愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

2015/08

ゾーン 超凄い集中力について

 つい先日、月狂さんが出したというので、私も一つ星新一賞に小説を出してみた。案自体は元々あったとはいえ、二日で一万字も書けたのでとても気持ち良かった。普段からこれぐらい書けたら気持ち良いのにというほどするすると書けて、書こうと思えばまだまだ書ける気はしたが字数制限にかかるのできりのいいところで切り上げた。それからエピソードを一つ消して一万字弱に収める。

 特設サイトからwordファイルを送った時は(えっ、こんなので100万円貰っちゃっていいの?)と、まるで警察に捕まるような事に手を染めているような気がした(←まだ貰えるとは決まっていない)。

 小説の方とは別に7月の末から人物画に挑戦している。本格的にやり始めたのは上の星新一賞の小説を書いてから。本当は家の裏をしょっちゅう歩いている猫にしようかと思ったのだが、そもそも決まった時間に出会えるわけではないと気付いたので、もっぱらCDのジャケットや雑誌の表紙、あるいは自分を参考にしている。

 ある本によると、クリエイティブな絵を描いていると評価されている人の脳の中では物を立体的に捉える部位があまり働いていないらしい。なので見た映像を見たまま平面の絵に落としこめるというわけだ。なら絵が上手い人は彫刻や粘土が下手なんだろうか? 私はどっちもひどいものだが……。

 とにかく私はそこにヒントを得て、最近は何でも平らに物を見ようとしている。いや、そもそも人間の目は平面にしか見えないのだが、脳の機能により立体であるかのように見えているだけだ。つまりは脳を意図的にさぼらせるという修練。

 

 そうやって物を見ているとなかなか面白い発見がある。

 たとえば腕を見てみると一様に肌色をしているのではなく、陰影があり、血管の筋があり、血の気の多少があり、体毛まであることに気付かされる。もちろんそれがあるのは知識としては知っていたが、より深い感覚でその存在を感じることができた。

私が自分の思考を分析してみるに、頭の中ではまず皮膚があり、そこから体毛が生えていて、その中には血が通っている。その腕に光の加減で陰影がついているそんな風に捉えているのではないだろうか。でも絵を書くにあたっては光の部分は白で影は黒だ。

 絵を描くときに自分の腕に黒を塗るなんて想像も付かなかったが、指を小さく丸め、影の部分を切り取って見るとそこは薄く青黒い色をしている。また光の当たっている場所はやけに白い部分が多い。二次元的視野で体を見ると意外にはっきり鮮やかな色がついている場所は少ないことを知った。またそれとは逆に意外な場所に朱がさしていることも知り、陰影も思っていた以上にくっきりしているとも知る。

 

 その日は描く時間よりも観察する時間が多かった気がする。というかどれだけ描いたか自分でも分からない。とにかく見て描くことに集中して、気付けば一日中描いていた。すると自分でもなぜ描けたのか分からないぐらい凄いものが描けていた。その日の朝に、お前はこんな絵を描くぞと言われても信じる事はできなかっただろう。あとになって振り返ると私はその絵をいつ描き始めたのか全然覚えていない。切れ切れにここを描いたというのは覚えているが、あとはぼんやりとして掴みどころがない。俗にいうゾーンというやつだったのかもしれない。

 たまたま最近借りて読んだ本にゾーンについて書いてあった。それによると今自分にできる事と、今自分がやろうとしている事の難易度が一致している時、人はゾーンという超集中状態に陥り易く、その人の持っているパフォーマンスが最大まで引き出されるそうだ。

 確かにその日の私は具体的にこれこれこういう絵を書いてやろうとは考えずに、雑誌や自分の顔を見て、ここはこうなっている。ここはああなっていたのかと色々な試行錯誤と発見を繰り返しながら、何かを書こうという考えは微塵もなく、ただ目の前にある変てこな絵を今よりもっとよくできる事が分かって、ただただ興奮していた。

 

 ある作家が言っていた。どの作家にも頭の中には玉稿があり作家という生き物はみんなそれを目指そうとして辿り着けない、と。私の中でもふたつあるが、ひとつはこりゃどうやっても書けんぞと書く前から半分あきらめて別の話を考えている。もうひとつはもしかしたら書けるようになるかもしれないとは感じている。ちなみにその話を書けなくて火星の話を書いた(牛追いは関係無いよ、デイジー)。えっ、言葉にしてみろ? できたら書いてるさ。できないから寄り道をしているわけで。

何事も恐れずにチャレンジする精神が大事とも言うが、頭の中の玉稿を真っ直ぐ目指すよりは、まずは今自分に書ける物を見つめて、それをどうやったら今より良くできるかを考えた方が結果的には頭の中の玉稿に最短距離で到達できるのかもしれない、なんてことを考えた今日この頃でした。

 

(2015年8月29日 牛野小雪 記)

執筆と光の関係

海外の、というかハリウッド映画を見ていると夜光灯の色はたいてい赤色をしている。これはハリウッドだけではなく、他の西洋諸国もそうらしく、またお隣の中国や韓国は極彩色っぽいイメージで、日本みたいな青白い色は珍しいそうだ。

今日読んだ本には、青白い光(昼間の太陽と同じらしい)が交感神経を刺激して 健康に害を及ぼしている可能性があると書いていた。まぁ俗に言う緊張状態が続くってこと。それなら副交感神経を刺激すればいいと、副交感神経を刺激する光を調べると夕方のオレンジ色だそうな。

よし、それじゃあと早速パソコンのモニターをオレンジ色にしてwordを立ち上げてみたのだが、頭がぽわーっとしてきてこれは書けないぞとすぐに直感した。どうも頭がシャキっとしない。

でもこれは慣れていないからそう感じるだけかもしれない。実はこのぽわーっとした感覚により凄い物語が書けるのかも。まぁ、実験的にちょっと書いてみるつもりでいる。もしうまくいったらこれからずっとオレンジモニターで書くだろう。

ちなみにこれはオレンジモニターで書いた。短い時間だからどうとも言えないが、オレンジ色にすると青白い色と比べて絶対的な光量がかなり落ちるので文字が見づらかった。目を悪くしないか心配になる。ほのかなオレンジ色ぐらいが良いのかもしれない。

(2015/8/14 牛野小雪 記)

追記:緊張だって多少は大事みたい

 

ヒッチハイクの広告を作ってみた

『ヒッチハイク!』の広告を作ってみた。
実際にやってみると意外に面白くてだんだん楽しくなってきた。
でもこれって広告にはならないよなぁ・・・・・・。


ver1 おふざけのコピー
これに関してはちゃんと理由がある。
作中で、バイクに乗って琵琶湖へ行くというくだりがあるのだ。
以下全然関係ないおふざけが続く。


おふざけ11

おふざけ10

おふざけ12

いつも思うんだけど、どうしていつも6億円なんだろう。
ツイッターで出てくるのは7億でも5億でもなく何故か6億。
ロト7だと8億なのに。

わざわざ言う必要もないけれど『ヒッチハイク!』を読んだからといって、運気が上がったり、筋肉もりもりになったりはしないよ。
でも宝くじは買わなきゃ当たらない。売り場へGoだ。
もしかすると本当に8億が当たるかもしれない!
来週のロト7の当選番号は  1、2、3、4、5、6、37 だ!

おふざけ4


おふざけ8



なに、ちゃんとしたのも作ってある。
ver9ヒッチハイク広告 580×400 雛型のコピー

せっかく作ったんだからアドワーズに出してみたんですよ。今のところほとんど表示されていないけど。もし見かけたらクリックしてやってください。

(2015年8月13日 牛野小雪 記)

追記:1、2、3、4、5、6、37なんて絶対に当たらないと思うけどね。
でもこの当たらないと感じているのが本来の当選確率なんじゃないか?
本質的には3、9、17、19、22、32、37も同じ確率だが、何故か後者の方が当たりそうな気がする。でも二つの数列の当選確率は全く同じ。
夏居暑さんの『アルテミスの弓』に言及しようとしたけど、出版停止したみたいだからここで終わり。

 

『ヒッチハイク!』をリリース開始



お盆までには出すという気持ちで書いて、ぎりぎり間に合いました。
新作『ヒッチハイク!』のリリース開始です。


『お盆までには帰る』 
毎年夏休みが始まると東京から徳島の実家へ手紙を送る。 
僕は8月までだらだらと自堕落な日々を送り英気を養うと郊外のコンビニへ向かった。 
ここでヒッチハイクをするのだ。 
道々に出会う日常では出会うことができない人や物事。世界の裏側。 
たった一人の無謀な暑い冒険。真夏の地獄巡りが始まる。



題名通り正木忠則君がヒッチハイクをして実家まで帰るというお話です。
お盆のお供に是非どうぞ。
8月いっぱいまで250円です。

 

広告まで作った。わりと面白い出来なので、どこかに貼ってみたいという衝動に駆られる。勝手に電柱に貼ったら怒られるよね?

ver9ヒッチハイク広告 580×400 雛型のコピー



(2015年8月11日 牛野小雪 記)

近代美術史 牛野小雪 ヒッチハイク派の返還


初期

ver2 hitch-hike! ver1 hitch-hike!

極初期。使用する色を決めて題名と著者名を打ち込んだだけのもの。
日本地図を挿入した。


ver6 hitchhike

ここに正木忠則君も付ける。元の絵はWEBから拾ってきたものだが、それを元に自分で書いている。拡大すると輪郭ガクガク。どうやって滑らかな直線や曲線を曳いているのか今でも分からない。ドット打ちの要領で一点ずつ打ち込んだ箇所がいくつかある。この時点で牛野小雪の造形的な技術限界に達し『ヒッチハイク!』の原型はここから進化を見せない。


中期

ver11 hitchhike ver7 hitchhike

背景の色を明るくしたり暗くしたりの試行錯誤が見られる。

ver16hitchhike

中期終盤の作にはグラデーションが多い。これが後期の手腕に繋がる。

 

 



後期


ver29hitchhikever30hitchhikever32hitchhike

後期の作品にはとにかく光がテーマになっている。彼曰くこの時は迷走期であったと告白している。だがこの光を求める姿勢が後のマークロスコ以後の作品に繋がるのだ。

 

 



マークロスコ以後前期

ver36hitchhikever37hitchhikever38hitchhike

 技術とセンスに限界を感じていた牛野小雪は現代美術の巨人マークロスコから学ぶことにした。彼の絵に刺激を受けた彼は初期から後期まで変えることのなかった正木忠則のシルエットの色を変える。色にこだわることに意味がないと気付いた彼は、すぐに日本地図の色も変える。色を濃いものから薄いものへ、暗さから明るさを求めていく。




マークロスコ以後後期
ver43hitchhikever47hitchhikever56hitchhike
ver65hitchhikever66hitchhike

大胆にも海の色を変える。これによりインパクトが非常に増した。目にまぶしい。忠則君も分身させて賑やかにした。


完成期



ver74hitchhikever73hitchhike
 
 海の部分が青に戻る。
 彼曰く『やべーわ。まじやべーわ。海は青に決まっとるわ。マックでスタバ開いてドヤ顔するぐらい意味分らんかったわ~。ホント、どうかしてた』
 でもまるっきり無駄ではなかったかもしれない。たとえば海の色は後期最後のものでは(RGB=180、0、0)だったのを(RGB=0、0、180)にしているから、実は色の数値的にはさほど変わっていないのである。マークロスコ以後前後期で得た知識はちゃんとここに活かされているのだ。

 最終的にどちらにするか迷っていた。kindle PW は白黒表示なので、グレースケールだとどう見えるのか試した。その結果は以下の通り。

ver74hitchhike gsver73hitchhike gs
 うむ、左の方はちょっと分りづらい。右の方はすっきりしている。『ヒッチハイク!』はどうも右の表紙案になりそうだ。テストに出るから復習しておくように。(2015年8月7日 牛野小雪 記)

と書いたのだがやっぱりこれにすることにした。
マックでスタバを開いてドヤ顔をしてみたいのだ。
ver83hitchhikeのコピー




(おわり)

(2015年8月8日 牛野小雪 記)

『ヒッチハイク』のリリース記事

『ヒッチハイク~正木忠則君のケース~』は、現代社会で自分の居場所を探す若者の孤独と成長を描いた物語です。大学生の正木忠則は、目的もなくヒッチハイクをしながら徳島の実家へ向かいますが、その旅は単なる移動ではなく、彼自身のアイデンティティを模索する精神的な旅でもあります。

出会う人々や訪れる土地を通じて、地方と都会、現実と理想の狭間に揺れる忠則は、やがて自分の無力感や孤独と向き合うことに。ユーモアを交えながらも、漂流する若者の心情を緻密に描いた本作は、無目的な旅が人生を映し出す一種の成長譚です。

彼の旅路を追いながら、現代の若者が抱える葛藤と、どこにも属さない不安定さに共感することでしょう。

主人公が求めるもの

 主人公は、東京の大学に進学したものの、自分が特別な存在ではなく「その他大勢の一人」に過ぎないことに気付く。この現実は彼に深い失望をもたらし、将来への希望や夢を抱くことを難しくさせた。大学卒業後に待つ未来が必ずしも明るいものではないと悟り、彼は日常に対する閉塞感を抱えるようになる。そんな中で彼が選んだのがヒッチハイクという行動だった。これは単なる交通手段ではなく、自分自身を再発見するための旅であり、未知の世界への扉でもあった。

 彼が求めているのは、具体的な目標や夢というよりも、日常からの脱出と自己確認の機会である。ヒッチハイクを通じて出会う見知らぬ人々との交流や予測不可能な出来事は、彼に新たな視点と気付きを与える。人との偶然の出会いがもたらす会話や経験は、彼の中に小さな変化を積み重ね、閉ざされていた心の扉を少しずつ開いていく。

 最終的に彼が求めているのは、自分の存在意義や人生における本当の居場所だ。旅の途中で得た経験や出会いは、彼に自分自身を見つめ直す時間を与え、迷いや不安を抱えながらも一歩ずつ前に進む力を与える。ヒッチハイクという旅そのものが、彼にとって自己探求の象徴であり、彼の内面の成長を促す鍵となっている。

小説のモチーフ

この小説のモチーフは「自己探求の旅」と「偶然の出会いによる成長」でしょう。主人公・正木忠則は、自分の存在意義や将来に対する不安から逃れるためにヒッチハイクの旅に出ますが、この旅自体が彼の内面を探る過程の象徴となっています。

1. 旅と自由の象徴

ヒッチハイクは計画性のない移動手段であり、自由と不確実性の象徴です。これは、主人公の人生そのものを反映しています。彼は自分の将来が見えず、予測できない未来に対して不安を抱えていますが、その一方で、未知の世界に身を投じることで自分を見つめ直そうとしています。旅を通じて、忠則は他者との関わりを学び、自己を見つけるための自由と冒険を体現しているのです。

2. 偶然の出会いと人間関係

旅の中で出会う多種多様な人々は、偶然の連続であり、これらの出会いが主人公の視野を広げていきます。福島へ向かう男、白髪の老人、小料理屋の女将、インド人青年など、彼らはそれぞれ異なる価値観や生き方を持ち、忠則に新しい視点を与えます。この「偶然の出会い」は、人生の中で避けられない出来事や人との関係性を象徴しており、主人公の成長を促す重要な要素です。

3. 逃避と対峙

主人公は東京での閉塞感から逃れるために旅に出ますが、実際には旅の中で自分の弱さや不安と向き合うことになります。特に、小料理屋の女将やインド人青年との関係は、彼が他者との距離感や自立の必要性を再認識するきっかけとなります。この逃避と対峙の繰り返しが、主人公の内面的な葛藤と成長のモチーフとして描かれています。

4. 孤独と連帯

ヒッチハイクの旅は孤独な行動ですが、他人の助けがなければ成り立たないという矛盾も内包しています。この矛盾が、主人公の「一人で生きたい」という願望と「他人と繋がりたい」という内なる欲求を象徴しています。孤独を感じながらも、人との偶然の出会いや助けを通じて連帯感を得ることが、主人公の精神的な成長を表現しています。

5. 日常からの解放と帰還

最終的に、主人公は家に帰ることになりますが、この帰還は単なる物理的な移動ではなく、精神的な成長と再出発を象徴しています。旅を通じて得た経験や気付きは、彼の日常に新たな意味をもたらし、彼自身の視点や価値観を変えるきっかけとなります。帰還することで彼は、自分が本当に求めていたものが何なのかを理解し始めるのです。

このように、『ヒッチハイク』は、旅というモチーフを通じて主人公の自己探求、成長、そして人との関わりの重要性を描いた作品です。


他の小説と何が違うか
この小説「ヒッチハイク~正木忠則君のケース~」が他の物語と異なる点は、主人公の「無目的な旅」を描写することで、現代の若者のアイデンティティ探索と自意識を緻密に表現していることです。物語の中心には、主人公が大学生活や社会の期待に対して感じる疎外感があり、その反応としてヒッチハイクという手段を通じて旅を続けますが、その旅は単なる物理的な移動ではなく、彼の精神的な葛藤や成長の象徴です。

他の多くの作品が明確な目的や目標に向かって進むのに対し、この小説はあえて「無為」と「漂流感」を前面に押し出しています。主人公はただ「どこかへ行く」だけで、その過程で出会う人々や出来事を受け入れることによって、自分自身を見つめ直し、他者との関わりを再構築します。つまり、この物語の核心は、明確な目標を持たない旅路そのものが、現代社会における自己探求のプロセスを象徴しているのです。

また、旅の過程で出会う多様なキャラクターや出来事が、現代日本の断片をリアルに描いています。具体的には、福島や富山、会津など、日本の地方都市やその文化に触れることで、地方の風景と都会の対比が強調され、主人公が属する「どこにも属せない感覚」が一層浮き彫りになります。これにより、読者は単なる主人公の旅の記録ではなく、現代社会における若者の居場所探しという普遍的なテーマに共感を抱くことができるのです。

物語のもう一つの特徴は、ユーモアとシリアスな要素が絶妙に組み合わされている点です。旅の途中で出会うキャラクターたちや、主人公自身の思考には軽妙さがありますが、それが彼の抱える孤独感や無力感を一層際立たせています。このような「軽さ」と「重さ」のバランスは、他の物語には見られないユニークな特徴です。

このようにして、「ヒッチハイク~正木忠則君のケース~」は、無目的な旅を通して現代社会における自分の位置を模索する若者の心情をリアルに描きつつ、ユーモラスなエピソードを織り交ぜて、読者に深い共感と洞察を提供する点で、他の作品とは一線を画しています。

ヒッチハイクをAmazonで見る

スマホでKindle Unlimitedを楽しむ方法


試し読み

 1 ヒッチハイク


 僕の夏休みの第一日目は一日中眠ることだった。夜中の2時まで何をするでもなく、TVをつけたままマンガを読んだり、ネットを見たりして、意識の限界まで起きていた。

 たいていは朝7時に目が覚めて、そこからもう一度眠ると10時に目覚めて、さらにまた眠ると昼の2時になった。その頃になってようやく僕は布団から出た。

 朝から晩まで暑い日が続くので、火を使う料理を作る気にはなれなかった。電子レンジでうどんを温めて、水で洗い、麺つゆと、ねぎと、天かすを入れたぶっかけうどんを二杯食べた。そしてまた眠った。

 そうやって寝て起きての生活を三日続けると、体重が2キロ落ちた。僕は布団の上で、あくびをしながら体を大きく伸ばすと、また眠った。

 こうして一週間が過ぎた。僕はパンパンに膨らんだバッグを持って部屋を出た。徳島の実家に帰るのだ。

 僕が向かったのは空港でもバスターミナルでもなく郊外にあるコンビニだった。僕は緊張をほぐすためにコーラを一本買って飲んだ。それからコンビニの窓ガラスの出っ張りに腰を降ろして、気持ちが浮かれている人を探した。

 5分ほど待っていると本日一人目の浮かれている人を発見した。僕は腰を上げて、その人に話しかけた。目の奥の筋肉を広げて、口には笑みを。

「すみません、どこまで行くんですか?」

 男は赤の細いストライプが入った白のポロシャツにベージュのスラックスを履いていた。車の助手席から旅のにおいがしている。

「えっ、何ですか?」

 男はそう答えた。見ず知らずの相手に質問をされて素直に行き先を答える人がどこにいるのだろうか? そう思うのは世界を知らない人だ。僕の目の前にいる男は、そのすぐ後に「上野まで行くんだけど?」と疑問系で答えてくれた。

 意訳すると『僕は上野まで行くんだけど、一体何の用かね?』ということだ。上野という答えで、僕にとって彼は用無しとなったわけだが、粗末に扱うことはしない。アフターケアはどんな世界でも重要だ。

「ヒッチハイクをしているんです。徳島まで行きたくて」と僕は答えた。

「へぇ、ヒッチハイク! 徳島?」

「四国の」

 僕がそう言い足すと「あ~……」と男は間の抜けた声を出して空を見上げると「あぁ」と何かを納得したようにはっきりと声を出した。

 僕には彼の頭の中が透けて見えるようだった。徳島と言って、そのまま通じることはほとんどない。そのあとに四国と言い足すと、香川……愛媛……高知……あとひとつなんだっけ。あぁ、目の前いるこいつが言っていた徳島か、という風に思い出してくれる。

「すまないけど、上野に行った後は日本橋のホテルに泊まるから。仕方ないね。ごめん」

 男は申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえ、こちらこそすみません。ご迷惑をかけてしまって」と僕も頭を下げる。

「ヒッチハイクなんて本当にあるんだ。徳島まで遠いけどがんばって」

「はいがんばります。ありがとうございました」

 僕は丁寧に言葉を重ねて、もう一度頭を下げると彼を見送った。彼はコンビニに入って、ペットボトルのジュースを買うと、僕に笑顔を向けて車に乗り、駐車場を出て行った。

 東京は大した街だ。東京でできないことは東京以外の場所へ行くことだけだ。東京の外から人は入ってくるが出て行く人は少ない。東京にいる99%の人は東京に用がある。ヒッチハイクで一番難しいのは東京を出ることだった。

 僕はコンビニの窓の出っ張りに一時間座り、20人の浮かれた人達に話しかけた。20人とも東京のどこそこへ行くと言い、ヒッチハイクをしていると驚いて、徳島と言って通じた人は一人もいなかった。

 僕はまたコーラを買って飲んだ。そしてまた窓の出っ張りに腰を下ろすとホンダの黒い軽が駐車場に入ってきた。出てきたのは白い半袖の男で、顔が半分隠れる巨大なサングラスをかけていた。口はむすっとしているが気持ちは浮ついている。ここではないどこか遠い場所へ行こうとしていた。

 僕はコーラを一口喉に流し込むと腰を上げて彼に話しかけた。

「すみません。これからどこへ行かれるのですか?」

「えっ、俺に言ってるの?」と男は言い、続けて「帰るんだよ」と付け加えた。

「どちらまで?」

「福島」

 やった。ついに東京を出る人を見つけた。

「もし良ければ一緒に乗せていってもらえませんか」と僕は言った。

「どうして?」

「ヒッチハイクで徳島まで帰ろうとしているんです。実家がそこなんですよ。お盆までに帰ろうと思って」

「あぁ」

 彼の「あぁ」は珍しく徳島がどこにあるのか知っている「あぁ」だった。

「それは遠いね。どうしてヒッチハイクを? お金がないとか?」

「そういうわけでもないんですが」

「若さの冒険というわけか。俺もしてみたかったな、そういう旅」

 そう言った彼も僕と歳はそう違わないように見えた。

「でも、福島と徳島じゃ全然方向が違うよ。北と西だ」

「とりあえず東京を出たいんですよ。ここにいると人の流れがぐるぐる回っていますから。福島も徳島も東京を出ないと行けないでしょう?」

「まあ、乗りなよ。でも俺は福島に行くよ。福島ってどこにあるか知ってる?」と男は言った。

「ありがとうございます。知っています」と僕は頭を下げた。とりあえず東京を出ることができれば第一関門突破だ。僕と彼は一緒にホンダの黒い軽に乗り、東京を出ることにした。

2 初めてのヒッチハイク


 大学一年生のある日、僕は駅の改札で財布がないことに気付いた。おまけに携帯電話もなくて人生終わったと思った。

 ぼくは気を取り直して地面をなめるように探しながら大学まで戻り、携帯電話を見つけた。しかし財布は見つからなかった。財布には電車の定期券が入っていたので僕は大学から歩いて帰らなければならなくなった。

 真夏のアスファルトを歩くと喉が渇いた。僕は通りかかった公園の水道で水を飲んで、日陰のベンチで一休みした。

 涼しい風に当たって再び歩き始めると、体が冷えて固くなっていたので、ううんと、うなりながら手や胸を横に伸ばした。すると一台の車がそばに止まった。スバルのインプレッサだ。

「どこまで行くんですか?」

 車には二人の若い男が乗っていて、助手席の男が窓から僕に話しかけてきた。僕は呆気に取られたが、馬鹿正直にアパートがある場所を答えていた。

「それって東京じゃないですか? それもすぐそこ」

 助手席の男が言ったので僕はうなずいた。

「まぁ、いいや。乗っていきなよ」

 僕はそれほど考えもせずに後部座席に乗り込んだ。僕は木刀を毎日二千回振っていて、人を見ると勝てるかどうかを値踏みする習性がある。僕はその二人を相手にしても勝つ自信があったので危険は感じなかった。

 二人は高校の同級生で、北海道から日本一周の旅をしている最中だった。その間に青森でヒッチハイカーを乗せ、三日間一緒に旅をして宮城の気仙沼で降ろし、宮城の岩沼辺りでまたヒッチハイカーを拾い、やはり三日間一緒に旅をして東京の日本橋で降ろしたそうだ。二人は僕が体を伸ばしているのを見て、ヒッチハイクをしていると勘違いしたらしい。

 東京はもんじゃ焼きよりナポリタンを食べる方がいいと教えてあげると、夜も近いのでナポリタンを出す店に行くことになった。

 僕は車に乗せてくれたお礼にナポリタンとグラタンを奢ると言っていたのだが、お金を払う時になって財布を落としていた事を思い出した。僕が「ごめん」と謝ると、二人は笑って、そこの代金を払ってくれた。

 二人は僕に借りだけを残して去った。名前はまだ憶えている。北海道の本田アキラ君と豊田スバル君、たぶん一生会うことはないだろうけれど、この恩はいつまでも忘れない。

 僕は偶然ヒッチハイクをして以来、世界の裏技を見つけてしまったと興奮していた。僕は見ず知らずの人を引っ掛ける奇妙な魅力に囚われてしまった。

 初めは伊豆の修善寺まで行った。夏目漱石がどうとかを本で読んで興味があった。

 実は人生初の意識的なヒッチハイクは失敗から始まった。どうせやるなら交通量の多い道路が良いだろうと、車がびゅんびゅん走る国道で半日立っていたのだが、車は一台も止まらなかった。

 いや、本当は三台停まった。でも三台ともタクシーだった。タクシーの運転手は僕がヒッチハイカーだと分かると三人とも舌打ちをして走り去った。

 車が目の前を通り過ぎていく度に僕は泣きたい気持ちに襲われた。昼前には心の限界に達して、部屋に戻ると涙を流した。

 二日目は知恵を絞って、ダンボールに『静岡 伊豆 修善寺まで』と書いて掲げた。すると車の通りが少なくなった時に車が停まった。人生初のヒッチハイク成功。この時はたまたまその人が伊豆へ行く予定だったが、僕は車さえ停まってくれれば必ず行き先まで乗せていってくれるものだという考えを再びヒッチハイクをする時まで抱いていた。

 初めてのヒッチハイクが成功して僕は自信が付いた。それで夏休みは東京から徳島までヒッチハイクで帰ってやろうという野望を抱いた。

 ……という話を福島に着くまでの間に話した。運転手の男はサングラス越しで表情は分からないが楽しんでいるようには感じた。

「それじゃ、これが人生初のヒッチハイク? 徳島へ帰るまでの」と男は言った。

「いえ、今は三年生だから三回目です」

「ふぅん、面白い事をするんだね。俺もやってみたいよ」

 限りなく100%に近い確率で彼はやらないだろう。

 僕は郡山で降ろしてもらい、男に礼を言った。

「泊まるところはある?」と男は言った。

「その辺で寝ます。夏だから」

「若いね」

「そっちもまだ若いですよ」

「そうかな」

 男がサングラスを外した。サングラス詐欺だ。男はどう甘く見積もっても30は越えていた。40代でも通じるかもしれない。大きなサングラスとヒゲの薄さが年齢を隠していた。

「20代でも通じますよ」

 僕は最後にお世辞を言って、そそくさと別れた。彼は嬉しそうな顔で僕を見送ってくれた。

 もう夕方になっていた。僕はイニシャルMのハンバーガー屋に入って、照り焼きバーガー二つと烏龍茶を夕食にすると、人気の少なそうな公園を探した。

 公園はすぐに見つかった。僕は公園の芝生にバスタオルを敷いて寝転がるとバッグを枕にして眠った。

3 そろそろ西へ


 僕は公園の水道で服を洗って乾かすとヒッチハイクを始めた。

『とにかく西へ』

 そう書いた紙を持って半時間ほど道路に立っていると中型トラックが止まった。僕は助手席に乗り込んで配送ルートに乗っけてもらった。

 ヒッチハイクの初心者が陥りやすい罠はトラックの運転手はみんな気が良いやつらでヒッチハイカーを乗せてくれるはずだという思い込みだ。その思い込みは半分当たって、半分外れている。

 トラックの運転手はみんな気が良いやつらというのは正解だ。しかしヒッチハイカーを乗せれば配送が遅れるし、事故でもしたら保健やら何やらがあるので、たいていの会社はヒッチハイカーを乗せることを禁止している。何故僕がそれを知っているのかというとトラックの運転手が教えてくれたからだ。

 その運転手はどうして僕を乗せてくれたのか。会社に対する嫌がらせだそうだ。僕はそれ以来、気の立っているトラック運転手を見ると声をかけている。すると彼らは会社に対する嫌がらせのために僕を乗せてくれた。僕はトックに乗れるし、彼らは会社に鬱憤を晴らせる。Win-Winの関係だ。

 トラックが運んでいたのはラーメンの麺で、昼になると運転手がラーメン屋で喜多方ラーメンを奢ってくれた。

 そのあと僕達はラーメンの店を何軒か回った後に、会津に行った。もう夕方が近くなっていたので、車の通りが良さそうな場所で彼は降ろしてくれた。

 白虎隊が永眠する場所で僕は一夜を過ごした。静かな場所だったせいか良く眠れた気がする。僕は本気で霊を信じている方ではないが、そのまま立ち去るのは気が引けて、白虎隊のお墓に手を合わせながら、今日も良い車がひっかかるように手を貸してくださいと祈った。

 服を水で洗って乾かしている間に、僕は近くの定食屋でサバ定食を食べた。普段は皮を食べないが、旅先だと食べてしまうのは不思議だ。みそ汁に入っていたワカメの茎もぽりぽりと食べてしまう。

 腹ごしらえを済ませて、服の乾き具合を確かめると、まだ半乾きだったので近くにあるサザエ堂に登った。誰ともすれ違わずに上り下りできるという触れ込みだったが、僕一人だけだったので誰ともすれ違わなかった。

 太陽が空の高い場所に登ると人が増えて観光地らしくなった。でも浮かれている人は少なかった。次の行き先で頭がいっぱいなのだろう。僕は誰にも話しかけられずに日陰で人の流れを追っていたが、その中にヒヤリとする空気を持った人が現れた。

 その人は髪が全部真っ白で、腕は僕の半分もない細さだったが、明らかに僕より強いと悟らせる雰囲気を放っていた。もし竹刀を持っていたとしても僕は打ち込めないだろう。

 その人は真っ直ぐ僕に向かってきた。殺されるかもしれないと感じて、僕は逃げようとしたが、まさかこんな場所で切られることもあるまいと思い直して、じっと座り続けていた。

 すると彼は僕のそばまで来て、手刀で僕の頭を軽く打ち「常在戦場!」と小さく一喝してから話しかけてきた。

「何をされているのですか?」

「あなたこそいきなり何をするんですか」と僕は言った。いきなりのことで全身の血がドクドクと音を立てている。

「一応の勝負は着けないと思いまして。あなた、もしかして武道の経験がおありではございませんか?」

「えっ、ああ……高校まで剣道をしていました」

「道理で。お若いのに熱心ですな。私はいつ切りつけられるのかとヒヤヒヤしておりました。最近はどうもスポルツの気が多くて、常在戦場という言葉は薄っぺらい物になりました。なかなか見どころのあるお方だったので、私もつい手が出てしまいました。申し訳ない」

 老人は綺麗な角度で頭を下げた。美しい身のこなしに僕は仕返しに頭を叩いてやろうという気が失せてしまった。

「ところで何をされているのですか?」

 また最初の質問に戻った。

「ヒッチハイクで旅をしているんですよ」と僕は答えた。

「ヒッチハイク?」

 老人はヒッチハイクの意味が分からないようだった。

「えーと、ですね。道路で親指を立てて、いや、立てないこともあるから、う~んと、話しかけることもあるんですよ」と僕もなかなか説明することは難しかった。色々と言葉を重ねたあげく、結局最後に「要は車に乗せていってもらうということです」と僕は言った。

「世の中色んな人がいるものですな」と老人は言った。いきなり手刀で頭を叩いてくる人もなかなかいませんよ、という言葉は胸にしまい込んだ。

「どこまで行かれるのですか?」と老人が言った。

「目的地は徳島ですが、とりあえずは西へ」

「新潟まで?」

「通ることにはなるでしょうね。それからずんずん西へ行って……まぁ何とかなるでしょう」

「私は新潟から来ました」

「そうなんですか」

「今日はもう帰りますから、乗せていってあげましょう」

 いきなり手刀で頭を叩かれて、僕は躊躇したが、結局は「ありがとうございます」と礼を言った。その時うかつにも頭を下げたのだが、また手刀が降ってくるかもしれないと思い直して、僕は慌てて頭を上げた。老人はニッコリと笑っていた。

続きはこちらから

作家のスランプについて

 

マンガやテレビの中で作家はたいていスランプに陥っている。

何かを創ろうとするならたいてい誰もが一度は陥るもので、たとえ準備万端で『これで書けなきゃバカだぜ』という状態でも起こりうる。たいていの場合以下の状態を段階的に通過していくようだ。

 

.否認

.怒り

.取引

.抑鬱

.受容

 

もちろんスランプに陥った作家がこの過程を全て通り過ぎるわけでもなく、5.受容の段階に至った作家が1や3の段階に戻ってくることもあり、途中の段階でスランプから抜け出すことも珍しくない。またどの段階においても作家は、もしかするとどうにかすればまた書けるようになるのではないかという希望を抱いている。それは5.受容の段階に至ってもそうだ。

 



 スランプ 否認のコピー

.否認

 

書けるはずの物が突然書けなくなる。もしくは非常に僅かな量しか書けないか、納得のいかない物になっている。この段階ではまだスランプと認識されていることは少なく、たいていは、昨日夜更かししたからとか、気持ちが乗らなかったから、と理由づけする。この段階でスランプを脱した場合、次の日で遅れを取り戻すことが多い。

 



 

 スランプ 怒り

.怒り

 

スランプがはっきりと認識され始めた段階。頭では理解しているが感情的には受け入れていない。『私にこれが書けないはずが無い』『最近の私は怠けている』と自己に怒りを向けることもあるが、『誰かが私の邪魔をしている』と周囲に怒りをぶつける作家も少なくない。本当の自分はまだ書けるはずだと思っているので、ここで無理をする作家が多い。この段階でスランプを脱した場合、無理をすれば書けるという信念を抱くことが多い。

 



 スランプ 取引のコピー

.取引

 

理由が分からず、どれだけ力を振り絞っても書けないことが分かり感情的にもスランプを認識する。もう書けないと分かっていても、どうにかすれば書けるのではないかと模索する。『豆腐毎日一丁を食べれば書けるようになる』『夜11時に眠れば生活習慣が改善されて書けるようになる』『木刀を休まずに二千回振れば書けるようになる』『部屋を片付ければ書ける』などと自分が普段とらない行為に願を掛けることが多い。この段階でスランプを脱すると、願掛けに成功した行為がジンクスとして保持される。

 



 スランプ 抑うつ

 

4.抑鬱

 

ジンクスも破れ、スランプからも脱することができない状態が続くと、作家は執筆から距離をおくようになる。『これを書くには未熟すぎた』『小説とは何か』『どうせ誰にも読まれない』『別に私が書かなくったって世の中には本があふれているじゃないか』『そもそも面白いのか?』と執筆の本質について考え始める。何度か試すように執筆へ戻ることがあるが、そこで失敗を繰り返すと次の段階へ移行する。この段階まで至った場合スランプを脱してもあとに引きずることが多い。

 

 



 

 スランプ 受容

 

5.受容

 

長期に渡るスランプにより『書けない物は書けない』と完全に認識した段階。『どうせダメさ』と作家は執筆行為から完全に自己を切り離し、これまで執筆に向けていた時間を別のことに費やす。信長の野望で三好家天下統一を目指したりするのもこの時。それでも心の中では執筆のことを完全に忘れたわけではなく、大量の無為の時間を過ごした後にその代償として執筆行為に戻ることがあり、それがスランプ脱出のきっかけとなる。

 



 

ちなみにスランプ脱出は段階的に起こる事もあるが、1~3の段階ではいきなり普段通りに戻ることが多い。4、5の段階まで進行した場合、作家は取り戻した調子をすぐには信じることができず、初めは試すように執筆へ戻ってくる。それがうまくいくと、そこから一歩ずつ確かめるようにして徐々に調子を取り戻すようだ。

 

だいたいみんなこんな感じだろう?

 

2015/08/04 牛野小雪 記)

 

追記:あれのパクリだって分かってもみんなには内緒だ。

関連項目

  1. むしろスランプになるべき理由
  2. 小説書けない時、自分の才能を疑う前に確認するべきリストを教えて(なんJっぽく)





真夏の夜の怪奇現象[NO.2] 闇夜のミドリガメ

真夏の夜の怪奇現象[NO.2] 闇夜のミドリガメ

 

 

真夏の夜に外を歩いていると怪異に遭遇することが珍しくない。

 ある日、私が夜の散歩をしていると、道の先の夜行灯が照らす光の端に岩のような物が落ちていた。削れたブロックやレンガではなく岩。まぁ、この辺は田んぼがあって、その土留めに岩が使われているのだが、それにしたって妙だ。なんでそんな物が道の真ん中に落ちているんだろう?

 

 奇妙な思いに駆られながら近づいていくと、影の端がきょろきょろと動いているのが見えた。どうやら岩ではなく生き物のようである。だが、それにしたって私が近付いても逃げない。妙だなとそばまで行き、しゃがんでよく見てみると、それは立派に育ったミドリガメ君だと分かった。彼は甲羅に足をしまって首を左右にきょろきょろさせている。

 

 おりしも車がやって来た。ドライバーが気付かなければちょうど左のタイヤに敷かれる場所である。道路の伸されるのはちょっとかわいそうなので、用水路の方向へ蹴ってやると亀は意外に重くてちっとも動かなかった。本当に岩みたいだ。

 

蹴った瞬間のぬめっとした感触が気持ち悪かったので持つのは嫌だ。かといって伸されるのもかわいそうだ。しかし、亀ごときのためにドライバーに向かってここに亀がいるぞとアーピルするのは恥かしい。そこで私は亀のそばにしゃがんで、靴紐を結ぶ人を装った。車は私と亀を避けていく。ライトに照らされた亀は光を後追いするように首を動かしていた。

 

 ここに放っておくと何だか車に轢かれそうなので、私は亀の後ろから地面を叩いてせっせと用水路の側へ急かした。すると亀はさっきまで出していた首も引っ込めて、すっかり亀らしくなった。ちっとも動こうとしない。そうこうするうちにまた車が来た。また靴紐を結ぶふりをするのも面倒になったので、今度は地面にいる亀を観察する学者の休日風を装った。車が通り過ぎていく。するとまた亀は首を出した。

 

 私は亀のそばに立ち、そのへんに棒か板でもないかなと探していると、足元からざりっ、ざりっと音がする。やっと亀が歩き出した。私はよし、その調子だと後ろの地面を叩いて亀を急かすと、亀はまたしても頭や足を甲羅にしまい込んでしまった。また車が来て、私を避けて通り過ぎていく。今度の亀は頭さえ出さない。

 

 待てど暮らせど亀は動かない。手も足も出ないとはまさにこのこと。さてどうしようかな。こいつはここで死ぬ運命なのかなと見下ろしていると、亀は思い出したかのように首をにょきっと出し、それに遅れて足も出した。

 

 それからひょっこ、ひょっこと歩き出す。今度は手を出さずにじっと見ていることにした。亀は順調に用水路の方へ向かい、私から離れるほどにその歩みを速くした。といっても猫が地面のにおいを嗅ぎながら歩くときの速さなのだが……。

 

 とうとう亀が用水路との境にあるガードレールとの境目まで来た。もう良かろうと私が動くと亀は急に動きを止めて、また甲羅に頭と足を引っ込めた。車がまた来る。ガードレールのほぼ真下なのでよもや轢かれることはあるまいが、一応私はガードレールのそばまで行って、ドライバーが亀を避けるようにした。

 

 さて、さっきと同じように私が手も足も出さずに静かに見守っていると、亀はしばらくしてまた思い出したように頭と足を出して、道路と用水路の境目まで到達した。

 

 用水路はアスファルトとコンクリートで固められて垂直に切り立っている。どうやって亀が用水路に帰った(どこから来たのかは知らないがたぶん帰ったのだろう)のかというと簡単な話である。亀は道路の端に半身を突き出して前足をパタパタさせると、体が自然と用水路の側へ傾き、宙を半回転しながら用水路の中へ背中から落ちた。バシャンと派手な音が鳴り、先客のウシガエル君達が慌しい音を出した。後に調べたところによると亀はカエルを食うそうである。不倶戴天の天敵が天から落ちてきたので、さぞ驚いたことだろう。

 音の主いえば泰然としたもので、用水路の水面を音も立てずにパタパタと泳ぎ暗渠の中へと消えていった。図太い奴だ。きっと長生きするだろう。

 

 火急の危機が迫っているにも関わらず尻を蹴っても亀は甲羅に引っ込んで一歩も動かなかった。だが、手も足も、ついでにいえば口も出さずにただ見守っていると亀は用水路に向かって真っ直ぐ歩き出した。何だか教訓めいた出来事だったので興味を惹かれた私は、帰ってからミドリガメについて調べた。やつは在来種ではなく北アメリカからやってきたそうだ。その名も『ミシシッピアカミミガメ』。在来種を圧倒してきているので社会問題になっている。30年前から問題になっているそうなので、私が在来種と勘違いしてもおかしくないわけだ。寿命は20~30年、もしかすると私より年上だったかもしれない。足蹴にしちゃってごめんね。

 

ちなみにミドリガメはカエルを食べるが、レンコンもかじるそうである。私が子供の頃、ちょうどその亀を見た辺りにレンコン畑があったのだが、いつしかそこは埋め立てられ、更地になってしまった。今はぼうぼうに草が生えている。もしかするとミドリガメのせいかもしれない。変なところで歴史が繋がってしまった。ちなみに『ぼくとリカルド』に出てくるレンコン畑とは関係ない。もっと広大なレンコン畑が徳島県北部にある。文字通り見渡す限りというやつだ。

 

さて、その題名に惹かれてここまで読んだ人はどこが真夏の怪奇現象なのかと訝るかもしれない。実は私も帰ってすぐは何とも思わなかった。

 

さっきも書いたように亀は道路から用水路へ転落した。逆に言えば転落するほど切り立った場所なわけだ。それならどうやって亀は用水路から道路へ上がってきたのだろう? まさかコンクリートの断崖絶壁をよじ登ったはずがあるまい。子供が捕まえて道路に放置したということもありえないではないが、それにしては遅い時間である。大人がしたのならそれこそ怪奇現象だ。

 

その道路は亀の薄っぺらく伸ばされた死体がときどき落ちているので、道路に上がった亀は今夜の亀君だけではないはずである。水面から足をパタつかせて空でも飛んだのだろうか? 岩のように重い体で(そういえば小亀は轢かれていない)? ちょっと考えてみたが私には分からなかった。

 

亀が道路に上がるのはまったくの謎だが、何かしらの方法で登ってはいるのだ。手品の仕掛けと同じでいざ知ってみれば、あっけない物かもしれない。でも、ここは謎を解かずに不思議は不思議のまま置いておく方がいいのかもしれない。誰も見ていない場所で亀は空を飛んでいるかもしれないのだから。

 

 謎は分からないから謎である。また謎が必ず解けると思うのは人間の傲慢である。この件は分からないままここに記すことにした。

 

(おわり)

 

[2015年7月25日 牛野小雪 記]

意識とは宇宙に対する反抗であり、ロックであり、PUNKである。ジャズっぽいこともあるかもしれない。

 熱力学第二法則では無限の広大さを持つ宇宙は、いつか全ての物質が無限に拡散してしまい無限に冷えきってしまうそうだ。身近で体感できるものといえば服の上から掃除機を当ててみればいい。とってもヒンヤリする。気化熱で冷えているわけだが、大きな目で見れば同じ原理である。太陽が膨張してどうのと言っている場合じゃない。体育館の裏で吸った煙草の吸殻が学校を燃やさないように、宇宙はスカスカすぎて太陽一個じゃ全然暖まらないそうだ。地球温暖化なんて言っているが宇宙規模では絶賛寒冷化している。

 

 未だに宇宙はどうやってできたのか分かっていない。とりあえずビッグバンがあったらしいことは確からしいが、ビッグバンの前はなんだったのかは分からないそうだ。宇宙は不思議だが、身近にある意識だって充分不思議なことだ。我々は道端に落ちている亀の気持ちでさえ測ることができない(できないよね?)。

 

 万有引力という物がある。それによると全ての物は引き合っているそうだ。それにしては地球の表面ではぴょんぴょこ跳ねているものが多い。カエルも、カメも、牛も、豚もただ黙って地面に引っ付いていることはない。ぴょこぴょこと歩くたびに足を地面から放している。鳥ぐらいになってくると地面から引きこもっているといっていい。

 

 もし仮に岩が道に落ちていて「エイヤッ!」というかけ声とともに急に宙へ飛び上がったら誰もが驚くと思う。岩というものは転がさないかぎり地面に引っ付いて動かない。明らかに物理法則に反している。もしそう動いたなら、岩に意思があるか、何者かの意思によって動いたと考えるのが妥当ではないだろうか。

 

 猫が屋根に飛び上がるのは物理現象に反していないのか?

 たんぱく質の塊が「にゃあ」と鳴きながら宙へ飛び上がっても別段驚かないのは何故なのだろう(猫は鳴きながらジャンプしないと思うけど……)。当たり前のようだが、よくよく考えてみると超凄い。何故意思は物理法則に反抗し続けるのだろう。どうして地面や海の底でじっとしていられないのだろう。

 

 昔々、私が香川県の道を走っているときに超眠たくなったことがある。まばたきした瞬間に一瞬眠ってしまうほど眠気に襲われていた。ああ、くそっ。あともうちょっと、もうちょっと走ったらどこかで休もうと思いながら走っていたが、結局どこでも休まずに走り続けた。

 

 海沿いの道に出た時にいよいよ危なくなって、一際大きく目が閉じた瞬間、目がしゃきっとして、眠気が一瞬でどこかへ去り、私は知らない道を走っていた。さっきまで左に見えていた海は山に変わり、右側が川になっている。一体ここはどこだと走り続けていると、どうも徳島県に帰ってきているようだ。それでもどこか分からずに走り続けて、ようやく自分がどこにいるか分かった。

 

 私は海沿いの走りやすい道を通らずに、何故か面倒な山越えの道を選んで徳島県に帰っていた。体感的には深く瞬きした一秒にも満たない出来事だった。目がしゃきっとしているからにはたぶん眠っていたのだろう。私は急に恐くなって、路肩の広くなった場所に車を停めると、何かを轢いたりぶつけたりしていないか調べた。どうも無事のようである。

 

私は意識を失いながら運転していた。でも車を運転することができた。たぶんサバを捌くことだってできただろう。体に染み付いた反応が無事にそうさせたのかもしれない。たぶん私が思うに、結果と反応をフィードバックする機能があれば人間に意識を想定しなくてもつつがなく活動はできるように思う(哲学的ゾンビだ)。でも何故か意識は存在する。

 

 糸が切れた人形のようという表現がある。力無く地面にぐにゃっと潰れている恰好。だがむしろ物理的存在としての人間はそうあるべきなのだ。
 

 意識を必要とする場面を考えてみるにそれは物理法則に逆らうときに必要となるみたいだ。眠る時に意識は必要なく、むしろ邪魔である。それとは逆に起き上がるときは(特に寝起きは)強い意思を必要とする。自然に起き上がることはない。

 

 何故意識は物理法則に抗おうとしているのかは分からない。もし私に意識がなければPCを前にだらりと寝そべっているはずだ。こんな文章を書いているのは物理的に異常事態である。

 

冷えた宇宙が、その中にある地球が汗をだらだらにかくほど暑いのも異常事態で、マイナス270℃ぐらいが適温のはずだろう。でもそうじゃない。意識とは根源的に物理法則に反抗して宇宙をホットにさせる働きがあるのかもしれない。


織田信長に寺ごと焼かれた坊さんはこう言ったそうだ。
"心頭滅却すれば火もまた涼し"
どうやら意識がない世界は涼しいものらしい。

心無い人を冷たい人と言い、優しい人は暖かい人と言う。熱い演奏は魂を熱くさせ、凄い小説は心を揺り動かす。振動は摩擦だ。摩擦はエネルギーだ。ビッグバンは偶然の産物かもしれないが、意識的な超爆発の可能性だってある。今日も暑くて夏い日だった。でも宇宙を冷やすなんて狂気の沙汰だ。意識の超新星大爆発で宇宙のバイブスを上げていこうぜ。

 

 

(2015/7/26 牛野小雪 記)

 

 

僕らの四次元宇宙は三次元的に重なっている、三次元的宇宙ガニのついて、ティアドロップの応援1

 

四次元という言葉はたいてい三次元に時間を足した概念のことを言う。でも私は四つ目の次元を意識だと考えてみた。時間を加えれば五次元ってところかな。

 

私の著者ページには甲殻類が嫌いだと書いてある。大人になってからは剥き身を食べられるようになったが、飽くまで“食べられる”ようになっただけであって、“食べたい”わけではない。明日から世界的に禁漁になっても「あっ、そう」と心に波風が起きない気がする。でも、世間的には甲殻類を食べたい人が多いようでけっこうなお値段がしている。昔は一山500円ぐらいで買えると思っていたのに、桁が違うと知って世の中間違っていると思った。

ちなみに世界で一番高い食べ物はチーズケーキで、ワンホール一万円(子供にとって高い物はたいてい一万円だ。100万円にもなると人が何人か死んで、1億円だと戦争が起こる値段)するものだと思い込んでいた。後にその半分より安いと知り、とても衝撃を受けた。たぶん誕生日に出てくるようなケーキでは一番安い。やっぱり世の中間違っていると思った。

 

三次元的には誰が見たってカニはカニだが、ここに意識という四次元要素を加えると、私はかつて甲殻類が食べ物ではない宇宙に存在していて、今は食べられないこともない宇宙に移動したようだ。他の人は甲殻類が食べたい宇宙に存在しているらしい。

とはいえ移動といっても私の体がどこかへワープしたわけではない。ましてや世界の方がどこかへ行ったわけでもない。三次元の世界は変わらずそこにある。変わったのは私の意識だ。

いや、でも主観的に私の意識は変わっていない。私は私のままなので変わったのは、やはり世界の方か(四次元的に)。私はある日突然迷い込んできた。かつて暮らしていた宇宙では甲殻類は食べ物ではなかったが、ここでは食べられる物になっている。

 

超有名人、業界で超活躍している人、超頭の良い人、そういう人たちに対しては“住む世界が違う”という。彼等も同じ大気を吸っているのに何故違う世界なのか。それは文字通り違う意識の世界に住んでいるからなんじゃないかな。実際、同じ日本語を喋っているのに何を言っているかさっぱり理解できない人がいる。“宇宙人”とは違う惑星からきた人という意味で使うが、それぐらい違う。本当に宇宙人だ。

 

意識的距離が月ぐらいならちょっと変わった人、火星ぐらいなら頭がおかしい人で済むが、冥王星ぐらい離れたら病院送りではないだろうか。

 

 

王木亡一朗の『ティアドロップ』は主人公の綾人が精神病棟へ放り込まれるところから話が始まる。精神異常者と看護婦、医師、みんな三次元的には同じ建物に存在しているが、四次元的には別の場所に存在している。

 

精神異常とは何か。四次元的宇宙におけるひとりひとりの精神は惑星であり、その惑星の異常である。太陽に突っ込もうとしていたり、デカイ星が近付きすぎて潮汐力により崩壊しようとしているのなら軌道を外に逸らし、太陽系から離れていこうとしているのならどうにかして引き寄せなければならない。

 

三次元的には人間(猫でもいい)がそこら辺を歩いているが、四次元的な宇宙での住人はたったひとりしかいない。こいつらにも意識があるっぽいぞ? と感じることはできるが、それを確かめることは今のところ不可能だ。この世界に存在しているのは常に自分の意識だけ。他人の意識に触れることができたのは『キミコロ』の新城や『サトラレ』の周囲のいた人達ぐらい。つまり想像の世界でしかありえないってこと。

 

太宰治の人間失格を読んでああだこうだと言ったとしても、三次元的にはただの文字列に過ぎない。でも人はそこに何かしら意味を見出す(中身が空っぽという意味でも)。これが本当の『人間失格』だと侃侃諤諤の議論を戦わせたところで、そこに意味なんてあるんだろうか。何故ならそこに見出した意味は四次元的思考で考えればどれも本当のことであり、たとえ作者が何かしらの意味を込めて書いたとしても、読んだ人が別の意味を見出すことはあってもおかしくはない。言葉を使っている時点で、自分の気持ちをそのままに相手に伝えることは不可能なんだし、そもそも伝わったかどうかを確実に知る術もない。言葉でなんでも説明できるという人は、言葉で説明できない気持ちを知らない人である(まぁ、本気でそう思っている人はいないだろうけど。“言葉で分かるように説明しろ”は、たいてい相手を追い詰める時に使う言葉だ)。大体思い通りに言葉が伝わるなんてのが大きな間違いで、笑わせようと思って言ったことが、大激怒させてしまうことだってある。

 

 三次元的宇宙に存在するカニに本来食える食えないの区別はない。そこに意識の四次元目が加わると食える食えないの区別がつく。もっともカニからすれば“お前達、私を食いものにしてそんなに楽しいか。この人でなしどもめ”と怒っているに違いないだろう。

 

カニを食べるのはみんなで止めにしよう。新潟県はベニズワイガニ。

 

三次元的宇宙は私もこれを読んでいる人も共有しているだろう。きっと同じ文字列を読んでいるはずだ。でもこの文字列を読んでどう感じるかはみな別々なのではないかな。三次元的宇宙は重なり合っているが、四次元的には全然別世界なのである。

 

[2015年7月27日 牛野小雪 記]





言及したもの。

 
ティアドロップ(ライトスタッフ!)/王木亡一朗 現在発売中 250円(2015/7/26 の価格)


 

キミのココロについてボクが知っている二、三の事柄/藤崎ほつま 
現在発売中 無料(2015/7/26 の価格







私達USTはティアドロップを応援しています。
みなさんのご協力に感謝します。

teadrop






記事検索(なんでも単語を入れてみて)
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
このブログはAmazonアソシエイトに参加しています。
Googleアナリティクスでアクセス情報を分析しています。