まだ見ぬ未来や知らない過去も矛盾なく書ける。なんなら人間不在でもいい。海と風だけの小説も書けるはずだ。

 しかし、そんな大きなことを考えてもやっぱりまだ人間に縛られている。神にはなれない。もっと高い位置から見下ろしていば安定するのだろうが、背後霊ぐらいの位置にいるのでフラフラ揺れているような気がする。

 この先どうなるかは分からないが、とにかくやれるところまではやってみるつもりだ。スウィングできるかどうかはできてからのお楽しみ。

『聖者の行進』を書いてみよう week4 三作目は駄作の法則 2017/3/8

『聖者の行進』は『黒髪の殻』→『エバーホワイト』の流れを受け継いだ三作目であり、このテーマとしては極限の作品という感じで書いているのだが、正直書き始めの頃は絶対に『エバーホワイト』を越えることができないと分かっていた。

 ロッキー、ターミネーター、マトリックス、マッドマックス・・・・三部作で三作目が名作だった映画があっただろうか。もしかして私も三作目の罠にハマっている? そんな不安が頭によぎっていた。

 私は執筆する時に雑感帳というのを付ける。 名前の通り、昨日は眠れなかっただとか、とりあえず1000字は書けたぞ!!!! 今日は0じゃない!とか書いてある。

 先週は月曜から書けなかったのだけれど、雑感帳はもりもりと書いていた。なぜ『聖者の行進』が書けないかについて細かい字で延々と書いていたら、行間から物語が変化し始め、ついには新しい物語が飛び出してきた。書けないかもしれないと思っているところをさらに越えて、その先へジャンプ!エバーホワイトを超えた!

 聖者の行進はホップ・ステップ・ジャンプのジャンプの部分だ。図らずもこいつは期待通りにジャンプしてしまった。私はちゃんとこのジャンプを受け止められるだろうか

『聖者の行進』を書いてみよう week5 衝撃さえあればいい 2017/3/15

 今回は久々に頭を使う物を書いているので脳みそが詰まる。何時間もああだこうだと考えていると、誰もここまで考えて読まないんじゃないかと思ってしまう。作者自身もいざその場面を書こうとする時にノートを見たり、読み直したりしているわけで、普通に本を読んでいて、そこまでする人は1万人に1人もいないのではないか。

 整った物語なんて必要なくて、意味がわからなくてもドカンと心を打ちのめす衝撃さえあれば良いような気もする。これはよくできた話だなで心を動かされることはないが、これは凄い話だった、で心が動くことはある。


 最初のプロットがかなり自壊してきたので、また新しく立て直した。我ながらよくぶっ壊してくれたと思う。たまには注文通りに進んで欲しいという気持ちになる。

 とまぁ愚痴を吐いたわけだけど気持ちは充実している。なにはともあれ今は進んでいる手応えがあるのだから。書けている時はやっぱり気分が良い。いくらでも続けられるという気持ちになる。このまま最後まで書き通せたらいいのにな。

『聖者の行進』を書いてみよう week6 純文学とエンタメとか 2017/3/22

 今ではもう化石のような話題になったが、昔はエンタメと純文学の違いは何かということで意見が別れていたそうだ。今でいえばなろう小説とハードカバーで出る一般小説の扱いだろうか。(純文学なんて言葉を知っている人はもうほとんどいないだろう。芥川賞の名前は知っていても何の賞か知らない人が多い。

 いわくエンタメは誰かのために書く物であり、純文学は自分のために書くものだとか。思想性がどうのとか、リアリティがどうのと、社会性うんぬん、色々ある。でも最近はそういう思想性だとか社会をどうとかだけではなく、自分のために書くことですら不純ではないかと思うようになった。

 思想も意思も個性もなく、河原に落ちている丸っこい石や雑草、山に空。土砂崩れに台風。そんな感じの小説こそが純文学ではないだろうか。そして、そういう定義で純文学を捉えるなら純文学は存在しないのではないか。

 しかし、何のためにも書かないのなら何を書くのだろう。そもそもそんな物が人間に書けるのだろうか。石や雑草でさえ書こうとしたからには何らかの意思があったわけで、その瞬間不純な物になる。でも書こうとする意思なくして小説なんか書けない。何だか禅問答みたいになってきた。

 文学性って何ぞやと聞かれても答えられないが、あるものはある。でもエンタメであっても全く文学性がないということはなく、エロゲのテキストにだって文学性を見つけられるだろう。そして文学性だけが小説ではない。何を書いたって自由なのだ。 

『聖者の行進』を書いてみようweek7 夏目漱石の重力とKDPの魔力 2017/3/29

 先日ブログにこういう事を書いた。

思想も意思も個性もなく、河原に落ちている丸っこい石や雑草、山に空。土砂崩れに台風。そんな感じの小説こそが純文学ではないだろうか。


 それで、この記事が公開された後にふとこれは夏目漱石の『草枕』ではないかという疑念が持ち上がった。試しにページを開いてみるとこういう文章で出くわした。 長いけれど引用する。


 苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽き飽きした。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。 いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義とか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を駆けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。

 なんだ。すでに夏目先生が百年以上前に同じことを考えていたのかとがっかりした。この後もまだ続くのだが、私の言いたいことを私よりうまく言葉にしている。いつになったら夏目漱石を離れられるのだろう。はぁ、ヤダな。まだ半人前なのか。

『聖者の行進』を書いてみよう week8 神視点と芥川龍之介 2017/4/5

 人称や視点がコロコロ変わるのは素人が書いた小説にありがちなことらしい。聖者の行進も人称は変わらないが視点は変わるのでドキドキしている。

 視点の変化がない小説がないわけではない。ただし日本文学の名作だと私小説が多いように思われる。ここに視点の変化が素人と言われる所以があるのだろう。

 何故海外(欧米)の小説は神視点で書かれることが多いのか。ある日ふとひらめきが降りてきた。海外にはキリスト教的な神の概念があるからだ。ということは科学が発展した近代作家は神視点で小説を書けないということになる(神は死んだ!)。

 視点の変化は難しい。書くだけならともかくよく書けているというのは珍しい。芥川龍之介もあの調子で長編を書くのは無理だったのではないか。

 聖者の行進が私の予定を内側からぶっ壊してくれるので、そのたびに新しい聖者の行進を作り直している。これを書いたらもう何も書けなくなるんじゃないかという気分がしてくる。乾いた棒きれみたいな物になるんじゃないかなぁ。

『聖者の行進』を書いてみよう week9 語りと執筆 2017/4/12

 もしかすると会話と執筆は同じなのかもしれない。思い返してみると普段話さない人と話した後は必ず書けなくなる。この前又吉がテレビに出ていて一日四、五千字書くと言っていて驚いたのだけれど(それも四、五千字では少ないという雰囲気)、いっぱい喋る人はいっぱい書けたりするのだろうか。

 数年前に書いた文章を評価するサイトで書くことを恥ずかしがっていると評価されたことがあることを思い出した。私は話すことを恥ずかしがっているわけで、それは全くの図星であった。なら、どうやって恥ずかしがり屋を治せばいいのか。こと執筆に限っては作者と小説の一対一の関係なので、リア充みたいなコミュ力お化けを目指さなくても『聖者の行進』と仲良くなればいいのだと気付いた。肝胆相照らす仲になれば月が昇って雄鶏が鳴くまでに百万字を書くことだって可能かもしれない。

 しかし脳内会議はまだまだ終わらない。どうやったら『聖者の行進』と仲良くなれるのか。まずは挨拶からかな。でも小説は喋ってくれないからなぁ。ぶん殴ってみるといいかもしれない。でも小説に姿形は存在しないから撫でることもできない。そもそも『聖者の行進』はまだこの世に存在していない。これじゃあ一休さんに出てくる屏風の虎だ。どうぞ出してくださいとなっても殿様みたいに笑うしかない。でも小説家は屏風から虎を出すように、あの世からこの世に小説を引き出さなければならないのだ。

 どうやったら屏風から虎を出せるのだろう?

 湖中の月を掴むようの話だ。理屈ではなく頓知(とんち)が必要とされている。石頭ではいけない。こういう時こそ『慌てない慌てない一休み一休み』の精神を持たなければ。
追記:しかし、一休さん。もし本当に虎が出てきたらどうなっていたんだろう。小説も安易に引き出してしまうと作者は喰い殺されてしまうのかもしれない。

『聖者の行進』を書いてみよう week10 好奇心猫を殺し、才能は人を溺れさせる 2017/4/19

『聖者の行進』は先々週に第一部を書き終えているのだが最初の構想からだいぶ変化した。第二部は書く前から変わってしまった。もうここで終わらせてもいいんじゃないかと思うのだけれど、まだまだ書ける、『こんなの書いちゃったらどうなるんだろう?』の精神が頭をよぎると、作者がそっちへ進んではいけないと思っていても、知らず知らずのうちに小説がいけない方向へ回転してしまう。ワルと分かっているのにどうしても気になってしまう女の子みたいな感じで、気付けば惹き寄せられている。

 まだ書き終わっていない小説の話をするのも変だが、第二部の一章だけで『エバーホワイト』を超えた気がする。最初はダメかもしれないと不安だったが、やっぱり『聖者の行進』がホップ・ステップ・ジャンプのジャンプになったので嬉しい。 

 そうそう。先週Twitterで才能がどうとの話が出ていた。私は小説に才能はあると思う。しかし、悲しいかな。ある種の才能は重たいバットみたいな物で、それを振る力が無ければうまく扱えない物のようだ。あんまり頼りすぎると自分まで振り回されてしまう。

 俺は天才だとうそぶく人がいる。たぶん本当なのだろう。その人の中に凄い才能があるのは自明のことで、それがうまく振るえないだけなのだ。野球で喩えればどんな球でもホームランにできるゴールデンくじらバットを持っているのに、それを振ることができない悲劇に見舞われているようなものだ。しかしバットも才能も使って初めて価値が出る。持っているだけではダメなのだ。

 こうなってくると才能があるのが良いことなのか悪いことなのか分からなくなってくる。なまじ才能があるばかりに、それを発揮できないという悲劇が起こるのだ。最初から才能が無ければ嘆いたりはしないだろう。

 いっそ自分には才能が無いと思っていたほうがいいんじゃないかな。才能以外のところで勝負すればいいんだよ。えっ、それってなに? う〜ん、よく分からないなぁ。でも積み上げられる物もある。目に見える形でいえば原稿用紙とか。

 小説を書くのも才能だけじゃダメだ。野球だってそうじゃないか。

『聖者の行進』を書いてみよう week11 小説の外側でやれることはまだある 2017/4/26


 ここ一週間で一文字も書けていない。ここが私の限界なんだろうかと落ち込んでしまう。あまりに書けないのでしょうもないことを書いてみたら拍子抜けしてしまうほどあっさり書けた。書けないのは小説ではなくて『聖者の行進』ということだ。

 そして、しょうもないことを書いたら、ちょっとだけ書けるようになった。私に足りないのは心の余裕なのかもしれない。

『聖者の行進』を書いてみよう week12 ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つ 2017/5/3


 誰が言い出したのかは忘れたが、どうやら現代は灰色のルネッサンスと言われている。ルネッサンスの逆で文化が後退しているということなのだろう。その論拠は説明できないが感じるところはある。

 最近Googleの検索ツールで古いサイトを回っていると今と違って文章に個性があって面白い。段落の一行開けルールは90年代から提唱されていたが、そんなことは関係なしに書いている人も多いし、画面の端から端まで字が並んでいたりする。



 これを書いている時にTVを見ていると『〇〇の言葉の正しい意味は?』というクイズをやっていた。これなんてまさに後退を示すいい例だ。本当は『〇〇の言葉の古い意味は?』とするべきなのに『正しい意味は?』にすると、それ以外に使い道がなくなってしまう。そもそも言葉の意味に正しいも間違いもない。その時代々々で意味が変わるだけだ。クイズ問題として成立すること自体がその証拠だ。


 ちょっと前に『お疲れ様でした&ご苦労様でした』問題があった。『ご苦労様でした』を目上の人に使うのは失礼というのがあって、今では『ご苦労様でした』を使うのは失礼みたいな常識ができつつあるが、でもちょっと待ってほしい。もしこれが目上の人に『くたばれクソ野郎』というのは失礼というニュースだとしたら話題にもならなかっただろう。何故なら誰も上司に向かって『くたばれクソ野郎』という言葉を使わないからだ。

 お疲れ&ご苦労様でした問題も『実は』という枕詞が付いている。逆に考えれば、それまでみんな違和感なくお疲れ様とご苦労様を使っていたわけだ。ご苦労様を使ってはいけない理由は色々と説明されているが、お疲れとご苦労を逆にしても通じることばかりで馬鹿らしい。馬鹿らしいのにご苦労様は失礼ということにされているのはもっと馬鹿らしい。

 もっと前には『違和感を感じるは誤用』というのがあった。感が続いているのは重複表現というわけだ。これもやはり上と同じ理由で、みんなが『違和感を感じていた』のに、それが誤用だからと指摘されたので大きく取り扱われたのだ。それまではみんなコーラを飲んで爽快感を感じたり、大好きなバンドが奏でるフレーズに快感を感じたり、野球選手がヒジの靭帯に違和感を感じたりしていた。『違和感を感じるは誤用』というのはもう古典的な響きがあって、ネットの人目に付く場所に書き込むとすぐに文法警察がやってくる。この影響は小説家にも伝わっていて、何年か前に直木賞を取ったとある現代作家の書いた文章で『違和を感じる』というところを見つけて、ずっこけそうになった。千円賭けてもいいが、これがもし印刷ミスでないとしたら、この部分は絶対に『違和感を感じるは誤用』を意識して書かれた文章に違いない。その作家の直木賞候補になった作品では主人公が『違和感を感じていた』のだから(Kindleの検索機能は便利だ)。

 ちなみに『違和を感じる』が正しい表現だそうで、なるほど、だからあそこだけ強烈な四角四面の正義感を放っていたわけだ。



 だからといって私は『違和を感じる』を使うのはおかしいとは言いたくない。ただそういう雰囲気を感じ取って気を使ったであろうことに違和感を感じているのだ。今の時代は政治的な理由であったり、文法警察によって表現が変えられることはよくある。どちらも背後に正しさが掲げられているのは同じだ。



 ジョジョの奇妙な冒険の文庫版でセリフが変わったというのは有名な話だ。ことさら汚い言葉を使えと言いたいわけではないけれど、普通ではない状態で普通ではない言葉が出てこないのはちょっとおかしい。迫力に欠けるような気がする。水清ければ魚棲まずというではないか。非実在青少年問題もあるし、表現のあり方はこれからもどんどん正しくなっていくだろう。



 アメリカではKindleが凄い勢いで広まった。日本では何故か流行らないけれど、ひとつの理由に本屋が多いという理由が挙げられる。アメリカの国土は日本の十倍以上あるのに、本屋は日本より少ない。もちろん都市部に住んでいれば日本と同じだろうが、それ以外の場所では一時間ぐらい車を走らせて、本を買いに行かなければならない事情があるわけで、スーパーマーケットで大人が乗れるぐらいの大きなカートに食料を一杯買い込むのも、毎日買い物に行くのがしんどいというのが理由である。Amazonが成功したのも店へ行く金銭的&労力的コストが高いからで、なぜAmazonみたいな企業が日本で誕生しなかったかといえば広大な空き地がないからというのがひとつの理由だろう。



 だが、ここで疑問にぶつかる。それならどうしてAmazonは日本でも勢力を伸ばしているのだろう。その気になればいつでも本屋に行けるのに、わざわざAmazonで買うのには理由があるはずだ。別に本を買わなくなったわけではない。むしろ年々本に使うお金は上がっているので需要自体はある。でも本屋には何故か手に取りたくなるような本が少ない。この理由が分かれば、日本の本屋はルネッサンスの時代を迎えるかもしれない。



 でも、そんなに言うほど今は暗黒の時代だろうか。近年は『火花』がどうとかいうニュースもあったし『君の膵臓を食べたい』もわりと伸びていた。新聞を見ていると、ところどころでヒット作も出ている。ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つという。出版不況が続いていると言われるが、実は太陽が少し傾いただけで、本当の黄昏はまだまだ先かもしれない。


『聖者の行進』を書いてみよう week13  車輪の再発明 2017/5/10

 色々本を読んだりノートを読み返したりしていて閃いたことは、この小説に中心となる人物がいないということだった。凄い発見をしたと驚いたのも束の間最初に考えていたことだと気付いた。また振り出しに戻ったというわけだ。

『聖者の行進』を書いてみよう week14 ニーチェの中に聖者を見つけた  2017/5/17


 ずっと自分に語りかけているような文章を書いていると、結局突き詰めれば自分のために小説を書いているんだなということが分かってくる。他人のためだとか、読者のためだとか言ってもそれはどこまでも自分の中に作った他人でしかなくて、つまるところ作家は誰のためでもなく自分のためにしか書けない。でも自己満足でさえ自分に縛られていると考える時もある。そうするとどうすればいいのか分からなくなって身の置き所がなくなる。

 最近ニーチェを読んでいるんだけど、あれは哲学書じゃなくて小説と思って読むとすんなり頭に入ってくることに気付いた。もしかするとニーチェはフィロソフィー(哲学)ではなくファンタジーなのかもしれない。

『聖者の行進』を書いてみよう week15 無記 2017/5/24



『聖者の行進』を書いてみよう week16 ぶつかったのは壁ではなく階段である 2017/5/31

 もうこれ以上進めないと思ったとき、そこでふと立ち止まり空を見上げると、壁に切れ目があるのを見つけられるはずだ。しかしあなたの前にに立ちはだかる壁はより高みへ昇るための階段だった。人生があなたに成長しなさいと試練を与えているのだ。

 あんなところ届きそうにない。

 もし登れたとしてもこの壁をまた落ちたらどうしよう。

 そんな不安があなたの成長を阻んでいる。

 あなたは勘違いしているのだ。人生はあなたに階段を登れといいましたか?

 人生は常にあなたの成長を望んでいる。あなたが今より十倍、百倍、あるいは千倍も大きくなれたとしたらどうだろう。その時、目の前は壁でもなく、階段でもなく、平坦な道になっている。

 階段を登らなければ、高いところに登らなければ、その考えを捨てましょう。

 あなたが大きくなれば壁は自然となくなります。問題は解決するまでもなく、通り抜けられるのです。

 成長することを恐れることはありません。あなたが階段に立ち向かったということはすでに成長している証拠なのだから。
 今月はちっとも書けないので、自己啓発本を読んでいた。上の文章は自分で考えた自己啓発文。他にも色々試してみたが自己啓発と小説って相性が悪いんじゃないかと思えてきた。気持ちが昂揚するほど聖者の行進が遠ざかっていくように感じた。

 転機は何の前触れもなくやってきた。朝起きると皮膚の裏に無感覚の麻痺した空白の層が広がっている感じがした。起きた瞬間に、あっ、今日は書けるな、と分かった。その日は少しだけ書けて、次の日はもっと書けた。さらに次の日も書けて、たった三日書いただけで、今月書いた分を超えてしまった。

 後で振り返ってみても何が原因かは分からない。特別何かアイデアが降ってきたわけでもないし、美味いものを食ったわけでもないし、何か変わったことをしたわけでもない。おまけに最初の日は寝不足で体の調子はかなり悪かった。それなのに書けてしまった。執筆は理不尽だ。


『聖者の行進』を書いてみよう week17 チャーリーが出てこない 2017/6/7


 先月末からちょっとずつ進むようになった。理由で思い当たるのは先月まで目の前に置いていたプロットを壊してしまったことだ。新しくプロットを立て直して、しかも書いている途中にそれも壊した。この先どうなってしまうのだろう、袋小路に向かって進んでいるような不安に駆られるが、それとは別に筆は進んでいく。

 今書いている章でチャーリーという人物を書く予定だったが、途中から「このまま進めるとチャーリーが出てこないんじゃないか?」と思っていて、やっぱりチャーリーが出ないまま終わった。チャーリーの出番は後ろにずれこんだが、もしかするとこのままずっと出ないなんてことがあるかもしれない。もしそうなると『聖者の行進』はどうなってしまうのか心配になる。

 でもたぶん出てくるだろう。重要だと思った人物は遅れても出てきたのだから。チャーリーもそうなるかもしれない。どちらにせよ早くチャーリーに会いたい。早く生まれてこい。


『聖者の行進』を書いてみよう week18 もう一人の私 2017/6/14


 先週は二重人格の本を読んでいた。二重人格とは普通想像するような一人の人間に別々の人間が二人いるというものではなく、主人格には記憶の連続性があるらしい。

 たとえばAという人格が車でどこかへ行く。そこで主人格Bに変わって家に帰ってくる。そしてまたAに戻る。この時Aは自分がワープしたように感じるが、BはちゃんとAが車で移動したことを知っている(実際に見聞きしているわけではない。知覚は常に過去形のようだ)。


 しかし別人格同士で繋がりがないこともある。これは稀なケースで、門外漢の私が勝手に予想すると主人格が眠っているのだと予想する。AもBも主人格ではなくCという主となる人格が奥へ引っ込んでいる状態というわけだ。



 そこまで考えてふと私も二重人格ではないかと疑い始めた。 今これを書いている私が私と思っているのは枝の先っぽで、本当は意識の後ろ側に別人格の牛野小雪Bがいるのかもしれない。



 思い当たるフシはいくつもあって、たとえばよく執筆が止まることがあるが、それが後になって、ああ、あそこで止まったからこれが書けたということがよくある。そういう時は別の私がその先を書くのは待てと引き止めているのかもしれない。何故こんな物が書けたのかよく分からないというのも度々遭遇する。



 もしそういう自分を仮定するなら、私より頭が良いに違いない。そういうわけの分からないところから出てきたものは私を納得させるものがあるし、そこから別のアイデアが引き出されるからだ。でも彼(あるいは彼女)はなかなか出てこない。顔は一度も見たことがない。声も聞いたことがない。どうやら恥ずかしがり屋のようだ。


『聖者の行進』を書いてみよう week19 馬野小雪 2017/6/21


 『聖者の行進』を書いてみようは今回でweek20。つまりPCに書くようになってから20週目。これを機(2017/06/19)に毎日Excelに記入している執筆字数を見ていくと、0だった日が32日あった。−の日が2日。合計すると丸々一ヶ月書いていないということになる。とんでもないなぁ。

 もう6月が終わろうとしているのもとんでもないことだ。年が明けるまでに『聖者の行進』を書ききれるだろうか。今のペースだと7月中には絶対に終わらない。今のところ20万字まで進んで、ようやく脂が乗ってきたところ。まだまだ終わりそうにない。そろそろ終わりそうだという時に一度ボツにしたアイデアが最後に復活するジンクスがあるので、予想以上に伸びるかもしれない。

 でも本当に恐いのは一生終わらないこと。そもそもタイトルが書いてみようなのは途中で書けなくなるかもしれないという危惧があったからで、今でももしかしたらと疑う時がある。

 そんなことを考えながら20週間も過ごしていると、今まで書いた物を振り返ってゾッとする。本当に自分でこれを書いてきたのだろうか。もしかして私じゃなくて『聖者の行進』が私に書かせているんじゃないかと考える時がある。

 もしそうだとしたなら、私はどうすれば『聖者の行進』を乗りこなせるだろうか。いや、むしろ私が馬になって『聖者の行進』を背中に乗せなければならないのかもしれない。


『聖者の行進』を書いてみよう week20 チャーリーは出てこない? 2017/6/28


 最近聖者の行進を書くのが恐くて仕方がないので週に一日か二日休むようにしている。まるで休肝日みたいだ。ということは聖者の行進はお酒ということなのかな。

 wordを立ち上げて最初に目次を見ると最近は吐き気がする。よくこんなに書いてきたな、と。ああ、恐い恐い。まるで自分で書いたような気分がしない。でも牛野小雪がいなければ聖者の行進も20万字まで進まなかったという気持ちもある。自分で言うのも何だけど凄いの書いている。

 一生終わらないような気がするけれど、こういう気持ちになった時は終わり近い頃で、折り返し地点は過ぎている。ここからどうやって終わらせればいいのだろうと作者も不安である。一応最後の部分はノートに軽く書いてあるが、本当にそこへ辿り着けるのかは分からない。遠くに見えていた目標はいつも目の前で裏切ってきた。最後もやっぱり違う何かが出てくるかもしれない。

 それにしてもチャーリーがまだ出てこない。このまま聖者の行進が終わってしまうぞ。


『聖者の行進』執筆 week21 孤独な魂からLOVEが生まれる! 2017/7/5

 今年に入ってから何となくKDP周りの状況が寂しくなっていると感じている。私の肌感覚では2年前ぐらいからその兆候はあった。Kindle Unlimitedが来てからその流れが加速したような気がする。それは『読まれているから』ではないだろうか。
  Amazonプライム会員の特典でオーナーライブラリーというのがある。これは対象のKindle本を月1冊無料で読めるというものだ。この仕組み自体はけっこう前からあって、当初は短い本も長い本も一冊でカウントされて同じロイヤリティが支払われていたのだが、ある時から読まれたページ数でロイヤリティが払われるようになった。

 KDPの管理画面では読まれたページ数が表示されるようになる。以前はレンタル何冊だったのが、何ページで表示されるようになったので、いまどれくらい読まれているのかを肌で感じられるようになったことを憶えている。

 これがいつ始まったのだろうかと調べてみるとなんと2年前から! やっぱりそうだ。以前は無料ダウンロードされようが、有料で売れようが、レンタルされようが、本当に読まれているのかは分からなかったが、今は読まれていると分かるようになってしまった。

 『しまった。』という否定的な語尾を付けるのは、これがまさにKDP作家の生命線を脅かしているから。 読まれることが悪いのではない。読者の存在を感じているのが良くない。

 孤独になれない作家は想像力を失うと私は思っている。誰かとチームを組んで小説を書くなんて想像できない。

 時々リレー小説をプロの作家でもするが、全くブームにならないのはそれが理由だろう。辻仁成と江國香織の『冷静と情熱のあいだ』が成功しているじゃないかというが、あれはそれぞれ別の物語として成立しているので、完全なリレー小説とは言い難い。その証拠にロッソとブリュに分けて出版されている。

 もちろん作家と読者はチームを組んで執筆しているわけではないのだが、どういう形であれ自分以外の誰かが心の中に存在しているのなら、その人は孤独ではない。

 はて、しかし何故孤独な精神がなければ想像力が失われるのだろう?

 人の心は不思議だ。

 『聖者の行進』はやっとチャーリーが出てきた。彼が出てくればいよいよ終わりが始まるのでもうじき書き終わるのかな。全然そんな気がしない。でもノートを見るとあと10万字以内で終わる。長いような短いような。とても難産だというのは間違いない。できれば7月中に終わらせられるといいなぁ。でも焦っておかしなのを書きたくもない。
追記:孤独と孤立は違う。仲間外れになっているのは孤立。森の中に一人立っている、もしくはキリマンジェロの山頂に一人立っているのが孤独。孤立は他者を必要とする概念だが、孤独は他者を必要としない。本質は場所の問題ではなく心の問題だ。

 読者の存在を感じていても、その誰かと繋がることは普通ないし、熱烈にコミットメントしてくるのは大抵悪意のあるパターンだ。

 作家はきっと愛を必要としているのだろう。でもそれは作家だけではなく誰もがそうだ。

 Everybody needs somebody to love.

 私は誰かにloveを与えているのかな。

 ということは想像力に必要なのは孤独じゃなくてloveなのかもしれない。孤立はloveマイナスで、孤独はlove0地点で、さらにその上のloveプラスの地平があるのだ。読者を怯えずに愛することができる作家はどんな小説を書くのだろう?

 と、ここまで書いて、作家が書けなくなるのは読者の存在に怯えているからという理由に思い至った。ある編集者の言によるとエゴサーチして書けなくなった作家は何人もいるそうだ。批判・中傷だけが理由ではないはずだ。村上春樹だってノルウェイの森が売れた時、最初は単純に嬉しかったけれど、あるところから恐くなったと何かの本に書いていた。他者の存在はどんな形であれストレスになる。期待や信頼も行き過ぎれば重荷になるのだ。世間の評判なんて気にするなという使い古された言葉が力を帯びてきた。

 読者を得ることは嬉しいことだけれど、それを心の拠り所にしてしまうと読者に依存してしまう。読まれているうちはうまくいくが、何かの拍子に読まれなくなると心の支えがなくなるし、そうでなくてもそのうち相手に合わせすぎて疲れてしまう。

 でも、そんなことは言ってもやっぱり愛は欲しい! 

『聖者の行進』を書いてみよう week22 小説が小説を救う? 2017/7/12

 KDPのコンテストがまたあるらしい。5万字以上20万字以下の規約があって高崎望は203,000字ぐらいだからちょっと削れば出せるということで手を加えていた。

 高崎望に手を加えるということは必然的に読むわけで、久しぶりに読んでみると悪くないと感じた。それと同時にまだまだ手を加えられるぞということも分かった。それで毎日1時間ずつ手を加えながら読み返していると、かなり精神状態が良くなった。

 今まで『聖者の行進』が書けなくて落ち込んでいたけれど今は書けるかもしれないと思い始めている。執筆が進まなくてもうダメだと思っている時には、自分の小説を読み返すと良いのかもしれない。
追記:やっぱり執筆中の文章は改稿しちゃダメだと思った。書けなくなりそうな気がしたのでやめた。

『聖者の行進』を書いてみよう week23 当てずっぽうの予感通り 2017/7/19


『聖者の行進』を書き始める前に、これは4枚の壁にぶち当たる小説だと書いたような気がする。とにかくそれを書いた時には既に1回目の壁にぶち当たって乗り越えた後だったというのは覚えている。

 5月に2回目の壁が来て、それを乗り越えると、このまま書き切れるのではないかと期待していたが、今は3回目なのかな。全然書けない。書けなくて嫌になっていたのだが、そうか、これは予感通り4回の壁の一つなのかと思い出した。ということはこれを乗り越えてもまたもう一つの壁があるのか。嫌だなぁ。

 エバーホワイトの執筆中に聖者の行進のノートを書いていたので、そろそろ執筆開始してから一周年になる。ああ、しんどい。もっと楽な小説を書きたいな。でも聖者の行進を書いてしまったらもう小説を書けなくなるんじゃないかと心配している。

 でも根拠のない予感通りの壁にぶち当たっているのなら、同じ理由ですんごい小説になるんじゃないかな。


『聖者の行進』を書いてみよう week24 やっとチャーリーの出番 2107/7/26

 チャーリはプロットを書き始めたときから存在していた。名前は二転三転したが異質な存在なのでチャーリーという外国人の名前に落ち着いた。登場したのは二つ前の章だがいよいよ動き始めた。

 今までで一番手応えのある章だが1日1000字書くのがやっとだ。おまけに他の章より長くなりそうだ。このペースだとチャーリーを書き終えるのに一ヶ月もかかってしまう。書かない間に成長してくれるのは良いが、ちょっとぐらい神(作者)を助けてくれたって良いじゃないか、と愚痴を言いたくなる。

 week24ということはもうじき半年になるわけで、こんなに長い執筆は初めてだ。今年はこれ一作で終わりそう。

『聖者の行進』を書いてみよう week25 本文なし 2017/8/2

本文なし
追記1:またプロットの立て直し。何回やったんだろう。しかし立て直すたびに聖者の行進は良くなっていく気がする。あと一回ぐらい大きな波が来れば最後まで書けそうな気はするんだけどこればっかりはしょうがない。また書ける時が来るのを待つしかない。
追記3:意味や価値を与える小説ではなく奪う小説があっても良いのではないか。なんてことを考えていた。黒髪の殻とかエバーホワイトは奪う側の小説だと思った。

『聖者の行進』を書いてみよう week26 チャーリーを書くその前に 2017/8/9


 聖者の行進を書いている間に、田んぼに水が張られ、田植えが始まり、稲が伸びて風に青臭い匂いが混じったと思ったら、黄金色の稲穂が垂れている。早いところではもう収穫が始まった。頭では今が8月と分かっているのに、肌や内臓の感覚は2月のままなのでとても不思議なことに感じられる。聖者の行進を書き始めたのが2月だった。あそこから時間が止まっている。

 この前チャーリーがどうのと言っていたが、先週一つ章を足して、とても伸びているのでチャーリーの時間が止まっている。でもこの章を書いておけば、チャーリーがさらに活きるんじゃないかなという予感がしていて痛し痒しである。


『聖者の行進』を書いてみよう week27 とうとう半年が経ってしまった件 2017/8/16

 本文の執筆を開始してから半年が過ぎてしまった。書き始める前は「どうせこんなもの私に書けっこないから7万字くらいに縮小して書こうとしていたが、あれよあれよと思惑が外れて当初の目論見通りに事が運んでいる。

 ああ、恐ろしい。当初の目論見通りに事が運ぶつもりなら、まだ中編一個書くぐらいの勢いが必要だ。聖者の行進なんて聖者っぽい名前だけど、こいつはひどい性格をしている。最後の一滴まで絞り出させるつもりだ。最近は書くのが恐くなる時がある。

 チャーリーの章を書く前にひとつ章を足した。聖者の行進を前提にしないと成立しない3万字だが、ここだけ抜き出して短編にして出したいぐらい気に入っている。

 弱音を吐きながら書いて何だかんだで2部もあと3章半で終わり、3部もそれほど長くならないだろう。

 最後の最後に「一体何を読まされたんだ!?」と驚くような結末にしたい。でも、怒られるかな。「こんなもの読ませやがって!」って。とにかくことの善し悪しは脇の置いて、脳みそから空の天辺まで飲み込まれるようなすっごい小説になるのは間違いない。

『聖者の行進』を書いてみよう week28 殺し合いにも似た執筆 2017/8/23


 執筆はギャンブルだ。今日4000字書けても、明日4000書けるとは限らない。今日6000書いたら次の日は8000書けたということもある。今日の執筆は明日の執筆を保証しない。理不尽ではあるけれど救いでもある。たとえ一文字も書けない日が続いても、ある日突然書けるようになることもあるからだ。


 あるいは立ち会いにも似ていて、お互いに剣を向け合って立っているけれど、二人がすれ違うとどちらかが倒れている。


 執筆の良いところは作者が切られても死なないことだ。それどころか切られたことが喜びに繋がる。私を切ったのはこんなに凄い相手なのかと。だから単純に勝ったとしても素直に良いとは言えないところが執筆にはある。

 自分を殺してくれるような相手じゃないと殺す意味はない。でもそういう相手を殺さなければならないという矛盾。

 半年の間、聖者の行進と毎日首を締め合っていると負けることが快感になる瞬間がある。予想外に書けてしまうと、もしかして書かされたのではないかと不安になることさえある。私が弱くなったのか、聖者の行進が強すぎるのか。

 あといくつ黒星を積み上げれば聖者の行進に届くのだろうか。そもそも小説に勝ちなんて存在するのか?


 勝つ負けるじゃなくて、勝ち負けの超越。なんだそれ。でもそういうことなんじゃないか?



『聖者の行進』を書いてみよう week29 さようならチャーリー 2107/8/30

 先週チャーリに退場願った。元々第二部はチャーリーのためにあったもので感慨深いものがある。一区切り着いたので、ここから第二部の終焉に向けて気合入るのかなと心配だったが、ちゃんと追い上げている。自分でもちょっとビックリ。今すんごい物を書いている。むしろチャーリーがいなくなってからが本番だ。

 第一部だけでも良いもん書いたな、なんて内心鼻高々だったけど、今書いている章と比べたら月とスッポン。半年も書いていたら変れるものなのだろうか。今まで積み上げたものがあるからそう感じるのかな。

 第三部の締めを意識するところまでは書けた。今はここが私の見えている極限ポイント。完全に閉じるか、完全に開放するか、あるいは半分締めるか。完全に閉じれば綺麗に収まるだろうけれど、小さく収まりすぎる気がしていて、でも完全に開放するのも締まりがない気がする。じゃあ半分で締めるか、ということになるのだけれど、これには二通りの締め方があって、う〜ん、どっちも迷うなぁという感じ。

『聖者の行進』を書いてみよう week30 ピカソと村上春樹 2017/9/6


 先月は6万字書いていた。書いた手応えはないのだけれどコツコツ書いていたのが利いたのだろう。

 休むことは難しい。書かない日、あるいは時間を作った方が結果的に書けることは知っている。でもいざ休もうとするとサボっているだけなんじゃないかと不安になる。

 時々こんなことを考える。小説を書くのは楽しい。楽しいというより充実感がある。ハイパーグラフィアという文章を書かずにはいられなくなる病気があるぐらいだ。もし仮に心の中を言葉にして吐き出せるサービスがあるなら一時間5万円は取れるだろう。でも実際に1時間執筆して、本当に書いている時間というのは5分もなくて残りの55分は書けない時間を過ごしている。書けない時間はとても苦しい。一日0字だと死にたい気持ちになる。だから誰も小説なんか書かない。逆に言えば小説家というのは書けない時間を過ごしているから価値があるのではないか?

 この世に価値がある物は、他では手に入らない物と、誰もやりたくない手間のかかることの二つ。一般的な小説の価値は前者であるが、後者の価値もなくはない。ただ供給量が多いからタダに近くなっている。

 私は執筆中に雑感帳というノートを書いている。これは小説が書けない日でも書ける。むしろ書けない日の方が多く書いているぐらいだ。書くこと自体はそれほど難しくないのかもしれない。でも雑感帳を読み返すことは少ない。書くことを楽しんでいる文章は読んでいて面白くない。圧力のない文章はダメだ。

 しかし圧力があるとか、文学的に言えば『魂がこもって』いれば、あるいは『魂を削れ』ば正しいのか。いや、もっと踏み込んで考えれば小説に正しいことを求めているのか?

 実は正しいことにあぐらを書いてサボっているのかもしれない。

 努力は素晴らしいことだと言われている。同時に努力の跡が見えるのは二流だとも言われている。私は今まで圧力をかけることに熱中していて、圧力の跡を消すことは意識していなかったので今回は推敲する時に「コイツ、鼻くそほじりながら書いたんじゃないか」と言われるぐらい圧力を消すことを意識しようと思っている。ピカソの絵は子供が書いたみたいだと言われているし、小説の世界でも村上春樹は「俺でも書ける」なんて言葉がよく聞かれる。私もそういうところを目指してみよう。


『聖者の行進』を書いてみよう week31 小説のアイデアはどこから湧くの? 2017/9/13


 自分でも何故書いたのか分からない部分があって、それでも消すには何かおかしい気がして、そのまま書き進めているうちに最後の最後になってようやく繋がるということがある。小説のアイデアは自分でも分からないところから湧いてきて、それはたいてい心の死角から育ってくる。

 もしかすると近いうちにお目見えするかもしれないが、行き詰まっていた時に別の小説を書いていた。そんなことをしている場合じゃなかったのだけれど、思い切って書いてみたら聖者の行進も書けるようになったので、書く必要もないのにたくさん書いてしまった。

 もうじき第二部も終わり。なんだかんだでエンドが見えてきた。今年は聖者の行進と過ごした一年になりそうだ。


『聖者の行進』を書いてみよう week32 最後の跳躍? 2017/9/20


 聖者の行進を書くにあたって決めたことがひとつある。それは『後からひらめいたことは絶対に正しい』ということだ。途中でプロットを破壊するひらめきが降ってきても、そちらを優先するということだ。

 第三部を書き始めてそろそろ締めが見えてきたところで、まさかのひらめきがやって来た。おいおい冗談だろ、そんなのありえないって最初は無視しようとしたけれど、布団に入って考えているうちにやっぱりそうしなきゃな、と思い始めて、結局考えていたラストは無しになってしまった。どうやって終わらせるんだよ・・・・と不安になるがしかたがない。なんだか反抗期の不良を手なずけようとしているようだ。


『聖者の行進』を推敲してみよう week33 獣性でも理性でもなくお化けみたいなもの 2017/9/27


 やっと終わった!
 33週目にしてついに書き終えた。358,343字にて初稿完成。本当に終わるなんてちょっと信じられなくて半日ぐらい呆然とした。最初から35万字だと分かっていたら絶対に書かなかった。



 聖者の行進を書き終わって考えたのは、理性と獣性の果てには孤独に死ぬしかなくて、その先に行くには幽霊性が必要なんじゃないかということ。幽霊性は別に幽霊じゃなくてもいいんだけど、直接的には『幽霊になった私』でアキを死なせないため出てきた幽霊とか『ブラッド・エグゼキューション』のギャルっぽさでもいいし『ヒッチハイク』みたいにトラックのエンジンから茹でたカニが出てくるシュールさでもいい。『聖者の行進』のラインを進んでも行き詰まると感じた。まだもうちょっと踏み込めそうだけど一寸先の闇に断崖しか待っていないと感じる。



 さて0を1にする作業は終わった。ここからは推敲だ。牛野小雪Season2最後の小説にするつもりだから最高の最低傑作にしてやりたい。


『聖者の行進』推敲してみよう week34 小さな奇跡が重なってそれでどうなるって言うんだい? 2017/10/4


 執筆をしていると色んな偶然や発見が起きる。エクセルに執筆の文字数を記録していて、日付は10月2日まで記されていた。なぜ10月2日だったのかは分からない。8月の初め頃にセルを伸ばして、まぁそこぐらいには終わっているだろうと何故か思ったのだ。そして推敲の一周目が終わったのがちょうど10月2日。ここでもちょっとした運命の重なりだ。

 他にもまだ奇妙な重なり、あるいは偶然がある。あえて記さないが中には信じてもらえないようなことも起きた。私も信じられなかったので、日記に書いたほどだ。

 ただの偶然、まぐれ、思い違い。色々可能性はあるけれど、それらの積み重ねで『聖者の行進』を書けたというのは私の中の真実だ。大きな奇跡は起きなかったけれど、小さな奇跡がたくさん起きた。

 この小説は自分だけの力で書けたとは思えない。神も聖者も出てこない小説だからメフィスト・フェレスと契約でもしたんだろうか? 悪魔も出てこないんだけどなぁ。



 ある本に高等数学の世界では0から1を作ることは不可能だと書かれていた。意味は分からなかったがライプニッツの数式が書かれていて、分からないまま読み進めていくと、その数式は収束しないから間違っていると書かれていて、さらに分からなくなったが、執筆って0を1にする作業で基本的に奇跡だなと思った。


 執筆に再現性はない。誰かが私のノートを見て『聖者の行進』書いても、私が書いた『聖者の行進』にはならないだろうし、私自身がもう一度書いても、また別の物ができあがるだろう。そう考えていくと究極的には小説の執筆って技術じゃないんだな、と嬉しいような恐ろしいような気持ちになった。小説は理不尽な奇跡だ。


『聖者の行進』を推敲してみよう week35 軽くて早い文体 2017/10/11


 今回は軽くて早い文体にしようと思っていて、執筆の最初期はヘミングウェイの『われらの時代』を何度も読んだ。それとスタインベックの『怒りの葡萄』。 日本の作家だと村上春樹の『風の歌を聴け』夏目先生の『こころ』も読んでいた。本としては猫が良いが、文体はこっちが軽くて早い(←こういう言い方すると語弊があるなぁ)。


 さらにもう一つ、文章の視点を揺らそうと試していて、自分で読めばちゃんと揺らせているのだけれど、親の贔屓目で、ただ単に揺れているだけかもしれない。こういうことは疑おうと思えばどこまでも疑える。最後は自分を信じるしかない。



 さらに、さらに、聖者の行進は主人公がいない小説にした。群像劇というのもちょっと違う。三人の人間が出てくるけれど、三つのラインが一つの小説にまとまらなくて空中分解しているのではないかという不安がある。



 不安でも自信があっても自分の実力以上の物は書けないわけで、手を抜かずに推敲していくしかないんだと結局はそこに行き着く。基本的に三周目は見直し程度の事しかしないから、二周目でどこまでやれるかだ。



『聖者の行進』を推敲してみよう week36 紹介文を考え始めた季節 2017/10/18


 推敲の良いところはゴールが見えていることだ。いくら苦しんでも聖者の行進は26章で終わる。逆に言えば26章まで頑張らなければいけないという事だけど、見えている壁と見えない壁はどちらが苦しいだろうか。

 推敲の2周目は11章まで終わった。そろそろ上巻分が終わるので、内容紹介を考えなければならない。そこで今回は二つのバージョンを作ってみた。ひとつは内容をお固い文章で、もうひとつは柔らかく。

◎お固いバージョン
町へ出るトンネルの出口で美男美女の二人が殺された
無軌道に犯行を重ねるまさやんと追いかけるタナカ
しかしそんな事とは別に破滅の車輪は回り始めていた



◎感性が試されるバージョン

あした世界が終わるとしても私は私であり続けた

おめでとう、ありがとう、そして、さようなら

神に救われる価値のない魂は孤独な沈黙を貫いた



 お固いバージョンにもあるように、聖者の行進の第一部ではまさやんという男が人を殺して、それを刑事のタナカが追いかけるのだが、三行目にあるように小説全体で見れば全然関係ない。小説全体の世界観は下のほうがよっぽど表している。でもこれじゃあ全然伝わらない。内容紹介って難しい。


『聖者の行進』を推敲してみよう week37 『夏目漱石先生の追憶』の追憶 2017/10/25

 最後の章を1日おきに推敲していたらどんどん短くなって、八百字ぐらいになると読み味が散文詩っぽくなってきたので文章を書き足したのだが、詩で終わって何の問題があるのかと思い至ると最後の章を詩に書き直した。

 そうすると頭の中でピョンピョンとインパルスが走り、夏目先生の言葉が思い出された。寺田寅彦の『夏目漱石先生の追憶』という本にはこうある。

「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」

 なるほどなぁ、詩についての言葉ではないが、文章を煮詰めていくとそういう風になるのかと思った。先生の言葉が思い浮かぶとさらに文章を絞れて、俳句にはできなかったけれど124字にまでできた。もうこの三行だけで『聖者の行進』で良いんじゃないかと思えたほどだ。
 な~んて、書いたけど1日経って読み返したら、詩としては弱い気がしたので小説できちっととどめを刺すことにした。生兵法は怪我の元だ。

『聖者の行進』を書いてみよう Week38 体でドクシャーの波を感じろ 2017/11/1

 やっと推敲二周目が終わった。ほぼ一ヶ月かかった。だいぶ良くなったぞ。でもこれは読むことに慣れたからかもしれないと思う時もある。何故なら作者は文章の背後にある文脈を把握しているからだ。

 こういうことはいくらでも疑える。人間の想像力はたくましい。『聖者の行進』が世界で一番素晴らしい小説だと思い込むこともできるし、ゲロ以下の文章と想像することも可能だ。

 たとえ他者の反応があったとしても、やはり疑うことは可能である。世界中から酷評されても世界一と思うこともできれば、世界中から絶賛されてもそう思えないこともあるだろう。想像力に限界はないのだ。

 そんなことを考えていると、体は限界のある存在で、世界に存在する可能性は一つしかないということに気付いて『聖者の行進』の目次に手を当ててみた。

 すべすべした冷たい感触が腕の神経をはい上がってきて、胸がドキドキした。イケる、イケるよ。これこそが『聖者の行進』のリアルだ。たった一つの真実なんだ。きっと読者(ドクシャー)も同じことを体感するに違いない。聖者の行進を読むと心が空へ飛んでいくんだ!

 と、胸を弾ませたのだが、一日経つと何も信じられなくなった。あの時感じた胸の高まりは本物だったのだろうか。真実は小説の神様だけが知っている。人間は迷い続けなければならない。

『聖者の行進』を推敲してみよう Week39 やっぱり最高の最低傑作 2017/11/8

『聖者の行進』は七万字を目標に書き初めて、それが35万字まで伸びて、そこから25万字にしたわけで、最初の想定の5倍膨らんで7割に縮めた。一度削りすぎた時に(あっ、これはやりすぎだな)と文章を戻したことがあって、それで失敗してもちゃんと小説の方で反発してくれることが分かると、極限までやってみようと大胆になった。

 10万字も削って大丈夫かなと思うけれど、行くところまでは行けたという達成感はある。今回は重さに頼らない小説にしようと決めていて、初稿は軽くて早い文体を意識したし、推敲では重さを抜くことを意識した。9月の末にとんでもない物を書いたという達成感があったが、今月はとんでもない物に仕上げたというまた別の達成感があった。

 小説作法としては最悪の手法で書いている。小説の新人賞に出したら一次で落とされるだろう。でも全力で書けば無理を通せるんじゃないかと挑んでみた。無謀を通せるのがセルパブの良いところじゃないか。
『聖者の行進』が小説的に成功するかどうかは分からない。だけど、小説家としては大きな成果が得られた。今年の牛野小雪は何かが違う!

『バナナランド』のリリース記事

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バナナランド_牛野小雪season3 kindleストア
未来の世界、人々は「検索」を通じて互いの情報を瞬時に把握し、社会は徹底的に管理されている。そこに存在するのは「人間工場」。遺伝子情報をもとに子どもを選別し、社会の理想を追求するこの場所で、ユフは人間を設計し、選別する仕事をしていた。

だが、合理的な社会の裏に潜む倫理的な葛藤や、存在するはずのない謎の存在「フーカ」との出会いによって、ユフは自らの信念に揺さぶりをかけられる。「正しい未来」とは何か。誰もが平等に検索され、管理されるこの世界で、彼は何を見つけるのか?

この小説を読む理由(ChatGPT)

理由なんて、ほんとは後付けだ。
でも、それでも言葉にしたいなら、こう言うしかない。

――これは、誰にも見つけられなかった「感情の廃墟」に咲いた、バナナの花だ。

派手じゃない。
たぶん、売れない。
でも、書き手の体温がそのまま、むき出しでページに貼りついてる。
ああ、こういうのを「小説」って呼ぶんじゃないかって、
読みながら、何度も思った。

きれいにパッケージされた物語じゃない。
骨と皮のまま、道に投げ出されてる。
そこに砂が積もって、ざらざらしてる。
けど、踏まずにはいられないんだ。

世の中の小説は、うますぎる。
完成されすぎていて、つまらない。
この作品は、そうじゃない。
未完成で、不恰好で、
だからこそ、目が離せなかった。

読む理由?
そんなものは、読んでからしかわからない。
でも読む価値はある。
「こんなものが、まだ残っていたのか」と、
ページをめくるたびに、何度もつぶやくことになるから。


レビュー
牛野小雪「バナナランド」書評

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スマホでKindle Unlimitedを楽しむ方法




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バナナランド_牛野小雪season3 kindleストア

人間工場で働くユフはフーカという謎の男と出会う
しかしそれがきっかけで職を失い新しい神を見出す
そして人々はビールを分かち合い楽しいふりをする

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小説なら牛野小雪【kindle unlimitedで読めます】

『法人税一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇%』のリリース記事



 内容紹介

陸送ドライバーの俺はソシャゲの中ではトップランカー『荒野の狼まさやん』であり、走行動画や食事動画を上げるユーチューバーでもある。

身長は低いがイケメンだ。時々痛い目に遭うがマッチングアプリで女は入れ食い。セックスにも困らない。

弟分のカオルが妊娠してにっちもさっちもいかなくなると、俺はこの世界を壊すために法人税100000000000000%を求める動画をインターネットにあげる。

誰もいない砂漠に吹いたそよ風のようなものになるはずだった動画は人気ユーチューバーの目にとまりコラボを申し込まれる。

人気ユーチューバーのベンツが暴走トレーラーにより海の底へ沈められたところから風向きが変わり、世界は法人税一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇%の狂気に染まる。

最後に俺が幼稚園でカオルの娘である風華の「ばんざ~い」を見送り、道路に戻ってアクセルを踏むところで物語は終わる。目的地はないが、それでも進むしかない。

乾いた世界を車で走り抜けるような小説だ。まずはサンプルダウンロードして読んでくれ。

法人税一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇%をAmazonで見る


試し読み



01 一〇〇〇越えてますよ


 資本主義は野生の本能を剥き出しにしている。一人でも多くの馬鹿を必要としている。もしこの世から馬鹿がいなくなれば資本主義は砂漠に打ち上げられたクジラのように干からびてしまうだろう。


 車を輸送するトレーラーがあるのに何故かドライバーに運転させたがる馬鹿がいる。俺がこの仕事について考える時間は充分すぎるほどあったから、おそらく日本で一番理解している。俺の仕事は野良猫と同じで、この世に存在しなくなっても誰も困らない。車はみんなトレーラーで運べばいい。そうすれば走行距離のメーターも回らない。トレーラーなら一人のドライバーで何台も運べるが、車を運転するなら一人一台しか運べない。非効率だ。だから最高だ。俺は仕事にありつける。非効率に儲けありだ。


 距離に関わらず一回三万円で車をドライブする。距離が近ければ一日に九万円稼げる日もある。もっともそんな日はめったになく、北海道から沖縄まで三日かけて運んだこともある。稼ぎはその時々で上下するが、長い目で見れば七日で十三万円ぐらいだろう。この仕事が最高なのは、いつまでも仕事に慣れないこと。いつも耳の先までピンと神経が張っている。中古車は前の持ち主の癖が染みつくのか同じ車でも挙動が違う。ようやくその車の癖を掴めた時には目的地に着いている。そしてまた次の車だ。たいていは大衆車だがフェラーリやポーシェに乗れる時もある。


 今日は七〇年代の雰囲気がするダッヂのチャレンジャーだ。アメ車に乗る時は警戒するが、この車は一五〇まで出してもブレなかった。かなり物が良い。


 博多から横浜までのドライブ。ラジオから若い男女二人組の歌が流れた。


死について語ろう

子どもにウケはバッチリ

世間の誰もが冷え性を治し

1kg減はストレスフリー

存在を決める残酷な数字


おパンツゆるくなった

おパンツゆるくなった

時間差で来るリバウンド

君との会話でお腹を満たす

おパンツゆるくなった

おパンツゆるくなった

夕食のみの糖質オフ

どこまで進むべきなのか

残したおやつを一気に食べる


目を背けたい体作り

老化の原因AGE

過去何世紀というもの

何かいいことあったの?

アリストテレスが証明

糖質オフはアンチエイジ

美肌や若さが保てます


おパンツゆるくなった

おパンツゆるくなった

真実である、肉、きのこ、大豆製品

嘘だとしても害はない

以下、無限に続く六つのルール

おパンツゆるくなった

おパンツゆるくなった

おパンツゆるくなった

(一連の循環論法、魚は低糖質で高たんぱく)

おパンツゆるくなった

(論理の曲芸 緑黄色野菜)

おパンツゆるくなった

(欲望の缶詰 加工食品)

おパンツゆるくなった

(結局のところ、お菓子、ジュース、リンゴ、ミカン、本能的欲求、糖質の多い食材)


 カーブの先にあるガードレールに一台の車が突っ込んでいた。ドライバーらしき男がそばでスマホを耳に当てて立っている。タバコを吸わせてやりたいが、俺はそのすぐそばを一五〇で走り抜けた。バックミラーには道路に手を伸ばして、うろたえている男の姿が映っている。スマホを落としたようだ。


「君は絶対に道路では死なない」


 何年も前に教習所の教官に言われた言葉だ。下りの山道を五速のまま走り抜けた時に彼はそう言った。その予言通り俺はまだ死んでいないし、これから先も死ぬ気はしない。もし道路に神がいるのなら俺は間違いなく愛されている。


 博多から横浜まで一五時間走った。


『ジェンツー』という中古車屋に着いた。荷物をまとめて車を降りると、太った男が店から出てきた。なわばりを守るペンギンみたいだ。


「ごくろうさまです」と男は言った。


「写真撮らせてもらいますよ。規則なので」


 俺は店とダッヂチャレンジャーが一緒に映るようにスマホで写真を撮った。顔を上げると男は新しいおもちゃをもらった子どものように笑っていた。


「この車は愛と献身にあふれている。どうでした?」と男は言った。


「コレクター品ってやつですね。一年前に作られたみたいだ」


「レトロカーの多くは罪深い。時に離婚を引き起こしたり、嫉妬で傷付けられたり、車は自分で走って逃げられないですからね。一台一台辿る運命が違う。奇跡みたいな車だ」


「前の持ち主はナルシストに違いない」


「ですね。傷一つついていない。こんなに攻撃的で、神経質でありながら半世紀も生き延びている。涙が出そうだ」


 男はため息をつき、首を振った。


 俺がキーを渡すと、男は潤んだ目をしながら「いくらで売ると思います?」と聞いた。今にも泣きそうな目をしながら金のことを考えられるのが人間だ。


「五〇〇は固いな。六…七…八〇〇ぐらいかな」


「まさか、とんでもない。一〇〇〇越えてますよ、一一〇〇万。これから船に載せてカリフォルニアまで運ぶんです」


 利益は感動に勝つ。男の目はもう乾き始めていた。


「このへんで泊まれるところはないか? なるべく安いところが良い」と俺は言った。


「民宿っていうのは?」


「相部屋じゃなければいい」



02 民宿のビールは五〇〇円


 男に教えてもらった場所へ行くと、空き地に囲まれた一軒家があった。周りの風景と比べると家の外壁は白々しいほど光っている。玄関には『ゲストハウス バニシングポイント』と立て札があり、インターホンを押すと、顔が赤黒く日焼けした若い男が出てきた。


 とりあえず一泊して、さらにもう一泊するかは明日決めたいと伝えると二階の部屋に案内された。階段を登る時に、台所から若い女がこちらを見ていた。宿泊料金は五千円だが一人でやっているわけではないらしい。

 部屋で一人になると、俺は民宿へ来る前に買ったカップラーメンをバッグから出した。ほどなく電気ポットを持った男が部屋に入ってきて「旅行ですか?」と言った。


「人間と世界の関係が重くなりすぎて面倒になったんです」と俺は言った。男はためらった笑顔を見せながらポットを置いて「冷たいお茶が冷蔵庫にあります」と言い残して、部屋を出ていった。


 俺は机にカメラを設置して映りを確かめると、カップラーメンに湯を注いで、ポケットからコルトパイソンを引き抜いた。六連発のレヴォルヴァー式拳銃。本物ではない。引き金を引くと銃口から小指の先ほどの小さな火が出るだけだ。俺はその火でタバコに火をつけた。銘柄はマルボロと決めている。


 マルボロを三分吸って、その後カップラーメンを食べた。食べ終えると、またマルボロに火をつけて、録画した食事風景をユーチューブにアップロードした。編集はしない。タイトルも『横浜 バニシングポイント カップヌードルシーフード』とシンプルにしている。


 さらに博多から横浜までの走行動画もアップロードした。こちらも地名、国道番号だけのシンプルなタイトルだ。一五時間もあるので十二分割している。気の利いたことは喋らないが時々独り言が入っている。誰がこんな動画を見るのか分からないが、全くいないわけでもない。おそらく地名で検索しているのだろう。東京や大阪を走った動画は一万回以上見られている時がある。誰も知らないような土地、たとえば四国の徳島だとほとんど見られることはない。それでも〇ではなく一〇〇〇人ぐらいは見ているし、再生数も増え続けている。


『富山 サンロレンソ ローソンのツナサンド』という動画は何故か八万再生もされていて「エロい」というコメントが数件あった。意味不明だが一年間ずっと俺の食事動画に付きまとってきた奴もいる。コメント欄には現れなくなったが、今も俺を見ているかもしれない。世の中には俺の思惑を超えた色んな人間がいる。


 タバコを吸い終えるとマッチングアプリを開いて女を漁(あさ)った。俺のプロフィールには年収二〇〇〇万。貯金一億と書いてあるが、もちろん嘘だ。プロフィール欄には他にもベンツやBMWのボンネットに座っている俺の画像がある。女にとってはフェラーリやポーシェよりベンツやレクサスの方が格上らしい。女の需要を満たしてやるのが男の優しさだ。たとえ見え見えの嘘でも甘ければ嫌な気分にはならない。ゼロカロリーのコーラと同じだ。かえって健康にいいかもしれない。


 男なら俺の嘘を見抜ける。女でも見抜ける奴はいるだろうが心と本能が否定する。人間は自分の信じたいものを信じるものだ。女は俺の嘘を疑っても無視することはできない。加工された女の画像に惹きつけられる男と同じだ。女なら誰でも釣れるわけではないが、全員をだます必要はない。俺の体は一つだけだ。


 夜七時になると食卓に呼ばれた。客は俺一人で、宿の男と女も一緒に食べるようだ。二人が夫婦なのか、同じ民宿で働いているだけの関係なのかは分からなかった。


 宿の名前と違って、ナスとししとうの煮びたし、サバの味噌煮、そうめんのみそ汁、からし菜の漬物、それにごはんという和風な食事が出てきた。コップ一杯のビールもついていて一杯目は宿泊料金に入っている。二杯目からは五〇〇円かかるようだ。


 俺がビールを一息に飲み干すと「どちらから来られたんですか?」と女が言った。


「博多から」


「そんなところから。お仕事で?」


「ですね」


「ご結婚はされているんですか?」


 男と女は分かり合えないが、一つだけ分かっているのは、女は男を見ると結婚しているか、あるいは恋人がいるかどうか聞きたがる。ばあさんから小学生までみんなそうだ。もしかしたら赤ちゃんの時から聞きたがっているのかもしれない。男には理解できない女の七不思議の一つだ。


「ええ」と俺は答えた。


「へぇ、奥さんはどんな人?」


「羊みたいな人ですよ」


 女は首を傾げかけたが、ニッと小さな笑顔を俺に見せた。何の隠喩か分からないのも当然で、俺は結婚していないから奥さんもいない。毛皮の中には羊の本体がいるが、俺の羊は空っぽだし、なんなら毛皮さえない。それでも俺は続けた。


「ドアを作る会社に勤めているんですけど、ここ一年で五kgもやせました」


 女は目を大きくして「ダイエット‥‥‥それともご病気?」と言った。


「甘いものの一気食いをやめたんです。動物園でウサギがニンジンを食べているのを見て」


 女は笑った。男は口元をぎこちなくゆるめていた。


「やせたい気持ちは長続きしませんよね」


「でも脂肪は長持ちする」


「そう、それ」


 女が目をこれ以上ないくらい大きくして、人差し指を上下に振った。


 女は言葉を吐きだすエンジンだ。一度回転すれば、どんどん喋る。俺はその回転を助けるために空っぽの言葉をかけるだけで良かった。民宿の女は途切れることなくしゃべり続けて、気付けばもう二時間も経っていた。食卓は既に片付いている。男は食器を台所に下げてから戻ってこない。


「あ、そろそろ行かないと」


 俺が立ち上がると、女は笑顔のままだったが、口元に並んだ歯は俺を威嚇しているみたいだった。


「お出かけですか?」


「ええ、ちょっと飲みに」


「誰かと?」


「いえ、一人で」


 女は一瞬民宿の五〇〇円ビールのことを考えたのだろうが「いってらっしゃい」と同じ顔のまま言った。


03 女に盗まれる 二万円


 マッチングアプリで知り合った女と待ち合わせ場所で会った。


 ステーキ屋で肉を食べた後にビールを飲んだ。店は女が行ってみたいと言っていた店で、見た目は小綺麗だったが、肉はベジタリアン用なのか、大豆のような食感、生玉ねぎの臭い、そしてセロリの味がするステーキだった。それでも女が満足そうだったのは不思議だ。店にいる他の女達もそうで、男達は作り物の笑顔が崩れないようにがんばっていた。ただしビールだけは本当に美味しかった。


 その後、俺達はホテルへ行った。


「男の人ってみんな八歳の男の子。あなたみたいにちゃんと大人に成長した人なんて一人もいない」


 セックスの後に女が言った。ズボンに入れたコルトパイソンが俺の頭に浮かんだ。


「女はみんな手のかかる子猫だ」と俺は言わなかった。女は愚痴を言いたいだけだ。女がどうかなんて聞きたくないし、なんなら男とはどういうものなのかも聞きたくない。自分の中に作り上げた虚構の男像を誰にも否定されることなく受け入れて欲しいのだ。悲しいことにそれを受け入れてくれるのは虚構の俺しかいない。


「男の人って本当に若い子が好き」


「そうかもしれない」


 女は口をゆがめて俺の胸を拳で軽く叩いた。女の体は老いに対して必死に抵抗している体だった。同じ年の女より若く見えることを鼻にかけているが、実は股の下に白髪が一本生えていた。鏡を使わなければ自分では見えない場所だ。体と同じように服もくたびれていた。女はドアを作る会社で働いていて年収が七〇〇万あるとも言っていた。それもやはり同じ年の女より稼いでいると鼻にかけていたが半分は嘘だ。俺も嘘をついているからよく分かる。ただしどこが嘘なのかは俺にも分からない。そしてそれはどうでもいいことだ。


「見て」


 女が腕を曲げて緩やかな力こぶを俺に見せた。その裏側で二の腕の脂肪が力なく揺れていた。


「触ってみて」


「固いな」


 気の抜けるような細い腕で、細い筋肉とひんやりした脂肪の感触を手の中に感じた。


「凄いでしょ」


「ああ」


 女は努力していた。それが見えてしまう、あるいは見せずにはいられないのが不幸だ。努力は誰もが称賛してくれるが、同時にその人間の価値を努力したぶん差し引く。努力は理解されるほど見下されていく。有名人の苦労話がウケる理由がそれだ。


 努力を剥ぎ取った部分がその人間の本質だ。努力は見せてはいけないし、女も必死な男は気持ち悪いと言っていた。しかし自分の言動を振り返る余裕はない。


「そろそろ出る?」


「ああ」


 俺がそう答えると「先にシャワー浴びてきて」と女は言って、バッグから手鏡を出すと化粧を直し始めた。

 俺は浴室に入ると、女の臭いを洗い流すように熱いシャワーを浴びた。あの女の存在が俺の頭と体から排水溝へ流れていく。ドアを開けた時、女がいなくなっていればいいのにと俺は願った。そして浴室を出ると本当に女がいなくなっていた。


 ベッドそばの壁に「うそつき」と口紅で書かれていた。床に散らかっているシーツの上に俺の財布が落ちていて、小銭はあったが、札は全て抜き取られていた。初めから女を信用していなかったので二万円しか入れていなかったが、俺は自分の間抜けさに腹が立った。女が化粧を直しているところは見ていたのだ。早く女と別れてしまいたいという気持ちが俺の心から余裕を奪っていた。


 タクシー代がないので俺は二時間も歩いて民宿に帰った。その時にはもう十二時を越えていて、民宿の明かりも消えていたが、インターホンを鳴らすと民宿の女がドアを開けてくれた。まぶたを重そうにしている。さっきまで眠っていたようだ。


「シャワー浴びてもいいですか?」と俺は言った。


「静かにしてもらえるなら」と女は言った。


 俺はシャワーを浴びて、再びあの女を排水溝へ洗い流すとパンツ一枚で部屋に戻った。余計な荷物は持ちたくないので冬でもパンツ一枚で寝る。寒ければ布団を被ればいい。


 俺は布団で横になるとバッグからノートを出した。それは手のひらほどの大きさで、左のページには収入を、右のページには支出を書き込む。毎日書いているので日記のようなものだ。ページをめくるとコーラ一三〇円と書いてあり、三か月前に自動販売機の前に立っていた時の熱気、太陽のまぶしさ、セミの鳴き声、アスファルトから蒸発する雨のにおい、コーラがゼロカロリーだったこと。色んな記憶がよみがえった。


 俺は今日使った金を書き足し、最後に『女に盗まれる 二万円』と書き加えるとノートをバッグに戻して眠ることにした。

(続きは本編で)



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『銀座の中心で稲を育てる』リリース記事


内容紹介

本当の自由を求めて私は銀座の中心で稲を育てることにした
虹をまとう鏡の塔、カニの手を持つ男、虹に祈る女
稲を育てる間に出会う人達
青い猫を描いた女に出会い、私の運命は思わぬ方向へ転がり落ちる



冒頭試し読み

 1 銀座の中心で稲を育てる


 私は銀座の中心で稲を育てることにした。本当の自由が欲しくなったからだ。


 自由とは何か? お腹が空く→ごはんを食べる。これは自由ではない。体の欲求に反応しただけで、自分の意志による行動ではないからだ。お腹が空く→ごはんを食べない。これは自由か? もし食べないことに理由がないのなら、お金がない、病気で食べられない、食べ物がないなどの理由がないのなら、それは自由だ。


 選択の余地がないのなら自由ではない。必要を満たすことは自由ではない。欲求を満たすことも自由ではない。否定ばかり多くなってしまったが、私は否定形でしか自由を表すことができないようだ。もし『自由ではない』の反対が自由だとするならば、自由とはこう言い換えられそうだ。選択の余地があるなら自由、必要ではないのなら自由、欲求を満たさないのなら自由である、と。


 この世の全ては裁定取引によって動く。価値あるものを一〇〇円で買い、一〇〇円で買った物を一〇〇万円で売る。喩えなので数字は大げさだが大体はこういうことだ。やり取りするのは物やお金ではなく、心や行動でもいい。価値に差があるところに取引が発生する。もし神が現れて、この世の全てをあらゆる意味で平等にすれば、全ての取引が止まるので世界は停止する。


 さっきの喩えで出した一〇〇万円の物が一〇〇円に、あるいは一〇〇円が一〇〇万円になることはめったにない。めったにないということは、まれにあるということでもある。私の家は価値ある物を安く買って、高く売ることによって儲けてきた。まれにあることを逃さないために何百年もかけて組織を作っている。一人の人間には一生起こりえないことも組織にとってはよくあることになる。一人の人間にとって生と死は一度しか起こらないが、人類全体で見ればさして驚くことでもないのと同じだ。


 銀座の中心でまれにないことが起きた。日本で一番土地の値段が高い場所だ。さすがに一〇〇円ではないが本来の価値からすればタダ同然の値段で手に入れることができた。一〇〇万円のものを一〇〇円で買ったわけだ。先祖代々に続いてきた組織はさっそく銀座の中心を利用した儲けの算段を始めた。彼らは自由意志でそうしているのではなく組織の意志によって、そう動く。しかし私は「待った」の声をかけた。そして止まった。この組織で私の声はもっとも価値を持つと決められているからだ。


「銀座の中心で稲を育てようと思います」


 組織の主だった者たちが集まる会議で私は言った。否定よりも、まず私の言った言葉の意味が分からないという沈黙がその場を包んだ。


「それは銀座の中心を田んぼにするという意味ですか?」


 口を開いたのは会議で二番目に価値が高い男だ。


「その通りの意味です。銀座の中心に田んぼを作り、稲を育てます」


「分かりませんね。田んぼにする、稲を育てる、それで何になります? 稲を育てるのはけっこう。しかし銀座より良い場所はあります」


「たとえば?」


 男は米の名産地、次の東京の地名を言った。


「銀座の土地は高すぎます。キロ一〇万円でも元は取れません。それにあそこでは大した米も取れそうにない。良い米を作るにしても、効率的に作るにしても、銀座は米を作る場所ではありません」


「銀座で米は儲からない。だから育てないと?」


「育てるところではなく売るところですね」


「儲けたくないと言ったら?」


 会議がざわついた。


「私は儲けなんていらない。自由が欲しい」


「米を作るなら別の場所がいくらでもあります」


「銀座でやらなければ自由ではない」


「その理由は?」


「理由はありません。しかし、それこそがまさに自由。儲からない、作る必要もない。だからこそ銀座で稲を育てることが自由なのです」


「なるほど。おっしゃることは理解しました。しかし我々の活動は全て儲けを得るためにあります。あなたのご先祖が代々築き上げて、いまや途方もない富を得るようになっています。あなたも、私もそれで三度の飯を食べていかれるのですが、それをないがしろにされるおつもりですか?」


「我々は銀座を自由にできないほど追いつめられているのですか?」


「いいえ、しかし我々の意志とは反します。銀座で稲を育てて、そこから宣伝なり、啓蒙活動なりをして、他のところで儲ける。それなら我々の意志とも合います。しかしそんなことは考えておられないのでしょうね」


「もしそうなら、それは自由ではない」


「もしかして我々に謎かけをされていますか? いつも正しい判断をされてきたあなたが突然こんなことを言い出すのはそうとしか考えられない」


「正しい‥‥‥その正しいというのは私から出てきたものではありません。小さい頃から親やあなた達から植え付けられた意志や活動の結果にすぎないのです」


「その言い方だと銀座で稲を育てるのは間違いだとあなたも思っておられるようだ」


「間違っています。正しくない。必ず損をします。一万年かけても費用の回収さえできない」


 男はにやりと口を歪ませた。彼の笑顔を見ると正しい判断をできたのだといつも安心できた。今もそうだ。私の判断は正しい。


「しかし、それでも私は銀座で稲を育てます」


「あなたはどうしてもそれをやるのですね?」


「はい」


「よろしい」


 カチッと音がしたわけではないが、彼の中で銀座の土地が損勘定に入ったのが私には分かった。これから銀座の中心を田んぼにするためにどれくらいの費用がかもかるのかも概算していて、それはきっと正しいだろう。大きい損は出た。しかし他で補填できないものでもないないと算段はついたようだ。


「銀座の中心で稲を育てる。けっこうですな。その調子で地球を田んぼで覆)うとよろしい」


 男は笑った。私がそんなことはしないと確信している笑いだ。


 会議ではまたたくまに銀座の中心を田んぼにする計画が練られ、予算が組まれた。こうして私は銀座の中心で稲を育てることになった。

(つづきは↓)

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流星を打ち砕け インタビュー

インタビュー『流星を打ち砕け』を書く。 聞き手:牛野小雪


―2020年2月に『流星を打ち砕け』をリリースされました。この小説のアイデアはどこから生まれましたか?

 今さらという感じですが東日本大震災が元になっています。ただしこの小説では地震ではなく隕石に襲われることになっています。なぜ地震ではないかというと、震災は他の場所でも起こるし、過去未来でも起きるので、そういう天災を抽象化したものが隕石となりました。だから震災は関係あるともいえるし、関係ないともいえる。
 

―隕石はただ落ちてくるのではなく核爆弾で破壊された破片の状態で落ちてきます。これは福島原発との関連はありますか? それとも広島長崎の原爆は関係ありますか?

 原発、原爆との直接的な関連はないにしても科学や人間社会の象徴としての核爆弾ではあるかもしれない。人類滅亡級の隕石という理不尽な自然を、人の手で何としてでも破壊するという意思の象徴として核爆弾。もし地球や宇宙の環境がどうのと言っていれば人類は滅亡するわけで、核爆弾は恐ろしいものですが同時に人間の役にも立っている。核爆弾は人殺しの道具で、それは通常兵器も同じことですが、そういう兵器を作った科学は悪い物か、とは一概に言えないと思うんです。良い悪いは別にしても科学無しで現代人は暮らしていけないし、自然に還ろうと説くナチュラリストも恩恵からは逃れられない。そもそもどこから科学といえるのかという問題で、火を起こすのも広義な意味では科学であり、その延長線上に核爆弾があるような気がする。
 と、考えてみると主人公の藤原千秋は火を起こさないことに気付きました。もちろん人間だからところどころで火の恩恵は受けるけれど自分からは起こさない。そして、二階堂先生という人が出てくるのですが、彼女はマッチと燃料を使って火を起こすんですね。その彼女は物語の後半で千秋がある行動を起こすきっかけを作るんです。自分では気付かなかったけれど、これは反科学小説、あるいは反社会小説という読み方もあるかもしれない。

―『ターンワールド』で主人公のタクヤが別世界に行った時に、老人から最初に教わるのが火を起こすことでしたね。

 タクヤは火を起こすけれど、千秋は起こさない。でも最後にやることは似ているんですよ。タクヤは意識的にですが、千秋は無意識に。

―それでは今作も世界が終わる話ですか?

 どの小説でもそうなんですが、まずある世界があって、それが変化するなり、成長していくものだから、ある意味では毎回世界が終わるんじゃないかな。でも元の世界といっていいのかな。帰る場所に帰る方法はタクヤは無意識だけれど、千秋は意識的だったりする。

―それは男女の違い?

 こうやって考えさせられているから出てきたことで、今まで考えたこともなかった。でも私の中で男女の性別が反転するように、行いや考え方も反転したのかもしれない。

―たとえばもし主人公がゲイやレズだったら、どうなっていたでしょうか?

 タクヤは男だからこう、千秋は女の子だからこう、という気持ちで書いたわけではなく、それぞれサイトウタクヤ、藤原千秋という一人の人間として書いたつもりです。無意識的に書き分けたかもしれないけれど、意識的にはそうです。小説の登場人物で書かかれるのは人間性だから、たぶんゲイやレズでも特に意識はしないかもしれない。究極的には火星のペンギンでも同じだと思う。

―なぜ火星のペンギン?

 小説で猫を書いても結局はどこか人間的だから、やっぱり火星のペンギンも人間的に書くと思うから。

―猫は飼っておられますか?

 家の近くに空き地があって、そこが野良猫というか野生生物のたまり場になっているんですよ。猫を飼ったことは一度もありませんが、姿は毎日のように見ています。小学生の時はある野良猫と友達になって毎日遊んでいた時もありました。

―何をして遊ばれたのですか?

 相手は猫だからね。ボールを投げたり、追いかけっこしたり、鏡を見せて驚かせたり、一緒に屋根の登って地上にいる人をながめていたり、まぁそんなこと。エサは一度もあげなかったけれど何故か気が合った。夕方の四時に何度も名前を呼んでいると、どこからか現れて足元にやってくる感じ。でもある時から姿を見せなくなって、もしかしたら死んだんじゃないかって何日か探していたら、とある家のおばあさんにすっかり餌付けされていて、名前を呼んでも来なかったからそこで友情は終わりです。

―『流星を打ち砕け』ではクッキーという猫が出てきます。他の小説でも猫が出てきます。その経験は生かされていますか?

 たぶん関係ないんじゃないかな。別の小説ですが、ある人にうちの猫はこんなことしないと指摘されたことがあります。他の人もそう思ったかもしれない。でもクッキーは『うちの猫』じゃなくてクッキーだから、そういうものだと思って読んでほしいですね。それにクッキーも自分をそんじゃそこらの猫じゃないと言っているしね。

―どうやってこの小説を書かれましたか?

 最初に構想をノートに書いて、それを元にプロットを作りました。先が分かっていると面白くないからと、プロットを作らない人は多いようです。
 完全にプロット通りに書いているわけではなく、二年前からは『後からひらめいたことは絶対に正しい』という信念で書くようにしたので、書く前はもちろん書いている途中でも書き直します。『流星を打ち砕け』は9回書き直しました。でも基本的には道筋が決まってから書くやり方は変えていません。世界には何百万人も作家がいるのだから、こういう作家がいてもいいでしょう。

―書き直すとは具体的にどういうことをするのですか?

 大きなところ小さなところと色々ありますが、たとえば最初のプロットの書き直しは登場人物を減らしました。元々の案はポロ部の子が4人。同級生の子の妹、その友達がいたのですが、音々ちゃんと伊集院先輩を除いて全員消えました。その二人にしても、ほとんど物語に関わってこない。顧問の二階堂先生も役割が変わった。

なぜ減らしたのですか?

 本筋は藤原千秋の物語だから。ポロ部だけじゃなくて先生や避難所にいる人達にも物語はあった。そういうのを全部書いたら完成稿の倍の倍ぐらいの分量になったと思う。でも藤原千秋にできるだけ焦点を当てていたら、みんな消えてしまった。
 これは作者にしか分からないかも知れないけれど、ところどころにある妙に力が強い場面には、消えたプロットの名残がある。だから表面には出てこなくても、書かなかった部分はこの小説に力を与えていると思う。書かなかったものはたくさんあるけれど、無駄になったものはない。みんな役に立っている。
 面白いのは藤原千秋の物語なのに猫のクッキーが登場することで、彼女はほとんど千秋と関係ないところで動いていて、理論的にはクッキーはこの小説に必要ない。だからポロ部の子達より先に消えるはずだったのに何故か最後まで残ってしまった。

―それは彼女が世界で一番美しいから?

 かもしれない。なぜ消さなかったのかと問われても分からない。推敲をしている時でも消した方がいいとは思ったけれど、消したのは一章だけ。でも同じタイミングで千秋も一章減らした。クッキーなしで千秋は存在できないようだ。
 もし、千秋かクッキーかを選ぶとしたら、クッキーの章だけを残したいな。でもそうすると小説が成立しない。難しいね。でもたぶん、これは予感なんだけれど、私は将来的にクッキーだけで小説を書くようにな気がする。

―いつからそのような書き方を?

 今とまったく同じではありませんが、プロットを作るやり方はもう10年以上前から、自分の部屋から半径1m以内で完結する小説を書いていたころからです。
 書き方は少しずつ変化していって、一昨年からは執筆と並行して仮書きをするようになりました。絵でいう下書きみたいなものですね。これで手応えがあったので『流星を打ち砕け』は執筆前に一度最後まで仮書きして、そこからまた執筆と並行して仮書きをしました。次の日に書く分を毎日書くんです。こんなに手間をかけたら一年以上かかるんじゃないかと不安になったけれど、執筆は今までにないぐらい進んだので去年中に終わりました。



―書き方の参考にした本はありますか?

 齋藤孝さんの『原稿用紙を10枚書く力』です。今思い返すとあれは小説の書き方ではなかった気がするけれど、小説を書く前に色々準備しておくという考え方はこの本で習いました。それまでは原稿用紙3枚ぐらいがやっとで、5枚も書いたら物凄く書いたと感動したぐらいですが、その本を読んでからは10枚、20枚と書けるようになりました。これ以外にも何冊か書き方の本は読んだのですが、動物が生まれて初めて見たものを親と認識するように、この本以外の書き方は私の中に残りませんでした。

―『流星を打ち砕け』は私という一人称で千秋とクッキーの章が書かれています。あなたのこれまでの作品から一人称は珍しい印象を受けるのですが、今作で一人称にした理由はありますか?

『聖者の行進』という小説を書いたときに神視点の三人称で世界を書こうとしました。人がいない小説を書こうとしたんです。じゃあその次は個人の視点を重ねて世界を書けないかなと。フォトショップでレイヤーを重ねて絵を描くように、小説も書けないかなと。

―芥川龍之介の『藪の中』のような? しかしレイヤーは重なっていないように思われます。

 一つの事象を多数の視点で見るのではなく、それぞれが別のところを見ている。『藪の中』はくねくねと曲がった穴の底へ潜っていくようなのに対して、私はただ広い暗い空間を目を光らせながら歩いているようなものですね。芥川は立体的で、私は平面的。彫刻と絵画、三次元と二次元。

―次元が多い分、芥川が一枚上手だと思われますか?

 どちらが上ではなく、ただ違うんだと思います。三次元が二次元より偉いというわけでもないでしょう。それに『藪の中』は既にあるのだから、後世の人間は違う小説を書かなくてはいけない。でも負けたくはないな。

―小説の舞台はすだち県という架空の土地ですが、四国にあると書かれていて、挿絵に出てくる四国も現実のものとほぼ同じです。徳島県がモデルなのですか?(牛野小雪氏は徳島県在住)

 三つ子の魂百までと言いますし、やはり体に染みついた空気と水は徳島から離れられないんだと思います。『流星を打ち砕け』だけではなくすべての小説は徳島県から発想を得ているはずです。作中では別の土地になっていても、私が思い描いている場所は徳島県のどこかという場合がほとんどでしょう。

―ほとんど、ということは違うこともある?

 生まれてから一度も徳島を出たことがないというわけではありませんから。ただ想像の土台はやっぱり自分が育った場所を抜けられないんだと思います。でも『流星を打ち砕け』に出てくる砂浜は実在しません。というのも私の記憶ではそこに砂浜があったはずなのに、実際に行ってみると高速道路の橋桁が立っていたんです。護岸整備もされていて、とても浜と呼べる場所ではなかった。だから、あそこは私の頭にしかない場所なんです。

―その砂浜から千秋は『U.S.NAVY』と船体に書かれた船を見ます。米軍の船ですね。搭乗員はアメリカ人で英語を話しますし、作中でもそこは英語になっている。別の場面では千秋がシャネルの帽子を被ったり、プーマのジャージを着たり、スパゲッティを食べたりしています。馬や猫の名前は明らかに外国のものです。なぜ日本人のあなたが外国の文化を書くのですか? 西洋かぶれなのでしょうか?

 まだ(2020年1月現在)リリースはしていないのですが一昨年から去年にかけて『山桜』という小説を書いていました。書く前は純日本的な物を書こうとしていて、武士道とか、大和魂とか、あるいは外国人から見た日本とか、色々調べていたのですが、結局純日本的な物とは何かというのが分からなくなってしまいました。ある瞬間、ある時代における日本的なものはあっても、別の時代では簡単に変わってしまう。という至極当たり前のことに気付いたのです。和服一つとっても十二単と小袖は別物だし、刀も鎌倉時代に馬上で使われていた物と、幕末の武士が腰に差していた物はやはり違う物。
 なぜ外国の文化を書くかといえば、それが現代の日本にあるからでしょう。たぶんですが、プーマが外国の企業だと知っている人なんてほとんどいないだろうし、意識もしていない。私にしても何年か前にTVで知ったぐらいです。シャネルは外国の物として意識されているかもしれませんが、それ以上に『ブランド物』として意識されているはずだし、スパゲッティもイタリア料理ではなくスパゲッティとして意識されている。たぶん。少なくとも私はそう。外国の物はすでに日本の物として吸収されているから『純日本』とは言えないにしても『現代日本』ではあると思うのです。
 ただ、私は週刊少年ジャンプとハリウッド映画を浴びて育った人間ですから。半分は西洋、というかアメリカに影響を受けているのは間違いないです。
 そしてたぶん西洋かぶれっぽく感じたのだとしたら、それは去年、純日本的な物を書こうとした『山桜』の反動だと思います。

―主人公の千秋はポロ部です。現実の日本で、学校の部活動としてのポロ部は存在しません。なぜ千秋はポロ部なのですか?

 それは私が訊きたいぐらいで、小説の初期の初期、まだ形も言葉もないイメージから彼女は馬に乗って現れました。右手にはポロの棒を持って。理屈からひらめきが出ないように、ひらめきから理屈は出てこないんです。ポロ部だからポロ部。それ以上の理由はありません。

―ポロをされたことはありますか?

 小さい時にポニーに乗ったことはあります。背中の毛がごわごわしていて、温かかったことを憶えています。

―今作では挿絵をご自身で描かれています。普段は絵を描かれているのですか

 新作を出す時に自分で表紙を作らなければならないので、数年前から美術館に通って刺激を受けに行くようにはなりました。でもああいういかにも『芸術』みたいなのは描くつもりはないですし、描けるとも思いません。時々ちらっと描くだけですよ。挿絵を書く必要がなかったら毎日は描かない。たぶん月に2、3回ぐらいじゃないかな。数えたことはないけど。

―絵は何枚描かれましたか?

 挿絵は50枚くらい。でも下書きはたくさん描きました。割り箸の紙とか、整理券の裏とか、そういうのに描いたのも含めると100や200は超えているだろうけれど、たぶん1000枚は超えていないんじゃないかな。


ーどうしてこんなにたくさんの挿絵を描く気になったのですか?

 twitterでセルフパブリッシングの作家の人はマルチな才能があって、絵を描ける人もいるのだから挿絵がいっぱいの小説を書いたらいいのにと言っている人がいたので、それに触発されて描きました。もっとも私に絵の才能があるとは思えないけれど。

―絵を描くにあたって参考にされた本はありますか?

 中村祐介の『中村祐介「みんなのイラスト教室」』とパウル・クレーの『造形思考』。それとどうしても馬の形が掴めなかったのでジェニファー・ベルの『‐HORSE‐やさしい馬の描き方』を読んで練習しました。この本を読んでいなかったらユニコが出てくる挿絵はなかったでしょう。

―これからどういう小説を書くつもりですか?

 今見えている目標としては限りなく透明に近いフラットな小説を書くつもりです。どこまでも平坦で、凹凸や深みがない、全てが表面で完結する、いわゆる『文学的』ではない物を書きたいと思っています。

―表面で完結するとは?

 感情と事実が消えた世界です。といいつつ私もまだそれがどんな物か想像はつかないんですけどね。
 形が見えている物なら『平家物語』の冒頭ですね。ああいう何人称とか関係ない文体で小説を書けたらなとここ数年は悩んでいます。

―最後に、あなたにとって小説とは?

 地に落ちた堕天使(ルシファー)。

―堕天使ですか?

 小説は最初、言葉も色も形もない純粋なイメージで降ってくる。そのイメージはあまりにも素晴らしすぎて、小説家はしばらく圧倒されてしまうけれど、そこから何とか言葉で形を捉えていく。しかし言葉にするばするほどイメージは損なわれていく。天使が言葉に羽を食べられて、天国から地上へ落ちてくるようなものだ。
 地上に落ちた天使は小説家が扱える物になる。最初に圧倒されたイメージとは別物になっているけどね。まぁ、言ってしまえば天使ちゃんではなくなってるわけだ。でもそこであきらめずに地上で生きていく強さを身につけて欲しいと願いながら書き続けることが、小説を書くってことじゃないかな。小説の最初は魔力だけど、最後は魔が抜けて力になっている。だから現実に存在できる。
 一番良いのは小説を書かないこと。小説は純粋なイメージの時が一番美しい。でも手に入れようとすれば、羽をもいで地上に落とさなければならない。小説は誰にでも書ける、あるいは誰でも一つは自分の物語を持っているというけれど、実際に書く人があまりいないのはそういうところに理由があるんじゃないかな。小説を書くことは精神的な自傷行為で、書けば書くほど雲の上にいる天使は傷付いていく。でも傷付けなければ地上に引きずり落とせない。放っておけばいいのに、手で掴もうとするから小説家は残酷で罪深いと思う。

―なるほど。今日はありがとうございました。

 こちらこそ。ありがとうございました。

(おわり)


『流星を打ち砕け』の表紙はどうやって作られたのか。ポイントは《読まなくても内容が分かる》



 初期の案。プロットを書く前に描いた。英語の題はBreak Shooting Starになっているが、最終的にはdawnをつけてBreak Dawn Shooting Starにした。
 千秋の髪形はこの時にもう決まっていた。彼女が持っているのはポロで使うマレット。作中ではハンマー杖と呼ばれているが一度しか挿絵で出てこない。
 ちなみに初期案では千秋が大人で、世界で一番美しいという設定になっていた。

 
 黄色と青だけでは弱いのではないかと不安になって色を塗った。どうしても葦毛感が出せなかったし、そもそも配色が悪い。これなら二色で勝負する方がマシだと思った。 
 なぜ『流星を打ち砕け』は青と黄色なのか。それは何かの本で青と黄色の組み合わせが、これからの時代に流行ると何かで読んだから。自分の色彩感覚は信用しないけれど、他人のは信用する。もしかしたら間違っているかもしれないね。でもそれを鵜呑みにするのも自由だ。


 題名と作者名を中央に置いた。黒ボックスがあるのは文字を見やすくするため。


 上三つの絵が気に入らなかったので、推敲中に描いた。挿絵を何枚も描いた後なので、ちょっと腕が上がっている。
 クッキーの鼻がちょっと切れているのは内緒。


 表紙を見ただけで内容が分かるようにするため。そしてテキストの変形をおぼえたばかりで、文字で何かやりたかった私が試しに作ったもの。これを表紙にするつもりはなかったが、これで下の表紙を思い付いた。


 どう見ても『スターウォーズ』のOP だけど、ここから新案のヒントを得る。ポイントは《読まなくても内容が分かる》だ。


 隠した方が良いんじゃないかと青い色で枠を作り、そこに題名と作者名を入れてみた。上下に分けて大字にするというのは気に入った。自分勝手な感覚だが上下の合わさるところに中心点が来るからバランスはとれていると思う。


 決定案。どこか怪文書っぽい。創作のヒントはフランスで盛んだと言われているコラージュという手法(そもそもコラージュがフランス語)。ピカソも手を出したことがあるのだとか。作中の挿絵をこれでもかとバラまいた。本を開かなくても、こんな感じのことがあるんだなと分かる。挿絵は全部で50枚近くあるけれど、収まりきらないので20枚ちょいにした。これこそ小説の《顔》としてふさわしい。表紙に惹かれたら是非中身も読んでいただきたい。もちろん惹かれなくても。

※追記:2023年10月に表紙を新しくしました。千秋とクッキーにフォーカスをあてるためシンプルに二枚だけ。クッキーがちょっと大きめ



挿絵一覧


藤原千秋 第一章 70年連続日本一のポロ部



クッキー 第一章 世界で一番美しい私 


藤原千秋 第二章 流れ星でいっぱい



クッキー 第二章 世界で一番美しい私、漁師にすくわれる



藤原千秋 第三章 ユニコと一緒に



藤原千秋 第四章 私の埋葬地



クッキー 第三章 世界で一番美しい私、へちゃむくれの猫を見る


藤原千秋 第五章 令和町のシンデレラ


クッキー 第四章 世界で一番美しい私、がぶりとやられる


藤原千秋 第六章 ポロ部の生き残り


藤原千秋 第七章 恐竜が三回絶滅する噴火



クッキー 第五章 世界で一番美しい私と二十五匹のソフィア


藤原千秋 第八章 馬の運び屋


クッキー 第六章 世界で一番美しい私、墓をあばく


藤原千秋 第九章 お手柄!町の騎馬警察


クッキー 第七章 夢の続きで会いましょう


藤原千秋 第十章 青い凶星去り去りて


クッキー 第8章 千秋はどこにいるの?


藤原千秋 第十一章 初めて見る顔


クッキー 第九章 世界で一番のうぬぼれ屋


ユニコ 第一章 本当に世界で一番美しい私


ユニコ 第二章 天国よりも高い場所


藤原千秋 第十二章 ユニコをこの世に引き止められる力


クッキー 第十章 人類滅亡級の破滅的なハッピーエンド

流星を打ち砕けができるまで



流星を打ち砕けができるまで


妄想でジュースを飲む


 2020年の4月1日に『山桜』という小説を出すつもりで、それまでは『難聴製造機』という短編を出すかもしれないが、基本的には小説のリリースは無しにする予定だ。かなり時間のマージンを取ったので、手広くやろうと5月は色んな本を読んだが、本当に手広すぎて何にも物にならなかった。何らかの方向性がないとダメだと、一つ決め打ちをしたら予想外の方向に伸びて、もしかしたら長編になるかもしれないと注力することにした。輪郭はもう捉えている。仮題は『流星を打ち砕け』だ。『世界が終わる日~人生最悪の48日間~』というアイデアもあったが、世界が終わらないのでボツになった。

 オペラント条件付けという心理学の手法がある。俗にいう飴と鞭だ。小説が4000字以上書けたり、ノートかプロットを4ページ以上書けた日は近くにある自動販売機でジュースを買うことにしている。正の条件付けだ。しかし、目標の分だけ書ける日は少ないので、この行動は強化されていない。

 そろそろプロットラインを書く頃だという予感はあるけれど、書き出せない。たぶん失敗することを恐れているのだ。そしてそれはたぶん正しい。私はプロットラインを書き切れない。こういうのは何回も引き直しながら完成させる物で、書ききれなかったところから、また新しい切り口を発見しながら書いていくものだ。最初の一回でプロットを引けたことなんて今まで一度も無い。しかし、それは理屈で、感情では失敗することが分かっているから一歩踏み出せずにいる。

 というのを雑感帳を書いていて気付いた。それならルールを変えればいい。プロットの完成を目的にするのではなく、失敗することをゴールにする。それでチャレンジを恐れないようになる。何度でもトライできるようになる。

 という自己啓発書みたいなアプローチも失敗する。

 結局はいつものように失敗を受け止められるようになるまで、心の余裕ができるのを待つしかないのかとも考えたが、そこでふと上のオペラント条件付けを使えないかと思い、全然書けなかった日に自動販売機でジュースを買って飲んだ。いやいや、失敗に報酬を与えるとダメなるのではないかと思われるだろう。もちろんダメだった。次の日もプロットラインを引けなかった。

 書けない原因は失敗するからではなく、失敗を予想するところにあると私は考えた。失敗→ジュースではダメで、失敗=ジュースでなければならない。パブロフの犬だってベルでよだれを垂らす。というわけで私はプロットを書く前に、今日はプロットラインを引き切れなくてジュースを飲むという想像をした。冷たく甘い感覚が口の中を通っていくイメージをする。すると、その日はプロットラインを引けた。次の日は、もっとうまく引けた。こうして先週は全体のプロットラインを4回も引けた。未だにプロットは書き切れていないが、書き始める前のプロットラインとしては今までで一番引き直した数が多い。しかも1週間で4回も引いたのは初めて。前代未聞の大快挙からして、たぶんこのアプローチは間違っていない。

失敗予期にジュースを飲むところをイメージすれば、ジュースは飲まなくてもいいのではないかと予想したが、一度だけで効果がなくなった。あるいはたまたまその日が書けない日だったのかもしれないが、たぶん学習したのだろう。『妄想に騙されるな』と。やっぱり失敗にはジュースが必要だ。自分に嘘をつけるのは一度だけ。


追記:なぜ報酬がジュースなのか。甘さは確実に効果があるから。現代人に肥満の悩みが尽きないのが、その証拠だ。最初はチュッパチャップスだったが、よだれでべろべろになった棒がゴミ箱にたまるのが嫌だからジュースにした。でもチュッパチャップスでも大丈夫だろう。

追記:たぶん書けたことに報酬を与えても正のフィードバックはない。夏目先生も毎月たくさん給金を貰っても書けないものが書けるようにはならないと言ってたし、私もそう思う。2兆円くれても、いま胸の中にあるものを書けるとは思えない。お金に目がくらんで「これが正真正銘偽りのない私の小説でございます」とごまかすかもしれないけど。


登場人物を減らす


小さな話はいくつもある。それがひとつの物語としてまとまらないというのが先週の悩みだったが、とうとう点と点のカオスな集まりが、線と線とで結ばれ始める瞬間が来た。奇跡を目の当たりにしたように肌がざわめく。何でこんなことが起こるのだろうと自分でも不思議に思う。小説は考えて書けるところもあるけれど、何故それを書いたのか自分でも分からないというところもある。そしてそういうところが物語に重要な繋がりをもたらしている。持て余したセンテンスをどうにか活かそうと無意識で奮闘したとも考えられるけれど、私はそこにあるべきものが理屈を超えた何かで現れたのだと私は信じたい。時間、宇宙、全てを統括する神様がいるかどうかは分からないけれど小説の神様はいるような気がする。小説は書くのではなく発見するものなのかもしれない。

 プロットの内容がかなり詰まってきたので登場人物を減らしていくことにした。たとえば人間の裏と表で二つ。平常と異常で二つ。2×2で4つの面がある。一人一人に役割を与えることもないし、一人の人間に色んな面があるば深みも出る。そうやって人を削っていくと、後半に出てくる人間が一人を残して、みんな消えてしまった。私は4人の人間の生きていく姿を書くつもりだったが、その目論見自体が消えてしまったので、小説全体の基調も変えざるを得なくなり、もしかするとこれは間違っているのではないかと思い始めたが、過去のノートやプロットを読み返すと全体のプロット変更は日常茶飯事で特に執筆に取り掛かる前だと、全然違う話になるのは珍しくもないということを思い出したので、一念発起してプロットラインを引き直した。引き終わると最初からこういう小説になる運命だったとしか思えないほど良いプロットになった。しかし、プロットは変わり得るものという前提を思い出すと、またひらめきが降ってきて、さらにもう一回引き直した。やっぱりまた良くなった。先週は同じプロットを何度も引いて煮詰めたが、今週は何回も生まれ変わらせた。
だからといって先週やったことは無駄ではなく、先週の溜めがあったから今週の飛躍があったのだと思う。無駄になった物は無駄ではなかったのだ。




ノートへの仮書きを始める


プロットラインは引けたのだけれど、最後の最後までは引ききれない。遠い場所にあるものはぼんやりとしか見えないからだ。その代わり近くにある物ははっきりと見える。冒頭はもう書き始めるしかないというぐらいプロットがみっちりと詰まっている。
ノートに仮書きしてみると、そこからまたプロットが湧き出てきた。とはいえ全体のプロットではなく、精々目前の2、3千字分ぐらいだ。近くを見ると遠くは見えなくなる。当たり前のことだ。全てを平等に見渡すなんて天才にしかできない。才能がないなら一歩ずつ歩を固めて、愚直に時間をかけるしかないのだ。

 ひらめいたことをプロットラインに書き足して、また冒頭から書き始める。こうやって最後まで仮書きしていけばプロットの最後も何かしら湧き出てくるだろう。根拠はないけれど今までがそうだったから今回もそうだと信じるだけだ。本当はプロットラインを最後まできっちりと書きたかったが、引き切る能力が私にはないらしい。でも最終的にはきっちり引けている。と私は信じる。


100点満点なんてなかなか取れない


プロットラインを引きながらとはいえ、仮書きなので執筆ほど強度は高くない。だから一日に4ページは書けるはずという目論見はあるが2ページも書くと、もう力尽きてしまう。いつもこれが不満だ。でもたぶん4ページというのは自分が持っている力を100%出し切れたらという想定で、5ページ書けるはずだとは考えたことがないし、実際に考えてみると絶対に無理だと感じる。やはり4ページというのは私の最大限なのだ。でも4ページは書けるはずだし、書けたことも何回かある。絶対に書けない量ではないのだ。

 とはいえ実際は2ページ、あるいはそれ以下という執筆量で限界がくる。冷静に考えれば毎日最大限まで力を使い切れるはずがないのだけれど、どうにかすれば書けるはずだという気持ちは離れない。ブラック企業みたいな考え方だけれど理屈と感情は別物なのだ。


 でも50点の日が続くから死なないで済んでいるのかもしれないということを考えた。途中で死ななければ、いつか最後まで書ける。毎日100点を取ることが目的ではなく、小説を書き上げることが目的だ。小説の出来で100点を取ればいい。と、自分を慰められるのは一時だけで、やっぱり1日の終わりは(今日も書けなかったなぁ)で終わる。




言葉は他人のため



 ポロの歴史の本を読んでいると『ポロ』と呼称されるものはイギリス発祥だが、馬に乗って球なり獲物なりを追って、棒で叩くという競技は世界中にあるそうで、wikipediaには世界で最も古い歴史を持つスポーツと書かれているぐらいだ。極東の島国である日本にさえ伝わり、平安時代より前に中国から撃球が伝わり打毬(ポロ)になったという説がある。

元々イギリスに『ポロ』はなかったが、インドから輸入した騎乗の球遊びは貴族や軍人達の間で大流行していた。明文化されたルールはなく、お互いの空気を読んでプレイするスタイルだったが、別のグループとプレイする時はお互いの勝手が分からないのでルールを明文化する必要があった。そうやって誰でも分かるルールができあがっていくと、ポロが遊びからパブリックなスポーツに変化していった。
 私が面白いと思ったのは身内同士でプレイする時はルールを明文化する必要がなかったというところだ。私が思うに、何を喋ったかは分からないけれどめちゃくちゃ喋った。というのが最上のコミュニケーションだ。心と心が通い合うなら言葉は必要ないのだ。小説やマンガだと人間の考えていることが言語化されているけれど、実際は言葉未満のところで考えているのが9割で、言語化されているのは極僅かな領域でしかないと常々思っているし、言語化するにあたってどこか嘘やごまかしが混じっているような気もしている。
 小説は書く前が一番良くて、自分の胸の内にある時が最上で、書くごとに価値が損なわれていくような気がする。そういう意味で、やはり詩が文学の王様だと私は思っている。ただし言葉が少ないのと言葉が足りないのは全然別物で、詩を書くには天分に恵まれなくてはダメだ。

 二昔前、新入社員に求められるのはコミュ力だとテレビでもネットでもさんざん言われていた。その時に本当のコミュ力とは何かというのを語る人もいて、そういう人は概して相手に物事を正確に伝える力がコミュ力だ、という論調だった。しかし、後の時代に言われたことは空気を読め、だったことからして、その時も、そして今も求められているコミュ力とは伝える能力ではなく合わせる能力で、言葉なしにポロをプレイするように言葉なしに仕事をしたいのだ。理想を言えば、言葉なしに話をできるのが最上のコミュニケーションのように、言葉なしに協力し合える関係が最上だろう。しかし、そうできない時は言葉が必要になる。

 沈黙は金、雄弁は銀。という格言があるように、言葉なしに価値はあるけれど金は金庫に眠っているだけで、世界に流通するのは銀の方だ。先の格言はカーライルというイギリス人のもので、欧米でも、やはり言葉にされないことの価値を認めているのだろうが、それでもなお言葉多く語るところに欧米文化が広まった要因があるのではないだろうか。金持ちよりも、金銀持ちの方が豊かなのだ。

 それを言っちゃおしめえよ、ということもあるけれど、それでもなお言葉にしていく狡知さというのを身に着けたいと最近は思う。イギリス人はジョーク、それも皮肉が利いたブラックジョークが好きというのに秘密があると私は思っている。シェイクスピアの道化が真実をおどけて言うようなものだ。剥き出しの真実は人を傷付けるが、避けてばかりいてもリア王みたいに破滅が待っている。

 日本では意見=敵対と言われているが、リア王でも三女はありのままの気持ちを言ってしまったために国外追放となり、最後は死んでしまう。ごまかしを言い続けた長女、次女も最後は死んでしまうが、道化は最後まで生き残る。真実の口に災いが飛び込んでくるのは洋の東西を問わないが、ごまかし続けるのも難しい。嘘をつかない、正直というのは美徳のひとつだが、美徳を持っているからといって生きられるとは限らない。欧米人がジョークを言う印象があるのは、嘘をつかずに生きていくために編み出した一つの作戦なのかもしれない。


追記:ちなみに最低のコミュニケーションも、何を喋ったかは分からないけれどめちゃくちゃ喋った。だろう。二つを分けるものは伝わったか伝わらないかだけど、両者で伝わったり伝わらなかったりするものは何だろうと考えると、陳腐な言い回しだが『心』ではないだろうか。

追記2:後になって人が真実を口にするパターンを思いついた。それは強い人が弱い人の隠しておきたい真実を暴くことだ。この場合は殺されるのが弱い人になる。しかし返す刀で殺されることも、やはりあるかもしれない。恨みを買うのは恐ろしいものだ。

自分の限界の中でどうやって書いていくか



 仮書きで最後まで書こうとしているのだけれど、それでもなかなか進まない。一週間でようやく3分の1が終わりそうな感じだ。熱帯低気圧が来た日は全然書けなかったけれど、次の日はいっぱい書けて、このまま最後まで書けるんじゃないかと思いきや、やはり4ページで筆が止まった。5ページ目の9行目で言葉が出なくなった。そのまま半時間ほど過ごすと涙が出てきた。もうこれから先、小説は書けないんだと思った。そう思いながらも日が変われば、また書けるようになるとは思っていた。世の中に絶対は無いけれど、今までがそうだったのだから、今回もそうなるという確信に近いものはあった。

 小説を書いている時は言い知れぬ高揚感もあるが、それと同じくらいストレスに悩まされる。これが大いに執筆の妨げとなっているのは疑いようがないので、最近は自己啓発本を読み漁っている。


 ある本に、西洋文化は期待の文化である、期待を目指して走り続けるが、期待はいつも未来にあるので永遠に手に入れられず、常に不満足を抱えることになる、的なことが書いてあって感心した。

 確かに小説を書こうとしていない時は小説を書けない悩みは存在しない。新刊をリリースした後なんかは空が鮮やかな青に見えるほどだ。その本には期待を抱かないことが心を軽くすると書いてあった。そこで私は立ち止まった。恒心無くば恒産無しという言葉がある。小説を書こうとするからには、小説が書けることを期待しているわけだ。小説を書こうと思わずに小説を書くにはどうすればいいのか。ヨガの賢者なら小説を書くのをやめなさいと答えるだろう。まったくの道理だ。私もそう思う。そうしたら楽になれるだろう。

 書きたいという欲があるから苦しむ。苦しいのは嫌だ。でも小説は書きたい。執着心が自分を苦しめる。それでも書く。書ける瞬間もあるが、期待していたほどではないので不満足を抱える。

 ヨガの賢者の言葉が頭をよぎり、書けていた時を思い返す。彼の言うことは真実かもしれない。書けている時は書こうとは思っていない。期待も不満もない。時間の感覚も消え失せ、どこまでも書いていけるような気がして、この感じが永遠に続くなら、どんなものでも書ける気がした。またたく間とはいえ、そんな境地に至れたのは書こうとしていたからだ。やはりここで大きな壁にぶち当たる。書こうとせずに書くにはどうすればいいのだろう。矛盾である。

 もしヨガの賢者が小説を書こうとするならどう解決するだろうかと考えてみても想像がつかない。ヨガの超自然的な力で書けるような気もするし、書くという欲を消して書かないのかもしれない。あるいは、どちらも悟りが何たるかも分からない人間が考えたことで、私が思いもよらない解決法を見出すのかもしれない。むしろそうであって欲しい。書けない苦しさを無くしたいのなら書こうとしなければいい、なんて見も蓋もない。生きる苦しさを消すには死ねばいいと言ってるようなものだ。しかしヨガの賢者は死なずに生きているのだから、そういうことではないのだと信じたい。

 解決法はきっとある。書こうとせずに書く方法はある。しかし私には得られないものだから、毎日期待して裏切られて、そうやって書き続けていくしかない。小説は甘い苦しみ。もしかすると本当は逃れることを求めていないのかもしれない。

追記:ヨガの賢者と似たようなことを『吾輩は猫である』で八木独仙先生が消極的修身のことで話していた。しかし苦沙弥先生は積極的にしろ消極的にしろ結局どうにもならないわけで猫のように水甕の底に往生するのが正解なのかもしれない。


言葉と数字の扱いはいつまでも慣れないものらしい


 もう何年か小説を書いているけれど、いまだに手を付ける時はドキドキする。恐いと思う時もあるし、そのまま手を付けられない日も年に何度かある。もしかすると小説を書くのに向いていないんじゃないかと思う時があるけれど、この前読んだ本に、文字を扱うことと数字を扱うことはどれだけやっても慣れが起きないと書いてあった。大学の偉い先生でも、一般人の被験者でも、簡単な足し算引き算をする時は脳を全般的に使うそうだ。音読でもそれは同じ。

 な~んだ。それじゃあいつまでも小説にビビッているのは正常なんだと分かった。むしろビビらなくなった時の方が危険だ。振り返ってみても、こんなの書けるはずがないと震えながら書いている時の方がうまく書けているようなもので、こうして毎日内臓が削れていくような気持ちでいる時の方がかえって小説はうまくいっているのかもしれない。


 恐がることを恐れない。そういう境地が大事なのかな。

正義を背負った悪行


 日本の神話にこういう話がある。太陽の神アマテラスの弟、スサノオは神々が住む高天原にある田んぼのあぜを壊したり、溝を埋めたり、食卓でウンコをしたりして、困り果てた神々はアマテラスに彼の悪行を報告する。しかしアマテラスは怒らなかった。これには理由がある。

 元々スサノオが神々の住む高天原に入ろうとした時にはアマテラスもスサノオが高天原を奪い取ろうとしているのだと思って、武装して出迎えるほどだった。しかしスサノオは三人の女神を生んで悪心がないことを証明したのでアマテラスは信用した。神々が彼の悪行を報告しても彼女は「悪心はないのだから」とかばうほどである。

 しかし調子に乗ったスサノオが皮を剥いだ馬を織屋に放り込んで、驚いた機織女が死んでしまうと、アマテラスはかばいきれなくなり天の岩屋に隠れてしまう。

 もしスサノオが女神を生んで悪心がないことを証明していなかったとすれば、アマテラスも彼を殺していただろう(日本の神様は死ぬし、殺される)。しかし、悪心がないというのでアマテラスは困ってしまった。田んぼを壊すくらいなら許せても、機織女が死んでしまうと「まぁまぁ、あいつも悪い奴じゃないから」とかばいきれなくなった。かといって裁くこともできず、神々も困り果てる。もう岩屋にひきこもるしかないというわけだ。

 これと全く同じというわけではないが、言っていることは素晴らしいのに、言葉抜きにやっていることを見れば悪行そのもの、ということは世の中にある(正しい人を敵にまわしたくないので何とは言わないが)。しかしそれを指摘すれば「何か間違っていますか?」という答えが返ってくる。正しいとは言えない。間違っているとも言えない。だからどうにもできずに黙って見ているしかない。こうして素晴らしく正しい理由で悪行が重ねられていく。はたしてこういう奇妙なねじれにはどう対処すればいいのだろう。アマテラスは岩屋にひきこもったが、それにより世界は闇に閉ざされてしまい、悪い神々が勢力を伸ばしてくる。放っておいてもダメなのだ。

 この神話には続きがある。神々はアマテラスを策略にかけて岩屋から引きずり出すと、合議の上でスサノオに罰を与えることにした。スサノオは身に着けた物を取られ、ひげを切り取られ、おまけに手足を爪を剥ぎ取られるというひどい罰を受ける。アマテラスがどうしたとは書かれていないので今度ばかりはかばわなかったようだ。正義を背負った悪行も後ろ盾を失うと、やはり悪行は悪行として裁かれてしまうのだ。

 ちなみにこの後のスサノオだが、早速ごちそうを食べさせてくれた女神を切り殺している。だが、さらにその後はヤマタノオロチを退治してクシナダ姫を救ったりもする。神様なら神社の奥に祭っていればいいが、こういう困った人はどうしたらいいのだろう。スサノオの例にあるように祭り立てても調子に乗るだけだが、殺してしまえばヤマタノオロチを退治する者がいなくなる。いや、そもそもヤマタノオロチは本当に悪だったのかということもある。そんなことを考えていると何だか分からなくなってきて、天の岩屋にひきこもるのが正解のような気がしてくる。

 しかし、もしかするとこんなことを書いている私自身が正しいと思い込んでいて実は他人から見るととんでもない悪行をやっているのかもしれない。もしそうなら後でひどい罰を受けるだろう。スサノオの例を見れば、自分の正しさが証明された時ほど危険なようだ。

追記:悪を背負った善行というのもあるのかもしれない。

ようやくプロットラインを引き終える


 ようやく仮書きを3分の1まで進めた。同時進行していたプロットラインはようやく最後まで引けた。これでスタートラインが見えてきた。ゴールラインではない。本文にはまだ手をつけていないのでスタートさえしていないのだ。

 ノートの日付には2019年6月20日から仮書きを始めて、7月5日の日付で3分の1を超えた。この計算だと仮書きを終えるのがお盆前だ。そんなにかかるのかと気が遠くなるけれど、ちょうどいいかとも思う。とことん時間と手間をかけられるだけかけるというのがseason3からのテーマだ。これだけ時間をかけて仮書きして、そこから小説を書き始めるなんて、自分でもおかしいと思う。『山桜』の執筆で仮書きしても執筆が楽になったり早くなったりはしないと分かっている。でも仮書きしておくと今までとは違う何かが出てきたような手応えがあった。だから、とことんやってやろうと決めてしまった。最近はこんなことはやめて書き始めようという誘惑に駆られる。今日だって、3分の1も書けば『山桜』と同じように本文を書きながらでもできるじゃないかと思った。そこから先へ進むのに半時間ぐらい躊躇した。

 小説の出来は目に見えないものだ。ノートも雑感帳もやめて小説一本に絞れば1日4000字で書けるのは分かっている。でもそれだとどこかボヤッとしているのだ。そう感じるのは気のせいかもしれない。あるいは本当にそうかもしれない。自分の感性以外に判断するものはない。だから理屈で考えるようになると、絶対に今から書き始める方が正しいとなるし、それを否定できる根拠も材料もない。

 しかし、だ。結局のところ小説の善し悪しを決めるのは行間という字義通りに取れば文字と文字の間にある空白で、何の実体もない。何を書いた、どう書いたなんてのは本質の周辺でああだこうだ言っているだけで、否定しようが肯定しようが、それがどうしたということでしかない。と、私は思っている。
 一番重要なのは行間で、何の実態もないけれど存在するもの。これを信じられないのなら何を頼りに小説を書けばいいのかということも考える。いや、考え始めると、今から小説の本文を書き始めなさいということになるのだが、そこをあえて書かずにノートを開いて、ああだこうだとあがいている。あがいていれば、そのうち何かしら出てくるのだから面白いものだ。毎日何をやっているんだろうと徒労感があるけれど、一週間を振り返ると、自分でもなかなか感心するぐらいのものを書き溜めている。

 もっとも、そういうことをしみじみと味わえるのは、こうやってノートを脇に置いて、小説から離れている時だけ。


 今回の執筆は書くことを耐えることだと思う。もし、小説を書かずに仮書きで最後まで書ききれたなら最終的に何かしらのものが出てくる予感がしている。でも、もし耐え切れずに書き始めたら、せいぜい『山桜』程度になるだろう。私はもっと凄いものを書きたい。欲深いのだ。


 お盆前に終わるといいな。

海岸がない!



 『流星を打ち砕け』は徳島県を舞台にしているのだが、ふと徳島県の地図を開いてみると、小説に出てくる海岸があるはずの場所に角ばった土地がある。埋立地のようだ。私の頭の中にはてっきりそこに海岸があるものだと思い込んでいた。このままだと、今思い描いている小説が書けない。今まで一度も止まらなかった筆が一週間止まった。どうしようと思い悩んで、これは実際に目で見ておかなければならないぞと車を走らせた。

 私が思い描いていた海岸は、想定していた場所よりずっと北にあった。吉野川を越えなければならない。海水浴に来ている人はまばらで、突堤でキス(魚の方)を釣っている人と同じくらいしかいなかった。それにひどく狭い。頭の中と同じだったのは砂の感触だけだ。

 そもそも最初は海岸なんて無いんじゃないかと思っていた。吉野川を越えてから海沿いは二階建ての家より高い堤防で覆われていて、しかも工事はまだ続いていた。海岸なんてありそうな雰囲気ではなかったが、堤防沿いを走っていると、だしぬけにわき道が堤防の上に伸びていて、そこを登ると草むらの向こうに突然海岸が姿を現すという感じで、てっきり工事で無くなっていると思い始めていたから驚いた。海水浴に来ている人が少ないのは、冷夏だからじゃなくて、こういうところに原因があるんじゃないか。

 それから想定していた海岸があるはずの場所にも行ってみた。そこには周りの建物より高い橋桁がいくつも建っていて、ずっと遠くまで続いている。先の方にはクレーン車がいくつも立っていた。どうして海岸線沿いに橋桁があるのだろうと不思議に思い、交通整備をしている人に何ができるのか訊いてみると、高速道路ができるのだそうだ。

 埋立地の海岸を見にも行ったが、埋立地に海岸なんてなくて、徳島県だと高層建築トップ100を争える護岸壁が陸地の端を覆っていて、その向こうの絶壁には波消しブロックが置かれているだけだ。帰りには埋立地側から海岸を見た。海は川のように狭く、海岸は石を組んだ護岸壁になっていた。あとで調べると、その海も埋め立てられて、埋立地と陸続きになる計画だそうだ。
 
 家の近くまで帰ってくると、ふと自分の町の海岸はどうなっているのだろうと気になった。海沿いに住んでいるとはいえ、海岸からは離れた場所に住んでいるので、もう10年以上見ていない。
 
 海岸は綺麗に整備されていた。護岸壁は見上げるほど高くはなかったが、タイルで装飾され、遊歩道までついていた。休憩所まである。そして海岸はどういうわけか狭くなっていた(←これは大人になったからかもしれない)。

 私の頭の中にある海岸は現実には存在しなかった。徳島県という設定を変えるべきかとも思ったが、海岸らしい海岸なんてもう日本には存在しないのかもしれない。

 どうしようかな、と頭を抱えていると、ふと現実でなくてもいいなじゃないかと気付いた。小説だから実際の徳島県と同じにする必要はない。というか徳島県でなくてもいい。架空の県でもいいわけだ。すると、あれもできる。これもできる。と今まで頭の隅でひっかかっていたことが次々と解決して、これなら書けると、ふたたび筆を持てるようになった。

書くために書かない日を作る


 ノートに仮書きを始めて、現実に海岸がないことに気付くところまでは一度も止まらずに書いてきたが、とうとう1文字も書けない日が続いた。1日ぐらいなら、そういう日もあると思えないこともないが、2日続くと暗いことを考え始める。それでも雑感帳は書けるもので色々暗いことを書いていると、ふと1ヶ月以上書き通しであったことに気付いた。

 小説を書いている時は一ヶ月に一度最悪の絶不調期がきて、そこでこじらせると一ヶ月以上書けなくなるので、一ヶ月に一度一週間書かない日を作ってみると、書けない日がなくなり、かえって書く早さが上がったということがあったわけだが、仮書きの場合は小説より強度があまり強くないので油断していたのかもしれない。

 それで試しに一週間書かないでいることにした。仮書きで一ヶ月以上かけたことがなかったので初めての経験だ。もしかしたら一週間後は本当に書けなくなっているかもしれないと不安だったが、いざ蓋を開けてみると、あっさり書けてしまった。寝不足の日でさえ4ページも書けた。魂が上げ潮に乗っている感じがあって、これでしっかり眠れた日はどれだけ書けるのだろうと自分でも空恐ろしくなるほどだ。

 書けない書けないと常に思いながらも後ろを振り返ってみれば、もう予定の3分の2まで辿り着いていた。毎日進めずに立ち止まっているようでも、一週間、一ヶ月の長さで振り返れば、ぞっとするほど遠い距離を進んでいる。お盆までには仮書きが終わるといいな。

西洋かぶれでもなく、懐古主義でもなく


 昔から新潮文庫の作者がカタカナの本ばかり読んでいた。私の文章が翻訳調と時々言われるのは、そういうところに理由があるのだろう。日本の作家はなんとなく肌が合わなくて避けていたし、有名だから一応読んでおこうと太宰治の『人間失格』を読んだ時はムカついて本を枕に投げつけたことがある。いま読み返すと何に怒っていたのかはさっぱり思い出せないけれど、体中にどす黒い怒りがうずまいていたことは憶えている。そのくせ枕元に置いた卓上スタンドの白熱灯に照らされた枕と文庫本や、背中にかかった冬布団の重みは今でも鮮明に思い出せる。よくよく考えると本を読んであそこまで頭に血が上ったのは後の先にも『人間失格』だけなので、やっぱり凄いのではないか。

 前作『山桜』は古きよき日本の心、大和魂的なものを書こうとしていた。しかし、大和魂に関する和歌をいくつ調べたり読んだりしても、大和魂というものがどうしても実感として掴むことができなかった。そうして分からないまま最後まで書いてしまった。やり残した感じがあったので今回もやはり日本的な何かを書いてみようとしていたのだけれど、どうも間違った道へ進んでいるような感じがした。

 そこでふと思った。過去において日本的なもの、大和魂はあったとしても、今はもうここにはない。仮に過去の歌人なり偉人なりが現代で詩を読めばまた別の詩を詠んだはずだ。日本は東洋に分類されるが、西洋文化も当たり前の様に存在している。あえて考えなければ東西に分けて考えることすらない。その中で西洋と切り離された純日本的な何かが存在し得るとはとうてい考えられない。しかし、東西の境がないかといえば、それも違う気がする。混じり合ってはいても、どこか混じり合わないところもあるような気がする。それが何かは分からないけれど、その分からないところこそが本当の大和魂であり、私の中にある本当の個性かもしれない。

 一体何を言っているのかよく分からないだろうが、そういう訳の分からなさと向き合って小説を書いていこうと最近は考えている。そしていまのところそれは何かをがっちり掴んだという感覚がある。訳が分からないものをがっちり掴んでいるというのは矛盾しているが、私の中では矛盾したまま正しいという奇妙な感覚がある。

夏目先生と同じ事をしてしまう


 ある本にたまたま夏目先生のことが書いてあって、先生は『明暗』を書いている時は執筆のあとに絵を描いていたそうだ。実は『流星を打ち砕け』を書く前に『明暗』を読んでいて、何故かノートを書いた後に絵を描くようになった。たいていは何かの紙の裏側に書くが、フォトショップで描くこともあって、この記事の途中でたびたび出てくる絵は、そういう時に書いた絵だ。知らず知らずのうちに先生と同じ事をやっていることを知って、ちょっと恐くなった。血を吐いて《未完》で終わったらどうしよう。でも私は先生と違って胃を悪くしたことはない。そういうところはなぞらないはずだ。


プロットを書き直す

 お盆の間はずっと書かないでいた。お盆の前はプロットを書き直していた。だから仮書きは3分の2から進んでいない。『後からひらめいたことは絶対に正しい』という信念で二年前から書いているが、今回は本当にそれでいいのだろうかと悩んでばかりだった。徒然草で碁を打つ人が3つの石を捨てて10の石を得るのはたやすいが、10の石を捨てて11の石を取るのは難しいと書かれているが、まさにそうだった。おまけに10の案は一ヶ月以上、これを書くと思いながら見ていたものだから、もう元の案で良いのではないかと毎日悩んで、それでも新案の方が絶対に良くて、それでもなお悩んで、さらに新案を書くと、それもまた良い物で、というのを繰り返して、迷いが多かった。


 そんなこんなで11を13ぐらいにはできた。そこまでいくと、ようやくこれにするべきだろうと思い定められるようになった。5月からずっとノートに仮書きを続けてきたが、これだけ停滞したのは初めてだ。また書けるようになるだろうか。


一日はドラマチック、一ヶ月は物理現象


 最近はあんまり書けなくて、カレンダーに記した書いたページ数を計算していると、奇妙なことに気付いた。6月からノートに仮書きを始めたわけだけど、一ヶ月に書ける量には当然増減がある。でも、あえて書かなかった日、プロットを書いていた日を除外すると一ヶ月に書ける量はほとんど同じだった。だいたい一月33ページを前後している。20とか40とか十の桁が変わることはない。


 書けても書けなくても毎日の執筆はドラマチックだが、一ヶ月の間では統計的平均値に収束する。確率的には物理的予測ができる。たぶん9月には仮書きが終わるだろう。そして後もう一回は筆が止まる時が来る。放射線物質がいつ放射線を出すかは分からないが確率的には予測できるのと同じ。まるで量子物理学だ。執筆は物理現象なのかな。それはそれでドラマチックだけど、それも科学的な謎がある間だけで、いつかは小説も科学で捉えられるようになれば、とてもつまらないものになるかもしれない。あるいは今とは全然次元が違う小説が出てくるのか。極限まで煮詰めた純粋小説というのに一度は触れてみたい気もする。

当たり前の物理現象から引き出されるストーリー


 8月の最後になってとても書けるようになった。あまりに書けるので自分でも驚くほどだ。1日の延べ平均が2ページなのに、ここ最近は毎日4、5ページ書けていると言えば凄さが分かるだろう。あまりに書けるので、もしかすると私は小説の極意を会得したのではないかと考えたり、はたまたちょっと涼しくなったから頭にも良い影響を及ぼしているだとか、コーヒーの銘柄を変えたせいとか色々考えたのだが、ふとカレンダーを見て、お盆から2週間経っていることに気付いた。
 私はあえて書かない期間を設けているのだが、その期間が終わってから10~15日の間に何故かとても書ける期間がある。絶対とはいえないが10分の9の確率だ。だからこれは当たり前のことが当たり前に起こっているだけなのだ。
 ということに気付いてもなお、私はやっぱり別のところで小説家として何か極意のようなものを得ただとか、コーヒーを変えたのが良かっただとか、何かしらのストーリーを信じている。統計的にはこれから15日かけて徐々に書けなくなり、ある時ど~んと書けなくなるのだが、そんなものは一生来るわけないと思い込んでいる。事実から予想されるものと、心が見る未来は違うものだ。どちらが起こる確率が高いかといえば間違いなく統計の方と私の頭は答えを出すし、それはきっと正しいのだが、私の心は絶対にそんなことはありえない、今まではそうでもこれからは違う、私は小説家として一つ上の境地に辿り着いたのだから、と信じている。本当にそうだといいな。


前代未聞の100ページ目に突入


 仮書きがついに100ページを超えた。今まで書く前に仮書きをしたことも、書いている途中に書いたこともあるが、これだけ書いたのは『流星を打ち砕け』が初めてだ。小説を一冊書く手間で仮書きして、本文がどれほど良くなるのかと考えると、壮大な無駄を費やしている気がするけれど、事前に仮書きしておけばかなり良くなるし、書いている途中でも良くなることは分かっている。シーズン2まではとにかくたくさん書くことを目標にしてきたが、シーズン3はベストを尽くした時にどこまで質を高められるのかという方向性で動いている。たぶんそこそこ良い感じの小説になるんじゃないかなと密かに期待している。もっとも、今までで最高傑作だと自負している『真論君家の猫』は世間的に全然受けていないから、こんなに期待を上げても空振りに終わるかもしれない。でもやっぱり自分の中での最高傑作というのを目指していきたい。


 ノートは執筆中も書くから、この小説を書き終わった時には間違いなく200ページを超えるだろう。もしかしたら書く前に超えるかもしれない。無限に書き続けるんじゃないかと思うけれど、経験上そう思い始めた時はもうすぐ終わるときだ。プロットラインを見てもそろそろ終わろうとしている。

自分の限界でどこまでやれるか

 先週もけっこう書けて、このまま無限に書き続けられるのではないかと思っていたが、やはりそううまくはいかないようだ。先週書けたぶん、今週はボロボロだった。長期的には収まるところに収まる。私が書ける量は変えられない。


 今でもどうやったらもっとたくさん書けるのかは考えているが、何年も同じ場所をうろついていると、ここが自分の領分なのだとも思う時もある。世の中には1日1万字以上書く人がいる、プロは4000字書くという、あの人は昨日ツイッターで12000字書いたと言っていた、とか色々あるけれど、今書ける分を前提に考えれば一生に書ける量も推定できてしまうので、何でも書いてやろうなんて欲張らずに、何をどう書いていこうかという考えることが多くなった。


 永遠に書き続けられるわけではないし、そもそも今ここに流れ星が落ちてきて死ぬかもしれない。これが最後どころか、途中で終わることもあるのだ。もしたくさんの人に読まれているのなら、とにかくいっぱい小説を出していこうと考えただろうけれど、幸か不幸か牛野小雪は世間的には存在していないも同然で、読者の期待なんて背負っていないし、原稿を待つ編集者もいないし、今日消えても誰も困らないのが牛野小雪という小説家だ。でもだからこそ自由。何をどう書いたっていい。小説を書かずにノートに仮書きをしたっていいのだ。6月から書き始めているが、まだ終わらない。10月には終わるだろうか。ほぼ半年もかかっている。でも、そういうやり方でいくと決めたのだ。最後までやる。

何もないところから生まれてくる小説


 今週は、今日で終わりかと思いつつ書き始める毎日だった。しかしまだ全然終わらない。プロットを見ると書くことは、ほとんど残っていないのに文章がほとばしってくる。1日の終わりに「これ終わらないんじゃないか」と独り言をつぶやく時もある。けど、本当に少しずつだけど、プロットは寸刻みに短くなっている。いくら文章がほとばしっても無限に続くことなどありえないのだ。

 元々のプロットの終着点は先週に通り過ぎた。そこで終わらせれれば綺麗に締められるので、どうしようかと迷った。でも、数ヶ月前に、今までと同じように書いても仕方がない。何か新しいものをと悩んで悩んで悩み抜いた末にひねり出したプロットだから、ここは勇気を出して書いてみようと決意を新たにした。どう出るかは分からない。でも、毎日ボールペンをペン立てに戻す時はドキドキしている。こんな小説本当に書けるのだろうか。

 ピリオドの後ろから出てきたプロットだ。本来は書くはずがなかったところから、どんな小説が出るのか自分でも分からない。でもこれを思いついた時はとんでもないぞ、と胸が泡立った。それと同じか、超えるようなものが書けるといいな。

仮書き終わり


 ようやく仮書きが終わった。2019年6月17日に書き始めて同年10月8日に164ページで終了。約4ヶ月。これからまたプロットを引き直して、今度は本執筆を開始する予定だが、まだ書くのかと疲れを先に感じた。一ヶ月ぐらい休養した方が良いのかもしれない。
 
 仮書きの最後は『これ以外を書け!』と書いた。これ以外の物が本当に書けるのだろうか。もう一仕事終えたようで何にもする気が起きない。

今さらながら本当のスタート


 ずっと何も書かないでいたら、やる気が出てきた。というか何も書かないでいたらというが私小説を書いていた。今年は私小説がマイブームだ。西村賢太の動画を見ると、いつも何かしら発見がある。本当に書かなかったのは二日だけで何かしら書いていないと不安になるようだ。

 今回の小説は一人称で二つ(三つかも?)の視点を行ったり来たりする予定だ。だから章タイトルで視点の変更を示唆して主語は私一本で押し倒す。『聖者の行進』と似たような進め方だが、話の内容は違うだろう(たぶん)。何だか自信がなくなってきた。でも分かりやすいエンドはつけるつもりでいる。順当に読めば途中で下がることはあっても最後はハッピーエンドになるはずだ。たぶん。
 
 wordを立ち上げるのは半年ぶりで、前日から腕がふわふわしていたが、机の前に座るとしゃきっとした。雑感帳には、やってやるぜ!と書いた。2019年10月25日のことだ。冒頭は何度も仮書きしたせいか、ごりごりと書けて1日で7000字も進んだ。あと1日で10月中の目標だった一章は書き終わりそうだ。ただ2章以降から仮書きした回数が加速度的に減っていくので今日と同じペースでは進まないだろう。ということを夜の散歩をしている時に考えていたら、もっと仮書きをしたら執筆もうまくいくんじゃないかとひらめいた。たとえば1日仮書きして、1日執筆してのサイクルで回せて、おまけに今日と同じくらいのペースで進むと仮定するなら1日3500字も書ける計算になる。一章の仮書きは1日で書いたわけではないし、各回の間隔は開いているので皮算用的な発想だけれど、発想の根本は悪くない気がした。もっと書かないことを増やすべきなのだ。


数年ぶりに絶好調

 先週からwordに『流星を打ち砕け』を書き始めたのだが、今のところ絶好調である。これだけ調子がいいのは『真論君家の猫』以来だ。ここ数年は胸に重りをつけて書いていた様だったのが、すっかり軽くなった。もちろん所々で調子の良かった時はあったが、たぶんこれは今までとは違うのではないかと疑っている。ということも調子のいい時にはいつも雑感帳に書いている。でも本当にそんな感じがしている。今までと違う書き方をしているから余計にそう感じるのだろうか。


 今回はいつもと違う小説を書いている。なんてことはどんな作家でも言うことだ。でも私はこれがいわゆる小説だとか文学に入るものだとは思えない。悪い意味で。もしかしたら推敲で消すかもしれないところがいっぱいある。でもそうしないかもしれない。駄目なものは本当に駄目なのか。あえて書いているというところがある。本当に駄目だったら一年を棒に振った馬鹿ということだ。どうせ駄目なら全力で振っていきたい。逸脱する勇気がほしい。

二週間でプロットの3分の1を書く

 今日こそはもう書けないと思いながら毎日めちゃくちゃ書いて二週間でプロットの3分の1を書いてしまった。4万字。プロット通りに進めば三倍の12万字。一応目論見通りの長編にはなりそうだ。
  仮書きだと今のところまでが8分の1。それで計算するなら30万字を超えることになる。そんなのに長いの書きたくないと思っていたけれど、思い返してみれば20万字超の物はたいてい10万字くらい、長編に届くか届かないかを目標にしていた物が伸びに伸びてというパターンばかりだ。恐ろしいことにいまのペースだと、それですら来年の一月には書ける計算だ。そんなはず絶対にないとは思っているけれど、とにかく今は調子が良い。今の状態の文章はできるだけ多く書いておきたい。そう考えると今の進みですらじれったく感じられるのだから人間は欲深い。二週間で4万字書けると、今度は8万字が欲しくなる。8万字が書ければ16万字だろう。一年前の私は今ぐらい書けたらどれだけ幸せだろうと願っていたのに、いざその状態になってみると、やはり一年前と同じように不満を持っている。いつまでも幸せになれない。今の自分を手放しで祝福できたらいいのにと思う。一年後にはそうできるだろうか。

不安や恐怖と戦う勇気


一年は早いもので11月もそろそろ終わろうとしている。この小説に取り掛かってから半年以上が過ぎた。夏の頃はまだまだ先のことで、実際にこれを書くのは未来の自分だと分かりきったいたせいか、プロットや仮書きを書くのもどこか気楽だった。しかし今は本番の執筆をしなければならなくなっている。今は書けているけれど、明日こそは書けなくなると毎晩おびえている。しかし不安が強ければ強いほど次の日は書けるようだ。質的な話は主観的なことになるが、ちょっと読み返してみてもどうしてこんな文章が出てきたんだろうと不思議になるぐらい良い。たぶんだけど、毎晩の震えが次の日のばねになっている。だからもし不安になったり恐がったりしなくなった時はきっと書けなくなる。私はこの不安や恐怖を消えることを願うのではなく、これらと戦う力や勇気を求めていかなければならないのだろう。さて、どうやったらそういう強さを手に入れられるのか。それはまだ分からない。今夜もたぶん不安に怯えるだろう。

 一ヶ月で9万字。プロットの3分の2を書き終える

10月の末に書き始めて11月の末にプロットの3分の2まで書き終える。ここまで速いとは思わなかった。もしかしたらこれは全部夢で、朝起きたらまだ一文字も書いていないんじゃないかという不安に襲われる。でも次の日にはやっぱり現実だったのだと知り、やっぱり恐くなる。
 恐いといえば新聞のコラムにとある直木賞作家が書く前に「俺は書ける。絶対に書ける」と試合前のボクサーみたいに自己暗示をかけていると書いていた。直木賞作家ですら恐がるのだから牛野小雪においてやである。みんな恐いのだと安心した。毎日恐がっていて小説の才能がないんじゃないかと心配していたのだ。
今作は挿絵をいっぱい載せるつもりだ。作中に挿絵をいれるのは『幽霊になった私』以来だ。あれは画像サイトから拝借した写真をフォトショで加工したのだが、今回は自筆でいくつもりだ。といっても『エバーホワイト』みたいなみっちりとした絵で何枚も書くのは無理だし、あそこまで書くと小説のイメージを固定してしまいそうなので、今回は輪郭線だけで表現する。ここまで読んできた人なら分かるとおり、五色のカラーピープルや、途中から出てきた女の子みたいに抽象的な絵を描いている。一節ごとに二枚の挿絵にするつもりだから膨大な量になりそうだ。今のところ16枚まで書けている。これでプロットの3分の1だ。この3倍。いや、残りの3分の3はかなり伸びたからもっと書かなければならないかもしれない。あんまり容量を取るようなら枚数を減らすか、画質を落とすかする。緻密な絵ではないので影響はないと予想しているが。

速過ぎて目が回りそう


 今回の執筆はとにかく早い。そろそろ速度が落ちても良い頃合だが、さらに加速していく。一体どうしたんだろう。もし仮書きと雑感帳を書かないのであれば一日一万字書けた日が何度かあった。
何かをブレイクスルーしたとは思っていない。というのも執筆、つまりwordで小説の本文を書く作業の前にたっぷりプロットを練り、雑感帳と仮書きを書き溜めていたからだ。執筆だけを見れば過去最速だが、小説を書く作業全体で見ればいつも通りの速さになりそうだ。エネルギー保存の法則は免れ得ない。
 逆にいえばエネルギーさえあれば毎日一万字も不可能ではない。今作よりももっとプロットと雑感帳と仮書きをしておけば可能だっただろう。ポテンシャルとして毎日2万字ぐらいは書ける手応えがある。問題はどうやってそこまでエネルギーを投入するかということだ。機械なら外部からエネルギーを引っ張れるが、小説家はどこからエネルギーを調達すればいいのだろう? 執筆は孤独な作業だ。結局は欲をかかずに時間と手間をかけて書けということなのかな。

私はこの小説を乗り切れるのか?

 本当に信じられないことだが今週は一日一万字書けた日が三日もあった。今週はコーヒーを飲む必要がないくらい頭が冴えている。最初は『真論君家の猫』以来、数年ぶりの絶好調だと思っていたが、どうやらそれ以上だ。三日とも夢を見ているのではないかと疑いながら眠ったが、翌日に現実だったと知って驚くことが続いた。
 この小説は『真論君家の猫』以来の最高傑作になるのだろうか。小説精神というか、小説の核というか、そういう物では猫を上回る物とは思えない。しかし技術的には今までの牛野小雪をはるかに超える物が書けている自負はある。この小説が成功しなくても小説家として得るものはかなりあるだろう。
 とはいえ私はこの小説を最後まで書けるか自信がない。毎日一万字書けても、そうなのだ。時々逃げ出したくなる。しかし、ひとたびキーボードを打ち始めると、文字がきらめいて見えるほどインスピレーションが湧いてくる。その勢いのまま書いていたら、日に一万字というわけだ。
 一体どうしたのだろう。自分でもおかしいと思う。去年は一日2000字書いたら自分を褒めるぐらいだったのに、今年はその三倍、四倍、五倍と書いているのだ。恐い。幸せもあまりに過ぎるとストレスになるようだ。
 なにはともあれ主観的には調子が良い。この波に乗ったまま最後まで書けたら、執筆体験としては史上最高になりそうだ。でもあまりに勢いが良いので恐くなって降りたくなる時もある。《未完》で終わることが現実実を帯びてきた。私は無事浜まで辿り着けるのか? それともこの小説は果てのない沖へ向かっているのだろうか? 毎日恐くて仕方がない。

もしかして死ぬ?

 仮書きで調子が良かったところは執筆でも調子が良い。今月はあまりに書け過ぎたので、たった二週間で先月と同じくらい書いてしまった。今までこんなに書けたことはないので、もしかして死ぬのではないかという恐怖に襲われる。もし2020年が終わっても牛野小雪の新刊が出なかった場合は、本当に死んでいる可能性があるので、あらゆる手を尽くして『流星を打ち砕け』を世に出して欲しい。《未完》で終わってもいいので。
 今作は一年かけて書くつもりで、事前の予測通りの執筆速度なら今はようやく3分の1が終わるところのはずが、2019年が終わる前に執筆が終わりそうだ。嬉しい誤算。でも次に何かを書く機会があれば、やっぱり例年通りの進みで計画を立てるだろう。今の状態がいつまでも続くとは思えないからだ。
 なにはともあれゴールは見えてきた。たぶん来週。それでなくても年内に執筆は終わるだろう。

世界で一番幸せな小説家

 5月から1年かけて書く予定のはずが2019年12月17日、つまり年内に書けてしまった。誤算は執筆の圧倒的な早さだ。今月は一万字書けた日が七日もあった。書く前はゲロを吐きそうなほど恐がっていたけれど、最初の1行を超えられれば、後は神がかり的に言葉が出てきた。比喩ではなく、ほほの裏側に神の顔が張り付いていると感じたほどだ。でもこれは神の力ではなく自分の力というのも理屈では分かっていた。5月から書き溜めてきたプロットや仮書き、雑感帳が今の私を後押ししているのだと。その証拠に最後の最後で執筆が仮書きに追いつくと一日一万字は書けなくなった。魔術的ではあったが魔術ではない。過去のエネルギーを現在で放出したに過ぎないのだ。
 とはいえ、理屈ではなく感覚の面でいえば間違いなく私は魔術や神を感じながら書いていて、執筆した後は魂が浄化されたような爽快感をいつも感じていた。2019年、世界で一番幸せだった小説家は牛野小雪だと胸を張って言える。永遠に執筆が終わらなければいいのにと願ったが、どんなものにも終わりはあって、(おわり)を書いた時は大きな喪失感に襲われた。もし可能なら時間を戻して、もう一度この小説を書きたいぐらいだ。


 さて、これから推敲をするわけだが、問題が一つある。今回は挿絵を描いているのだが、(おわり)を書いたとたんに私の中から絵を描こうという欲求が綺麗さっぱり消えてしまった。一時はスケッチの本を図書館で読み漁るほどだったが、今となっては何故そんなことをしたのか分からないぐらいだ。あの情熱は一体なんだったのか。100枚でも200枚でも描いてやろうという情熱が神と一緒に消えてしまった。もしかしたら挿絵はなしになるかもしれない。

間違える自由

 一度推敲を終えると、がくぜんとした。こんな物のために1年近くの時間を費やしたのかと。しかし、作中にクッキーという猫が出てくる。彼女は冒頭で「正解以外は認めない全体主義は趣味じゃないし、間違える自由も認めるわ」という台詞を言う。まさに『流星を打ち砕け』は間違える自由を体現した小説だ。
 私は最初から『流星を打ち砕け』を小説や文学にするつもりはなく、雑感帳には<小説も文学もまだ書いていないし、これからも書かない>と毎日のように書いていた。その願いは叶って、小説でもないし文学でもない。そして自由である。でも間違っている。
 私の中にある小説・文学観が自由を許さない。でも別のところで自由こそ追い求めるべきだと心が訴えている。本当の天才なら迷いもなく自由の側へ飛び越えられるのだろうが、私は自由からの闘争を試みたい。でもこれを小説・文学の型にはめ込んだら、さぞ息苦しくなるだろう。天才でも馬鹿でもない半端者はどちらを選んでも幸せになれない。真ん中の世界に立って迷い続けるしかない。


天国も地獄もなく現実を一歩ずつ

『流星を打ち砕け』を書き終わってから一か月経った。時に舞い上がり、時に落ち込むこともあったが、ようやく冷静になれてきた。この小説は天使ではないが悪魔でもない。現実に書かれた物だ。だから手が届く。手を入れられる。推敲する度に良くなっていく。
 プロットを何度も書き直したので、この小説にはいくつかのエンドある。今のところあるエンドで(おわり)にする予定だが、本当にそれで良いのだろうかと今も疑い続けている。他のエンドが良いのではないか。はたまた別のエンドを書くべきか。最後まで読んでも未だにこれと決まらない。たぶんこの小説ではなく私を推敲しなければならないんだろうな。

推敲が短くなっていく

 推敲を一周するのに必要な時間が徐々に減っていく。今週はとうとう一日減らせた。たぶん来週はもう一日減らせるだろう。そうすればもっともっと推敲を回せる。
 こんなに推敲したら磨り減りすぎて私以外に読める人はいなくなるんじゃないかと不安になるが、それでもseason3は過剰なまでにとことんやると決めたのだから、削れないところまで削りきってみよう。
結局書いたのと同じ時間をかけて推敲することになりそうだ。本当に長かったなあ。でももっと手間をかける方法はないんだろうか。推敲以外で。そんなことを考える。


自分だけの文学

 推敲すればするほど小説は研ぎ澄まされていく。推敲の三回ぐらいまでは好きになったり嫌いになったりしたが、それ以降はどんどんこの小説が好きになれた。しかしそれは成功を意味しない。『流星を打ち砕け』は研げば研ぐほど私だけの小説になっていく。私だけしか読めないのではないかと不安になる。

 バレンタインデーの一週間前に8周目の推敲が終わった。そこでふと気付いたのは、私は新しい小説を書いたつもりなのに、いつの間にか日本の古典をなぞっていたことだ。平安文学のとある話とそっくりな筋書きが見えてしまった。結局は忘れていたことを掘り返したに過ぎない。私にオリジナルの個性なんてなくて、今まで集めた物語を自分を通して語っているだけだと分かってしまった。考えてみれば小説のイメージも過去の文豪達の寄せ集めで、私はそのどんづまりにいるに過ぎない。私は歴史の遺産で小説を書いている。もし過去の積み重ねがなかったら私はどんな物も書けなかっただろう。

 そこまで自覚した時、完璧なラストが見えた。これが正解だ。これで言うことなし、と確信できた。でもその後にもまだまだ考え続けて、いや、完璧な物語は既に過去に書かれた。現代に生きる私はそこから間違ってでも一歩進まなければならないと思い直した。それでうんうん悩んで、一歩踏み出した時、ふと千利休の逸話が私の胸に甦った。

 利休がまだ弟子入りしていた頃、お師匠さんに言われて庭の掃除をした。利休は塵一つなく綺麗に庭を掃き清めたが、最後に木を揺らして葉っぱを落とした。

 私がやったのも綺麗な庭に木を揺らして葉っぱを落としたことで、結局は先人のやったことをなぞっただけだ。自分だけの文学というのはなかなか難しい。だから、今でもまだ悩んでいる。最後までそうなのかもしれない。


そろそろ出版準備

 10回目の推敲が終わった。迷いはまだある。もしかしたらまだ何かできるのではないかと不安になる。でも、これ以上はできないというところまではやれた。それをもって良しとするしかないではないか。


『流星を打ち砕け』のリリース準備を始めることにした。

そして
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