愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

2020/02

一年ぶりに『山桜』の推敲をする

 最近コロナウイルスで世間が騒いでいるけれど、去年の二月はインフルエンザで何日か布団の中で震えていて()、熱に浮かされている時に、ヘミングウェイのように一年寝かしたらどうなるのだろうという考えが頭をよぎって、その時は絶対にするわけがないと思っていたが、本当に一年寝かしてしまった。熱で頭がおかしくなったのかもしれない。

 久しぶりに『山桜』を読むと、当然ながら去年の熱はもうなくて、それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、多少書き直したところはあった。そこは去年からどうしようかと迷っていたところで、一年経ってみれば迷うほどのことはなかったし、書き直した後でもう一度読み直しても、やはりそうするべきだと思えた。問題点(迷うぐらいなので、明確な問題だったというわけでもないが)は去年のうちに掴んでいたのだから、その時にもう一歩踏み込んでいれば同じ結果だったかもしれないし、やはり一年時間をかけなければ書き直せなかったかもしれない。人生の二つのルートを同時に歩むことはできないので分かるはずはないが、ただこれが良い小説なのは間違いない。でもいつ出すのかはまだ分からない。徳島公園の桜はもう咲いてしまったし、そもそも題名に桜とついているが春の桜を見る話ではないし、とか色々考えているが、ストックしておくのが一番良い気がする。いつでも何かしら出せる状態であるのは気持ちに余裕が出て、精神的に良い。

 表紙の方は一季節に二つか三つのアイデアをひらめくので、フォトショップのファイルが13個もある。jpegファイルは70個(バージョン違いがほとんど)だ。これは最高だ! と毎回思っていたが、いつもそれを超えてくれたのはありがたい。小説は表紙込みで一年寝かせた方が良いのかもしれない。


》おわり 2020年2月28日(金)牛野小雪 記


牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪

『流星を打ち砕け』のリリース記事

内容紹介
人類滅亡級の隕石は核爆弾で破壊されたが
散らばった破片は大量の流れ星になって降ってきた
焼け跡を馬に乗って駆け回る藤原千秋
海の向こうへ行った世界で一番美しい猫クッキー
二人は別々の世界でお互いを探し求める


登場人物

藤原千秋
 千秋は内面に豊かな感受性と情熱を秘めた少女である。毎朝、馬屋へ赴きユニコやほかの馬たちと触れ合う中で、動物たちとの絆を深め、自然との対話を通じて自らの存在意義を見出している。彼女は学校や部活動に励む傍ら、詩や国語の授業に心を躍らせ、未来への夢を抱く一方で、現実の厳しさや孤独に直面することもある。
 その内面は、時に儚さや不安、そして成長への葛藤に満ち、まるで自らが歩む道を模索するかのようだ。千秋は、馬との心の通い合いから勇気を得ると同時に、友人や先輩たちとの関係を通じて、人と人との絆の大切さを学んでいく。彼女の目には、日常の何気ない瞬間にも美しさや意味を見出す力が宿り、その感受性は時に詩的な表現としてあらわれる。
 夢見る心と現実との間で揺れ動きながらも、千秋は未来に向かって一歩一歩成長し、大人へと近づく決意を胸に秘めている。彼女の姿は、理想と現実、愛情と孤独が交錯する現代社会における一人の少女の生き様を象徴している。

クッキー
クッキーは藤原家に住む唯一無二の存在であり、ただのペット以上の個性豊かな猫だ。美しい被毛と自らを誇る美貌を背景に、自由奔放でありながらもどこか家族に対する反抗心や皮肉を漂わせる。
 彼女の語り口は、ユーモラスでありながらも現代社会への鋭い風刺が効いており、飼い主である千秋との複雑な絆を象徴する。かつては千秋に懐いていたが、次第に距離感が生まれ、愛情と独立心が交錯する微妙な関係へと変化していく。
 クッキーは、自らの美しさを誇示しながらも、家族内での役割や存在意義について、あえて率直な言葉で語る。彼女の視点は、現代の価値観や家族、そして資本主義社会の矛盾を映し出す鏡のようであり、読者に多くの問いを投げかける。飼い主とのかつての温かな日々と、現在の距離感が交錯する中で、クッキーは自分自身の居場所を模索し、自由と依存の狭間で揺れ動く。
 そんな彼女の存在は、単なる動物としてではなく、一つの個性として、そして一種の風刺的な語り手として、物語全体に深みとユーモアを与えている。

千秋とクッキーの関係

 千秋とクッキーの関係は、単なる飼い主とペットの枠を超え、互いに影響し合う複雑な絆として描かれている。千秋は幼い頃からクッキーとともに成長し、安心感や癒しを求める存在として彼女に心を寄せてきた。しかし、成長とともに学校や部活動、そして自分自身の内面の葛藤に直面する中で、千秋はクッキーとの距離感を次第に感じ始める。
 一方、クッキーは自らの美しさや誇り、自由な性格を前面に出しながらも、内心では千秋への深い愛情や懐かしさを抱えている。彼女は皮肉や独特の語り口で、千秋が変わっていく様子や家族の中での立ち位置を鋭く観察し、自分なりの主張を展開する。
 こうした相反する感情は、互いの存在が互いを補完し、同時に孤独や依存といった現代的なテーマを象徴している。千秋はクッキーの存在を通じて、自分自身の成長や内面の変化に気づき、またクッキーは千秋を介して、自らの存在意義や家族との関係性を問い直す。
 二者の関係は愛情と反抗、依存と自立といった複雑な要素が絡み合い、物語全体に温かみと切なさ、そして深い人間模様を浮かび上がらせている。

ユニコ

 ユニコは『流星を打ち砕け』における象徴的な存在であり、藤原千秋の成長と再生を映し出す重要なキャラクターである。ユニコは千秋が通う近衛学園のポロ部で担当している馬で、外見は雪のように白い被毛ととうもろこし色のたてがみが特徴的だ。しかし、ユニコはただの馬ではなく、千秋の心の鏡として物語全体に深い影響を与えている。

 物語の初期では、ユニコはポロ部内の他の馬と群れになじめず、孤立している。この状況は、千秋自身が抱える孤独や社会との距離感を象徴している。千秋もまた、学校生活や家庭での自分の居場所を見つけることに苦労しており、ユニコとの関係を通じて彼女は自分自身を見つめ直していく。

隕石の落下という未曽有の災害後、ユニコは千秋の生存と再生の象徴として再登場する。すべてを失った千秋が再びユニコと再会する場面は、失われた絆の再生と新たな希望の芽生えを象徴している。ユニコと共に過ごす時間は、千秋にとって過去の喪失を乗り越え、前に進むための心の支えとなる。

 また、ユニコは物語の中で「自由」と「自立」の象徴でもある。隕石の落下後、千秋とユニコは誰にも頼らずに生き抜く道を模索する。ユニコと共に川を越える場面では、千秋が自らの意志で困難を乗り越える決意を示しており、ユニコはその過程でのパートナーとして、彼女の内なる強さを引き出す存在となっている。

 ユニコはただの動物以上の存在として、千秋の精神的な成長や再生を映し出し、物語全体に深い感動と余韻を与えている。


ユニコとクッキーは『流星を打ち砕け』において、藤原千秋を中心に交差する二つの象徴的存在であり、千秋の内面的な葛藤と成長を反映する対照的なキャラクターとして描かれている。ユニコは千秋がポロ部で担当する馬であり、クッキーは幼少期から共に過ごしてきた猫である。この二匹は直接的な関わりを持つことは少ないが、千秋との関係を通じて、互いに影響を与え合う存在として物語に深みを加えている。

ユニコとクッキー

 ユニコは千秋が成長する過程で新たに築いた絆の象徴であり、彼女が外の世界と繋がる手段を提供する。一方、クッキーは千秋の幼少期の無垢な愛情と家庭の温もりを象徴している。しかし、千秋がユニコに夢中になるにつれて、クッキーとの関係は疎遠になり、クッキーは千秋から距離を置くようになる。この変化は、成長とともに変化する人間関係や、過去と現在の間で揺れ動く感情を象徴している。

 クッキーはユニコの存在に嫉妬心を抱きつつも、千秋の幸せを願う複雑な感情を抱いている。千秋が馬の匂いを纏って帰宅するたびにクッキーは距離を取るが、それは千秋への愛情の裏返しでもある。一方で、ユニコは千秋の成長を促す存在であり、彼女が直面する困難を共に乗り越えるパートナーとして描かれている。

小説のモチーフ

『流星を打ち砕け』の中心的なモチーフは「喪失と再生」、そして「存在の意味」にある。本作では隕石の落下という未曽有の災害を通じて、登場人物たちが直面する喪失感と、それに対する再生の過程が描かれている。藤原千秋は家族、友人、そして日常というかけがえのない存在を失う一方で、ユニコやクッキーといった動物たちとの絆を通じて、新たな意味を見出そうとする。

また、物語全体には「アイデンティティの揺らぎ」が織り込まれている。千秋は自身が死亡者名簿に記載されていることを発見し、自分の存在に疑念を抱く。これにより、彼女は自己の存在意義を問い直す旅に出る。このプロセスは、個人の成長と変化を象徴しており、災害という極限状況が人間の内面にどのような影響を与えるのかを示している。

 さらに、「自然の脅威と人間の無力さ」も重要なモチーフだ。隕石という不可抗力の前で、人々はただ無力に翻弄される。しかし、その中でも彼らは助け合い、再び立ち上がることで希望を見出す。このように、自然の圧倒的な力と、それに抗おうとする人間の小さな努力が対比的に描かれている。

 最終的に、本作は「愛の多様性と再確認」を通じて、失われたものの価値と、それに代わる新たな繋がりを描き出す。千秋とクッキーの関係や、ユニコとの絆がその象徴であり、読者にとっても大切なものを見直す契機を与える作品となっている。

『流星を打ち砕け』の言葉遣いの特徴

 本作の言葉遣いは、詩的なリズムと独自の表現が巧みに織り交ぜられており、読者に強烈な印象を与える。冒頭の馬や朝日の描写に始まり、自然現象や動物の動きを感覚的に捉える表現は、まるで詩を読むかのような心地よさを醸し出している。著者は、単調な説明に陥らず、比喩や擬音語を多用することで、場面ごとの情緒や空気感を豊かに伝えている。
 また、登場人物の会話や内面の独白においては、日常的な言葉遣いと、時折現れる風刺や皮肉が絶妙に融合し、登場人物の個性や心理状態を浮き彫りにする。特にクッキーの語り口は、猫ならではの自由奔放さと鋭い洞察が感じられ、単なるペットの視点を超えた深い味わいを持たせている。
 さらに、学校生活や部活動、家庭内のシーンでは、固有の専門用語や慣用句が用いられ、読者に現実の厳しさと温かみを同時に感じさせる。全体として、著者の言葉遣いは、情景描写と人物描写が絶妙にリンクし、物語のテーマである「愛」と「孤独」、「成長」と「葛藤」といった普遍的な要素をリズミカルかつ多層的に表現している。


他の小説と何が違うか
まず、物語の視点や語り口の多層性です。作品内には藤原千秋やクッキーという異なるキャラクターが登場し、各キャラクターが異なる章でそれぞれの物語を展開しています。千秋の物語では牧場やポロ部を舞台に、馬との関係や学校生活が描かれ、まるで青春小説のようなトーンです。一方で、クッキーの章は猫の視点で語られる、自己中心的で哲学的なユーモアあふれる語り口が特徴的です。このように、物語の視点を人間と猫に切り替えることで、読者に新鮮な感覚を提供し、異なる感情や世界観を交錯させています。

次に、作品の背景にある設定がユニークです。物語には、近衛学園のポロ部が「七〇年連続日本一」であるという奇抜な設定が登場しますが、その日本一というのも他にポロ部が存在しないため、オンリーワンであるからナンバーワンという皮肉が込められています。この設定は、単なるスポーツ物語として読者を引き込む一方で、社会や競争の意味に対する皮肉や批判が暗示されています。競争社会に対する風刺的な要素を感じさせつつ、キャラクターの内面の成長を描く点が新鮮です。

また、クッキーの章では、猫が人間社会や資本主義を冷静に観察しつつ、自身の「美」を軸に物事を考えるという独特のスタンスが際立っています。美しさや愛についての考察が軽妙な語り口で展開され、物語全体に一種の哲学的な深みを加えています。このキャラクターの自己愛的でありながらもシニカルな視点が、読者に共感と同時に笑いを誘うという二重の効果をもたらしています。

さらに、作中で描かれる「流星」のシーンでは、現実離れした状況がリアルな人間関係と交錯します。家族や友人、そして猫との関係が、突然の災害や異常な現象の中でどのように変化していくのかを描くことで、日常が非日常へと一瞬で転換する緊張感が生み出されています。ファンタジーとも現代ドラマともつかない独特な世界観は、読者に強いインパクトを与えます。

総じて、この物語は青春、哲学、風刺、ファンタジーといった多様な要素が複雑に絡み合い、普通の青春小説やファンタジー小説とは異なる独自の世界を築いています。それぞれの要素が相互に影響し合い、作品全体に豊かな深みと多層的な意味を与えている点が、この小説の大きな魅力です。

流星を打ち砕け (牛野小雪season3)
牛野小雪
2020-02-13







の道を走り抜け馬も負けじと
らず追い追いてを目指し走り走りて

 パパとママがまだ夢の世界にいる時に、私が牧場の道で自転車をいでいると、ベアトリーチェが柵を挟んで並走してきました。ベアトリーチェは白い鼻息で生温かい風を私の顔に送ってきます。


私:おはよう、ベアトリーチェ。

 空の端には太陽が赤い顔を出していましたが、牧場はまだ薄青く、何頭かの馬の影が草をんでいました。

 ベアトリーチェは柵の端まで私と一緒に走りました。

 馬屋の前には既に何台かの自転車が並んでいました。どんなに早く来ても誰かが先に牧場に来ているもので、前に一度だけ朝の三時に来たことがあるのですが、その時でさえ誰かが先に来ていました。私も一番端に自転車を並べると馬屋に入りました。

私:おはよう、ロミオ。おはよう、ウシミ。おはよう、ドリス……

 私は馬屋から顔を覗かせている馬達に声をかけていきました。たいていは無言か耳を震わせるだけですが、鼻を鳴らして返事をする馬もいます。一七番目の馬屋で

私:おはよう、ユニコ。

 ユニコは目を細めて唇をまくりあげると、大きな白い歯とピンク色の歯ぐきを私に見せました。このブサイクな顔を見るたびに、私は馬鹿にされているんじゃないかと疑うのですが、ユニコがこの顔をするのは彼女を担当している私にだけなので、馬的な親しみの仕草なのかもしれません。

 私は馬屋の奥にある更衣室で制服からジャージに着替えると、飼葉桶に飼葉を詰めてユニコの馬屋に行きました。柵に飼葉桶をかけるとユニコは早速もしゃもしゃと食べ始めます。その間に私は道具室からフォークとバケツを持ってきました。フォークといっても農具用のフォークで、鶏ぐらいなら一突きで殺せそうな代物。それで汚れたワラとウンチを取り除き、新しいワラを敷いて、ブラシでユニコの体をマッサージ。それも終わるとユニコに馬具を着けて、馬屋の外へ連れて行きます。

 柵の門を開けてユニコを牧場に入れると、アリーに乗った伊集院先輩が歩み寄ってきました。彼女は高等部の二年生ですが、三年生はもう卒業したので今は彼女がポロ部の部長です。

伊集院先輩:藤原さん、ちょっといい? ユニコのことだけど。
私:はい。

伊集院先輩:先週まで様子を見ていたけど、やっぱりダルミグループとは馬が合わないみたい。アリーグループに入れることにしたから。よろしく。

私:はい。

 馬にも、いいえ、がありました。群れのリーダーに動きを合わせられない馬はグループから弾かれてしまうのです。後ろ足で蹴られたり、噛みつかれたり、そういう分かりやすいいじめもありますが、それより先に起きるグループの馬達といじめられている馬との間に走る緊張感は人間にも感じられるほどでした。だからケガをする前に人間が気を利かせて、違うグループに避難させるのです。

 私もユニコにまたがるとアリーと並んで歩かせました。相性は悪くないようです。軽く走らせてもみましたが、やはり動きは合いました。アリーが合わせてくれたようです。アリーは気立てが良く、来るもの拒まずの馬でした。あまりにも面倒見がいいのでお母さんと呼ぶ子もいます。でもアリーには一度グループから抜けた馬は絶対に許さないという嫉妬深さもあったのでユニコがダルミグループと険悪になっても、しばらくは様子を見ようという判断をしたのでした。

伊集院先輩:じゃあ今日からよろしく。

私:はい。

 伊集院先輩がアリーを走らせると、私も別の方向へユニコを走らせました。冷たい風が私の顔を掴みました。

 近衛学園のポロ部には一度早駈けを体験すると二度と退部しないという伝説があります。私は一年生の時に一度退部したのですが、その時はまだ中等部の三年生だった伊集院先輩がもう一度入らないかと誘ってきたのです。本当はいけないことだけど、先輩は私をロミオに乗せて、早駈けほどではありませんが風を感じるほどの速さで走らせました。飛んでいるようで落ちているような、何だか分からない不思議な感覚に襲われて、私はまたポロ部に戻る決心をしました。ちなみにロミオはポロ部の真のリーダーで、全ての馬はロミオを中心に回っていました。ロバみたいにぼーっとした顔なのに不思議です。初心者には乗りやすいように足を折って地面に伏せるほど優しい馬でもあるので、ポロ部の子達は全員一度はまたがったことがあります。

 太陽が高く昇ると、ユニコの雪を被ったようなと、とうもろこし色のたてがみがはっきりと見えるようになりました。牧場を見渡すとポロ部は全員揃ったようです。せ馬をしている子達もいます。馬から降りて休憩している子もいました。

 始業時間が近づくと伊集院先輩がラッパを吹いて部員を集めました。

 全員が集合するとみんなで牧場の端から端まで横一線になって駈けます。速度を合わせなければできませんが、一年生の子も列を乱さずに駈けられるようになっていました。

 柵のところまで来ると馬から馬具を外して、私達は柵を乗り越えて馬屋へ、馬達はそのまま牧場です。顧問の二階堂先生は馬が真似するといけないので柵の門から出入りするようにといつも言っていますが、私達はやってはいけないことだから、やってしまうのでした。

 私達は馬屋の更衣室にあるシャワー室で汗を落とすと制服に着替えて、校舎へ行きました。

 授業が始まっても私は上の空で、心はずっと牧場にありました。同じクラスでポロ部のちゃんは牧場に顔を向けています。窓際の席だと牧場の馬が見える時があるのです。

 やる気が出るのは二階堂先生の国語の授業だけ。私は国語が好きなのか、二階堂先生が好きなのかは分かりませんが、時間割に書かれた『国』の字を胸をときめかせながら待ちました。

 二階堂先生は私に将来は詩人になりますかと訊いたことがあります。私は全然そんなことを考えたことはありません。だって詩人になるのは出家するのと同じだから。さんと違うのは頭の毛を剃らないこと。詩人なんてを食べていくしかないわけで、尼さんは念仏を唱えますが詩人は念仏を唱えられる方でした。だいたい教科書に載っている詩人なんて、正岡子規、与謝野晶子、谷川俊太郎、山尾三省、俵万智、みんな白黒写真の昔の人。現代の詩人なんて誰がいるのでしょうか。本屋に行っても詩の本なんてどこにもなくて、図書館でしか見たことがありません。本として存在するぐらいだからの大きな本屋にならあるのかもしれませんが、すだち県にはたぶんないでしょう。それぐらい需要がないということ。需要がないということはお金が稼げないということ。お金が稼げないということは生きていけないということ。もう子どもではありませんから、それぐらい分かります。詩でお金を稼ごうとしても、すだち新聞の読者欄に投稿して三千円分の図書カードが精々でしょう。それにお金のために、いいえ、何かのために詩を詠むなんて絶対にできません。この前、国語の授業で詠んだ詩が県知事賞に選ばれたのですが、私はそんなものに選ばれるなんて知らずに詠んだわけで、もし知っていたらどんな詩も詠めなかったでしょう。それに県知事賞を取れたのは私が子どもだから。子どもだからこんな詩で賞が取れたのです。

エメラルド色の瞳にカツオブシこんな時だけグルグルニャオ

 講評はすだち新聞に載っていて『ペットの無邪気さと猫なで声がうまく表現されていて子どもらしい感性にあふれた素晴らしい詩でした。』と書かれていました。私は嬉しくて事あるごとに何度も講評を読み返していたのですが、ある日、妙に気持ちがイライラする時があって、私は講評の切り抜きをから出すとびりびりに破って、ゴミ箱に捨ててしまいました。講評は何行かあったけれど、今でも憶えているのは一行だけ。この一行もいつか忘れて、忘れたことも忘れてしまうでしょう。

 三学期の初めに将来何になるかを考える授業があって、私はお菓子屋になると書いて課題を提出しました。それは隣にいる原由紀ちゃんの真似をしただけで、これっぽっちもなるつもりはありません。小学生みたいなことを書いていた由紀ちゃんには驚きましたが、彼女なら本当にお菓子屋さんになれるでしょう。二年生の時にこっそり持ち込んだ彼女のバタークッキーは今でも憶えているほど美味しい物でした。でも私には無理。クッキーの作り方も知りません。

 将来何になるかという問いは、将来何になってお金を稼ぐかという意味で、私には何も思い付きません。純粋に何になりたいかという問いには、馬に乗っていたいという気持ちがぼんやりとあります。でも馬に乗る仕事って何があるのでしょうか。競馬の騎手? 勝ち負けを争うを走るなんてまっぴらごめんです。前に騎馬警察というのをTVでやっていて、ぴたっとした制服を着た女の人が馬に乗っていましたが、それだって事件が起きればを治めなければなりません。それも嫌。私の目の前にある将来は良い大学へ行って、良い仕事に着くこと。でも良い仕事って何? 月給は五〇万円ぐらい、ううん、贅沢は言わずに半分の二五万円でも良いから目的もなく馬に乗れる仕事。そんなのあるわけない。社会の授業で職業選択の自由が日本国憲法で守られていると習いましたが、私には選びたくないものの中から選ぶ自由があるだけで、選択肢の自由はないのでした。

 昼休みになると私は牧場へ行きました。姉川音々ちゃんも一緒です。

音々ちゃん:ごめんね。ダルミが駄々こねちゃって。

私:ううん、ユニコもワガママなところがあるから。

 ダルミは音々ちゃんの担当でした。ちなみにダルミという名前は彼女がダルメシアン柄の馬だからです。

 私達が柵のそばに立つとダルミが歩み寄ってきました。ユニコもこちらに足を向けていましたが、ダルミも同じ場所を目指していることに気付くと体を横にして足を止めました。音々ちゃんは申し訳なさそうな顔を私に向けてからダルミの鼻を撫でました。

音々ちゃん:良い子。

 ダルミは柵の間から口を伸ばして音々ちゃんのバッグを奪おうとしましたが「こらっ」と音々ちゃんが(いっ)(かつ)するとすぐに頭を引っ込めました。

 馬は私達より大きくて、子馬でも五〇kg、大人なら四〇〇kgにもなります。つまりゴリゴリマッチョの筋肉ダルマでも力尽くで動かすのは無理ということ。馬は心で動かしなさいと二階堂先生はいつも言っています。大事なのは馬に好かれること、なめられないこと。乗り手に自信がなければ馬は動かず、なめられれば振り落とされる。私はユニコと言葉を交わさないけれど、何でも話し合っている気分になる時があります。私がユニコでありユニコが私であり、同時に私は私でユニコはユニコであるという不思議な感覚。

 私と音々ちゃんは牧場でお昼を食べました。その後はお互いに自分の馬と柵越しに触れ合っていました。昼休みが終わると午後の授業です。また上の空。私の心はここではないどこかへ飛んでいました。
 午後の授業が終わると部活です。私達は馬小屋の更衣室でユニフォームに着替えて、馬具を持って牧場へ行くと、それぞれが担当している馬に馬具を着けて乗りました。それから馬小屋とは別の場所にある私達がボロ小屋と呼ぶポロ小屋に行って、ポロの道具を競技場に運びました。

 ポロといえばイギリスのイメージがありますが日本や中国にもポロはあって、いていたという、うさんくさい話を私達は新入部員が入ってくるたびに二階堂先生から聞かされていました。他にもポロは元々アジア発祥だとか。ポロ的なスポーツは昔からあっても、ポロと呼ばれる競技はやっぱりイギリス発祥だとか、つまり退屈な歴史のこと。

 部員が揃うと練習が始まって、最初は四人が横一列になって走りました。左端の人がボールをハンマー杖で叩いて隣の人にパスします。順々に隣へパスを繋げて右端までボールが回ると、今度は右から左へボールを回します。言葉にすると簡単ですが慣れないうちは右端までボールが回る前にフィールドの端まで来てしまいます。

 これを三度繰り返すと、今度は三人一列になって走ります。真ん中の人は右端にボールをパスすると、後ろから右端へ移ります。同時に右端と左端の人は真ん中に向かって馬を走らせます。ボールを受けた右端の人は左端から真ん中へ移動している人にパスすると、これも後ろから左端へ移動します。その頃には真ん中にいた人が右端にいるので、その人へパス。そうやって位置を入れ替えながら前へ進んで、ゴール前でボールを受けた人がシュートをします。これは動きが激しいので三度すると馬を休ませます。本場のポロは替え馬が何頭もいるそうですが、私達は一人に一頭しかいないので馬を労わりながら走らせます。

 一休みを終えると、また横一列に四人が走って、両端のプレイヤーがボールを送り合います。間の二人はパスコースを潰したり、ボールを奪ったりします。それを五回繰り返すとまた休憩。今度は半時間です。その間に私達はポットで沸かしたお湯で紅茶を飲みます。馬達はそれぞれのグループに固まって休んでいました。

伊集院先輩:アリー、こっちに来ないで。

 伊集院先輩が大声を出すと、アリーは「なにか御用ですか、お嬢様方」と言いたげない態度で近付いてきたので、私達は笑い声を上げました。言葉で否定して心で呼ぶという遊びで、私もユニコにならできます。

 半時間の休憩を終えると五分間の練習試合をしました。各馬最低一回はフィールドを走らせると部活は終わりです。

 のポロ部は七〇年連続日本一です。何故そんな現実離れしたことができるのかというと、ポロ部は日本で近衛学園にしか存在しないからです。オンリーワンだからナンバーワン。

 なぜ日本の片隅の、四国の、それもすだち県にだけポロ部があるのかは知りません。なんでも山奥にの方が住んでおられて、日英同盟の折にイギリスのの方から友好の印として、たくさんのを送られたのだとか、そもそも平安時代から馬に乗って鞠を棒で弾く遊びがあって、すだち県ではそれが盛んだったとか、ただ単に学園長の西洋かぶれだとか色んな説がありますが、結局のところ本当の理由は分かりません。ただ確かなのはポロ部があるということだけ。

 私達は道具を片付けて馬達を馬屋に帰すと、ユニフォームから制服に着替えて家に帰ります。

 帰りは道が明るかったので馬捨て場の横を通りました。そこは文字通り馬を捨てる場所で、昔はケガや病気で走れなくなった馬をここに捨てていたそうです。馬捨て場の土は赤みを帯びた黒い色をしていて、何故か草が生えないので馬の呪いが染み付いていると、もっぱらの噂です。そんな場所だからか馬捨て場の奥にある壁のない小屋にはの石像が奉られています。石像の怒った顔は赤く塗られていました。私は音々ちゃんと一緒に帰っていたのですが、馬捨て場を通り過ぎるまでは、冷たい空気に言葉を掴まれて一言も喋れませんでした。

 私と音々ちゃんは同じ小学校で、帰る場所も私と同じでした。小学校の頃はあまり仲は良くありませんでしたが、近衛学園に入ってからは同じ小学校のよしみで仲良くなりました。お互いに小学校からの友達とは別れ別れになっていて、最初は寂しさを埋め合うだけの同盟関係でしたが今は本当の友達です。

 私と音々ちゃんはいつもの交差点で別れました。姿が見えなくなっても「バイバイ」と大声で言い合って、屋根の上に私達の声を響かせました。

 家に帰ってくると、窓から明かりが漏れていました。今日のパパとママは帰りが早いようです。

私:ただいま。

パパとママ:おかえり。

 私が玄関で靴を脱いでいると、クッキーが廊下の先にあるリビングから私を見ていました。クッキーは私が一〇歳の時にパパとママが誕生日プレゼントにくれた猫で、バタークッキー色の毛をしたバタークッキーの匂いがする素敵な猫です。ベッドはもちろんトイレやお風呂も一緒に入るぐらい仲良しでした。私が学校から帰ってくると「にゃ、あ、あ、あ、あ、あ」と声が途切れる勢いで私の足に突撃してきたものです。でも何故か近衛学園に入ってからは険悪な仲になってしまいました。牙を剥かれるほどではありませんが私が近付いても逃げてしまいます。


私:クッキー。

 声をかけるとクッキーはぷいと顔を背けて、静かに姿を消してしまいました。クッキーはもう私の猫ではないみたいでした。



 はじめまして。私はクッキー。世界で一番美しい猫よ。

 突然だけど、なぞなぞを出すわね。

 世界で一番美しい生き物ってな~んだ?

 これは簡単ね。答えは猫。

 じゃあ二問目。これはもっと簡単。だってあなたは答えを知っているはずだもの。

 世界で一番美しい猫はだ~れ?

 はい、最初に言ったとおりこの私。クッキーよ。正解した人はおめでとう。間違えた人はひねくれているのね。でも、いいの。正解以外は許さない全体主義は私の趣味じゃないし、建前上は自由を重んずる日本の空気を吸って育った猫だから、間違える自由だって認めるわ。でも間違った人を私がお馬鹿さんだって思う自由もあるはずよ。何故お馬鹿さんかというとね。相手を馬鹿にする時には前と後ろに『お』と『さん』を付けてお馬鹿さんにしなさいっておがおっしゃられたからなの。ただの馬鹿だと言葉が鋭すぎるから相手の心を傷つけてしまうんですって。じゃあお馬鹿様ならどうなのって訊くと、それは馬鹿にしすぎなんだって。様が馬鹿にしすぎで、さんが相手を思いやる言葉遣いならお母様よりお母さんと呼ぶ方が正しいはずよね。だから私はお母様をお母さんと呼びました。するとお母様は、野良の子みたいな言葉を使うんじゃありません、と私の言葉遣いをおりになったわ。お馬鹿さんとお母様は良くて、お馬鹿様とお母さんが駄目だなんてが通りません。お母様が本当に怒っておられたので、その場ではだんまりを通しましたが、私は機会を見計らってこの理不尽な言葉遣いの違いを問い詰めました。するとお母様はこう答えたわ。何故も何も、そういうものなのよ……だって。まったく理屈が通らないわね。でも私はそういうものなんだって受け入れたわ。だって、そういうものなんだもの。世界は優しさと理不尽で動いているのよ。正しさなんてどこにもないんだから。


 世界で唯一正しいのは私が世界で一番美しいということだけ。自分でもどうしてこんなに美しいのか不思議よ。美は美だけをえて他には何も与えないっていうけれど本当にそうね。美はなぞなぞじゃないから答えはないの。

 お母様から聞いた話によると、昔々、一〇〇年以上昔、太陽が夜の世界を見るために片目を猫に変えて地上に落としたのが私の祖先なんだって。そんじゃそこらの猫とは違うわけ。そんな神話めいた話なんて私はこれっぽっちも信じていないけれど、ゴッホが描いたアルル地方の太陽と同じ色の被毛をなめていると、もしかしたら本当かもしれないと思う時もあるわ。お母様も兄弟もみんな同じ色と模様の美しい猫でした。一匹だけ全身真っ黒クロスケがいたけれど、そのクロスケにしたってその辺の猫と比べることを考えることさえ馬鹿らしいほどの美猫だったわ。

 私達兄弟は元々どことも知れぬ白い部屋の一室で飼われていましたが、ある時からクロスケを皮切りに一匹ずつどこかへ買われていきました。そして私は一歳になる前日に、このお家、つまり藤原家に買われたのです。猫を売り買いするなんてどうかしているけれど、資本主義は何でも売り買いする世界だから仕方ないわね。それに人間にしたって自分の人生を切り売りしているわけだし、自分がお安くない値段で買われたと知った時はまんざら悪い気分ではありませんでした。私って資本主義の猫なのね。

 私がこのお家、に来た最初の頃はいつ猫鍋にされるんだろうかとビクビクしていたけれど、じきに猫鍋なんてのは母猫が子猫をおどかすための作り話なんだって分かったわ。お母様は罪な猫ね。もママもパパも私を食べるんじゃなくて、私に食べさせるために買ったわけ。変な話。猫なんていくら食べさせてもお金を生まないし、太らせて食べるわけでもないのにね。そりゃあ私にとっては結構な話だけど人間にとっては一文の得にもならないわ。そのくせ人間は同族のいは親の敵のように憎んでいるのよ。人間と猫では扱いが全然違うみたい。人間の世界は不公平なルールで動いているけれど、そういうものなんだって私はすぐに飲み込みました。飲み込めずに頭がおかしくなるなんて損だしね。

 危険なことがないと分かった私はのびのびと家中に足を伸ばして、じきに外へ出る抜け道も見つけました。でも猫が勝手に家の外へ出てはいけないというルールがあるなんて、この時はまだ知らなかったの。家から私がいなくなっては大騒ぎ。この大騒ぎは後ですぐに話すけれど、私は日本国憲法を改正して、第一条をこの条文に書き替えるべきだと提案します。

日本国憲法 第一条
全テノ猫ハイカナルニオイテモスル権利ヲス。何者モゲテハナラナイ。

 猫に何の権利もないのは差別だわ。選挙権も私有財産権だってないのよ。でも、誰も気にしていないし話題にもしない。この国では弱者の公認を勝ち取れない弱者は何の権利も保障されないみたい。正義や公正はどこへ行ったのかしら。

 さて、そんなは止めにして大騒ぎに話を戻すわ。家の外に出た私が令和町の猫と知り合って、集会で顔見せをしていた頃、習字教室から帰ってきた千秋は私がいないことに気付いてギャン泣きしたの。ちっちゃな子ども特有のあの物凄い泣き方。彼女がギャン泣きしながら家の外に出ると、令和町に一〇〇匹の恐竜が出現したみたいだったわ。

 千秋がギャン泣きして歩き回るから大人達は家から出てきて彼女の周りを囲みました。どうしたのかって大人達が訊くと、猫がいなくなったと千秋は叫びました。この時、人間社会はお金と子どもの涙で動いているのだと私は知りました。大人達は一人、また一人と猫探しに加わり、令和町に人間の台風が発生したわ。ありとあらゆる猫が捕らえられ、猫が見つかったという言葉を聞くと千秋は泣き止んで、その猫が目の前に差し出されると、この猫じゃないと、またギャン泣きを繰り返したの。そしてとうとう私も屋根から松の枝へ飛び移ろうとしているところを虫取り網で捕らえられました。私は千秋の前に差し出されて、彼女は私を小さな毛布にしてしまいそうな強さで抱いて、またギャン泣き。猫には九つの命があるという噂だけど、私はこの時一度死んだと思っているわ。残り八つ。

 ママとパパがこの騒動を知ったのは翌日の日曜日、隣に住んでいるさんからこの話を聞くと目玉が飛び出すんじゃないかってぐらい驚いていたわね。二人はまんじゅうを山ほど買ってくると、それを持って令和町中の家に頭を下げにいきました。

 私は首輪に紐を付けられ、タンスに繋がれました。まるで犬になった気分だったわ。犬も毎日こんな気分を味わっているのだとしたらかわいそうね。同情はしないけど。

 ちなみに、この話にはおまけがあって、この騒動の後に野良猫はみんな飼い主を見つけて家に入ったので、令和町にはしばらく野良猫が一匹もいなくなりました。本当におまけの話。おわり。

 それから私はタンスか千秋に繋がれて、自由を制限された生活を強いられていました。半年後に紐が外されると、私は自由の身になりましたが、この家にもう五年もいます。

 なぜ私はこの家を抜け出さないのか。つまりこういうことなの。そりゃね、家族に言いたい事は色々あります。不満がないなんてとても言えません。でもね、もし『一点の曇りもない完璧な家族と一緒に住んでいる猫の集会』を開いたとするわね。それも令和町中に召集をかけるの。でもそんな集会に集まる猫なんてせいぜい五匹くらい。その五匹にしても、どんな猫が来ているんだろうか、って好奇心で見に来ただけ。一点の曇りもなく完璧な家族なんて令和町どころか、世界中どこを探したっていないはずよ。完璧なのは神様だけ。そして神様はあの世にいて、この世にはいないの。だから、どこかで世界はこんなものだって妥協しなければならないわけ。それにね。一番大事なのは私がこの家族が好きだってこと。なぜ好きか。好きに理由はないわ。だから本当の愛なのよ。

 愛といえば、犬と猫どちらが人間に愛されているのかとTⅤでやっていました。結果はほんの僅かだけ犬が勝っていました。三%ぐらい。でも、私はそれが真実ではないと見抜いていました。あんなのに騙されるのは犬とお馬鹿さんだけ。

 犬は人間の役に立ちます。災害救助をしたり、爆弾を発見したり、泥棒に噛み付いたり、番犬や猟犬になったり、そりを曳く犬もいるのだとか。もしかしたら犬鍋になって人間のお腹を満たす犬もいるかもしれません。その点、猫はどうでしょうか。決して人間の役に立ちません。猫の手も借りたいということわざがありますが、実際に猫の手を借りた話は冗談でも聞いたことがありません。私にしても藤原家で何かの役に立ったことはありませんし、これからも役に立つ気はありません。

 犬は役に立つから愛されている。猫は役に立たないのに愛されている。これ以上は言いません。賢明な読者なら私の言おうとしたことが分かるはずよ。ああ、私ったら愛情原理主義者みたいね。テロリスト扱いされると世界中から軍隊を送られるから、この事についてはもう黙っているわ。

 と言いつつ、やっぱり愛について話すわね。世界で一番大事なことだもの。これから私が話すのは私と千秋の愛について。私達はお互いに愛し合っているけれど、ここ最近は、と思って振り返ると数年ぐらい経っていたので驚いたわ。とにかくここ数年ぐらいは私と千秋の愛に、馬が割り込んでいました。

 千秋の体は近衛学園に通い始めてから獣の臭いが漂うようになりました。そしてある時、千秋は馬を飼えないかな、とママとパパに聞こえる独り言を言いました。私はそれで浮気に気付いたのです。千秋の獣臭さは馬の臭いでしょう。千秋は人が良すぎるから、空き地かどこかに捨てられている、いいえ、を学校の帰りに可愛がっているのでしょう。私はこの目で馬を見たことはありませんが、どんな生き物かは知っています。人間より大きくて、車並みに早く走る生き物です。あんな生き物を家に入れたら三日もしないうちに床も壁もめちゃくちゃにされてしまうわ。

 千秋は私だけの千秋でなければならないのに、千秋は馬に浮気していて、おまけにそれが悪いことだとは思っていませんでした。だから私は彼女に私と同じ気持ちを味わって欲しくて、つっけんどんな態度を取っているんだけど最近は間違ったことをしているような気がしているわ。千秋の心が傷付いているのは間違いないんだけど、彼女はどうしてそんな目に遭っているのかは全然分かっていないのね。このままだと私と千秋は永遠に傷付け合うことになりそうで、胸が切なくなるけれど、今さら私だけやめるなんて無理。何故かって? そういうものなのよ。

 でも、そういうものなのよ。で日々を繰り返すのはかだから近頃は千秋がお風呂に入って馬の臭いを落とした後は、ほんの少しだけ寄りそうの。千秋が私の背中を撫でたり、指の間に被毛を滑らせたりすると、過去も未来もなくなって全てを許せそうな気持ちになったわ。

 どうして千秋は私だけを愛せないのかしら。この疑問が湧くと私は怒るか悲しくなるかのどちらかで、今日は悲しくなったのでタンスの上で毛づくろいをしました。数年前の千秋ならタンスの上までついてきたけれど、今の彼女はソファーに座って私の方を見ようともしません。ずっとアイフォンとかいうスマートフォンに夢中になっているの。だから私もそこに千秋がいないかのような態度で毛づくろいしていました。

 夜も更けてきた頃、千秋は大きくため息をついて

千秋:クッキー。

 クッキー、クッキー、クッキー、クッキー、他にも色々。言葉にすればどれも同じだけど、どれも違う意味を持っているの。さっきの「クッキー」はもう夜も遅いからベッドに入らなきゃ。クッキー、寝室へ行こう。って意味よ。私だって「ニャオ」の一鳴きに色んな意味を込められるわ。でもこのお家でそれが分かるのは千秋だけ。

私:ニャオ。

 さて、このニャオはな~んだ? いきなりこんななぞなぞを出されても分かる訳ないわね。答えは、あら、千秋。そんなところにいたの。全然気付かなかった。本当に。あ~あ、ビックリした。驚かさないでよ。

 千秋の心にグサリとトゲが刺さりました。やっぱり千秋は私のニャオが一〇〇%分かっているのね。

千秋:クッキー。

私:ニャオ。

 千秋は自分の部屋へ行く前にトイレで用を足しました。私は千秋がトイレから出てくるまでの間に千秋をやり込めたことを喜び、そのすぐ後で千秋はスマホに夢中になっていても私が同じ部屋にいることを知っていたのだと気付きました。私はやりすぎてしまったことをいたわ。愛と憎しみには限りがなく、バランスをとるのは難しいのね。

 千秋がトイレから出てくると、私はしっぽの先で千秋の体を撫でました。すると、傷口から涙を流している千秋の心が柔らかくなったのを感じたわ。これでさっきのニャオはちゃらよ。

 明日も学校があるので千秋はベッドに入ると早々に部屋の明かりを消して眠りました。私もベッドの下で丸くなりましたが目は冴えていました。ほどなくして千秋の細い寝息が聞こえてくると、私はベッドの下から這い出して千秋の顔を覗きました。スー、スーと規則正しく寝息を立てている千秋は食べてしまいたいほど愛らしい存在でした。このまま永遠に眠ってしまえば学校にも行かなくて済むし、馬と浮気しないでも済む。そうすれば私は世界の何よりも尊い愛情を千秋に注げるのに。

 私は机の上で丸くなると愛の苦しみについて考えました。どうして愛は愛だけで存在できないのでしょう。愛について考えると、寂しさ、悲しさ、怒り、憎しみ、恐怖、物憂さ、心に悪いものがぞろぞろと湧いてきます。あまりに苦しいので、愛なんて無ければいいんだわ、と考えたことは一度ならずありました。でも愛の手は必ず私の心を掴んで離さないの。いいえ、私も離したがらないんだもの。私が愛を愛しているのか、愛が私を愛しているのか分からなくなるわね。たぶん両方よ。相思相愛。でも純粋にはなれない。

 私が愛について考えて、心を上げたり下げたりしている間にも時間はどんどん過ぎて窓の外に見えていた家々の明かりはみんな消えてしまいました。

 私は物憂い気持ちに浸りながら街灯の青い光をながめていました。するとその青さが突然ぱあっと強くなって窓いっぱいに広がりました。ゾッとした私は一度ベッドの下に逃げて、しばらく様子をうかがいました。窓の外では犬達が吠えています。鳥の群れが飛んでいく音も聞こえました。私の心臓はパクパクと鼓動して耳の先まで力強く血を送っています。さっきの光は何だったのかしら。いくら考えても答えは出ません。やがて私の心臓以外が静かになると私は窓の外を見に行きました。夜は静かに令和町を包んでいます。

 さっきのは何かの間違いかしら。夢を見ていた? でも犬が吠えていたし鳥も飛び立った。それも夢だとしたら? 私は気持ちがそわそわするので毛づくろいをしたり部屋を歩き回ったりしました。絶対に夢じゃない。さっき何かが、それもとんでもない何かが起きたと心が叫び続けていました。

 ふと気付くと窓の外から光が差していました。まだ朝には早い時間です。私はもう一度外を見ました。

私:これは大変なことになるわ。




(つづく)


ヘミングウェイと推敲



 パリ・レビューによるとヘミングウェイは毎日書いた物を推敲していたらしい(もちろん原稿になってからも推敲した)。そんなやり方でまともに小説を書けるんだろうか。書いている途中で推敲すると明らかに筆が鈍る。『流星を打ち砕け』も最初は毎日推敲していたが、どんどん書けなくなったので、千秋がユニコと再会する辺りでやめた。そこからはぐんぐん書けるようになった。でも書けることが偉いことか?

 私達は小説家が一年に何冊も本を出すことに慣れていて、昔の作家は、一年に一冊、あるいは数年に一冊というペースで書いていたことを忘れている。それも大長編ではなく文庫本で言えば小指より細い一冊の本をだ。

 Season3はもっと小説に対して真摯に取り組んでみたい。仮書きの段階でも毎日推敲してもいいのではないか。勢いに頼らずに書いてもいいではないか。むしろ勢いで大事なことをごまかしているのではないか。そんなことを今は考えているが、いざその時が来たら進みの遅さに耐えきれなくなって推敲を後回しにするかもしれない。

 小説はもう書いてしまったので、今は雑感帳や日記を毎日推敲している。それで何かがすぐに変わるとは思えないけれど、10年後にはどこかに到達できているのかな。

(おわり)

記事検索(なんでも単語を入れてみて)
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
このブログはAmazonアソシエイトに参加しています。
Googleアナリティクスでアクセス情報を分析しています。