愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

2021/10

本当に大事なものは目に見えない、けれど・・・・?

 今週は2ページしか進まなかった。本当に進まなくて嫌になる。でも不毛の砂漠を歩き続けなければ先へ進むことはできない。書けない時間を通り過ぎないと書けるようにはならない。どうやったらこの部分をやり通すことができるだろう。

 今まではword上の文字数で進捗を測っていた。去年から書いていた『ペンギンと太陽』はノートに書いていたので、カウント上は0の日がずっと続いていたが、実際はノートを書き進めていたわけで、書いたページ数を計測するようになってからはかなり気持ちが楽になった。進んでいる感はとても大事だ。ヘミングウェイだって毎日続きが書けそうなところで筆を止めていたほどだ。

 書けなくても机の前に座っていることが大事だ。そうすればいつか書けるようになる。ゲームをしたって勝手に小説は進まない。しかし机の前に座っているのをどうやって計測すればいいだろう? 単純に時間を計測することは可能だけれど、机の前に座りながらマンガを読んだりゲームをしたりすることは可能だ。それに時間を評価軸にすると「24時間戦えますか?」が最適解になってしまう。

 机の前に座って書けなくてもじっと小説と向き合うことが肝だ。ここを捉えることができれば今より書けるようになることは分かっているが、それをどう観測すればいいのかは分からない。精神を形にすることはできないからだ。間違った評価基準では間違った方向へ最適化されてしまうし、評価される場所が目に見えるところだけならば、書けない日が続くと腐ってしまう。しかしその部分も執筆には欠かせないものだ。人を評価することは自分のことでさえ難しい。

(おわり)

牛野小雪のページ


いまさらながら保育園と幼稚園の違いを知る。あと少子化とか

 時々ニュースやネットの政治ネタで燃え上がる保育園の話だが、そのたびに(保育園とは何するものぞ)という疑問が湧き、そのままにしたまま30の半ばを超えてしまった。もちろん保育園の存在は知っていて(っていうか近所にあるし)、親が小さな子どもを預ける場所というのは知っていたが、幼稚園との違いはさっぱり分からなかったし、なんなら幼稚園=保育園と思っていたので、呼び方の違いも学校と学園みたいなものだと思っていた。

 人は時に気まぐれを起こす。ふとどういうわけか『保育園 幼稚園 違い』で検索すると、保育園は0~5歳児を預ける場所で、幼稚園は3~5歳を預ける場所だと分かった。ふむ、たしかに幼稚園の時に赤ちゃんはいなかったな。幼稚園と保育園は共に教育の場でもあるが、保育園は養育も含まれている。いやいやちょっと待て。小学校1年生の時に7歳だった記憶があるんだが、間の一年はどこへ行った? 頭がバグりそうだ。5歳に入学して年少+年長の2年で7歳になってから小学校? 3歳から入った場合は5歳から小学校か? いやそれは絶対にない。それとも4年通う? うおおおおお、分からん! 幼少戦線複雑怪奇なり。

 保育園は誰でも入れるわけではなく、かく言う私も保育園の記憶はない。歩いて10分の場所に保育園があるのにどうして私は行かなかったのか親に聞いてみると抽選から漏れたそうだ。時代を先取りしていたらしい。幼稚園は原則誰でも入れるので「幼稚園入れなかった、日本死ね」みたいなことはないようだ。これはたぶんそれは制度的な問題で、0歳児3人につき、保育士1人が見なければならないので、人材不足に陥るのは疑いようもなく、おそらく3~5歳(こっちは30人に1人でいい)は問題もなく入れるのではと予想する。入れなかったら幼稚園に行けばいいわけだし。つまり保育園問題は生まれてすぐのひよこちゃん達の預け先がないという問題だと見た。

 待機児童の数を検索すると2020年は約12000人いるらしい。これを全部0歳児と仮定すると、解消するには4000人の保育士が必要で、保育士の給与はだいたい315万円。ざっと合計すると126億円/年。しかもありがたいことにこの126億円は少子化によって年々減少していく。保育士だけいても仕方ないが、建物は一度建てれば何十年も使うし、そんなに数も必要ないだろう。今ある物をつかってもいい。個人で見れば126億円は途方もない額だが国家予算で見れば微々たるものだ。その気になればすぐに解決するんじゃない? だってラプター1機分だぜ?

 ちなみにうちの近所の保育園はがらっがらである。車輪の付いたカゴに子どもたちを乗せて道を歩いているのを時々見かけるが大人の数が多いように見える。それもそのはずさっき待機児童を検索した時に、私の住んでいる場所は待機児童数は0だとグーグルちゃんが教えてくれた。徳島県でも待機児童ぐらいいるが、徳島市ぐらいにしかいない。鳴門市でさえ0だそうだ。保育園問題も主戦場は東京みたいな都市圏なのだな。地方分権とかいうなら、まずは司法立法経済を東京大阪福岡に分散すればいいのに。それかもっと道路通そう! 徳島県に広い道をいっぱい作ってくれぇ! 物流が良くなったら景気が良くなる、というのは建前で、車を気持ちよく運転したいだけ。でも、そんなことを言ってくれる政治家っていないよね。みんな当り障りのないことしか言わない。車を買った時についてくる標準オプションみたいなものだ。外すことはできないし、さらに悪いことにまともに走らない可能性もある。せめてもっと個人的な話に焦点を当てた政治家が出て欲しいね。小説を買う時は50%キャッシュバックされるとかさ。毎月図書カードが5000円とか、そんな感じの。まずは徳島県で試してみませんか。人口が少ないのでおすすめですよ。

(おわり)

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歌は歌詞かメロディーか、最後に文体について(ヨルシカの『ただ君に晴れ』は暗い? 明るい?)

 日曜日のシューイチという番組で、アイドルのオーディション?みたいな企画を追っているものがあって、その中で歌唱力のテストがあってヨルシカの『ただ君に晴れ』を歌わせているシーンがあって、一人の女の子が指導教官に「この曲はそんな歌だっけ? もっと明るいでしょ?」と言われていたんだけど、私は(これ明るいか?)と思っていた。YOUTUBEで歌詞を見ても、君がいない喪失感を表現しているようで、やっぱり明るいとは思えなかった。暗いというのも違っていて、う~ん、それはたぶん寂しさだと思う。そういう意味では女の子の方が正しいように思った。ネットでも同じ感想を持っている人が何人かいた。




 ただメロディーは明るめだ。ジャニーズの前の社長の人も「明るい曲は暗く、暗い曲は明るく歌え」って言っていたような気がする(間違っていたらごめん)。歌詞に沿うなら暗いし、メロディーに沿うなら明るい。歌をパフォーマンスとして捉えるなら指導教官の方が正しいと納得できた。女の子の方は歌を歌詞として捉えていたのだろう。

 歌は歌詞なのかメロディーなのか。賢しげな人はどっちもなんて言うだろうけど、大多数の人にとっては歌詞なのではないかな。歌詞のフレーズが引用されることはあっても、メロディーが引用されることはまずない。メロディーは言語化できないという理由はあるけれど、口頭でメロディーが話題になることはない。おそらくメロディーで盛り上がれるのは音楽関係の人だけ。

 それで言えば小説の文体も話題に上らないね。文体は何ぞやと問われても言語化するのは不可能だが確実に存在する。メロディーなみの確度だ。しかし文体はどこで感じているのだろう? メロディーは耳、文体は目? 私は鼻と思っているのだが他の人はどうですか?

(おわり)

追記:文体が話題になることはない、でも文体が大事だ。と村上春樹は言ってた(何を語るかではなく、どう語るかが大事というのは私も同意見だ。)。そもそも語るには言語化する必要があって、言語化できなないなら語ることもできない。せいぜいあれは良い、あれは悪いと印象を語るぐらいしかできない。もしかすると音楽関係者の間でもメロディーが語られることはないのかな。一応比喩で語ることは可能だが、日本語って何故かあんまり比喩表現ないよね。あったとしても稚拙な場合が多く、ケチがつきやすい。いま日本語で小説を書いている存命の作家では村上春樹が一番上手いと私は思っているが比喩表現は無理しているように感じる。だからこそ日本語の表現の幅を広げようとしているとも捉えられる。
 欧米人は何でも比喩するのが好きって印象があるし、使い方もこなれている。日本人は非言語的なコミュニケーションを多くとっているというが、非言語を言語化するのは欧米人がうまいのではないか。空気を空気のままにしない。もちろん全てをそうできているわけではないが、基本的には『はじめに言葉ありき』の文化なのだろう。言葉 is GOD。ネットで世界が均一になったと言われるが外国から学べることはまだまだある。
 あと、どうでもいいだろうけれど、牛野小雪は内容は暗いけど文体は明るいんじゃないかってレビューを見ていて思う。笑いながら読んでくれたらいいんじゃないかな。

追記2:日本は空気 is GODの国だけど、たいてい空気という言葉は悪い意味で使われる。でもなんだかんだで先進国の中に入っているんだから、まんざら空気が悪いわけでもないのだろう。空気を資源と捉えれば良いようにも使えるはずだ。空気を空気のまま書き進めていくのが日本文学の本道なのかもしれない。

ただ君に晴れ
U&R records
2018-09-01









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googleにタマを握られている

『ずっとやりたかったことをやりなさい』というワークブックを7週間続けた。これといって劇的な変化はないけれど分かったことはある。このワークブックは想像性全体を伸ばすもので、小説が書けるようになる本ではないということ。ピザやケーキを焼いたり、部屋の模様替えをしたり、庭に木を植えたり、新しい人の曲を買ったり、まぁそんな感じのことをやっていて、小説を書くという行為だけで見るならば、やっぱり雑感帳の方が良いように思われる。

 でも記録を残すというのは面白いものだ。『生存回路』を書き始めてから数年は書けない日がなかったが『ペンギンと太陽』からまた書けない日を味わっている。いや、本当に今週は全然だった。そういうことをモーニングノートに毎日書いていると、執筆って元々七転八倒しながら書くものだったじゃないかと思い出せることもある。

 先週はAIと統計分析の本を読んでいて、前からシンギラリティ()機械学習()なんて思っていたけれど、やっぱりそうだと確信を強めた。ここ数年はディープラーニングという言葉が流行っているけれど、やっていることは統計分析と検索でしかない。とはいえ、人間も実は生きた検索機械なのかもしれない。そもそも現代の科学では人間が思考しているかどうか分からないのだから、機械に知能があるかも分かりようがないし、もしかしたら人間が思考しているかどうか分からないのは思考していないからかもしれないしね。僕達はみんなウォーキングデッド。哲学的ゾンビだ。既に全ての物語は書かれてしまったという言葉があるように自分の小説を読んでいても、過去の小説に類似しているところはいくつもある。意地悪な人に言わせればオリジナリティなんて0かもしれない。自分はまだ自分の物語を書いていると信じてはいたいけどね。たぶん他の人も同じだと思うし、それは二次創作している人でそうだろうし、もしそう思えないのならどんな物も書けない気がするな。自己肯定感が執筆の燃料だ。

 なんてことを書いても、今週は全然だった。何回も書くけど本当全然だ。先月は10月にはもう書き終わっているだろうな、なんて考えていたが、今月は来年になっても終わらないかもしれないぞ、と思っている。何にも書けない時は過去の記録をさかのぼることにしている。その日に書いた量、食べたもの、使ったお金、筋トレしたかどうか、全てを記録しているわけではないが気が付いた物は何でも記録している。でも読んだ本は記録してないな。なんでだろう? AIといえばgoogleだ。google自体もAIを作っているが、解析の指標としてgoogleのデータがよく出てくる。というか、たぶん絶対に出てくる。
googleすげえな、といつも感心していたのだが、ふと自分の情報もgoogleにあるんじゃないかと調べてみる。まずは『google マイアクティビティ』で検索、っと‥‥‥ 

うわあああああああああああ!

 googleヤバすぎぃ! GAFAとか言っているけどG一強じゃねえか! SNSのログインもAmazonの履歴も残ってる! おまけにソシャゲーのログイン記録まで残ってる! こりゃアメリカでGAFAを規制する議論が起こるのも分かるわ。中国共産党より人のプライパシーに踏み込んでる。利便性をペイしてくれていなかったらギロチンにかけられていてもおかしくはない。と、一通り驚いた後でグーグルマップのタイムラインという機能で私がいつどこへ行ったのかという情報を見てみた(行った場所で撮った写真まで見せてくれる)。それでふとひらめいて、執筆がはかどり始めた転換点を確認してみる。やっぱり。毎日4ページ書ける流れになった前日には車で100km以上移動している。もしかしたら車で移動した分だけ小説が書けるのかもしれない。絶対に論理が繋がらないけれど、機械学習的にはそういうことだろう? 帰納法だ。そこで私の中にあるAIが「よし、お前。データを取るために今日は100km以上車で走ってみろ」とささやく。というわけで今日はこのあと車を洗って、2時間ほどドライブするつもりだ。

二時間だけのバカンス [feat. 椎名林檎]

 googleに何もかも握られているけれど、どうせ握られているなら有効活用しない手はない。毒を食らわば皿までだ。自分を分析するツールとして使ってやる。

(おわり)

追記:100km以上のドライブと小説は繋がりそうにないけれど、私の小説は主人公がよく移動するし、なんなら移動中の時の方が筆がノリノリの様な気がしないでもない。私はドライブしている感じを小説で書いているのかもしれない。自分ではそう思わないけど。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。
ジュリア・キャメロン
サンマーク出版
2012-11-05


追記2:『ペンギンと太陽』のまえがきとあとがきに引用してくれと書いたのには理由がある。コロナウィルスみたいに小説を拡散するにはどうすればいいのかと考えて、ウィルスみたいにコピーされたら拡散するのではないかと考えた。これは『ペンギンと太陽』にルル子さんの世界一のファッションデザイナーについての考えで既に書いていたと後で気付いた。ただコピーされるだけだと免疫ができるので、読者のコメントがあればそれが多様性を担保して免疫ができるのを防げるのではないかとも考えた。作中のセンテンスは遺伝子で、コメントは突然変異だ。これでコロナウィルスみたいに感染を広げてやるぞと計画していたのだが、パンデミックは起こらずに収束。いや~まいった。こんな恥をあえて書くのも『ずっとやりたかったことをやりなさい』に喪失を受け止めるというワークがあるからで、私はジュリア・キャメロンにすっかりハマっているのである。『タクシードライバー 』の監督マーティン・スコセッシもこのメソッドを使っているらしい。いつかモーニングノートで小説に辿り着くことはあるのだろうか? なんかケーキとかスコーンばっかり焼いている‥‥‥。5年後、私はお菓子屋になっていたりしてね。



タクシードライバー (字幕版)
シビル・シェパード
2010-10-01



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『ペンギンと太陽』のリリース記事


 ルル子さんは世界をまたにかける鮫島商会の一人娘で超お金持ち。

そんな2000年に1度のヴィーナスと僕は結婚する。
伝説を作ったり、赤ちゃんができたり、戦争があったりもするが新婚旅行で北極にオーロラを見に行った二人は氷床を目指す巨大なクジラの影を見る。

ペンギンと太陽ができるまでのブログ記事

他の小説と何が違うか

1. 独特な比喩と世界観

「火星のペンギン」や「南極のペンギン」を通じて、現実と幻想が混じり合うメタファーを使い、登場人物の内面や社会に対する違和感を強調しています。この風変わりな設定が、現代社会の疎外感や人間のアイデンティティに対する哲学的なテーマをユニークに掘り下げています。特に、ペンギンを用いて人間の行動や社会の構造を分析する視点は、奇抜で新鮮です。


2. 日常と非日常の融合

物語の中で、現実的な日常のシーンとシュールでファンタジーのような設定が織り交ぜられています。たとえば、結婚生活や日常的な人間関係が描かれる一方で、登場人物の視点は常に「火星のペンギン」といった異様な設定に支配されており、現実と幻想の間を揺れ動く構成が独特です。このような非現実の混入が、物語に独特のスリルを与えています。


3. 社会風刺と皮肉の効いた文章

作品全体に見られる風刺的な描写や言葉遊び、皮肉を込めた言い回しが、物語にユーモラスでありながらも鋭い視点を持たせています。たとえば、「人間が鳥類から進化した」という突飛な理論を展開する中で、現代社会のコミュニケーションや価値観への皮肉を交えた語り口が光ります。読者を笑わせつつも考えさせる巧みな手法です。


4. 深層的な哲学的考察

物語を通して「人間の本質」や「他者との断絶」を象徴的に描いており、単なる奇抜な設定ではなく、深層的なテーマを扱っています。登場人物の思考がリアルに描写されることで、社会との違和感を強く感じる人間の内面が浮かび上がります。


5. 内面世界と現実の境界をぼやかす

物語では語り手の視点が頻繁に変化し、現実と内面的な認識の境界が曖昧に描かれています。これによって、読者は主人公の思考と現実の曖昧さに没入させられると同時に、不安定な感覚を抱かされます。このような心理的な揺らぎが、作品の特異な魅力を生んでいます。


このような点から、この小説はユニークで独自性が高く、風刺と哲学を織り交ぜた特異な視点から人間社会を描いていることが、他の多くの作品とは異なる点と言えます。



試し読み

1 火星のペンギンは人間のふりをする

 南国の正午に太陽は音もなく地上を焼き、一切の影を蒸発させる。南極では沈みかけの太陽が一日中浮かび、大地は一年中雪と氷に覆われている。そこはあまりに寒すぎるので世界中で猛威を奮ったコロナウイルスでさえ小さく縮こまっている。いつかは氷が溶けて、生物大爆発の時が来るかもしれないが今は命が凍る白と青の世界だ。しかしどんなものにも例外がある。皇帝ペンギンだ。彼らは子どもを産む時期になると、海から上がり、氷の上を何十キロも、時には百キロ以上も歩いて南極の営巣地を目指す。人間なら子作りのたびに夫婦揃って冬の富士山に登るようなものだ。そんなことをした夫婦は神話の世界でも見つからない。しかも彼らは出産後もヒナが大きくなるまでは雪と氷の世界に立ち続ける。オスは半年近くも飲まず食わずだ。それどころか体から絞り出した栄養をヒナに与える時もある。飲む方は雪があるのでしのげるかもしれないが食べ物は本当に何もない。南極はウイルスさえ育たたない不毛の大地だ。どんな動植物も存在しない。唯一の例外は、でっぷり太った同族達だが皇帝ペンギンはどんな苦境に立たされてもの振る舞いを崩さない。きっとイギリス人はペンギンから進化したに違いない。を発明したのはイギリス人だ。あの服はどこかペンギンに似ている。先祖の姿がDNAに刻まれているんだ。ペンギンブックスはイギリスの出版社だ。疑う余地はない。イギリス人はではなくだ。日本人もが起きると燕尾服を着るようになったが、それ以前はだった。あのふさふさした感じはニワトリそっくり。はトサカのり。日本にニワトリブックスはないが『ひよこクラブ』という雑誌はあるので『ニワトリクラブ』もきっとあるだろう。もちろん日本人も人類ではなく鳥類だ。それだけじゃない。アメリカ人も、中国人も、どこの国の人間もみんな鳥類だ。


 こんなことをいうと科学界からにかけられそうだが人間が猿から進化したなんて絶対に間違っている。恐竜→鳥→人間と進化したに違いない。三種の共通点は二足歩行。トリケラトプスみたいな草食恐竜は四足だが肉食は二足だ。このことから人間はティラノサウルスやラプトルの系列だと推測できる。どちらも恐竜界の人気者だ。


 動物園で猿と鳥の数を比べれば鳥が多い。ペットでも猿より鳥が多いはずだ。肉の生産量もたぶん鳥が一番多い。この人間の奇妙な鳥好きな傾向は人間が鳥類である証拠だ。もし科学界に詰められたら僕はすぐさま論破されるだろうが最後に『それでも人間は羽ばたいていた』と叫んでやる。


 ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために、異端審問にかけられ、最後はひざを屈しなければならなくなった。今となっては異端審問が非難されているがガリレオが生きている間は彼の方が非難されていた。現代では名誉を回復して科学界のになったが彼個人の人生は悲劇でしかない。でも地動説だって怪しいものだ。異端審問は間違っていたがガリレオだって間違っているかもしれない。本当は地球も太陽も止まっていて自分の目が回っているだけかもしれない。


 過去の発見は正しい。地動説でも太陽は地球の空をぐるぐる回っているし、相対性理論が出てきてもリンゴは木から落ちる。この世に間違いなんてなくて、どれも一面の真実を現しているのだろう。もしかしたらブラックホールの底で1+1がカボチャの世界が見つかるかもしれない。


 これから僕の語る一面の真実を聞いてほしい。途中でひっかかっても、ひっかかったまま進めば謎は氷解するはずだ。しなければ謝る。ごめん。こうやって先に謝るのは誰にも理解できないんじゃないかと不安なのもあるし、第一僕が十全に理解しているとは言い難いからだ。そもそもこの世に何かを理解している人なんているのだろうか? 現代でもソクラテスと話したら、みんな無知を暴かれるだろうし、彼が毒ニンジンを飲む結末も変わらないだろう。お前は何を言いたいんだと焦れている人もいるかもしれないが僕の文章は人生と同じで結末が最初に来ることはないし意味だってないのかもしれない。あぁ、言い訳がどんどん長くなる。よし、ここはズバっと言ってしまおう。


 人間は火星のペンギンに滅ぼされた。僕は人間最後の生き残りだ。


 どうだ驚いただろう。僕も最初は驚いた。どうして僕がそう思うようになったのかは明確な理由がない。日常のささいな積み重ねが揺るぎない証拠になった。刑事ドラマでいう、しっぽはまだ掴んでいないが絶対にクロというやつだ。五歳の時に僕はこの衝撃的な真実に気付いた。僕は人間の皮を被った火星のペンギン達に囲まれているのだと。


 たとえばだ。ペンギンは「ガー」と鳴いて、お互いの存在を確かめたり、拒絶したりする。言葉の意味を消化して、言葉を返すなんてことはしない。火星のペンギンも同じだ。彼らは「ガー」の代わりに言葉をやりとりするが相手の言葉なんて一瞬も腹に納めずに、声真似、いや、言葉真似した鳴き声を返しているだけだ。誰が聞いても、ご立派な言葉は発しているが、その実「ガー」「ガー」と鳴き合っているのと同じだ。


 小学校の時、僕は同級生に「ガー」とペンギンの真似をして挨拶をしたことがある。すると相手は目をぱちくりさせたが、僕がもう一度「ガー」と鳴いて首を下げると、向こうはニタリと笑った後に「ガー」と鳴いて首を下げた。あんまり相手を試すと不審がられるので、それをやったのは一度だけだが証拠はひとつ積み上がった。僕はこんな具合にあの手この手で周りの人間がみんな火星のペンギンであることを確かめていった。


 それ以上に僕が熱心だったのはペンギンの真似だ。もちろん水族館や海にいるペンギンではなく人間の皮を被った火星のペンギンの真似だ。もし僕が人間だとバレたら何かとんでもないことが起こりそうだったので命がけでペンギンの真似に人生を捧げた。僕の真似は完璧で決してしっぽは出さなかった。でも証拠はなくても疑うことは可能だ。ペンギン達はいつもうっすらとした敵意を僕に向けてきた。僕は人間だからどうしてもが出てしまうのだろう。向こうだって、いかにも人間でございますという顔をしていたがペンギン味を隠せていなかった。


 僕達はお互いに疑い、試し合い、信じ合えなかった。僕はいつ果てるともないスパイ合戦に疲れて「ペンギン共。本当の人間がここにいるぞ」と叫び、全てを終わらせたくなる衝動に襲われる時があった。またある時は、すれ違うペンギン一羽一羽に「君は人間のふりをした火星のペンギン……と見せかけて、本当は人間なんだろう?」と試したくなる時もあった。


 さて、おそらくこの文章を読んでいる君は人間のはずだ。人間以外の何かである確率はどう甘く見積もっても一〇%を超えないだろう。そして頭の回る読者なら、なぜ人間を滅ぼした火星のペンギンが人間のふりをする必要があるのだろうと疑問に思うはずだ。僕はこの疑問に至るまでに一〇年を要した。ペンギンに囲まれて、まともに物事を考えられる人間がいるだろうか? いや、いない。それを考えれば僕はノーベル賞級の発見をしたといってもいい。


 火星のペンギンがなぜ人間のふりを続けるのか。この謎を解くにはコペルニクス的転回が必要だった。天動説から地動説へ。今でも忘れられない。中学三年の一〇月、国語の授業で窓に揺れるカーテンをぼんやりと見ていると、突然あるひらめきが背筋を走り、僕は身震いした。もしその考えが誰かから聞かされたものだったなら僕はそいつを火炙りの刑に処しただろう。僕はすぐさまその考えを焼却した。しかし火の鳥が灰の中から何度でも甦るように真実もまた何度でもった。そしてとうとう僕は信じざるを得なくなった。火星のペンギン達こそが人間であり、僕が人間のふりをした火星のペンギンなのだと。


 ニュートン万歳。オッカムの。全てがシンプルに効率良く収まった。しかしどんな問題も形が変わるだけで決して解決しないものだ。物の見方は変わったが僕は相変わらず人間達からうっすらとした敵意を向けられていた。僕の真似は完璧だ。だからこそ不完全だ。現実界に人間のイデアが存在しないように人間達はみんなどこか非人間的なところがある。僕はそれをペンギン的だと勘違いしていたのだ。


 僕は火星のペンギン。最後の生き残り。息をひそめて人間のふりをしている。

(つづく)




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