男が右手に持っていた斧を持ち替えてドアを開くと冷たさが顔を撫でた。性悪女がからかって息を吹きかけたようだ。
家の周りは森に囲まれていて、どの木も降り続く雪で白くなっている。
「やけに寒いな」
男は独り言を言った。ドアのそばに斧を立てかけ、家に入る前に帽子や服に積もった雪を払った。
男は家に入ると椅子や机の下に目をやった。
「そんなところにいたのか。ステーキになっちまうぞ」
男はストーブの天板の上に横たわる黒猫を見た。ストーブの窓を覗くと火は点いていない。木は焦げていたが、まだほとんど残っていた。家を出る前に点けたままにしておいたが途中で消えてしまったらしい。
「ドリス」
男は猫の名前を読んで背中を撫でたが、猫は窓の外を見たまま動こうともしない。死んだかもしれないと男は思った。ほっとしたぬくもりのようなものが胸に一瞬広がるが、猫の顔を覗くと目は黄金のように黄色く輝いていた。長年凝り固まった憎しみが、氷のように固まったような目つきが男を射抜いている。
「寒いな。ずっとそこにいたのか」
頭をなでると猫は迷惑そうに顔を背けてストーブから降りた。
「こっちへ来い。お互いに暖め合おう。俺も石みたいに冷えてしまった」
猫は窓枠に飛び移ると、何も言わずにずっと外を見続けていた。手の中にさっき撫でた猫のぬくもりがまだ残っている。
「やれやれ、このままだと二人とも凍え死んでしまうな」
男はストーブの窓を開けた。木はやはり炭になっていたが、まだ男の太ももぐらい残っている。火を点ければ数時間はもつだろう。
男はためいきをついて椅子にもたれこんだ。男が帰ってきた時は家中にある物がコトコトと音を立てて振動していたが、今は寒さに動きを吸い取られて、猫の歩く音が聞こえそうなほど静かだった。
「さて、どうする? 一度は体を暖めないとまた外には出られないぞ」
男が声をかけると、猫は耳を一度動かしただけで、やはり窓の外に顔も体も向けたままだった。
男は息を強く吐いた。自分の手で自分の腕をこすり、椅子から立ち上がると「たきつけの枝を拾ってくる」と言って、家を出た。
外は一面雪一色で、木の下にさえ雪が積もっていた。男以外に生きている者はいないのか、辺りは何の音もしない。
男は静寂の世界に向かって歩き出した。
毎日拾っているので、たきつけにちょうどいい枝は家の近くには落ちていない。男は森の中へ入っていった。
ただ歩くだけでは枝を見つけられないので、男は雪の薄そうなところを見つけると、そこを掘った。かすかな盛り上がりがあると、たいていそこには何かが埋まっている。ただしどこにでもあるわけでもない。
男は勘を頼りに枝を拾い集めていた。ふと気付けば雪が降り始め、辺りは暗くなっていた。
「そろそろ帰らなければならない。今夜の分の枝はある。明日の朝はまたその時、拾えばいい」
狼の鳴き声が遠くで聞こえた。
「斧を持ってくるのを忘れた。たきつけの枝じゃ猫も殺せないぞ」
雪は強さを増した。視界が真っ白になるが、その背景は真っ暗になっている。
「いつの間にか暗くなったらしい。欲張ったのがいけない。夜の分だけ集めれば良かったんだ」
男が家のある方へ帰ろうとしていると、また狼の鳴き声が聞こえた。さっきより近い。
「さっきは音の響きが森から降ってきたが、今のはまっすぐ響いてきた。どうやらあいつは俺が見える場所にいるらしい」男は辺りを見回した。「だが俺からは奴が見えない。きっと灰色の体で雪の上に伏せているんだろう」
男が足を向けていた方向へ顔を戻すと、心臓にきゅっと冷たい血が流れ込んできた。目の前は真っ白で、さっきまで森の隙間に見えていた家が見えなくなっていた。
「おちつけ。狼ってのは臆病者が好きなんだ。自分と同じだからな。根性のあるやつには近付けないんだ。お前なんか恐くない、道にも迷っていないぞって態度でいれば、たとえ向こうが10匹いたって襲えるもんか」
男はただ目の前に向かって歩いた。雪の盛り上がっているところがあったので、掘ってみると細い枝を見つけた。
「そうさ。俺が立ち止まったのは枝を拾うためだ。お前も見ていただろう?」
男の声に応えるようにまた狼の鳴き声がした。さっきより近くなっていた。もしかしたらもうすぐそばにいるかもしれないが、男は顔を前に向けた。
「俺は恐がっていないぞ。迷ってもいない。しかしどうしたものかな。やみくもに歩き続けていれば、向こうの方で俺が道に迷っていると気付くかもしれん。いつの間にか同じ道を歩いているなんてこともありえるかもしれないからな。いや、俺は狼を恐れているのか? そうだ。恐れている。だから恐れないようにしている。奴の鳴き声から離れていこう。そうすれば、すぐには奴の姿を見ないで済むだろう」
進む方向が決まると男の足取りは確かになった。
「ほらな。鳴き声が聞こえなくなった。あいつらはよだれを垂らすほど臆病が大好きなんだ。きっと今頃はしょげかえっているだろう。それにしてもここにドリスがいなくてよかった。もし狼に襲われたら2人とも死ぬことになる。しかし俺が死んだらあいつはどうなるんだろうか。100年経ってもストーブの天板で横になっているんじゃないか。いや、冬が終われば外に出て行くさ。だがどうやって? あいつが家の外に出て行ったことはあるが、いつも俺と一緒だった。本当に一人っきりになった時に、あいつ一人で家を出て行けるだろうか」
狼の鳴き声が聞こえた。
「いかんいかん。気持ちが弱くなると、あいつには分かるんだ。もっと強い気持ちを持たなければならない」
男はたきつけの枝で狼達と戦うところを頭に思い浮かべた。すると体が芯から熱くなった。
「俺はただで食われはしないぞ。命の限り戦ってお前達に傷を与えてやる。ただで食える飯はないんだ。そうだ。いつでも来い。俺はお前達と戦ってやる。斧が無くても枝で、枝が折れれば拳で戦ってやる。拳を食ったって無駄さ。俺は噛み付いてやる」
男が歯を食いしばり拳を握ると、わきの下にうっすら汗をかくほど顔も体も暖まってきた。
「さあ、来い‥‥‥来い‥‥‥来い…‥‥」
男が呪いをかけるように同じ言葉をつぶやき続けると、不意に森が開けて、家が目の前に現れた。
「なんてことはない。俺は家に着いてしまった」
男は玄関の階段を登り、ドアに手をかけた。森へ振り返ると一匹の狼が男を見ていた。頭の中に思い浮かべていた狼とは違い、灰色の毛皮はぱさぱさに乾いていて、体もずいぶんやせている。狼は上目遣いで、顔を揺らしながら男を見ていた。
「怯えていたのはお前の方だったんだな」
男はそう言うと、ドアを開けて家の中に入った。中は真っ暗で何も見えない。
「ああ、大変だ。枝はある。マッチはどこだ」
男が暗闇の中で歩くと、何かが足に当たって、崩れる音がした。
「くそっ、このままだと家が壊れてしまうぞ」
男は足で床を探りながらゆっくりと歩いた。そして記憶を頼りに、道具箱を見つけ出すと、たきつけの枝を床に置いて、マッチ箱を取り出した。
「よしよし、マッチを見つけた。ストーブは‥‥‥ほら、すぐそこだ。ふたは開いている。おい、ドリス。中に入っていないだろうな」
男はストーブの中に手を突っ込み、誰もいないことを確認すると、たきつけの枝を中に入れてマッチに火を点けた。
「ふぅ、なんとか火がついた。おお、そんなところにいたのか」
猫は男の腕の近くで、一緒にストーブの中を覗いていた。
「お前は暗いところでも目が見えるものな。手伝ってくれればよかったのに」
男が猫の頭をなでていると、たきつけにうまく火がついて火が大きくなった。家の中がうっすら明るくなる。男は机からランプを持ってくると、もえさしの枝で火を点けた。すると家の中はもっと明るくなり、物の形がはっきりと見えるようになった。
「ああ、あんなに散らかって。しかし斧を踏まないでよかった。もし暗闇でケガをしていたらどうしようもなかった」
男はさっき崩した物を元に戻すと、鍋を取り出し、ストーブの天板の上に置いた。たきつけの火はもう炎と言ってもいいほど大きくなり、薪も角が赤くなっていた。
「よしよし、一度で成功したぞ。こういう時はかえってうまくいくんだ」
男は鍋の中に玄関で凍らせておいた鹿肉、ブロッコリー、皮を剥いたじゃがいも、バター一握りを入れてふたをした。薪に火がついたようで厚みのある暖かさが男のすねを撫でた。
「ふぅ、ようやく一息つける」
男はストーブの前に椅子を置いて、座った。猫が男の膝の上に飛び乗る。
「さっきは呼んでも来なかったのに、今は呼ばなくても来る。お前って奴はそういう奴さ」
猫はじっとストーブの窓の中にある炎を見つめていた。
「お前は何も考えていないんだろうな。なぜって、俺もそうだからな。揺れる炎と熱をただ感じているんだ」
男と猫は1時間以上、静かにストーブの熱であぶられていた。二人とも何も話さなかったし、考えもしなかった。
「鍋が文句を言い始めた。さ、できあがりだ」
男は厚手の手袋をして鍋のふたを開けると、木のスプーンでバターでとろとろになった肉とブロッコリーをほぐして、猫の皿にをよそった。猫は何も言わずに皿に頭を突っ込んだ。男は塩をひとつまみ鍋に振って、鍋から直接食べた。
二人のくちゃくちゃと咀嚼する音が薄暗い家の中に響いていた。
「ああ、うまい。生き返るようだ。お前も美味いだろう」
猫はニャーと高い声で鳴いた。
男は夜ご飯をなめるように食べきると、すぐにベッドにもぐりこんだ。猫も一緒に入ってきて、男の股の下で丸くなった。
「今日もまた一日乗り越えられた。こんな生活がいつまで続くんだろう」
男はランプの火を消した。それでも家の中はストーブの熱と赤い光に満ちていた。
「俺とお前はいつまで憎しみ合うんだろうな」
猫は男の股の下で燃えるように熱い体を丸めている。
暗闇に響く狼の鳴き声を男は聞いた。
(おわり)
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