愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

2021/07

正しい姿勢で失われるものは何?

 一つの小説を書き終えるといつも猛烈な肩こりと腰痛に襲われる。本当は執筆中からダメージがあったのだろうが無意識でブロックしているのだろう。ヨガとかストレッチとか整体とか色々手を出すが、いまだにこれというものは見つかっていない。

 最近はアレクサンダーテクニークというのにハマっていて、肩も腰も楽になったような気がするが、どうせこれも執筆が始まったらまた台無しになるんだろうな。

 姿勢が良くなると自律神経は整うし、内臓が正しい位置に収まってダイエットにもなるし、頭も体も良く働くし、悪いことなんて一つもないように本には書いてあるが、それならどうして人体は自然に正しい姿勢にならないのだろう。

 人間が二足歩行になってからもう何万年も経つし、椅子や机ができてからも1000年ぐらいは経っているだろうから、そろそろ悪い姿勢の人類は淘汰されて、自然と良い姿勢を取ってしまう人類だけが生き残っても良いはずだ。それなのに人類の姿勢は良くなるどころか悪くなる一方なのは、悪い姿勢から何らかの利益を得ているからではないか。

 肉体は精神の器だとニーチェは言った。現代社会は猫背とストレートネックを要請している。インターネットで猫は人気コンテンツだ。きっと30年後は心も体も首はまっすぐで背中が曲がっているのが当たり前になっているに違いない。

 執筆している時はたいてい根を詰めて前かがみになっているイメージだ。ピシッと背筋を正して何かを書いているのは書記官と取り調べの調書官ぐらいしか思いつかない。姿勢の悪い書記官は間違いが多そうで、正しい姿勢の作家の書いた物はあんまり面白くなさそう。あくまでイメージだが、そんな気がする。現代社会は悪い姿勢から得られる何かを必要としているのだろう。あるいは正しい姿勢ではいられない世の中が間違っているのかもしれない。

 この記事を書いている時も姿勢が悪くなっていた。この文章もきっと間違っている。ピシッとしないとな。

(おわり)

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この王木亡一朗を読め3♪ 『レモン/グラス』

 優れた小説は冒頭の文章が小説全体を支配する。究極的には最初の10行で読むのをやめてもかまわない。夏休みの宿題で読書感想文を書くならなおさらだ。始めに書いておこう。『レモン/グラス』の冒頭で僕と姉は毎朝京野菜を食べていると描写されている。まずはこれを憶えておいて欲しい。

 小説なら文字、映画なら時間、漫画ならコマの制約がある。それなのにあえて食事シーンがあるとしたら、それは作者の意識的にせよ、無意識にせよ何らかの意図が含まれている。その証拠に猫が屋根からさかさまに落ちる出来事はいつでもどこでも入れることが可能なのに、実際にはほとんど見かけることはない。それは猫が何の脈絡もなくさかさまに落ちることに意味が無いからであり、意味のない出来事は削られるからだ。

 もし登場人物の二人が同じ物を食べていた時、しかもそれが男女で会った時、それは恋人同士である可能性が非常に高い。おい、待てよ。母と子、あるいは父と娘の可能性は? もしくは『レモン/グラス』のように姉と弟ということもあり得る。家族が同じ物を食べるのは当たり前じゃないか。そう思っている人がいるかもしれない。確かにそれはそうだ。しかし創作物の場合、家族が同じ物を食べているのは、反抗期の中学生が家族と同じ物を同じ時間に食べることぐらいおかしなことだ。それは崩壊の前触れか、ハッピーエンドを迎える時でしかありえない。というか前者の場合は、同じ食卓についていても違う物を食べているだろう。

 結婚式では基本的にみんな同じ物を食べる。両方の父母の好みぐらいは聞くかもしれないが、出席者の一人一人にまで意見を聞くことはまずない。何故なら出席者の重みは平等ではないから。ほとんどの人は欠席しても問題ない人達だ。何らかの国際会議の食事ではベジタリアンや宗教ごとに食べ物を選べるようになっているが、残念ながらそういう会議が世界的に大きな影響力を持つことはない。二国間交流の場合は同じ物を食べる。もし食べなかったらニュースになるだろう。少なくともカメラが入る場所では同じものを食べる。

 これらのことを踏まえればデートの時に何を食べればいいかはすぐに分かる(あるいは媚を売りたい上司と食事する時でもいい)。相手と同じ物を食べればいいのだ。もし相手が食べてくれないのなら、たとえば相手がカルボナーラを頼んで、自分もカルボナーラを頼んだ時、相手が注文を変えたらそれはとってもヤバい状況だ。

 文学にそう書いてあるから現実世界でもそうなるのか? いいや、絶対にありえない。もし世界中の小説家が、牛野小雪が宝くじに当たる描写を書いても、私が宝くじに当たる可能性は天文学的に低いままだ。数学者は数式を通して世界を記述している。小説家は小説を通して世界を書いている。世界が文学を作っているのだ。この関係が逆転することはあと10000年経っても起こりえない。

「この小説はどういう意味があるんですか?」
 この質問はこうも言い換えられる。
「この世界に意味はあるんですか?」
 もし文学に意味が無いのなら世界にも意味が無い。小説から意味を掴み取れないなら人生の意味も掴み取れないし、人生の意味を掴んでいるのなら小説からも意味を掴み取れる。嘘だと思うのなら試してみて欲しい。小説家が書く書評の印象が、いかにその人の書く小説にそっくりなことか。

 さて、上に書いたように食事に注目して読もう。冒頭で二人暮らしの姉と僕は京野菜を食べているが、姉は体に悪いほどご飯に塩をかけている。つまりあやしい関係だが、姉は意図的に自分に悪い何かを吸収しているぞ、というのが1ページ目で分かってしまうのである。

 これがどういう意味を持っているのかを考えるのは作者の王木亡一朗ではなく読者のあなただ。もしかしたら世界の意味を見つけられるかもしれない。この記事を読んで、文学を読む手掛かりを見つけたと思えたのなら、最初の10行を読んでみよう。その後は燃やしてしまってもかまわない。

(おわり)

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20






※前にnoteで読んだのとは内容が違う気がする。

※2 このブログ記事を夏休みの読書感想文に使ってもいいよ~

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この王木亡一朗を読め2♪ 『あのころ』~だれにもいいねされない私達の退屈、そして無意味さ~

 社会が意味の無いことを許さないのはこの記事の存在自体が示している。この映画は、この本はどういう意味なんですかという問いはよくあるし、それは何の意味もないなら何の価値もないということを暗に示している時もある。価値がないなら存在してはいけないということだ。

 しかしながら私達の生きている時間で、どれだけ意味のある時間、価値のある時間があるだろうか。たいていは意味も価値もない時間を過ごしているはずだ。

 有効活用されるべき時間はまだまだたくさんあるぞ。というのが社会の要請だが、全ての時間が有効活用されている人生を生きていける人がどれだけいるかあやしいものだ。

 TV、ネットでは有効活用された世界であふれていて、退屈は共有されない。人生の大半を占める無意味さ、価値のなさは誰にもいいねされないどころか、積極的に排除される。それは正しいことだ。

(もう書くことはないので、ここでおわり。こんなブログを読んでも意味はないので王木亡一朗を読め♪)

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20


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18歳のJK、受験勉強のためにソシャゲを卒業する

 この前までとあるソシャゲーをやっていた。その中で私はJK(女子高生の略称)だった。別にやりたくてネカマやっていたわけではなく、時々おかしいことがあるなと思いつつ、そのまま過ごしていたら、どうも周りの人達は私をJKだと思っているとある時分かった。その頃にはもう「ワイ女の子じゃないんだがwwwww」と言う機会を完全に逸していた。別に騙していたわけじゃないが今さらそれを言うと、何で今まで言わなかったの? という雰囲気になりそうで恐かったからだ。そのゲームをやっていたのは『流星を打ち砕け』を書いていた頃で、千秋の設定より年齢は少し上だが女の子に見られていたことが、自分の小説の腕が証明されたようで、ちょっと嬉しかったりもした。

 それとは逆にこいつ女の子風だが中身はおっさんだろwというのも見抜けた(ネット探偵怖すぎて草)。またある人は女と分かると変な人が寄ってくるので男のふりをしていると私に打ち明けてきたが、私は最初からその人が女の人と思っていたので、あんまり驚かなかったということもあった。ポリコレ的には男女に違いがないということになっているが、絶対に違いはあると思う。ただし、私みたいに絶対に変えられないものでもない(意図してにせよ、せずにしても)。トランスジェンダーの人はどっちになるのだろう?

 ゲーム内にチャット機能はあるが、アクティブなプレイヤーはdiscordというアプリで連絡を取り合っていた。最近の子はネットで顔出しを恐がらないというのは知っていたが、それは本当。こっちが心配になるほど顔出しに抵抗がない。もちろん全員がそうではなく、聞き専という顔も声も出さない子もいて、私もその部類だったが、その子にしてもこっそり教えてくれたtiktokでは普通に顔も声も出していたりするのでビックリした。10代(と思われている人達)で本当に顔も声も出していなかったのは私だけではないだろうか。ちなみに私のいたサーバーでは未成年淫行で一騒動あった。ネットにはモンスターが潜んでいる。でもたいていの人は良い人。ネトゲのコピペみたいに魑魅魍魎が跋扈しているということはない。勉強だって教えてくれる。

 一つのゲームを何年も続けることなんて普通はなかなかありえなくて、ゲーム自体は3か月くらいで飽きたけれど、人間関係があったのでソシャゲは続けていた。たぶんソシャゲにハマる人はゲームより人間関係にハマっているのではないだろうか。ゲームなんておまけです。

 課金ゲーだけあって人生のバグを見つけたような人に何人か出会った。小説に書けばリアリティがないと言われるような人達がこの世には存在している。私に100万円課金するかどうかという話が持ち上がったこともあったが、怖すぎるのでやめていただいた。でもどうなるか体験したら良い小説のネタになったかな? というか今考えると、相手は私をJKと思っているわけで、もしかしたらあれは未成年淫行の入り口だったのかもしれない。まぁそれはそれで小説のネタになったか。

 クロスサーバーで出会った中国人に結婚を申し込まれたり、サーバー内不倫があったり、荒らしプレイヤーを排除したり、内乱で100万課金する人が現れたりで、色々あったけど、昨日大規模イベントが終わったので、これを機にこのゲームをやめることにした。簡単に言えば人間関係で、仲が良かった人がやめたから私もやめるだけだ。何故一人やめれば連鎖的にやめていくのか理由が分かった気がした。

「ワイほんまはJKちゃうやでw」と幻想を壊していこうとも考えたが「今までありがとうございました。これから受験勉強に専念するので引退します」と最後は意図的にJKとしてふるまった。何故か胸が切なくなった。これが別れというものなのだろう。

 昨日四国では梅雨が明けて、雲一つない青空の下に乾いた風が吹いていた。

(2021年7月20日 記)

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※ やっぱりゲームは10代が多いけれど、トッププレイヤーはお金をいっぱい使える40代50代ばかりだった(正確な年齢は知らないけどたぶんそれぐらい。年金生活者になるとつつましくなる。ちなみにそのゲームでは相手のステータスを見ると相手がどれくらい課金しているか分かる方法がある。)。FPSだとまた違うだろうけど、課金でステータス上げられるゲームだと大人力がものを言う。100万円以下は無課金。

※2 ある人はゲーム内キャラの○○っぽいと私に言った。どうやら私のイメージはギャルっぽい女子高生だったらしい。そのせいか下ネタを撒きまくる荒らしプレイヤーは一度しか絡んでこなかった(他の子にはしつこかった)。だが、ある子はお姉様になってくださいと私に言った。人によって感じ方が違うのかもしれない。いや、中学生から見ればギャルはお姉様か。でも『流星を打ち砕け』の千秋ってギャルじゃないよな‥‥‥と思っているのは私だけで、私以外の人はそういう女の子として読んでいるのかもしれない。そこのところどうなんでしょう?

この王木亡一朗を読め1♪ 『当てつけ』~前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよ、夏~

現代社会は多様性の時代だと言われているが、そんなことは嘘っぱちでせいぜい数バリエーションの人しか受け入れ先はない。腕が6本あったり、目からビームが出たり、指の間からアダマンチウムの爪が出たり、体が岩でできている人間を想定されてはいない。社会の要請する人間で無いならば、特に誰かが排除しなくても、そもそも居場所がないので、彼らは社会の力学で勝手に外側へと導かれる。

 身体能力だけでもそうなのに、心や精神でだって多様性はない。変わったキャラは『変わったキャラ』という枠を越えた途端に受け入れられなくなる。社会に存在する数バリエーションのキャラを越えた人間は静かな真空によって、社会の外側へ吸い込まれていく。人間って数パターンしかいないよな、というのはある意味では正解で、数パターンのキャラしか社会は受け入れられないからだ。内心は自由でも表現は限られている。こいつら没個性だなと思っている人も、社会の中では没個性の人間としか出現せず、そこから逃れようとしても、せいぜい『個性的』という型にハマるぐらいだ。個性的な奴が出てこないと言っている人も、本当に『個性的』な枠を越えた個性的な人が目の前に現れたら、受け入れられないことはほぼ間違いないし、認識することさえできないかもしれない。『』の中に入るのは何でもいい。それは真面目だとか、天才だとか、面白い、カッコイイ、かわいい、弱者、変態、無個性でさえ入れることが可能だ。

 直接の描写はないが前山田君は何のキャラにもなれない無能である。自尊心とお金を払ってまでいじめられっ子というキャラを社会(学校)の中に見出したが、親の金を盗まなければならないほど追いつめられた時に、つまりキャラの維持費が彼個人の裁量を越えた時に、とうとうこの世から居場所がなくなり、オサラバすることになった。

 現代社会は映画の『JOKER』と違って、銃とマレー・フランクリンが存在しないゴッサムシティだ。マレー・フランクリンみたいな人がいれば笑いものにしてくれる。一緒に笑えば居場所を得られる。もしかしたら表舞台に引き上げてくれることだってあるかもしれない。銃があれば自分を笑う奴を撃ってテロリストになればいい。しかし残念ながら社会に受け入れられない人にマレー・フランクリンは現れないし、銃、あるいはそれに準ずる力さえも手に入れることはできない。『JOKER』のアーサーだって自分の力で銃を手に入れたわけじゃないしな。『JOKER』はしょせんフィクションで、舞台装置として銃を手に入れただけだ。現実は静かに死ぬか、腐りながら生きていくしかない。

 上でも書いたように社会に受け入れられない人間は認識すらされない。前山田君にいじめられっ子というキャラが付いていた時は主人公が同情してくれたのに、自殺した理由がいじめでないと分かった途端に、前山田君はいじめられっ子というキャラから逸脱して、キャラが剝ぎ取られた無キャになってしまう。半年後もすればいじめっこの前山田君は記憶に残ったとしても、仮面が外れたむき出しの前山田君は存在していたことさえ忘れられるだろう。社会的な『』にくくられない真の無キャは『当てつけ』さえ亡きものとされてしまうのだ。

(おわり)

※前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよってタイトルに書いたけど、そもそもこの小説、平成に書かれた物だったので、やっぱり二重の意味でねえよ。

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20



ジョーカー(字幕版)
ザジー・ビーツ
2019-12-06



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1年以上かけて小説を書いてみた結果

20210717
 ノートを見ると去年の4月23日から『ペンギンと太陽』を書き始めたようだ。どこで完成と区切るのは難しいが、2021年7月13日からは手を付けていないので、おおよそ15か月をかけて一冊の本を書いたことになる。

『流星を打ち砕け』と同様、まずはノートに書いてからwordに清書した。しかも前日書いたところをまた書き直すというやり方だったので、1章進むのに1か月もかかったし、ノートもたくさん使った。とても環境に悪い執筆だ。kindleで出版している私が言うのも変だが、デジタルには身体性が欠けている気がする。wordで打ち込むのも指を使うので、全く新体制がないとは言えないが、ペンと万年筆と比べると『手応え』に欠ける。子どもの頃はずっと手書きだったから、文字を書く行為には身体性が必要なのかもしれない。この1年で10年分ぐらい執筆したような気がする。ただ身体性があるからといって、それが良いとは限らないけどね。

 今時の小学校からタブレットを使っている子達はまた別の文字を書く身体性があって、その時が本当に新しい文学が出てくる時かもしれない。ディスコードで話していると、今の10代は言葉の使い方が違うのが分かる。それがどういうことかと言葉では分からないが、今話している相手がおっさんかキッズかぐらいは分かるぐらい違う(敬語だと分からない。敬語は老若男女に使える共通語だ!)。文法が違えば、頭の中も違っていて、考え方も違うかもしれない。考えてみれば、もう生まれた時からスマホのある世代が大きくなっている。最近のちっちゃな子はYOUTUBEが子守歌らしいしね。

 一年かけて書いた小説はなんとたったの4万字。wordで字数を見た時はちょっと驚いた。一章書くのに4万字くらいかけるのに、実際に使うのはその10分の1以下だから当たり前なのだが、それでも全体で4万字というのはショックだった。今までで一番良い文章を書けたという自負はあるが、労力を半分にしても9割ぐらいはクオリティを保てただろう。というか1回目でも7割ぐらいはいけた。3割の差を大きいと見るか、小さいと見るかは価値判断だけど絶対にコスパは釣り合っていない。10回書いたから10倍良くなるなんてことはないのだ。

 おまけに一年以上時間をかけたのにできあがった物を『小説』と思えないのもショックだ。一章ずつ書いていくスタイルが本全体を一冊の『小説』にできなかった原因かもしれない。プロットだとちゃんと『小説』してたんだけどな・・・・・。

 とにかく最後まで書いて、後から書き直すという伝統的な手法はやはり正しいのかもね。今週は『蒲生田岬』の改稿をしていたのだが、こっちの方がよっぽど『小説』してる。

 それでも私は『ペンギンと太陽』の方がよっぽどよく書けている本だと感じる。つい最近まで書いていた本だから思い入れがあるだけかもしれないが、私はこっちの方が絶対に良いと思う。蒲生田岬を読んでいると恥ずかしさを感じる。ただ気になるのは私の中にある『小説』じゃないってことだけ。めちゃくちゃ悩んだ。これはもしかすると大いなる失敗作ではないかと思い続けていたけれど、結局は出すことにした。何故ならば書いてしまったから。身もふたもないけれど本当にそういう理由。書き直して『小説』にする方法も見いだせなかった。

 もう3年ぐらい、にゃんこスターが流行った頃からストックしてある『山桜』を先に出すべきかなとも思うけれど、ここまでくると逆にもう出してはいけないような気もしてくる。いや、3か月おきに出すべきか。本を出していない年がないように溜めておくとダレてしまうかもしれない。どちらにせよ、7月は暑いので10月の涼しくなった頃に新作を出そうと思う。

ペンギンと太陽ができるまでのブログ記事

ペンギンと太陽 (牛野小雪season3)



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