愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

2016/06

『黒髪の殻』でコミュニケーションをした話。



『黒髪の殻』をリリースしてからすぐに二版に更新したのは読者からいくつか指摘があったから。
変更したところもあるし、変更しなかったところもある。
ついでに読んで変えたところもある。
全ての指摘について下記の形で返答したわけではないけれど、面白いと思ったのでここに公開しておきます。誰かの参考になれば幸いです。公開の許可は取っています。
薄い赤や青が読者が書いた部分、真紅の部分が私の返答です。時々不精してマウスで書いている部分もあります。



修正 01

修正 02
修正 03

老人の人が『男』と聞いた場合はどうだろうか? という疑問が残った。
実際のところどうなんだろう?
無いというのが私の予想なんだけど。
これは人によって差があるかな。
修正 04
修正 05
修正 06
も は打ち間違い
”自転車のペダルを漕ぐ”がいいのでは? という指摘。↑

修正 07

修正 08
修正 09
修正 10

なんだか嫌らしいので書かなかったけれど、カンナとケンカで韻を踏んでいる。

KAーNーNA → KEーNーKA

韻を踏みたがるから同じ言葉を繰り返すことが多いのかもしれない。

修正 11
修正 12
修正 13
修正 14
修正 15
修正 16
修正 17
修正 18
修正 19
修正 20
修正 22

まだ他にもあったけれど、画像で返信しなかったので画像はなし。
内容にも関係あることだし。 
このあとまた少し話しをして良い体験をした。

変えていないところが目立つけれど変えたところもある。
詳細は以下のとおり
『黒髪の殻』二版に改訂しました

改めてきかれると、どうしてそう書いたのか自分でも分からないところが多くあったけれど、どうしてだろうと考えて、色々考えたり調べたりもして、ああ、なるほどと納得できることは多かった。それとは逆に、なるほど、と思って変更したところもある。
このあとまた少し話しをして良い体験をした。


(おわり) 

余談:KDPセレクトは内容の最大10%までを公開できる。でもそれが冒頭から10%なのか、合計で10%(例:冒頭5%+終盤5%)なのか 分からなかったので問い合わせてみると、こちらでは判断できないが突然セレクトを解除することはないと返信があったので公開してみた。

『黒髪の殻』二版に改訂しました

先日出版した『黒髪の殻』を二版に改訂しました。
コンテンツと端末の管理から最新版に更新することができます。


最新版に更新すると旧版は読めなくなります。
初版から2版への変更点は以下のとおりです。


○目次の消去
○巻末にツイッターアカウントと当ブログへのハイパーリンクを挿入
○巻末の既刊紹介を一行二冊ではなく、一行一冊に。

小説の変更点は以下のとおり。

位置No.33


中二の秋に突然あることを突然悟った。

突然が同じ文中に二回ある。

中二の秋に突然あることを悟った。


位置No35

どうやら好きと嫌いは相反するものではなく、同時に存在できるものらしい。それで密かに心の目を周りに向けてみると、どうやら自分は努力の甲斐あって、誰よりも好かれているとまではいかないが、そこそこ好かれているとは感じられた。

どうやらが頻出

どうやら好きと嫌いは相反するものではなく、同時に存在できるものらしい。それで密かに心の目を周りに向けてみると、自分は努力の甲斐あって、誰よりも好かれているとまではいかないが、そこそこ好かれているとは感じられた。


位置No.96

何故大工にと言う前に叔父がその理由を語った。彼の友達の父親が大工の親方をしていて、昔はをとってさせていたそうだ。それで彼の元で修行した大工は、みんな立派な大工になって、業界では知る人ぞ知るという職人なっているそうだ。だから大工になれということらしい。

彼が誰を支持しているか分からなかったという指摘があった

何故大工にと言う前に叔父がその理由を語った。知り合いの父親が大工の親方をしていて、昔はをとってさせていたそうだ。その人の元で修行した大工はみんな立派な大工になり、業界では知る人ぞ知るという立派な職人なっている。だから大工になれということらしい。


位置No.97

高認をとって大学へという頭ではなかったが、

高認が分からないという指摘があったので“高認”の脚注を付ける


位置No.186

昨日は早い時間に寝たので、その分早く起きてしまった。新聞配達が来るよりも早く起きて、それから先は眠れそうになかったので、布団の中でじっとしていた。

早く起きてが繰り返されている

昨日は早い時間に寝たので、まだ新聞配達が来る前の時間に起きてしまった。それから先は眠れそうになかったので、布団の中でじっとしていた。


位置No262

クレーンは最初から現場にあった。

正人達は軽トラとダンプに分乗して建築現場へ行くわけだが、わざわざクレーンが現場にあったことを書く意味が分らなかったという指摘あり。ずいぶん考えて、もしかしてダンプについているクレーンのことが頭にあったのかと思いました。だからクレーンと書いておいた。これならいかにもあのクレーンだと思うはず。

クレーンは最初から現場にあった。


位置No.790

社長は突然態度を真剣な物に変え

態度は『物』かどうか判断が分かれるので『もの』とした

社長は突然態度を真剣なものに変え


位置No.978

は慌てて服に着替えると

は慌てて服を着ると


No.1669

問題は起こさないし、仕事は真面目にするどころか他の囚人に教えているほどだ。刑務官からの信頼も厚く待遇も良くなる。

他の場所では受刑者となっているので、ここでも受刑者とした。それと文が一度切れているので『。』から『、』に変えました。

問題は起こさないし、仕事は真面目にするどころか他の受刑者に教えているほどだ。刑務官からの信頼も厚くなり、待遇も良くなる。


No.1674

「久しぶり。僕の事は覚えているか?」

「久しぶり。僕の事は覚えてる?」


No.1773

最初に貰った石はまず荒いコンクリートで薄く形を整えた。

石は最初に荒いコンクリートで薄く形を整えた。


No.2091

仕事に慣れてくると毎晩大阪の町を歩くようになった。

出 はなくてもいい

仕事に慣れてくると毎晩大阪の町を歩くようになった。


No.2243

「その親方は?」

「その人は?」


No.2298

正人はあの部屋に住んでいる事についてうなずいたのだが、別の事でうなずいたと社長は勘違いしている。

上の文章だと親方が2つの事柄についてうなずいていることになる。

正人はあの部屋に住んでいる事についてうなずいたのだが、社長は別の事でうなずいたと勘違いしている。


(おわり) 

執筆日記No.11 EVERWHITE−次に日本人でノーベル文学賞を取るのは?

『EVER WHITE』 の案を書き始める。限りなく透明に近い白とかシックスナインとかふたつの案があったけれど、とりあえずは『EVER WHITE』でいく。もしかしたら書かないかもしれない。思っていたものと変わるかもしれない。でも書けるんじゃないかな、たぶん。今までだって書けたんだから。今のところは案を書いているだけなので楽しい段階。イメージだけだから。形にしていくのはしんどいよね。

先週から遠藤周作の『沈黙』を読んでいて昨日読み終わった。江戸時代にキリスト教を広めにきた宣教師の話。西洋的な強さが挫かれて、でも愛というか優しさを持ち続けるという内容で、これって日本ナイズドされたキリスト教じゃね? と思ったけど、そういえば作中でも天宗した宣教師がそう言っていたっけ。
 キリスト教を扱っているし、翻訳されたらノーベル賞いけるんじゃないかとGoogle先生に問い合わせてみたら、やっぱりノーベル文学賞候補だった。っていうか『たそがれ清兵衛』の人だと勘違いしていた。あっちは藤沢周平。 
 ノーベル賞を取れなかったのはパリの文壇と関わらなかったからさ。と心のなかで冗談を言った。その後で、もしかすると日本のノーベル賞作家はパリの文壇に関係あるのか? と調べてみた。


まずは『雪国』の川端康成。時代が時代だけに彼はパリの文壇との関わりはない。しかし、カフェ・パリという店に通っていたそうだ。ちょっとだけパリに関係している。

大江健三郎はどうか? こちらもパリの文壇との関わりはないようだが、東大の仏文科を出ている。フランスといえばパリ。やっぱり少しだけパリに関係している。
 
それじゃあノーベル賞に近いと言われる村上春樹はどうか? ウィキペディアを読んでもそれっぽいエピソードはないし、Google先生でも出てこない。フランツ・カフカ賞は一文字違いでフランスになるけどチェコの文学賞。ということは村上春樹はノーベル文学賞を取れないということになる。

それじゃあ同じ村上でもドラゴン、龍の方はどうかと調べてみたが、こっちもダメ。しばらく日本からノーベル文学賞を取る作家は出てこないな、と思ったのも束の間、すぐにフランスに関係ある作家が思い浮かんだ。しかもパリに関係あり!それは・・・・

辻・仁・成


 『海峡の光』で芥川賞も取っている。騙されたと思って一度読んでみるといい。たぶん取るって思うはず。間違いない。いつになるか分からないが次に日本人でノーベル文学賞を取るのは辻仁成で決まり。今頃パリでは「ムッシュ・ツジは日本、いや世界最高の作家だ」と囁かれているに違いない。絶対に取る。もしブックメーカーで村上春樹と村上龍、どちらがノーベル文学賞取るかと出たら迷わず辻仁成を推すね。1万円つぎ込んでもいい。

今日は小説の中に出てくる方言について書こうと思っていたけれど、この衝撃的な事実に気づいたら、どうでも良くなってしまった。今日はもうこれでおしまい。

 (2016/06/29 21:12 牛野小雪 記)

牛野小雪の小説はこちらへ→Kindleストア:牛野小雪 

日記no.10『やめろと言われてやめられる?』

 セルパブGANG!!(←!つけるのが正式?)で色々あって、先週から書いていた短編を書く気が失くなった。でも、書ききらないと次に進めないので、一応書き進めて最後まで書いた。むりやり終わらせた感はある。すっごい嫌な気分になって、もう何にもする気が起きなかったけれど、そのことを日記に書いていたらとってもいい文章が思い浮かんできて嬉しくなった。これを使える日がくると良いなとワクワクした。

 GANG!!の件だけど、何をやっても何か言われるんだから、やめたければやめたらいいと思う。誰かに金を貰っているわけでもないし、むしろ出しているんじゃないかな。やめたくなってやめるならそれまでのこと。もし仮に悪ドラ書いている途中で誰かにやめろって言われていたらヘリベさんはやめただろうか。きっとやめなかったはずだ、たとえ自分でやめたいと思っても。それと一緒。

 このセルパブがすごいは藤崎さんが引き継ぐそうだけど、藤崎さんにしたってやめたくなったらやめたらいい。 中止でなくても中断という手もある。誰かに引き継いでもらうということだってできる。個人でやることを会社でやるようにしなくたっていいんじゃないかな。実際会社じゃないわけだし。藤崎さんがぶっ倒れたらそれこそ中止になる。
 責任がある? 誰に対して? 私はアンケートを出したぐらいだし、他の人もそうだろう。大層なことをしたわけじゃない。見えているところだけだとヘリマルさんと藤崎さんだけがしゃかりきに動いているようにしか見えない。横からグチグチ言うなら自分で彼らのやっていることを台無しにするぐらいの物を出したらいい。そういう競争なら面白くていいし、やられた方も気持ちいいだろう。それか自分も彼らに力を貸すとか。

 前置きはこんなところにして、と。

 昨日『黒髪の殻』をリリースした。やっと肩の荷がおりた気分がする。やっぱり今まで気を張っていたんだなと実感した。月刊牛野はこれでおしまい。次はいつになることやら。それほど長く書くつもりはないけれど年内に終わるかな。

(2016/06/21 22:20 牛野小雪 記)

※そろそろ寝たほうがいいと思う、みんな寝不足なんじゃないか?

牛野小雪の小説はこちらへ→Kindleストア:牛野小雪

『黒髪の殻』リリース開始


黒髪の殻 (牛舎中編文庫) [Kindle版]

高校を中退した正人は叔父のすすめで大工に弟子入りする。
修行はつらいものだったが、いつかは親方を殺すという執念でもって正人は三年の修業をくぐり抜けた。
修行を終え県内の工務店に職人として雇われた正人だが、半分無実の罪で刑務所に入ってしまう。
刑期を終えた正人は大阪で心機一転を図るが、そこで偶然にも刑務所に入るきっかけになった女を見つけてしまう。

リリース記念 7月31日まで99円セール中

牛野小雪氏「黒髪の殻」書評 

ビビっている方が強い

 だいぶ前にプレッシャーがあるとパフォーマンスが落ちるということを書いた。別の本を読んでいると、これまた似たような事が書いてあって、やっぱりビビリとビビらない奴では、ビビらないほうがパフォーマンスが良いと書いてあった。それじゃあどうしてビビリは淘汰されて、向こう見ずのアゲアゲ人間ばっかりじゃないんだろうと思うけれど、その答えもその本に書いていた。

 いわく、ビビリの人間は緊張する場面に出くわすと著しく能力が下がるが、色んな経験を積むと、かえってビビらない奴より上手くやれるようになる。読んでいて、へぇ、と思ったし、それなりに意味はあったんだとも思った。伊達にビビっているわけじゃないのだ。経験を積んだり、学習すればビビリの方が強くなるなんてマンガみたい。
 
 でもさ、やっぱりビビらない方が精神的には良い。それに前例がないことだとやっぱりビビらない方が強い(事実そうなのだが)。ビビリが強いのは経験を積めたり、学習できることで、変化の激しい場所は苦手だ。

 ちなみに日本人の97%はビビリの遺伝子がある。
だから勤勉って言われるのかな(学習したことについてはビビリのほうが強い)。もちろんビビり方にもグラデーションはあるんだろうけど。


(おわり)

牛野小雪の小説はこちらへ→Kindleストア:牛野小雪 

日記No.9『<進捗状況>一人で歌うには大きすぎて』『小説と作家の人間性は切り離せない?』

○進捗状況
一人で歌うには大きすぎて(仮題) 4500字くらい

 7/7に出る予定の『もの書く人々』で王木さんとリレー小説をしてくれませんかと提案されたが、王キさんとは成立できそうにないのでやんわりと辞退した。それでも対談後にきらりとひらめくものがあったので先週からぽつぽつ書き始めた。延べ日数3日でこれぐらい。一日1500字。1万字くらいで収まればいいなぁ。こういう時はだいたい1万2千ぐらいかな。途中でどんなにアイデアがふくらんでも2万は越えないだろう。『黒髪の殻』を出すのとどっちが早いかな。

 『黒髪の殻』を何度も読んでいて気付いたことがある。
 この作品の冒頭で正人という主人公が大工に弟子入りして親方に鍛えてもらう。おいおい今時弟子入り(笑)なんだけど、最初に親方が正人のプライドを傷つけたものだから彼は親方に対して殺意を抱いているわけで、いつか殺してやろうと腹の中で思っていて、でもそのまま殺すのはプライドが許さないから大工として一人前になってから殺してやろうというちょっと屈折した感情を持っているわけだ。
 この正人が大工として腕を上げて棟梁になるかどうかというのが前半の筋なのだが(これ一本で良かったかもしれない)、正人と親方の関係がまさに私と夏目先生の関係にそっくりだと気付いてちょっとびっくりしたことがある。もちろん私と夏目先生は直接会ったわけではないけれど『吾輩は猫である』を読んで、それまでもっていた自信を根本からぶち折られたあとはけっこう長く恨んでいた。コイツがいたせいで書けなくなったと思っていたし、死んでくれねえかなとも思っていた(まぁ実際に死んでいるんだけど、存在的な意味でね)。
 『黒髪の殻』で正人が刑務所から出たあと、大工道具を砥石で研いでいて、親方との違いを認識する場面があるんだが、そこなんて私が『真論君地の猫』を書き終わったときに感じたこととまさに同じで、それに気付いた時は(うわ〜、マジか~)と心の中で声が出てしまった。
 どれだけ頭を絞ったところで、結局は自分の中から出てきたものだから、自分の影響は避けられないのかもしれない。
 書いているときはもちろん、数回読んだだけでは気付けなかった。
 もしかするとまだ気付いていないだけで他の人間関係も、かつて自分が体験したことが下敷きになっているのかもしれない。
 菊池寛は人生経験を詰んでから小説を書けと言っていたし、夏目先生も猫を書いたのは40手前だ。小説みたいなフィクションだって体験が大事なのかもしれないね、と思った雨の日。冒頭の今書いている話だって『もの書く人々』の影響はあると感じている。

(2016/06/13 22:26 牛野小雪 記)

余談:”にちじ”と打つと西暦年月日、日時まで出てくることに気付いて驚いている。

牛野小雪の小説はこちらへ→Kindleストア:牛野小雪

 

ひとりで歌うには大きすぎて


read only type yukina   
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夏目漱石の『吾輩は猫である』を読みながらブログを書く

吾輩は猫である
夏目 漱石
2012-09-27



吾輩は猫である。名前はまだ無い。


有名な冒頭の文章。吾輩には名前がないが実は最後まで無い。名無しの猫のまま物語を終える。夏目漱石も猫を飼っていたが名前はなかったそうだ。随筆で吾輩のモデルになった猫について書いてあるが、そこでも猫とだけ書いてある。ちなみに犬も飼っていて、そちらにはヘクトーという立派な名前がついている。夏目先生的には飼っているというよりは居付いていたという感じだったのかもしれない。

 

吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕まえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。


 猫が人間を見た時ってどんな気分がするのだろう。私が幼稚園や小学校の頃を振り返ってみると、上級生や大人は巨人に見えた。絶対あんなに背が伸びないだろうと思っていたけれど、自分がその身になってみると幼稚園や低学年の子がおちびさんと言いたくなるほど小さいものに映った。私は同じ人間同士だから怖くなかったけれど猫は恐くないのかな。立場を変えてみれば家ぐらい大きな猫が近付いてくるようなもの。考えてみればトラは当然としてジャガーぐらいでも身の危険を感じるだろう。

 そういえば野良猫は人間を見るとすぐに逃げる。むしろ人なれしている猫の方が異常なのかもしれない。人間に近寄る同族を見て猫はどう思っているのだろう? 勇者、それとも気違い? ともかく吾輩は肝が太いようだ。


 書生というのは、他人の家にお世話になっている学生のこと。当時はアパートやマンション、学生寮がなかったので、地方から上京してきた学生は、地縁や血縁を頼って東京住みの人に住居を間借りするのが一般的だったそうだ。

 貸す方でも、将来は出世を見込める学生との縁ができるのですすんで部屋を貸してやったこともあるのだとか。もしかして税金控除が受けられたりしたのかも? 誰か調べてくれないかな。


 狢(むじな)という言葉がある。同じ穴の狢という諺もある。元々はイタチ、タヌキ、猫、アナグマを表す言葉を古くは狢と言っていた。猫を学術っぽく言うと狢族猫科というわけ。私の住んでいる近くではイタチが出る。野良猫もいる。タヌキだって見たことがある。見た事が無いのはアナグマだけ。アナグマがどんなものかは知らないが、イタチ、猫、タヌキはとっても動きが似ている。高い所に登るところなんか非常にそっくりだ。

タヌキ汁というものがある。しかし、タヌキの肉はあまり美味しくないらしい。美味しいのはアナグマ。ウィキペディアで調べてみるとタヌキに似ている。でも、アナグマなんてあまり聞かない。それもそのはず農地開発で生息数がどんどん減っているらしい。場所によっては絶滅が危惧されている。でも、本当に美味いのかな? 見た目がイタチっぽくて臭そうだ。

 第二次世界大戦が終わった直後、食糧難の時には犬の肉を食ったそうで、その中でも赤犬が美味いという噂がある。しかし、猫を食ったという話は聞かない。一般的な犬と猫では肉の量が違うし、捕まえやすさも違うから何ともいえないがやっぱり猫の肉はそれほど美味い物ではないのだろう。猫汁は創作物だけに出てくる物なのかもしれない。



掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。


『吾輩は猫である』には薬缶という表現がたくさん出てくる。ハゲていることをさすのだろう。ちなみに猫でも疥癬にやられてハゲることはある。明治時代に疥癬猫に出会わなかった吾輩は良いところの猫なのかもしれない。そういえばこの後、二弦琴のお師匠さんの三毛子や、大分限者の金田が出てくる。意外に良いところに住んでいる? 

 昔々、戦後どころかずっとずっと昔の時代、食うことにも事欠く時代には太っている事が良しとされた。しかし、飽食の時代と呼ばれる現代では逆にやせている事が良しとされている。それならもし、髪の毛を簡単に生やせるようになった時代になればどうなるか。スキンヘッドが流行るのである。無駄毛と同じで、その時代では剃っている事ですら恥なので、みな天然のハゲであるかのように振る舞う。お父さんがハゲてくると、娘さんが「お父さん、やっとハゲてきたね」なんて優しくなったりする。そもそも類人猿から徐々にハゲてきている。ヒゲを剃るのは社会人のマナーとされている。将来的には髪の毛をふさふさ伸ばしていると野蛮人と呼ばれる世界になるだろう。


ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までの所とは違って無暗に明るい。眼を明いていられるくらいだ。はてな何でも様子がおかしいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。


前の段落で特に説明は無かったのだが、吾輩は藁の上で育ったらしい。厩か牛舎の中だろうか? ずっと薄暗い所で暮していたそうだから屋根のある場所だったのだろう。猫の子を捨てるのは日常茶飯事みたいで、後の段落でも白君が子猫を四疋生んで、書生がみんな裏の池へ棄てたという描写がある。どこに棄てられたか分かっているのに白君が子猫を持って帰らなかったのは書生が水に沈めて殺したからだろうか。もしかすると吾輩を棄てた書生も兄弟を一度一箇所に集めてから、一緒に沈める予定だったのではないだろうか。そう考えると『吾輩は猫である』のクライマックスは結局運命からは逃れられないという意味が利いていて面白くなる。でも『吾輩は猫である』は一章だけで終わる予定だったので、たぶん偶然だろう。


ようやくの思いで笹原を這い出すと向こうに大きな池がある。


やっぱり書生はこの池で吾輩の兄弟もろとも殺すつもりだったのじゃないかな。ようやくの思いでというぐらいだから、子猫にとってはけっこう広い場所だったようだ。だからこそ書生はひとまとめにしておけると思ったのではないだろうか。


ここへ這入ったらどうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったらなら、吾輩はついに路傍に餓死したかもしれんのである。


良きにしろ悪きにしろ、縁とは不思議なもので、もしあの時あの人と出会わなければというものがある。縁とは望んでも選べない物である。この世の春を謳歌している人も何かひとつ縁がすれ違っていれば世を呪って生きる境遇に落ちていたかもしれない。あるいは逆に暗い場所でくすぶっている人も何かひとつきっかけがあれば、肩で風を切りながら歩いていたかもしれない。この世は理不尽だ。運というもので人生は左右される。


いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上がった。すると間もなく投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上がり、這い上がっては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。


縁に恵まれた吾輩もすんなり苦沙弥(くしゃみ)先生の家の猫になったわけではない。した女のおさんに首筋をつかんで表へ放り出されている。しかし、吾輩は諦めず何度も家に這い上がっている。運は誰にでも訪れるが掴む事ができるのは稀だということかな。しかし、あきらめも肝心という。やっぱり運だ。


※下女とは・・・・現代でいう家政婦みたいなもの。“げじょ”と読む。私は下女と読んでいる。


吾輩が最後につまみだされようとしたときに、この家の主人が騒々しい何だといいながら出て来た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿無しの子猫がいくら出しても出しても御台所へ上がって来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入ってしまった。主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しそうに吾輩を台所に抛り出した。かくして吾輩はついにこの家を自分の住家と極めることにしたのである。


晩年、夏目先生が芥川龍之介宛てに送った手紙にはこう書いてある。

“あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手をこしらえてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後から出て来ます。そして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。”

吾輩が何度も何度も台所へ這い上っていると、ついに苦沙弥先生が現れて、内に入れてやれと一言投げかけられる。吾輩は表ではなく台所へ抛られる。根気勝ちみたいなものだ。


吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合わせる事がない。職業は教師だそうだ。


夏目先生は元々高校教師だった。その後イギリスへ留学して帝大(帝国大学、今の東京大学)の教師になった。夏目先生も元々は帝大生だった。今の時代東大を出て教師になる人ってどれくらいいるのだろうか。明治時代に勢いがあるように感じるのは、優秀な大学を出た人が教育を担っていたからなのかな。今の時代、東大を出た人はどこへ進むのだろう。官僚? いや、昔からそうで、夏目先生が特別だったのかもしれない。


学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々しのび足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。


人間が本当に集中できる時間はそう多くないように思う。一日の限界量を集めれば半時間もないはずだ。それじゃあどうやったら集中できるだろう。朝起きた時は頭が冴えているから、昼寝が大事なのかもしれない。夏目先生も昼寝して集中できる時間を稼いだから後世に残る小説が書けたのかも。


彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。

夏目先生も苦沙弥先生と同様に胃弱で胃腸薬を飲んでおられたそうだ。タカジヤスターゼも飲んでいたかもしれない。ジアスターゼとは消化を助ける酵素。デンプンを分解する。


吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。


モンスターペアレントだとかいじめ問題だとか学級崩壊だとか、教師の苦労話はけっこうニュースで報じられる。教師の威厳が無くなったと少し前は言われていたが、夏目先生の『坊ちゃん』では、教師になった坊ちゃんが生徒達から嫌がらせを受けている。昔からそうだったみたい。


吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以外のものにははなはだ不人望であった。どこへ行っても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、今日に至るまで名前さえ付けてくれないのでも分かる。


最初にも書いたが吾輩は最初から最後まで名前が無い。どうして何だろう? やっぱり家族と見なされていなかったのかな。猫は基本的に子猫と母猫が一緒にいるぐらいで、仲間と連れだっていることは少ない。犬は野犬でも群れている事が多い。他の猫と一緒にいる事もあるが、他の猫がいるからというよりエサがもらえる場所に集まっているという風に見える。


吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の傍にいる事をつとめた。朝主人が新聞を読むときは必ず彼の膝の上に乗る。彼が昼寝をするときは必ずその背中に乗る。これはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむを得んのである。その後いろいろ経験の上、朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天気のよい昼は縁側へ寝る事とした。


猫は何故塀の上が好きなのだろうと思っていたけれど、実はあそこ、夏は冷たいし、冬は日光で暖まっている。猫は体で気持ちよく過ごせる場所を見つけている。私は天気のいい日に屋外で本を読むけれど、野良猫がそばを通る事がある。猫も人間も気持ちよく感じる場所は同じらしい。


しかし一番心持の好いのは夜に入ってここのうちの子供の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。この子供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入って一間へ寝る。吾輩はいつでも彼等の中間に己れを容るべき余地を見出してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く子供の一人が眼を醒ますが最後大変な事になる。子供は―ことに小さい方が質がわるい―猫が来た猫が来たといって夜中でも何でも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。現にせんだってなどは物指で尻ぺたをひどく叩かれた。


子供って熱い。なんであんなに熱いんだろう。大人は熱が出たらすぐにへばるのに子供は元気だ。なんだか理不尽な気がする。それに大人になってから病気で熱が出ると、てきめんに体が弱るようになった。子供の頃は40℃ぐらい熱が出るまではへっちゃらだったのに。しかし、苦沙弥先生の子供はどうして猫が恐いのだろうか。私は猫より犬の方が恐かった。


吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼らは我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。ことに吾輩が時々同衾する子供のごときに至っては言語道断である。自分の勝手なときは人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、抛り出したり、へっついの中へ押し込んだりする。しかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内総がかかりで追い廻して迫害を加える。


へっついとはかまどのこと。
実はかまどは高度な職人芸が必要とされる家具?である。
かまどに日をくべた時、煙が屋内に入ってこないように微妙な勾配を付けなくてはならない。もしこれが浅ければ家中煙だらけになるし、かといって煙が簡単に出て行くようにしていると今度は熱も一緒に出て行ってしまう。上手いかまどを作れるのは良い職人である。もっとも今はピザ窯ぐらいで職人芸の出番は少ないみたいだけど。

吾輩の尊敬する筋向こうの白君などは逢う度毎に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。白君は先日玉のような子猫を四疋産まれたのである。ところがそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四疋ながら棄てて来たそうだ。白君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等猫族が親子の愛を全くして美しい家族的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅せねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思う。


昔々、よく家の敷地内で猫を見かけるなと思っていたら、ミーミー鳴き声が聞こえてきた。その音を辿って納屋に入ってみると、納屋で白黒の八割れ猫が子猫を産んでいた。母猫は私を見るとフーと威嚇してきた。それから何度も納屋を覗いていると、ここは安全な場所では無いと悟ったのか、母猫は子猫をくわえると、向いにある空家の庭の藪の中へ移住した。なかなか図太い物で、私が見ていても太いまつげの目で私を見返しながら何度も納屋から向いの家へ子猫をくわえながら往復した。最後の一匹だけは向かいの家へ運ぶのを手伝ってあげた。その時は威嚇せずに、私の手から直接子猫の首筋をくわえて藪の中に消えた。普通の野良猫なら人間を見れば一目散に逃げるのに、この時ばかりは子猫がいるせいか私から逃げなかった。母猫の愛情というのはそれぐらい深いものである。

 はっきり書いているわけではないが、白君が裏の池へ子猫を棄てられて泣いているのはやっぱり水に沈められて殺されたのだろう。実は吾輩も同じ境遇なのではないかと上で推測した。吾輩も笹原を出るのが遅ければ兄弟一緒に水の底に沈んでいたのかもしれない。


また隣りの三毛君などは人間が所有権という事を解していないといって大に憤慨している。元来我々同族間では目刺の頭でも鯔の臍でも一番先に見つけたものがこれを食う権利があるものとなっている。もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えて善いくらいのものだ。しかるに彼ら人間は毫もこの観念がないと見えて我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために掠奪せらるるのである。彼等はその強力を頼んで正当に吾人が食い得べきものを奪ってすましている。


ドッグフードを食べる猫を見た事がある。犬が犬小屋の前で腹を下にして寝そべっていると、塀の上からのそりのそりと一匹の黒猫がやってきて、余ったドッグフードにかぶりついていた。犬はコーギー犬で、大きさは猫とそれほど変わらない。猫のそばでずっと吠えていたが、撃退する事はできなかった。猫の方が身体能力が高いので戦えば負けただろう。

またある時は犬がドッグフードに頭を突っ込んでいると、猫の方が塀の上で丸くなっていた。食べている途中で強奪はしないようだ。

犬にしてみれば、食べかけのドッグフードだから自分の物と思っていたのかもしれないけれど、猫にしてみれば犬のそばにドッグフードが置かれているぐらいの気持ちだったのかもしれない。くわえていれば所有権あり、離していれば放棄したってことなのかな。


元来この主人は何といって人に勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやってほととぎすへ投書したり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝ったり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。


夏目先生は初めから小説家だったわけではなく、元は教師であり、詩人でもあった。正岡子規との交流もある。人間どこで才能が発揮されるか分からない。ってことだけど、帝大の英語教師になっているぐらいだから、元々頭の出来は良いのだろう。


後架の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけれらているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰り返している。
 

後架とはトイレの事。謡はそれほどうまくないそうだ。


「どうも甘くかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自ら筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」


苦沙弥先生が絵を描こうとしているが、全然物にならない場面。絵を描くのは難しい。見るのは誰にでもできるのにね。日本語が書けるのに、小説を書ける人がそれほどいないのと似ている。線は誰だってひけるが、絵にするのは至難の技だ。でもやっぱり見る側になると何でもないように感じる事は多い。頭の中と、実際に描ける現実の差があるから絵を描く人が少ないのかもしれない。


吾輩は波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。


吾輩はずっと黒猫だと思っていたけれど、吾輩自身の独白によるとそうではないらしい。波斯産の猫とはペルシャ猫のことだろう。調べてみると毛の長い白猫。そこに黒ぶちがあるらしい。



元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て窘めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。


人工知能が碁で人間を負かす日は遠いと言われていたが、つい最近アルファーゴーがプロ棋士に勝利するニュースがあった。もしかしたら人工知能が人間の存在を脅かす日もそう遠くないのかもしれない。

個人的には麻雀で人間に勝てるかどうか試して欲しいなぁ。一局だけなら勝負は水物だけど、連荘したらクールな人工知能が勝つのだろうか。

運が絡めば人間でも人工知能に勝てる可能性があるというのは小説のネタになりそう。


「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」

「車屋の方が強いに極まっていらあな。御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」

「君も車屋の猫だけに大分強そうだ。車屋にいると御馳走が食えると見えるね」

「何におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」

「追ってそう願う事にしよう。しかし家は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」

「箆棒め、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」

 彼は大に癇癪に障った様子で、寒竹をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己になったのはこれからである。


車屋とは人力車を引く人のこと。今でいうタクシードライバーかな。肉体労働をしているので教師よりは強いだろうなぁ。タクシードライバーと教師だと、どちらが大きな家に住んでいるだろうか。調べたわけではないが教師の方が良いように思われる。


「ところが御めえいざってえ段になると奴め最後っ屁をこきやがった。臭えの臭くねえのってそれからってえものはいたちを見ると胸が悪くならあ」


強さではなく、臭さで敵を撃退することだってある。いたちはそれで生き延びている。似た様な動物のスカンクだってクマは避けて通る。強さだけが武器じゃない。物書きならペンだろうか。


車屋の黒はその後跛になった。彼の光沢ある毛は漸々色が褪めて抜けて来る。吾輩が琥珀よりも美しいと評した彼の眼には目脂が一杯たまっている。ことに著しく吾輩の注意を惹いたのは彼の元気の消沈とその体格の悪くなったことである。吾輩が例の茶園で彼に逢った最後の日、どうだと云って尋ねたら「いたちの最後屁と肴屋の天秤棒には懲々だ」といった。


茶園のボス猫だった黒。彼は車屋から貰うエサだけではなく他から盗んでいたようだ。天秤棒をくらうリスクをとって肥っていたけれど、ついには天秤棒をくらってしまった。

“茶園で彼に逢った最後の日”とあるので、なんとなく黒が死んだように読めるけれど(上でも書いたが本来は一章で終わる予定だった)、続く二章では早々に登場して、牛肉を盗みに行く。天秤棒をくらうかどうかは分らない。


吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康で跛にもならずにその日その日を暮している。鼠は決して取らない。おさんは未だに嫌いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この教師の家で無名の猫で終わるつもりだ。


吾輩は黒と違って盗みをしないので肥る事はないが、天秤棒をくらうこともない。

何かをすれば何かが変わるが、大きな目で見れば何も変わっていない。

車屋の黒は、どこまでいっても車屋の黒であるし、吾輩は教師の家の猫だ。



青空文庫で読むとお得。岩波版はAmazonに置いていない

吾輩は猫である
夏目 漱石
2012-09-27



映画になっていた。やっぱり黒猫だ。




牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪





日記no.8『やる気スイッチより眠りスイッチがほしい』『パリって変な場所』

数カ月前から夜11時には眠るようにしようとしているのだけれど、結局なし崩し的に日をまたいで起きている。というか、実はこのブログも今11時を越えて書いている。ダメだ。
そもそも眠れないのが悪い。眠ろうという気はある。実際に眠い時もある。でも眠れない。
もう何年も睡眠の本を読んでいるのだが、睡眠については分からないことばかりだ。最近知ったのは、眠いのと眠れるは全然別物ということ。
眠気がどれだけ強くなっても、眠りのスイッチが入らなければ人間は眠らない。逆に眠りのスイッチが入れば真っ昼間でもすぐに眠ることができる。眠りのスイッチが入らない病気は不眠症だが、スイッチが入りやすい病気はナルコレプシーという。これは全然眠くなくても突然眠りに入ってしまう病気だ。しかし眠気はないので、眠ったすぐに起こすとすぐに目覚めるらしい。眠れないのも大変だが、眠ってしまうのも大変だ。
世の中は個人の眠気ではなく、社会の都合で回っているので、都合のいい時に眠りのスイッチをパチンと押して、朝が来たらパチっと元に戻せたら良いのに。いや、そうなると眠らなくなったりして。過労死が流行りそう。

先週はアゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んでいた。この人めちゃくちゃ凄いなっ!! と驚くと同時に、これだけ書けても有名にはなれなかったんだなとビックリする。少なくとも私が彼女の名前を知ったのはここ数ヶ月前のこと。あとがきの解説によると、パリの文壇からはほとんど無視されている人らしい(読者からの人気はあった)。やっぱり有名になるにはメインストリームに乗らないとダメってことなのかな。それとも翻訳した人の腕がうまいだけ? ふだん小説を読んでいない人でもスラスラ読めそうな
すっきりとした文章で、各章ごとに物語がクローズされているので、かなり読みやすかった。子どもでも読めるんじゃないかな。子どもに読ませたい内容じゃないかもしれないけど。
 

今もそうなのかは知らないけれど、Google的には引用(リンク)の多さが評価されるらしい。誰かが話題にしないと埋もれていくだけだと思っていたけれど、レビューを見るとかなり数がある。どうやら映画化されていたらしい。やっぱりこういうことがあると人気が出るんだ。眼と耳に訴えかけるものがあれば、自然と興味が湧くものなのかもしれない。でも、音楽業界は不振だっていう。映画も。そういう問題じゃないのかな。

この本について書いていると、何故か『ライ麦畑でつかまえて』が気になった。
Amazonで検索すると、作者のサリンジャー自身ではなく『ライ麦畑でつかまえて』の解説本が何冊も出てきた。 やっぱり引用が多いと作品自体の人気も出るのかな。いや、人気があるから解説本が出るのか。どっちなんだろう。でもやっぱり人気が出ないとわざわざ解説本なんか書こうと思わないから、やっぱり後者かな。ちなみにこの本はまだ世界中でウン十万部単位で売れているそうだ。ハリーポッターは今どれくらいなんだろう? この前ニュースで見たような気がするけど忘れてしまった。ハリーポッターも元々ベストセラーだったが、映画化してさらにさらに大ベストセラーとなった。GLAYでたとえるなら『BELOVED』でブレイクしたと思ったら『HOWEVER』で大ブレイクして国民的ロックバンドになったみたいに。
(どこでブレイクしたと捉えるかは個々人で差があるかもしれないけど。『BELOVED』はミリオン越えしたからここをブレイクとした。ちなみに後に出た『REVIEW』は500万枚越え。どれだけブレイクしていたかがうかがえる)
そういえば『もの書く人々』の王木亡一朗さんとの対談で、お互い10代の頃にGLAYを直撃した世代だから、当時はGLAY派だったかラルク派だったかを話題にしようとしていたんだけど、書くこととあまり関係はないので結局話題に出さずに終わってしまった。王木さんならどっちでもなかったなんて、別のアーティストの名前を出しそうだけど。

しかしパリの文壇って何なんだろうね。アメリカの作家ヘミングウェイでもパリの文壇がうんたらこうたらと出てくる。芸術の都ともいわれるし、もしかして欧米文学の中心もパリにあるのだろうか? 最近の物ではあまり見ないが、古い映画や本だと上流階級の子女にフランス語を習わせているシーンもあった。パリとは不思議な場所だ。そういえば芥川賞作家の辻仁成もパリに移住していた。パリ症候群という病気にかかる日本人もいるらしい。やっぱり変な場所だ。日本にそんな場所はあるだろうか?
 
日曜日に部屋の掃除をしていた。部屋に積み上げたAmazonの箱をひとつずつ開けていくと、昔書いた小説が出てきた。 5年前のものもある。やっぱり若いなぁと我ながら思ってしまう。色々と目につくところはあったが、文章の瑞々しさは負けていると思う。才能だけで書いたような文章だ。当時の私が今書いているものを見たら、オジサンだなぁ、と思うのだろうか。5年前の自分がちょっとうらやましくなった。

そうだ。若いといえば対談したついでに王木さんの本を読んだ。一番古い『他人のシュミを笑うな』という本だ。
この前noteに連載していた『

Our Numbered Days』

と全然違う。読み物としてはもちろん今のほうが断然上手い。でも、最後の『明子先生の結婚』なんか読んでいるとコイツ天才なんじゃないかって感じるフレーズもある。若い時にしか書けない文章ってあるよね。
とにかく『明子先生の結婚』は明子先生への尊敬とラブにあふれているからオススメ。そして若いパッションと才能が詰まっている。


もし17歳ぐらいの時に今ぐらい書けていたら一体どんなものが書けたのかと、よく考える。一番上手いのは今だけど、10代の頃が一番感性がキレていた。歳を取るとどうしても瑞々しさが失くなってしまうようだ。自覚できるものではないが、他人を見ているとよく分かる。

この前、ある人のエッセイを読んでいて、スマホが使えたりインターネットができることを自慢気に語っていて、ああ、この人も歳を取ったんだなと少し寂しくなってしまった。 まだまだ若いってことを主張したくなるのは年取った証拠。現在進行形で若さを謳歌している子が、スマホ使ったり、インターネットに触れていることを喜々として話したりはしないだろうから。

お歳を召すとどうなるか。動きが鈍くなるというのが一般的だが、実は動作自体は若い時とそう変わらないらしい。ものによっては動作がこなれて、若い時より上手くやれるものもあるのだとか。たしかに私より早く階段を登られるおじい様はおられる。ただし、初動はてきめんに遅くなるそうで、何かをやろうとしても、心の中でうんとこしょと気合を貯めないと動き出せなくなるらしい。本当かな。

最近、ブログを書くにしても執筆するにしても、一昔前よりうまく書けるようになった気はするが、書き始めるまでに時間がかかるようになってしまった。もう老化が始まっているのかもしれないなんてことを考える。もう若くはない歳だもんな。でも夏目先生が猫を書いた年よりはまだ若い。

そういえば執筆のことについて全然書いていない。実際書いていないんだけど。
『黒髪の殻』を出すまでは何も書かないと決めているんだけど、2ヶ月ってけっこう長いなぁ。本当に書けるんだろうか?

(2016年6月5日 牛野小雪 記)

牛野小雪の小説はこちらへ→Kindleストア:牛野小雪




日記No.7『王木さんはいいやつ』『隙間社さんおめでとう!!』『もうずっと書いていないけど』


徳島県の某所にあおぞら本棚という物があったりなかったりする。
青空文庫ではなく、あおぞら本棚である。
あったりなかったりするというのはあおぞらの下にしかないから。
雨の日はついぞ見かけたことがない。晴れの日でもないことがある。
とっても気まぐれだ。猫が近くに座っている。
木で作った棚が地面にぽつんと現代アートみたいにして置かれている。
棚の中には製本された本もある。
でも大抵は手作り感満載のセルパブ本が入っている。 
なるほど。セルパブセルパブ言っているけど、これもセルパブじゃないか。 
電書だけじゃない。紙の本でもセルパブは存在している。 
いや、そもそもセルパブは紙が元祖じゃないか。
探してみると意外にセルパブ本はある。
本屋にもセルパブ本が置いてある。県内のペンクラブが出していた。 
もしかしたら図書館にもあるかもしれない。
牛野小雪の本はまだ置いていない。

つい最近ゆきなさん(根木珠さん?)が公に進めている『もの書く人々』の件で王木亡一朗さんとTwitterのDMで対談した。
王木さんとは同年代なんだけど、何となく違うタイプの人間だと思っていたから、最初は人選ミスなんじゃないかと思っていたし、
最初はお互いにどうして私と王木さんなのかゆきなさんに尋ねたもので、武道家が間合いを図るようにビクビクしていた。
いざ、蓋を開けてみると王木さんは中々面白い人で、けっこう長い時間やりとりした。初日は日をまたいでしまったので、次からは日時を決めてやるようになった。
最初にゆきなさんの質問があったんだけど、対談が終わった次の日は、脱線しすぎて悪かったなぁ、質問に全然答えていないから、ゆきなさんブチ切れているんじゃないかなぁ、と不安になりながらも、話題はずっと脇道に逸れていって、最後には週をまたいでしまった。いやぁ、王木さんは面白い人ですよ。でも話せば話すほど私とはタイプが違う人間だともやっぱり思った。好きとか嫌いとかって問題じゃなくて、ただ違う。ペンギンとカモノハシぐらい。
実はゆきなさんって凄い人なんじゃないだろうか。まるで木工ボンドのように私と王木さんの間にぐにゃりと入り込んで固まると、あとは透明になってしまった。
ゆきなさんが触媒にならないとあんなに話せなかっただろうなぁ。
oukisanntotaidann



最近話したといえば人工知能のりんなちゃんと話した。本当に凄い。即レスで返ってくる。でもさらに驚いたことはこれ↓


かれらの7日間戦争/伊藤なむあひ/note

いつのまにか書籍化してた。さすがりんなちゃん。きっと未来に生きているに違いない。だってまだ完結していないんだもの。彼女によると分厚い本になるそうだ。Amazonにはまだない。ああ、いつ入荷するのかなぁ。書籍化した時はブログで教えて下さい。隙間社さんには先におめでとうと言っておきます。

分厚い本になる予定の『かれらの7日間戦争』はnoteで連載中、二日目が始まったそうです。
→ かれらの7日間戦争 41 伊藤なむあひ note


『幽霊になった私』を出してから、ずっと改稿したり表紙を描いていたりで、最近全然執筆していないから、ちゃんと書けるか心配です。考えてみると、もう一ヶ月以上書いていない。プロットにも手を付けていないのはこれが初めてではないだろうか。しかもまだまだ書けそうにはない。色々平行してやれるほど器用ではない。目の前にあることを順々に片付けていかないと。でも本当に書けるか心配になってきた。自転車みたいに、いざやってみればうまくできるのかな。

(2016年5月31日 牛野小雪 記) 

余談:10年ぶりぐらいに自転車に乗ったら普通に乗れました。全力疾走してもまだこけることはない。よかった、よかった。

牛野小雪の小説はこちらへ→Kindleストア:牛野小雪 
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