何かの本で村上春樹が翻訳者に語尾がるとた、現在形と過去形が混ざっているがどういうことかと聞かれて、それは日本語のリズムでどうたらと答えたら、もしそうならやはりそれには文法的な意味があるのではないかと返事が来たという感じのやりとりを読んだ記憶がある。
たしかに自分の本を読んでいてもるとたは混在していて、たに統一しようとしているのだけれど、どうにもしっくりこない場面もそこそこあって、そのままにしているところもある。
〇吾輩は猫である。
〇医者は探りを入れた後で手術台の上から津田を下ろした。
さて、いきなり引用したのは夏目漱石の『吾輩は猫である』と『明暗』書き出し。上が猫で、下が明暗。上はるで現在形。しかし下は語尾がたなのに過去形ではない。この場面は過去の回想ではなく、小説中では現在のことなので
〇医者は探りを入れた後で手術台の上から津田を下ろす。
※るじゃないけど、たぶん母音がuはみんな現在形になると思う。行く、する、やる。以下る系
過去形はaだ。行った、した、やった。以下た系
が正しいはずだが、何故かそうはならない。この後の場面も現在をたで書いている。夏目漱石以外の作家でも現在系がたになっている。ということは夏目漱石含め日本の小説家はみんな文法を間違っているか、るが現在形であるのが間違いかだ。
逆にる系を使っている場面を探してみた。すると村上龍の『限りなく透明に近いブルー』で冒頭にるたが混じっている文章を見つけたので1ページぐらい書いてみた。
飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった。蠅よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。
天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草がその中で燃えている。洋梨に似た形をしたワインの瓶がテーブルの端にあり、そのラベルには葡萄を口に頬張り房を手に持った金髪の女の絵が描かれてある。グラスに注がれたワインの表面にも天井の赤い灯りが揺れて映っている。テーブルの足先は手足の長い絨毯にめり込んで見えない。正面に大きな鏡台がある。その前に座っている女の背中が汗で濡れている。女は足を伸ばし黒のストッキングをクルクルと丸めて抜き取った。
「ちょっとそこのタオル取ってよ。ピンクのやつ、あるでしょ?」
リリーはそう言って丸めたストッキングをこちらへ投げた。たった今仕事から帰ったばかりだと言って、手にとった化粧水を油で光っている額に軽く叩きつける。
2段落目の最後は女の背中が汗でに濡れているのに、ストッキングは抜き取った。なぜ抜き取る、あるいは濡れていたではいけないのか。どちらかをたorるにした時に変わるものは何か。あるいは変わらないのか。
突然だが英語で未来形はwillと習った。~でしょうと訳す。I will do.で私はやるでしょう。しかし、私はやる。でも未来を表せる。それどころかやるの方がより強い未来系でもあるし、むしろでしょうは未来よりもたぶんの意味合いが強い。「これやっといて」と上司に言われたら「やるでしょう(変な日本語だ)」ではなく「やります」と答えるべきだ。
日本語の現在形には単純に現在のことではなく未来のことも含まれている。現在が現在だけではないと気付くと、実は過去も含まれていることにも気付ける。
〇俺ビール飲むんだ
〇俺ビール飲んだよ
下は言うまでもなく過去形であるが、上も過去形でも通じる。
「俺ビール飲むんだ」
「へぇ~どんなの飲んでるの?」
という会話にできる。というか返答の方も現在形だが過去形として発せられている。じゃあ飲んだはどういう時に使われるのか。
「俺ビール飲んだよ」
「へぇ~どんなの飲んでるの?」
さっきと同じ返答だが、こちらは微妙におかしいと感じる。「飲んだよ」には「どんなの飲んだの?」がしっくりくる。
る系の現在形は過去を表すこともできるが、単純な過去形ではない。
るの場合は過去に飲んで、現在も飲んでいることを表していて、たの場合は過去一点において飲んだことを表している純粋な過去形で使われる。たとえば、習慣的にビールを飲む場合は「俺ビール飲むんだ」であり、普段は飲まないビールを飲んだ時は「飲んだよ」になる。またる系は未来も含んでいる。過去飲んで、現在も飲んでいて、しかし未来は飲まない場合は「俺ビール飲むんだ」ではなく「俺ビール飲んでいたんだ」になる。
「俺ビール飲むんだ」という言葉には、俺は過去にビールを飲んだし、現在も飲んでいるし、未来でもビールを飲んでいるだろうという予測が入っている。
というわけで最初の夏目漱石に戻ろう。
〇吾輩は猫である。
〇医者は探りを入れた後で手術台の上から津田を下ろした。
吾輩は猫である。この言葉には過去に猫であったし、現在も猫であるし、未来においても猫であることを含んでいる。吾輩は猫であったではないし、猫であるだろうでもない。猫である。
医者は探りを入れた後で手術台の上から津田を下ろす。ではないのは、文章の書き手はこれが一回性の出来事であり未来では行われないであろうことを予測しているから。
『限りなく透明に近いブルー』の冒頭で《蠅よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなる。≫のではなく《見えなくなった。》のも、過去でも未来でもなく現在だけで蠅が見えなくなったから。逆に、もし過去か想定された未来に蠅がいなくなることを含んでいるのなら、ここは《見えなくなる。》になる。ブルーの続きを引用しよう。
天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草がその中で燃えている。洋梨に似た形をしたワインの瓶がテーブルの端にあり、そのラベルには葡萄を口に頬張り房を手に持った金髪の女の絵が描かれてある。グラスに注がれたワインの表面にも天井の赤い灯りが揺れて映っている。テーブルの足先は手足の長い絨毯にめり込んで見えない。正面に大きな鏡台がある。その前に座っている女の背中が汗で濡れている。女は足を伸ばし黒のストッキングをクルクルと丸めて抜き取った。
「ちょっとそこのタオル取ってよ。ピンクのやつ、あるでしょ?」
リリーはそう言って丸めたストッキングをこちらへ投げた。たった今仕事から帰ったばかりだと言って、手にとった化粧水を油で光っている額に軽く叩きつける。
語尾が『る』の部分は過去にそうであったし、なんなら未来もそうだろうと予想されている。と読み取れる。しかし語尾が『た』の部分は今までになかったイレギュラーなことだ。結果的に同じことが起きるかもしれないが書き手の視点では未来が削ぎ落されている。『た』は基本的にごく狭い範囲の出来事でしか使われない。なぜ小説では『た』が多用されるのか。それは『る』の指す可能性が過去現在未来と広すぎるので、言葉がぼやけるからではないか。
さて、ここまで書いたのはあくまで私の予測なので、ご自分で書かれた文章で『るた』を確認してみることをおすすめします。そんなに外れたことではないと予想しておきます。そして『るた』問題はまだまだ掘れる疑問だとも思います。
(おわり)
※未来(予想)と書いたが、未来に何が起こるか分からないのだから全ての言語の未来形は予想系であるはずだけれど、もし過去現在未来を行き来できる存在がいるとしたなら、彼らの未来形は確定系だろう。それがどんなものかは想像できないけれど。
牛野小雪のページ
たしかに自分の本を読んでいてもるとたは混在していて、たに統一しようとしているのだけれど、どうにもしっくりこない場面もそこそこあって、そのままにしているところもある。
〇吾輩は猫である。
〇医者は探りを入れた後で手術台の上から津田を下ろした。
さて、いきなり引用したのは夏目漱石の『吾輩は猫である』と『明暗』書き出し。上が猫で、下が明暗。上はるで現在形。しかし下は語尾がたなのに過去形ではない。この場面は過去の回想ではなく、小説中では現在のことなので
〇医者は探りを入れた後で手術台の上から津田を下ろす。
※るじゃないけど、たぶん母音がuはみんな現在形になると思う。行く、する、やる。以下る系
過去形はaだ。行った、した、やった。以下た系
が正しいはずだが、何故かそうはならない。この後の場面も現在をたで書いている。夏目漱石以外の作家でも現在系がたになっている。ということは夏目漱石含め日本の小説家はみんな文法を間違っているか、るが現在形であるのが間違いかだ。
逆にる系を使っている場面を探してみた。すると村上龍の『限りなく透明に近いブルー』で冒頭にるたが混じっている文章を見つけたので1ページぐらい書いてみた。
飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった。蠅よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。
天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草がその中で燃えている。洋梨に似た形をしたワインの瓶がテーブルの端にあり、そのラベルには葡萄を口に頬張り房を手に持った金髪の女の絵が描かれてある。グラスに注がれたワインの表面にも天井の赤い灯りが揺れて映っている。テーブルの足先は手足の長い絨毯にめり込んで見えない。正面に大きな鏡台がある。その前に座っている女の背中が汗で濡れている。女は足を伸ばし黒のストッキングをクルクルと丸めて抜き取った。
「ちょっとそこのタオル取ってよ。ピンクのやつ、あるでしょ?」
リリーはそう言って丸めたストッキングをこちらへ投げた。たった今仕事から帰ったばかりだと言って、手にとった化粧水を油で光っている額に軽く叩きつける。
2段落目の最後は女の背中が汗でに濡れているのに、ストッキングは抜き取った。なぜ抜き取る、あるいは濡れていたではいけないのか。どちらかをたorるにした時に変わるものは何か。あるいは変わらないのか。
突然だが英語で未来形はwillと習った。~でしょうと訳す。I will do.で私はやるでしょう。しかし、私はやる。でも未来を表せる。それどころかやるの方がより強い未来系でもあるし、むしろでしょうは未来よりもたぶんの意味合いが強い。「これやっといて」と上司に言われたら「やるでしょう(変な日本語だ)」ではなく「やります」と答えるべきだ。
日本語の現在形には単純に現在のことではなく未来のことも含まれている。現在が現在だけではないと気付くと、実は過去も含まれていることにも気付ける。
〇俺ビール飲むんだ
〇俺ビール飲んだよ
下は言うまでもなく過去形であるが、上も過去形でも通じる。
「俺ビール飲むんだ」
「へぇ~どんなの飲んでるの?」
という会話にできる。というか返答の方も現在形だが過去形として発せられている。じゃあ飲んだはどういう時に使われるのか。
「俺ビール飲んだよ」
「へぇ~どんなの飲んでるの?」
さっきと同じ返答だが、こちらは微妙におかしいと感じる。「飲んだよ」には「どんなの飲んだの?」がしっくりくる。
る系の現在形は過去を表すこともできるが、単純な過去形ではない。
るの場合は過去に飲んで、現在も飲んでいることを表していて、たの場合は過去一点において飲んだことを表している純粋な過去形で使われる。たとえば、習慣的にビールを飲む場合は「俺ビール飲むんだ」であり、普段は飲まないビールを飲んだ時は「飲んだよ」になる。またる系は未来も含んでいる。過去飲んで、現在も飲んでいて、しかし未来は飲まない場合は「俺ビール飲むんだ」ではなく「俺ビール飲んでいたんだ」になる。
「俺ビール飲むんだ」という言葉には、俺は過去にビールを飲んだし、現在も飲んでいるし、未来でもビールを飲んでいるだろうという予測が入っている。
というわけで最初の夏目漱石に戻ろう。
〇吾輩は猫である。
〇医者は探りを入れた後で手術台の上から津田を下ろした。
吾輩は猫である。この言葉には過去に猫であったし、現在も猫であるし、未来においても猫であることを含んでいる。吾輩は猫であったではないし、猫であるだろうでもない。猫である。
医者は探りを入れた後で手術台の上から津田を下ろす。ではないのは、文章の書き手はこれが一回性の出来事であり未来では行われないであろうことを予測しているから。
『限りなく透明に近いブルー』の冒頭で《蠅よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなる。≫のではなく《見えなくなった。》のも、過去でも未来でもなく現在だけで蠅が見えなくなったから。逆に、もし過去か想定された未来に蠅がいなくなることを含んでいるのなら、ここは《見えなくなる。》になる。ブルーの続きを引用しよう。
天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草がその中で燃えている。洋梨に似た形をしたワインの瓶がテーブルの端にあり、そのラベルには葡萄を口に頬張り房を手に持った金髪の女の絵が描かれてある。グラスに注がれたワインの表面にも天井の赤い灯りが揺れて映っている。テーブルの足先は手足の長い絨毯にめり込んで見えない。正面に大きな鏡台がある。その前に座っている女の背中が汗で濡れている。女は足を伸ばし黒のストッキングをクルクルと丸めて抜き取った。
「ちょっとそこのタオル取ってよ。ピンクのやつ、あるでしょ?」
リリーはそう言って丸めたストッキングをこちらへ投げた。たった今仕事から帰ったばかりだと言って、手にとった化粧水を油で光っている額に軽く叩きつける。
語尾が『る』の部分は過去にそうであったし、なんなら未来もそうだろうと予想されている。と読み取れる。しかし語尾が『た』の部分は今までになかったイレギュラーなことだ。結果的に同じことが起きるかもしれないが書き手の視点では未来が削ぎ落されている。『た』は基本的にごく狭い範囲の出来事でしか使われない。なぜ小説では『た』が多用されるのか。それは『る』の指す可能性が過去現在未来と広すぎるので、言葉がぼやけるからではないか。
さて、ここまで書いたのはあくまで私の予測なので、ご自分で書かれた文章で『るた』を確認してみることをおすすめします。そんなに外れたことではないと予想しておきます。そして『るた』問題はまだまだ掘れる疑問だとも思います。
(おわり)
※未来(予想)と書いたが、未来に何が起こるか分からないのだから全ての言語の未来形は予想系であるはずだけれど、もし過去現在未来を行き来できる存在がいるとしたなら、彼らの未来形は確定系だろう。それがどんなものかは想像できないけれど。
牛野小雪のページ






