愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

2015/04

創作ノート 真論君家の猫 チラシのウラ編

前記事ー創作ノート 真論君家の猫

 以下、これを見ながら執筆したチラシの裏篇(ルーズリーフだが)
 創作ノートを見ながら時に書き足し、あるいは削り、そして変更する。

1クロスケが真論君に拾われるまで
 一章ミータンが真論君と出会うまで、2000字で終わらせたかったのだけれど丸々一章使ってしまった。クロスケという名前は後に再利用される。この章を書き終えたときにはもう最後の形はイメージできていた。
mc t1

2ミータンが成猫になるまで
 ミータンがマートンの遺影を見たときに戒名があるのを見るというのがあったが長くなるのでやめた。真論君は禿げないが(小六だし)、ミータンの体毛は禿げてしまう。
mc t2
3ミータンが平成町を旅立つまで
 本来は3章だけ。ミータンが平成町を旅立ってすぐに、大化町の猫又アラーニャンと出会う。でもほんの短い数行にミータンの長旅を書き表せることができなかったので、話を追加した。
 この時はまだ大化町の猫達がアラーニャ、マーニャ、カラマーニャとなっている。
mc t3
4ミータンが猫又のアラーニャンに会い、平成町に帰るまで
 明治町から始まって大化町までの長い旅。ターンワールドに通ずるものがある。というかこれが意外に良かったので、書こうと思った。
 
mc t4
5シラコさんの七変化
 シラコさんの七変化(たぶん七つは無いけど)、各章で最後に語られる不定の世界というわけだ。
mc t5
6最期のミータン+3匹目ムートン
 3匹目ムートンの種が播かれ始める。ミータンの物語は猫又のアラーニャンと出会い、平成町に帰ってきたところで実質終わりだと思うのだが、読んだ人はどう思っただろうか。少なくともミータンという花は枯れ落ちる方向に向かっている。ミータンが死んだ後は、ムートンの芽が出てくる。そこで真論君家の猫は終わり。
mc t6


真論君家の猫の創作ノート

 ターンワールドは本当に余裕がなかったので、『真論君家の猫』の創作ノートを公開できなかった。
 やっとやっとの休息なのでここに公開する。
 画像加工の腕が多少上がったので、写真には書き込みがある。
 その前に撮影の腕を上げろと言われそうだけど。


mc 1

1真論君家の猫の原案
 ルーズリーフ11枚分。間違いなくこれで書けるという確信を持つ。
 元々の話は真論君と虚頓君(まだこのときは名無し)が真論君の部屋でああだこうだと屁理屈をこねるだけの話。
 最期は真論君が虚頓君の妹を妊娠させてしまって、責任を取って結婚する。
 子供が生まれてミータン(この時名無し)が赤ん坊を覗き込み、人間とは生まれたときから猫より大きくて態度がでかいと考える所で話が終わる。


mc 2
2没案にした話
 直接は関係ないのだが、影響はしている。
 5章のシラコさんが死ぬ話は立場が逆転しているが、同じ様な話がある。
 鳥はなじみがないから、猫になったのかもしれない。
 ノートに3枚ぐらいは書いた。ちっとも物にならないのでやめた。


mc3
3真論君家の猫の一生
 真論君と虚頓君のふざけた話がずっと続く。それを猫が見ている。そんな話だった。
 つまりは物語の主人公は実質真論君だったわけだ。
 あの時はこうだった。あれはどうなったと
 部屋でする会話の中で物語が進んでいく。

mc4
4プロットの作り直し
 実を言うと、真論君家の猫を書き始めるまで猫の一生は3、4年と思っていた。
 ネットで調べると野良猫の一生はだいたい3、4年だが、飼い猫は普通に10年単位で生きると知って驚く。
 私の記憶では飼い猫でも3、4年だった気がするが、よくよく考えてみると、昔は(今でもそういう家があるが)飼い猫をその辺に歩かせていたのでエサは家で食べていても、実質は野良と変わらないわけだ。
 高校の頃、友達の猫が5年以上生きていて、まだ生きているのかと内心思っていたけれど、ずっと室内で飼っているならそれぐらいは余裕で生きるのかもしれない。ことによるとまだ息をしている可能性がある。
 さて、原案では3、4年の想定で考えていたので早速予定が狂った。猫の月齢表を見ながら案を考える。


mc5
5.10年スパンで話を考える
 ミータンの寿命を10年にして、一年一万字で話を練り直す。
 真論君が頭髪の薄さを気にして、虚頓君から熱したこんにゃくを頭に載せればハゲが治るという話を真に受け(試したわけじゃないが、たぶん治らないと思う)、両親が不在の間にこんにゃくを鍋で煮て頭に載せるという話があった。猫がそれを食器棚の上から見ている。
 当然こんにゃくは熱過ぎて、真論君は頭からこんにゃくを落とす。落ちたこんにゃくは弾力があるものだから床を跳ねる。それが足に当たった真論君は驚いて足を上げる。まるで踊っているようだった。という落ちだ。ちなみにそのこんにゃくは両親が帰ってくる前に、からしとしょうゆで真論君が食べてしまう。
 この話は形を変えて、ミータン自身が禿げる事になる。こんにゃくは出てこないけれど。

mc6
6特にまだ形はできていない
 まだ全体像はできていない。とにかく色んな案を書いていた。

mc7

7サバトンさんが宇宙の話をする
 ミータンがサバトンさんにこの世界の事について尋ねるのだが、その時に無限の宇宙を語らせようとした。しかしそれは有限の存在である牛野小雪には扱えないものだった。頭がふわふわして気が狂いそうになる。論理ガバガバのドーナツ理論でお茶を濁した。


mc8
8大体の形ができてくる
 今まで書いてきた案をまとめて整えて形になってくる。
 主客転倒して真論君の物語から猫の物語へ。


mc9
9真論君家の周辺地図
 作中では明言されていないが、ミータンが歩いていた場所はほとんどが真論君家の敷地。
 彼は真論君家に根を生やしているわけだ。



mc10

10.3章と4章が合わさったところ
 屋根党員には知識派と遊行派がいるが、作中では知識派しか出てこない。
 では遊行派はどこに? きっとその辺で遊んでいるのだろう。
 この時点では3章でミータンが平成町を出てから、次の章ではすぐにアラーニャンと出会っている。


mc11
11 5章6章
 白紙のときは無限の可能性があるが、書くごとにその幅は狭まってくる。
 可能性が狭まってくると書くことはおのずと決まってくる。

 物語は終わろうとしているのに新しい猫ばかり出てくる。 



mc12
12最期のミータン
 結局ここまできて、蒲生田岬の頃から半年以上書き溜めてきた原案は一つも使われなかった。
 あるとすれば真論君の部屋で4人が語り合うという状況だけ。
 でも、元々似た様なことを考えていただけに、この部分だけはあっという間に書けた。あそこは結構長いが一日の執筆で書きあがっている。その意味では無駄ではなかったのかな。

続くー創作ノート 真論君家の猫 チラシの裏篇


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『ターンワールド上下巻』をリリース

 ついに来ました。『ターンワールド上下』をリリース。
 4/24日~28日まで上巻を無料キャンペーンするので、どうぞよろしくお願いします。
 以下Amazon の内容紹介です。


 

内容紹介

『この世はバラの絨毯が敷き詰められた最悪の世界 
彼はこの世から姿を消すために徳島へ行くことにした』 

この世が最悪の世界と見抜いたタクヤは、 
家を出て河川敷で寝起きするようになる。 
一度は両親に連れ戻されるタクヤであったが、 
今度は両親も知り合いもいない徳島へ姿を消すことにした。 
タクヤは深夜に家を飛び出し夜行バスに乗り、 
一度大阪で乗り継いで徳島を目指したのだが、 
彼の乗ったバスは徳島へ到着しなかった。


内容紹介

『どこもかしこも別世界。入り込める余地は何処にもない 
孤独な彼は世界の外側を歩きながら、世界の終わりを願う』 

徳島県へは到着できず、家に帰ろうにもそこはバナナ県。 
家も目標も失ったタクヤはある老人と共に雨野巡りを始める。 

老人と別れたあと、今度はサナゴウチさんと一緒に旅をするが、 
彼とも突然別れることになった。一人となったタクヤだが、 
そんな彼にまた新たな旅の道連れが現れようとしていた。 

神社に捨てられていた茶トラの猫。 
偶然拾ったその猫は捨てられない猫だった。 
猫を持って歩くタクヤに、さらに旅の道連れが加わる。 
それは異国の異性のケイトさんで、タクヤは猫よりも扱いに困ってしまう。 

『ターンワールド』のリリース記事


[内容紹介]

就職活動に失敗し続け、社会に自分の居場所を見出せないタクヤ。彼は、努力しても報われない現実に苦しみ、自らを「駄目人間」と認めながらも、どこかでその認識を誰かに肯定してほしいと願っていた。現代社会の冷酷さや、運の力が支配する世界に生きる彼が見つめるのは、果たして希望か、絶望か──。

努力すれば必ず報われるという幻想を痛烈に否定し、社会に対する鋭い批判を投げかける哲学的な物語。タクヤの内面に広がる無力感、そして自分自身との葛藤を描いた本作は、現代に生きる私たちに「本当の成功とは何か」を問いかける。

現実の不条理を突きつけ、心を揺さぶる異色の作品。

ターンワールドができるまで

スマホでKindle Unlimitedを楽しむ方法

タクヤと登場人物の関係について

1. ジンジャー(猫)
タクヤの旅の最も象徴的な同行者が猫のジンジャーである。ジンジャーとの出会いは偶然だが、次第にタクヤにとって不可欠な存在となる。当初、ジンジャーはタクヤにとって「負担」であり、旅の障害の一つとして描かれる。彼はジンジャーを捨てようと考えるが、その度に思い直し、結局は面倒を見ることを選ぶ。このプロセスを通じて、タクヤの内面には次第に「責任感」や「他者への愛情」といった感情が芽生える。ジンジャーがいることで、タクヤは自分が完全に孤独ではないこと、誰かのために存在することの意味を理解していく。

2. ケイト・クライン
アメリカから来た女性旅行者・ケイトは、タクヤの旅における重要な人物である。元「シトラスクィーン」という栄光を持ちながらも、人生に満足できずに日本を旅するケイトと、社会に適応できずに彷徨うタクヤは、表面的には異なる背景を持つが、根底では「居場所を探す者同士」という共通点を持っている。二人は言葉や文化の壁を超えて互いに心を開き、時には微妙な緊張感を伴う関係として描かれる。タクヤはケイトの過去を知ることで、彼女もまた「完璧な存在」ではないことを理解し、互いの弱さを認め合う関係へと発展していく。ケイトはタクヤに「他者とつながることの意味」を教え、タクヤはケイトに「誰かに頼ることの重要性」を気付かせる存在となる。

3. サナゴウチさん
タクヤが旅の途中で出会うギターを弾く男・サナゴウチさんは、タクヤにとって「自由人」の象徴である。彼はタクヤに対して軽妙な会話を投げかけ、自分の価値観に縛られない生き方を見せる。借金を抱えながらも楽天的に生きる彼の姿は、タクヤにとって一種の衝撃であり、同時に羨望の対象でもある。サナゴウチさんはタクヤにとって「社会の外でも生きられる」という可能性を示す存在であり、タクヤは彼との交流を通じて「失敗」や「挫折」も人生の一部であることを学ぶ。しかし、彼の無責任さや刹那的な生き方には限界があることもタクヤは気付き、最終的には自分自身のバランスを見つけるための一つの対比としてサナゴウチさんの存在が位置付けられる。

4. まさやん
漁師のまさやんは、タクヤの旅におけるもう一人の重要な人物である。彼は豪放磊落な性格で、気前が良く、タクヤとケイトを助けることも多い。まさやんはタクヤにとって「現実的な強さ」を象徴する存在であり、彼の明るさや包容力はタクヤに安心感を与える。しかし、まさやんの存在はタクヤにとって微妙な感情も呼び起こす。特にケイトとまさやんの関係が親密になっていく過程で、タクヤは「嫉妬」や「孤独感」といった感情に直面することになる。まさやんはタクヤにとって「理想の大人」の一面を持ちながらも、自分にはなれない存在であることを痛感させる存在でもある。

タクヤが求めているもの

タクヤが求めているものは、『TURN WORLD』全体を通じて多層的に描かれており、彼の内面の葛藤と成長が物語の核となっている。彼の求めるものは一言で表すのが難しいが「自己の存在意義の確認」「社会からの逃避と再定義」「他者との関わりの模索」の3つに集約できる。

1. 自己の存在意義の確認
タクヤは社会に適応できない自分を「駄目な人間」と認識している。しかし、その自己認識は単なる自己否定に留まらず、「自分がなぜこうなったのか」「この世界に自分の居場所はあるのか」という問いに繋がっている。彼は社会の中での役割や成功を求めているわけではなく、むしろ「何も役割を持たなくてもいい世界」を夢見ている。これは、自己の存在そのものを肯定してくれる何かを無意識のうちに求めていることを意味している。

ジンジャー(猫)との関係は、この「存在意義の確認」の一つの象徴である。ジンジャーの世話をすることで、タクヤは自分が「誰かの役に立つ存在」であることを実感し、少しずつ自己の存在を肯定していくようになる。ジンジャーは彼にとって単なるペットではなく、タクヤ自身が生きる意味を見つけるための媒介であり、彼の成長の象徴でもある。

2. 社会からの逃避と再定義
タクヤの旅は、社会からの逃避であり、同時に自分自身を再定義するための旅でもある。彼は「この世界を終わらせたい」と願いながらも、その一方で新しい価値観や生き方を探している。社会の規範や期待に縛られることなく、自分自身の価値基準で生きることを模索しているのだ。

旅の途中で出会う様々な人々—例えば、ケイトやサナゴウチさん、まさやん—は、タクヤに異なる生き方の可能性を示してくれる。ケイトは過去の栄光に縛られながらも新たな人生を求めており、サナゴウチさんは社会の枠外で自由に生きる姿を見せる。これらの出会いを通じて、タクヤは自分なりの生き方を見つけるヒントを得るが、それは必ずしも簡単な道ではない。彼は常に「逃げること」と「向き合うこと」の狭間で葛藤している。

3. 他者との関わりの模索
タクヤは基本的に孤独を好む人物だが、完全な孤立を望んでいるわけではない。彼は他者との関わりにおいて「自分を受け入れてくれる存在」を求めている。ケイトとの関係はその典型で、異国の女性である彼女と心を通わせることで、タクヤは「他者との理解」が可能であることを学ぶ。ケイトとの旅は、タクヤにとって「自分が他者とどう関わるべきか」を探る機会となっている。

一方で、タクヤは他者との関係においてしばしば「依存」と「自立」のバランスに悩む。ミワとの関係では、この問題が顕著に表れる。ミワとの依存的な関係が崩壊することで、タクヤは「他者に依存し過ぎること」の危険性を理解し、同時に「孤立しすぎること」の空虚さも痛感する。この二重の学びを通じて、タクヤは「適度な距離感」を持った人間関係の重要性に気付いていく。

最終的にタクヤが求めているのは、「自分自身を受け入れること」と「他者と関わりながらも自立した存在であること」の両立である。彼の旅は、社会の外で自己を見つける試みであり、同時に他者との関係を通じて自分を再発見するプロセスでもある。タクヤの葛藤と成長は現代社会における「生きづらさ」や「孤独」といったテーマを深く掘り下げるものであり、多くの読者が共感を覚える部分でもあるだろう。

『TURN WORLD』のモチーフについて

 本作『TURN WORLD』は、現代社会に対する強烈な批評性を持ちながら、人生の迷いや人間の本質を探求する物語である。そのモチーフを紐解くことで、本作が持つ深いテーマや背景を理解することができる。

 まず、本作の主なモチーフの一つに「社会の不適合者」というテーマがある。主人公・タクヤは、社会に適応できず、働くことにも生きることにも意味を見出せない青年として描かれる。彼は自分を「駄目な人間」と認識しながらも、その境遇に完全に甘んじるわけではなく、世の中の理不尽さや欺瞞を冷徹に見つめている。この姿勢は、ショーペンハウアーやニーチェの哲学にも通じる「世界の不条理」との対峙の構図を彷彿とさせる。タクヤが旅をすることは、現実世界に対する彼なりの反抗であり、逃避であり、また新たな価値を見出そうとする試みでもある。

 また、「社会からの逸脱と新たな共同体の形成」も本作の重要なモチーフの一つだ。タクヤは旅の途中で様々な人々と出会う。例えば、野宿をしている人々や、社会の枠組みから外れた生活を送る者たち。彼らはそれぞれが社会から排除されながらも、独自の価値観を持ち、助け合いながら生きている。これらの出会いは、社会の基準では「敗者」とされる人々が、別の価値観のもとで生きる可能性を示唆している。これは、既存の社会制度や資本主義の枠組みを批判する視点とも結びつき、現代の「生きづらさ」を浮き彫りにしている。

 本作の最も根幹にあるモチーフは「世界の終焉」と「再生」だ。タクヤは旅の途中で「この世界を終わらせる」という願いを抱く。しかし、それは単なる破壊衝動ではなく、今の世界に対する深い失望と、新たな世界への希求である。本作では、社会のルールや価値観に縛られた世界が否定される一方で、旅を通じて出会う人々や、タクヤの内面に生じる変化が、新たな世界の可能性を示唆している。この「終わりと始まり」という循環構造こそが、『TURN WORLD』というタイトルの意味にも繋がっているのかもしれない。


他の小説と何が違うか
 主人公タクヤの視点を通じて、現代社会における無力感や疎外感をリアルに描いています。この物語は、タクヤが感じる社会の不条理や理不尽さを深く掘り下げ、個々人の努力や才能が必ずしも報われないという現実を強く描写しています。多くの物語では、努力や信念が最終的には報われる展開が期待されがちですが、この小説では、努力だけではどうにもならない「運」の要素を重視しており、努力至上主義に対する鋭い批判が込められています。

 さらに、物語の舞台設定が、非常に具体的かつ日常的なものです。タクヤの日常は、就職活動の失敗や家庭内の微妙な緊張感、社会からの疎外感に満ちていますが、これらは多くの人々が共感できる現実的な悩みであり、物語全体が極めて現実的であると同時に、心理的な重みを持っています。特に、河川敷や電車といった身近な場所が物語の中心となり、幻想的な逃避がほとんど存在しないため、読者に対して「これは自分の話かもしれない」という錯覚を与えます。

 また、この物語はタクヤの内面の葛藤を中心に描かれている点でも特徴的です。多くの作品では、外部の敵や問題が主人公に挑戦を与える形が主流ですが、ここでは、タクヤ自身が最も大きな敵であり、彼が自分自身と向き合い、自己嫌悪や無力感と戦う様子が描かれています。この内面的な戦いは、読み手に深い感情的な共感を呼び起こすだけでなく、現代社会における自己認識や承認欲求、社会的な役割に対する考察を促します。

 さらに、物語の哲学的な要素も大きな違いです。例えば、物語中に登場する「この世の平等思想には根本的な間違いがある」という言葉は、単なるフィクションの枠を超えて、社会に対する批評や疑問を提起しています。読者に「平等とは何か」「努力とは何か」「成功とは何か」という問いを投げかけ、答えを見つけるよう促します。

 他の物語と比較して、エンターテインメント性よりも、現代社会に対する鋭い洞察と、内面的な苦悩を描くことに重きを置いた作品である点が「ターンワールド」の独自性を際立たせています。



試し読み

1 BAD WORLD


1 最悪の世界


 この世は最悪だ。

 証拠品A、B、C、D・・・・・。

 そこにまたひとつ証拠が積みあがる。

 朝から嫌な物を見た。タクヤは不採用通知を机の引き出しにしまった。同じような封筒は引き出しからあふれそうになっている。

 自分が駄目人間ということは分かっている。だからといってそれを誰とも共有したくはないし、話したくもない。しかし駄目な人間だと認めて欲しいという気持ちもまたある。

 最近タクヤが考えることは誰もが認める権威のある人からこう言い渡されることだ。

『君は人間的には悪くない人間だ。でも社会的には駄目だね。おっと、何もかもが駄目ってわけじゃない。ただ社会的有用性という意味においては劣等だ。悪いのは君じゃない。君だって駄目人間になりたかったわけじゃない。でもこればっかりは巡り合わせだからしょうがない。世間では誰にでも無限の可能性があって、努力すれば何にでもなれるなんて嘘を吐くけれど、それを言う本人がどれだけ努力しても100メートルを9秒で走ることはできないし、永久機関を作って人類のエネルギー問題を解決することもできない。もって生まれた才能が誰にでもあるのさ。だけど連中は才能というものを認めても、努力すればそれなりにできるようになるなんて苦しい言い訳を続ける。だけど高い才能があるなら低い才能もあるわけで、人は才能以上の事はできない。世の中には100メートルを100秒で走る才能もあれば、エネルギーを無限に消費するだけの才能もある。君には社会を駄目にする才能があるようだ。だから社会へ出るのは止めてくれ。これはもう社会貢献だよ』

 世界が自分の事を駄目な人間だと認めてくれて、何の役割も持たないでいることが許されている世界。むしろそんな世界でならタクヤは100メートルを9秒で走り、人類史上誰も成し遂げられなかった大発明もできるような気がした。

 しかしこの世は誰でも努力すれば人並みの人間になれるとされているので普通になれないのは努力していない、さぼっていることの証明にされてしまう。こんなに苦しいことはない。翼もないのに崖から飛べと背中を押されたり、エラがないのに海に潜れと急かされている。誰がそうしているのか。それは姿を持っていない。しかし、幽霊よりも確かな存在感でタクヤを急き立てる。

2 身近な別世界


 講義が終わるとタクヤは誰とも言葉を交わさずに大学を出た。

 駅に着くとちょうど電車が来た。昼間の電車は人が少なく、がらんとしている。タクヤが席に座ると電車が走り始めた。

 カタンコトンと体を揺られていると河川敷が見えてきた。大きい川なので河川敷も広い。河川敷には丈の高い草に埋もれるように木の板やブルーシートでできた屋根がいくつもある。この河川敷が自分の行き着く場所になるだろうとタクヤは予感していた。

 電車はすぐに川を越えて、窓から見えるのは店や家の裏側ばかりになった。

 実はさっき見た河川敷ではなく、もう少し上流にある大きな古い橋へ行こうとタクヤは考えていた。その橋の下なら、電車が近くを通ることもなく、雨や太陽をしのぐことができる。それに人通りも少なく、知り合いに見られることもないだろう。

 タクヤは家に帰るとベッドに倒れこんだ。そうして何もしないうちに時間が経った。何かしなくてはならないと気持ちが焦ったが、そのまま夜になり、何もしないまま夜が過ぎた。

3 暴かれたこの世の真実


 朝起きて下に降りると父がいて、朝ごはんと弁当を作っていた。珍しく早起きしたタクヤを見て「お」と声を出す。

 タクヤは父の脇でパンをトースターに入れた。二人とも何も話さなかった。息の詰まる雰囲気が続いた。

 結局、父が家を出るまで何も話さなかった。

「父さん、もう仕事に行った?」

 父が家を出ると母が起きてきてタクヤに訊いた。

「行ったよ」

 タクヤが答えると母の関心はすぐにタクヤに移った。

「大学は?」

「休み」

「休んでばかりね」

「講義なんてもうほとんどないよ」

「卒業してもそんなんじゃ嫌だからね」

 タクヤは逃げるように部屋のベッドに倒れこんだ。あっという間に昼になった。

 見果てぬ冷たい砂漠にただ一人、何も持たされずに立たされている気分がする。棒を立てれば倒れてしまい、種を蒔けばその場で凍ってしまう不毛の大地。水のない乾いた場所。それでいて水の中にいるような息苦しさがある。

 若さには無限の可能性があるなんて真っ赤な嘘で、その人が持つ資質、才能、環境で可能性は限られている。努力が足りないなんて言葉は努力している人を侮辱している。いや、この世の誰もが自分の資質、才能、環境で努力している。社会はその結果しか見ない。成功すれば努力のおかげ、失敗すれば努力が足りなかったとされる。

 この考え方には根本的な間違いがある。誰もが平等だということだ。

 生まれた時点で体重の差があり、病院の差があり、健康の差がある。赤ちゃんは裸で生まれてこない。見えない産着に包まれて生まれてくる。生まれてからも親の差があり、環境の差があり、運というものまで絡んでくる。

 この世の平等思想は出発点で誰もが同じスタートラインで始まることを根拠にしていて、なおかつ同じコースを走ることが想定されている。でも実際はリムジンの厚いシートに座りながら真っ平らな道を走り抜ける人もいれば、両足を切り落とされた上に鉛を背負わせられて坂道を這わなければならない人もいる。

 一番腹が立つのは歩く歩道を走っている人だ。リムジンに乗っている人はかえって自分の恵まれた環境を自覚しているが、こういう人は『俺は努力したからここまで走ることができた』という自尊心を持っている。それだけならまだ良いが、こういう人は他の人にも自分と同じだけの距離を走らせようとする。できないのは全力を出していないからだと非難する。

 彼が努力したのは真実だろう。しかしそれは片手落ちの真実で、足元が歩く歩道だったからこそ彼はそこまで走ることができたのだ。

 努力したから成功したというのは傲慢でしかない。それよりは努力では手に入らない運や才能を認めることによってこそ、成功の価値が出てくる。

 タクヤはどれだけ鍛錬しても100メートルを9秒で走れない。だからこそ100メートル9秒で走ることは素晴らしい。これが100メートル100秒なら話にもならない。

 この世で起きる出来事は運と才能に左右される。いや、才能も自分で選べないから究極的には運の一点に集約される。

 正直なところ、他の誰かがタクヤと同じ人生を送っていれば、ここまで生きてこられなかっただろう。タクヤは他人の五倍はがんばっている。もしこの世の努力が全て報われるなら、今頃タクヤは世界総理大臣になっていなければおかしい。

 全ては努力×運のかけ算で成り立っている。これは努力すればなんとかなるという意味ではなく、運が0ならどれだけがんばっても0ということだ。

 運の数値1を人並みとするなら、運の数値が0・5なら人の二倍努力してやっと人並み。しかし体は一人に一つ、人の倍努力することなど不可能だ。

 タクヤは自分の運が0だとは思わないが、0・000……と0がいくつか続いた後にやっと6がつくぐらいの運しかないだろう。人並みになるには生身で空を飛ぶぐらいの努力をしなければならない。つまり不可能ということだ。

 これ以上考えは広がらないので、ここがゴール。この世の真実だ。

4 幸運の誤謬


 父が帰ってくると一緒に夕飯を食べた。できれば一緒に食べたくないが、外で食べる金もなければ気力もない。早く食べて部屋に戻ろうと考えていた。

 タクヤは飲み込むように夕飯を食べて、まだ熱いお茶を吹いて冷ましていた。両親はまだ食べている最中だったが突然食卓に張り詰めたような静けさが広がった。

 ほどなく父が口を開いた。

「就職は決まったか?」

「ううん、まだ」とタクヤは答えた。

「この時期に決まらないなんてこともあるんだな。選り好みしていたら入れるところも入れないぞ」

「うん」

「真剣にやっているのか?」

「やってる」

「不況だなんだといっても全員が駄目ってわけじゃない。ほとんどの人は職を見つけて卒業するんだから、お前だってどこかに入れるはずだ」

 まだ熱いお茶を一気に飲むとのどが焼けた。タクヤは席を立った。

 タクヤは部屋に戻ると運が良い人の特徴をネットで調べた。

 いつも笑顔の人、積極的な人。どのサイトも同じようなことが書いてあった。

 馬鹿かとタクヤは心の中で叫んだ。金持ちが大きな家に住んでいるから、大きな家に住めば金持ちになるということぐらいおかしな話だ。普通の人が同じことをすれば破産するだけだし、そもそも大きな家を建てることすらできない。金持ちが大きな家に住んでいるのは金を持っているからで、運の良い人がいつも笑顔で積極的なのも運がいいからだ。やることなすことうまくいけば誰だってそうなる。

 玄関の郵便受けがカタンと鳴った。タクヤが玄関へ行くと茶封筒が一つ郵便受けに挟まっていた。封筒はタクヤ宛てだ。差出人の会社をタクヤは憶えていた。

 駅裏にある小さなビルの四階。従業員は七人。面接に行った時は三人しか姿が見えなかった。面接を受けたのはタクヤ一人だけで社長が直々に出てきた。仕切りを立てただけの応接間で低いテーブル越しに対面した。社長は目が鋭くて、顔には巻き毛のヒゲがびっしりと生えていた。面接が終わるとお互い冷めたお茶を一気に飲み干し、社長が「ぬるいな」と言って笑った。

 タクヤは部屋に戻ると封筒を手で破り中の紙を広げた。

「誰から?」

 部屋の外で母の声がした。

「受かったみたい」とタクヤは言った。

「何?」

「よく分からないけれど受かったみたい」

「どういうこと?」

 母が部屋のドアを開けて入ってきた。タクヤは持っていた紙を母に渡した。母は一度下まで目を通してからまた上に目を戻した。

「ふ~ん、良かったね」と母は採用通知を返した。

 タクヤはそれを封筒に戻すと机の引き出しに入れたが、やっぱりまた机から出して机の上に広げた。

5 ああ、素晴らしき世界


 まぶたが意志を持って開いているようだった。息を吸うと清らかな水が手足に満ちていくようで自然と体を動かしたくなった。

 下へ降りると父が朝ごはんと自分の弁当を作っていた。

「おはよう」とタクヤは父に声をかけると、パンをトースターに入れた。それから父とは何も話さなかったが、そこにいるだけでみずみずしい幸せを感じた。

 世界は素晴らしい。この世は誰もが幸せになるために生まれてきた。幸せはいつもすぐそこにある。心を開けばその瞬間に幸せになれるのだ。

 父は朝食も着替えも済ませると、家を出るまでニュースを見ていた。二人は何も話さなかったが、父は出際に「学生は気安いな」と言った。

 タクヤは部屋に戻ると服に着替えた。それだけで体の底から幸せを感じた。何故この世はこんなにも素晴らしいのか、今この瞬間を切り取って永遠に時を止めてしまいたかった。

 世界は変わった。空の限りない青さを感じ、太陽から降り注ぐ光線がはっきりと見えた。それら全てが相互に影響し合って世界を幸せにしている。この素晴らしい世界は今までどこに隠れていたのか。いや、世界はずっとここにあった。タクヤは自分から目と耳を閉じていただけだ。

 大学へ行くとワタナベ君が前を歩いていた。彼とは仲が良かったが、最近はタクヤから彼を避けていたし、彼もタクヤを避けていたので、ほとんど話すことはなかった。

 タクヤは足早に近付き、彼の丸くなった背中を叩いた。

「よっ、おはよう」

 予想外に大きな声が出てタクヤは驚いた。ワタナベ君も目を丸くしていた。

「あ、あぁ。おはよう。ビックリした」

 ワタナベ君の声は小さく、タクヤに届けるのがやっとという感じだった。昨日までのタクヤもこうだったのだろう。

「最近どう?」とタクヤは言った。

「まあまあだよ」

「就職活動とかどうしてる?」

「まあ、やってる」

「僕は内定が出た」

 ワタナベ君が眉を上げた。

「へえ、どこ?」

 タクヤは昨日内定が出た会社の名前を言った。

「やったね。就職活動はまだ続ける?」

「もっといい場所が見つかるかもしれないからね」

「やった方がいいよ。選択肢はたくさんあった方がいいから。それにしても良かった。おめでとう」

「うん。がんばっていれば必ず結果はついてくるよ」

 ワタナベ君はまだ内定を取っていない。彼の様子を見れば聞かなくても分かった。タクヤはどうすれば彼を幸せにできるか考えたが、答えは出せなかった。

 家に帰ったタクヤはベッドに横たわると、あの会社で働く自分の姿を想像した。タクヤは慌しい事務所で電話を片手に何かの書類を見ている。初めは頼りなくぎこちないが仕事を覚えていくうちに有能な働き手となり会社を引っ張っていく。それで大きな自社ビルを建てて、その頃には社長のヒゲも白くなっていて、壁に貼られた値札に『時価』と書いてある寿司屋で社長と酒でも飲みながら『この会社がここまで大きくなれたのは君のおかげだ』なんて言われる。そんなことを考えていたのにタクヤは別の会社に電話をかけていた。一度落ちた会社だがまだ募集していないか訊いた。すると話を聞いてもいいということになり、いきなり面接の日取りが決まった。

 二日後に面接だった。日常業務の合間に面接の時間を作ったという感じで慌しかったが反応は悪くなかった。その結果が出る前にまた別の会社の面接を受けた。

 この世は門を叩けば開かれる。世界は正面からぶつかっていけば受け止めてくれるのだ。世界にはバラ色の絨毯が敷かれている。
 
(↓続きはこちらから)

ターンワールドができるまで

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ターンワールドができるまで

ターンワールド 進捗状況vol.1
2014/12/23

 今回はかなり遅筆。なかなか進まない。『ターンワールド』というものを書いている。今回も長編でやっと物語の滑り出しまできた。前作のペースなら今頃初稿ができているはずだが、まだ半分も書けていない。創作ノートで全体像を見直した。これは火星の話と一緒だ。世界観は違うけれど、やることは同じようなこと。筋運びも同じだから、結末もやはり同じようなエンドだ。

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準備万端で勝負できる時はない。いつだって手持ちのカードで戦うしかないのさ、ひゃっほう!

表紙って難しい。/Category of Happiness 幸せのカテゴリー
 
 ↑の記事で鈴木成一という装丁家がいることを知りました。というよりも装丁家という言葉自体を初めて知った。
 考えてみれば、本というのは文字だけでできているのではなく、文字を印刷する紙から、表紙から、帯に至るまで(思い付くのはここまで!専門的な本を読もうとしたが、あまりにも細かすぎて速攻ギブしてしまった。)、誰かが考えて作っているわけで、鈴木成一さんとはまさにその人のことである。
 
 改稿しながら表紙も考えている私にはタイムリーなお話。早速図書館で彼の本を借りたのだが、凄ぇ、凄ぇと読んでいるうちに最後のページまで読んでしまった。
 言っていることは頭に入ってきたが、真似できそうな物はなにひとつない。きっとスキルが地面すれすれの低空飛行しているせいだろう。
 フォトショップを使って画像を加工をしているんだけれど、ああ、あれどうやるんだろう。たぶんどうにかしたらできるんだろうなと思うことがいくつかあった。

 本文よりも彼自身の本の装丁から学ぶものが多くあった。
 表紙の縁取りはパクれとても参考になる。絵がきゅっと引き締まった。



現代美術品最高額8690万ドルで落札 マーク・ロスコとは?  

 本格的な絵画は難しいけれど、抽象画なら素人でも描ける。いや、本当にそう思っていました。抽象画家の皆さん本当に申し訳ない。なめていました。
 ↑の記事にある抽象画。これなら私でも描ける! と思って描き始めたのですが全然ダメですね。本当にひどい物しかかけない。
 正直、上記のマーク・ロスコさんの絵は何が良いのかさっぱり分からないのですが、自分の書いたものと比べると明らかに彼の方が良いと分かるのだから凄いです。なんでやねんとツッコミたくなります。Amazonで彼の絵のポスターが売っていました。←?

 精緻な線、配色、デザインは無理。抽象画も無理。かといって性能の良いカメラも、それを扱う技術もなし。フォトショの加工技術も素人。
 でも、手持ちのカードで勝負するしかないのさ。達人になるまで待っていたら何もできない。
 と、思って表紙作成に励んでいたらどんどん違う方向へ行った。ほぼ完成間近と思っていたのに。
 マーク・ロスコさんの絵をパクろう見てから、アイデアがどんどん湧いてきた。書く度に新しいアイデアを思い付いて、書いては消しての繰り返しだった。恐るべしマーク・ロスコ。

 人に見せられるぐらいになってきたのではないか思うし、アイデアも出てこなくなった。細かい変更はあっても恐らくこれが完成に近い物だろう。こんな物になって自分でもびっくりした。ちょっと嬉しい。

blog cover 上 5-3
blog cover 下 3-6
blog cover 上下 3-8

以下、以前の物

blog cover 上 1
blog cover 下
blog cover 上下2




『成人月歩/牛野小雪』


  フミヒト(文人)はバックパックの中を確かめた。ここ数日何度もやってきたことだ。今まで荷物を足したり減らしたりしていたが、今ではそれも無くなった。三日前からバックパックを背負って一日中近所を歩いた。それを見た近所の人や知らない人からがんばれよと声をかけてくれた。一言だけならこちらも頭を軽く下げるだけだが、散歩中のじいさんが彼を呼び止めて話を始めた時には参った。
 
 初めは月の歩き方を教えてくれるのかと思っていたが、そんな話は最初だけで彼自身の人生哲学とそれを活かしてどれだけ自分が立派に生きてきたかの自慢話が始まった。歩くだけでもよぼよぼだったのに、話をしている最中はほとんど息継ぎもせず一時間近く立ちっ放しで喋り続けた。自慢話が終わると今度は今の若い奴がいかにだらしないかの話に変わって、フミヒトが知らない人を口汚く罵っていた。一人の話が終わると『なあ、あんただって、そう思うだろう? そりゃそうだ。誰だってそう思う。俺は寛容なぐらいだ』と同意を求める言葉を挟んだ。しかし、フミヒトがそうだとも違うとも答える前に話は次の人に移るのだった。

 結局、その人は二時間近く話をしてフミヒトから離れた。足取りはよぼよぼだったが、どことなく溌剌とした勢いがあった。それとは逆にフミヒトは二時間立ちっ放しだったので、膝の軟骨がぺしゃんこに潰れてしまったように感じた。バックパックを背負っていたのでなおさらだ。歩くより体の負担が大きいと思った。老人よりもよぼよぼとした歩みで近くのベンチに腰を降ろすと、一時間近く足を休めた。

 二日目からは多分バックパックを背負って一日中歩けるだろうと分かってきた。三日試したのは念のためだ。

 もう一度バックパックの中身を確認する。荷物の量は個人に任されている。多くの荷物を持てばそれだけ重くなり、歩みは遅く日数もかかる。荷物を少なくすれば反対に歩みは速く短い日数で事が終わる。

 これから三日後に彼はムーンシティを出て、アルテミス山に一人で登らなければならない。15歳になれば誰もがすることだ。いつから始まったのかも分からない成人の儀式で、父も祖父も、そのまた曽祖父もみんな15歳になるとアルテミス山に登った。先祖に例を辿らなくても、同級生のレツヒト君は誕生日が早かったので、学年の初めにやはり登った。彼は自信があったので少ない荷物を担いで、短い日数で帰ってきた。また親友のマサヒト君は大きな荷物を担いで、長い日数をかけて戻ってきた。あまりに長い時間戻ってこないので彼は死んでしまったのではないかとフミヒトは恐くなったものだ。彼の両親もまた心配していたようで、シティのゲートでマサヒト君を待っていると、毎日彼の両親の姿を見つけた。

 成人の儀式で死んだ子もいるらしい。毎年そんな話を聞く。ただ、本当に死んだ子の話をフミヒトは聞いた事がなかった。同級生の誰も知らなかったし、父も知らなかった。ただ祖父の同級生が一人運悪く隕石にぶつかって死んだということがあるらしい。データベースを検索してみたが、本当のことか分からなかった。

 隕石に限らず成人の儀式で死んだ噂はいくつある。テントの生地が破れて死んだ。空気の残量が足りなくてドームを見ながら死んでいった。アルテミス山の頂上は重力が弱く、そこから宇宙へ飛んでいってしまい月に戻れなくなった。中には宇宙の闇からやってきた大きな化け物に襲われて死んだという怪しげな噂もあった。もしくはUFOに攫われたとか。どれも本当のことか分からないということだけが共通している。

 アルテミス山は見ようと思えばいつでも見る事ができる。ムーンシティの端へ行けば、月の砂漠のその向こうにそびえたつギザギザの山。それがアルテミス山だ。そびえたつというと大げさだが、実際はドームの頂上より少し高いくらいらしい。らしいというのは実際に登った事がないからで、教科書やデータベースに載っているデータを元にフミヒトが想像したことだ。でも、他の人に聞いた話を考えると、そう間違ってはいないと予想はしていた。

 担いでいく荷物を確認する。多分使わないであろうと思える物がいくつかある。でももしかしたらと頭がよぎる。だれかに相談することはできない。荷物を決めるのも儀式の一つだからだ。2週間前、うかつに父に訊いてしまったことがあるが、父はそれを優しく諌めただけだ。ただ答えられるなら答えたいという複雑な顔はしていた。

 母は直接言葉にはしないが、とにかく荷物を持たせたがった。フミヒトも初めはそうしたが、そうすると荷物が重たくなりすぎるので、途中からは減らし始めた。それでも減らしきれない物がいくつも残った。時にはバックパックから減らしたこともあるが、日が変わるより先にそれは元に戻った。減らしきれない無駄な荷物は自分の不安なのだと分かってきた。分かったからといって減らす事はできない。結局は担いでいくことにした。

 それから出発の日までは体を休めることにした。するのは荷物とアルテミス山までの道程を確認すること。成人の儀式があるからといって学校が休みになることはなく、いつも通りに出席した。ただし、宿題はしなくても特に怒られる事はない。制度として決まっているわけではないが、慣習として大目に見られていた。噂ではテストで悪い点を取っても成績には響かないらしい。こんな時に宿題をする馬鹿はいない。先例に倣ってフミヒトも学校へ行くだけで宿題は一切しなかった。学校から帰るとベッドで横になり頭の中で月の砂漠を歩いたり、アルテミス山に登ったりを繰り返していた。

 やがてフミヒト15歳の日になった。今日はまだ太陽が出ない時間からベッドを出て服に着替えた。両親も静かに起き出して部屋を出たり入ったりした。特に何かを放したわけではない。朝食を食べて、朝のニュースを少し見て、普段は読まない新聞の見出しを端から端まで読むと、フミヒトが決めた出発の時間になった。ザックを背負って玄関へ行く。フミヒトは言った。「それじゃあ、ちょっと行ってくる」

 父は居間で新聞を読みながら座っていた。母は玄関の外まで出てフミヒトを見送った。ここはまだドームの中だが、すでに儀式は始まっているのだとフミヒトは思った。

 一時間ほど歩くとムーンシティのゲートまで来た。マサヒト君がそこにはいた。彼は軽く手を上げただけで何も言わなかった。フミヒトも手を返して口には笑みを浮かべた。

 すぐに彼を通り過ぎて、ゲートの中に入った。そこにいる警備員に生徒手帳とドーム外活動許可証を提示した。彼は軽く目を通しただけですぐにゲートの先に促した。そこにはもう一人成人の儀式を受ける子がいてフミヒトより大荷物だった。彼は既に宇宙服を着込んでいて、何か話しかけられる状態ではなかったが、フミヒトは彼に笑みを投げかけた。彼の方でもヘルメット越しに笑みを返してきたが、固い笑みだった。もしかすると自分もそんな顔をしているのかもしれない。

 シティドームと外の間にある気圧調整室の中でフミヒトは宇宙服を半分だけ着た。ゲートが開くまでは時間がまだまだあるのだ。それでいえばもう一人は少し気が早すぎると思った。

 それでも時間はあっという間に過ぎて、すぐにゲートが開く時間になった。その頃にはフミヒトも宇宙服を着終えていた。

 ゲートが開いた。そこには黒い空に灰色の砂漠が広がっていた。さらにその先でアルテミス山が黒い空をギザギザに切り取っている。

 フミヒトから灰色の砂漠に一歩を踏み出す。砂埃が膝の下まで舞った。すぐにもう一人も砂漠へ出てきた。少し歩くと後ろの方で振動を感じて、二人とも振り向くと、ちょうどゲートが閉まったところだった。

  もう一人の方が顔を戻したが泣きそうな目をしていた。フミヒトもあと一つ何かあれば泣いてしまうかもしれないぐらい胸の動揺を感じていた。すぐに顔を前に戻して歩き始める。

 初めはもう一人の子と一緒に歩いていたが、すぐに引き離してしまった。歩く速さが違いすぎるのだ。体格ではそれほど変わらないが、荷物の差がここで出てきた。先を歩いているからといって、心に余裕が出たわけではない。むしろその逆で、もしかすると自分は荷物を軽くするために何か大事な物を忘れているのではないかと常に不安になった。

 白い太陽に照らされながら灰色の砂漠を歩き続けた。目の前のアルテミス山はいつ見ても同じ大きさに見えた。不安になり後ろを振り向くと、小さくなったムーンシティが見えたので、確かに前に進んでいると感じる事ができた。小さく揺れ動く点はもう一人の子だろう。

 太陽が真上を通り越して山に近付いた頃、フミヒトはザックを降ろして圧縮テントを地面に置いた。ボタンを押すと中の装置が働いてテントが膨らんできた。その間、フミヒトは歩いてきた砂漠を振り返り、すでに設営されたオレンジ色のテントを見た。自分は遅いのかもしれないとまた不安になった。フミヒトのテントは蛍光色のグリーンだ。そのテントが出来上がったので彼は中に入った。気圧調整室で一時間ほど過ごし居住スペースに入る。ザックを降ろし、宇宙服を脱ぐと、やっと気分が落ち着いてきた。

 携帯宇宙食を出して食べた。不味くはないが美味くもない。それでも腹がふくれるまで食べていた。こんなものを腹一杯に食べるなんて昨日までは想像も出来なかったが、実際に来てみるとその通りだった。もう一人の子も今頃は腹一杯に携帯宇宙食を食べているんだろうかと考えていた。

 新品の宇宙テントは化学繊維の冷たいにおいがする。そこに寝袋を敷いて中に潜ったがなかなか眠れなかった。出発するまで宿題をわざとしなかったこと。新聞を読んでいた父の頭、玄関まで見送りに出た母の手、ゲートで待っていたマサヒト君などが頭に短く浮かんではすぐに消えた。それが何度も続いた。

 夜の間、それがずっと続いて疲れが取れないまま朝になった。携帯宇宙食を食べると宇宙服を着て外に出た。テントのボタンを押すと、中の空気が圧縮されて40センチ四方の大きさまで縮んだ。それをザックの下にストラップで縛り付けた。荷物の中ではこれが一番重い。背負う前と後ではっきりと重さが分かった。

 また歩き続けた。後ろの子はしばらく目をこらさなければ見つけられないほど離してしまった。ムーンシティも気を抜いていると風景に紛れるほど小さくなった。アルテミス山はやはり同じ大きさに見える。

 太陽が沈む前にテントを張った。今日は後ろの子は見えなかった。体には二日分の疲れが溜まっていた。

 テントの中で宇宙食を食べて寝袋の中に潜り込む。相変わらず眠れなかった。頭に浮かぶのは過去の事ばかりで、不思議と将来のことは浮かんでこないと気付いた。公園の噴水に頭から落ちたこと、父のライターを勝手に持ち出してマサヒト君と一緒に新聞紙を燃やしたこと、自転車でムーンシティの端から端まで行こうとして半日でやめたことを思い出す。

 また眠れない夜を過ごして朝になった。昨日よりは体の疲れが抜けた気がする。それでも一昨日の分の疲れはそのままだし、昨日の疲れも半分は残っていると感じた。まだ山にも着いていないのに大丈夫だろうかと不安になった。

 三日目にようやくアルテミス山の麓に着いた。足元が詰まって壁にぶつかったようだった。それでふと上を見上げると山の麓だった。突然現れたように感じた。少し登って平らな部分があったのでそこにテントを張った。

 テントの中でザックの中身を広げると、やはり必要なかったと思える物がある。次の日の朝はそれをその場に置いて先に進むことにした。どの道帰りは同じ道を歩くつもりだ。荷物を置いた分だけ歩みは速くなった。山を登り始めて三日目にまた荷物を減らした。

 四日目にはテントを置いて出発した。頂上は見える位置に来ていたし、GPS上でも半日かからずに着く場所だ。

 宇宙服と僅かな荷物だけで山を登った。今までで一番足取りが軽かった。予想より早く頂上に着いた。 頂上にはアルテミスの神殿があって、そこにある端末にフミヒトの情報が入ったカードを差し込む。端末の画面が変わって『登頂完了』の4文字が出た。

 フミヒトは息を吐いた。これであとは帰るだけだ。

 彼は下山する前に神殿の階段に腰を降ろした。神殿は頂上にあるので遠い場所にある丸いムーンシティの光がはっきりと見えた。それと灰色の月の砂漠。ゲートから見た砂漠はとてつもなく広く見えたが、今は歩き通せないこともないと思えた。実際に歩いてきたのだから。

 目を上に向けると白い地球が見えた。フミヒトは地球へ行った事がないが、そこでは月と違って、石英の白い砂漠がどこまでも広がっているらしい。赤道上に点々とある黒い点は太陽光発電のパネルで、そこで発電した電力を目には見えないレーザーに変換して月へ届けるんだそうだ。

 マサヒト君のお父さんは保守点検の仕事をしていて、二年に一度、地球で半年過ごしてくる。彼はいつも体を鍛えていて、筋肉隆々の凄い体をしているが、地球から帰ってくると、もっと凄い体になって帰ってくる。そんな彼でも地球では自分の体が重く感じられるそうだ。地球へ行く前に体を鍛えておかないと地球の重力で体が潰れて何もできないとも聞いた。その代わり宇宙服無しで外を歩けるそうだし、水もおいしいそうだ。

 自分が生きている間に地球へ旅行できる日が来るかななんて考えながらフミヒトは腰を上げた。あとになって太陽光パネルの保守点検員になろうとは考えなかったなとも思った。将来は月の田舎から火星へ行って、ユートピアタウンでスーパースターになり、マリネラス渓谷辺りにピンク色のデカイ家を建てるんだとずっと考えていた。

 山を下って、テントの場所まで戻るとそのままそこで一夜を過ごした。

 朝になるとテントをザックに入れて山を下っていく。そういえば夜は何も考えずに眠りについている事に気付いた。

 自分が置いていった荷物を回収してさらに下っていく。荷物は増えていくが歩みは速い。

 下山開始から三日目にもう一人の子とすれ違った。ヘルメット越しに笑みを交し合う。彼は良い顔をしていた。どこかで見た事がある顔だとも思ったが、そのまま通り過ぎた。

 最初に荷物を置き去りにした場所まで来た。フミヒトの物とは別の荷物がそばに置いてある。きっとあの子の物だろう。自分の物だけをザックに入れて先へ進んだ。これで出発した時と同じ重さになったが、今は軽く感じられた。

 山を下りきってからテントを張り、夜を過ごすことにした。久しぶりに色んなことが短く頭を巡り、なかなか眠れなかった。

 ふとある顔が浮かんだ。幼稚園の頃に転校したケイタ君で彼は僕と同じ誕生日だった。家も近くで一緒にお互いの誕生日ケーキを食べ合う仲だった。その顔と山ですれ違った顔が重なる。なんだ、あれはケイタ君だったのか。確かめたわけではないが、フミヒトは確信していた。あれはケイタ君だと。翌朝アルテミス山に目を向けたが、そこを登るケイタ君は見えなかった。

 それから月の砂漠を二日歩いてムーンシティに帰ってきた。気圧調整室からドーム内に入ると警備員の人が言った。

「おかえり」
 久しぶりに聞いた人の声だった。何でもない言葉に胸が揺れて泣きそうになったが、そこは耐えてフミヒトも「ただいま」と言葉を返した。

 家に帰ると今度は両親から「おかえり」の声を聞いた。なんだか恥かしくて、フミヒトはすぐに自分の部屋に入った。ベッドでほんの少し眠るつもりが一日中眠っていた。

 成人の儀式は終わって一週間が経った。だからといって何かが変わったわけではない。両親からは相変わらず子供扱いされるし、夜遅くに外でいると警官に補導されそうになる。宿題はしなくちゃならないし、輝ける大スターへの道はまだ見えてこない。ケイタ君とはあれっきりだし、同じクラスのエミちゃんとは話せないままだ。それでも彼の成人の儀式は終わった。


(終わり)

この世が最悪の世界だと見抜いたタクヤは、
夜行バスに乗り徳島へ家出したが
彼の乗ったバスは徳島へ到着しなかった。


『I’m Walking/牛野小雪』


 山を一つ越えると一軒の家が見えた。屋根と壁は崩れ落ち、柱が剥き出しのままになっている。念のため外から家の中を覗いてみたが、人の気配はもちろん、使えそうな物もなかった。
その家を後にして、そのまま歩き続けると建物がまた見えてきた。今度は何軒もある。町に出たようだ。どの家も窓ガラスは割れていたり、外壁が剥がれ落ちていたり、屋根の瓦が無かったりした。割れた窓からは部屋をかき回された跡が隠しようも無く残っていた。まともな家は一軒もない。どれも見慣れた光景だ。
 中にはドアを強引にこじ開けられた形跡のある家もある。その家は窓に板を打ち付けていて、外からは中の様子が見えなかった。開いたままのドアからもやはり見えない。光は玄関までしか届かなかった。かつての住人の悲惨な結末を想像すると、中に入ろうとは少しも思わなかった。さらに歩を進める。
 道路はどこもひび割れていて、そこから雑草が膝より高く伸びていた。
 そのさまを見るとレツヒト(烈人)は大きく息を吸って、背中のザックを小さく持ち上げた。そして吸った息を吐く。
 まともではない家をいくつも通り過ぎると、ようやくまともな家を見つけた。瓦が一枚落ちているが、外壁はどれも真っ直ぐ貼り付いていたし、窓ガラスは割れていない。レツヒトは窓付きの家を見つけたのはいつの事だったかと思いを巡らした。それは一ヶ月前のことだったと思い出す。もう一年も前に感じられた。
 世界が変われば、時間も変わる。一ヶ月前が一年前で、三年前が昨日のように感じる。
 レツヒトはドアの前に立ちノックした。チャイムも押してみたが音は鳴らない。
 もう一度ノックをしてからドアを開けた。鍵はかかっていない。
 ほこりがかぶっているとはいえ、家の中はきれいに整っていた。荒らされた形跡もない。一ヶ月前の家よりはるかにまともだった。かつてまともだった世界がここにはあったので、自然と玄関で靴を脱ごうという気にもなった。
 靴からスリッパに履き替え、ザックを玄関に降ろすと中に入った。
 玄関脇の部屋を覗くと、革張りの黒いソファーに箱型のステレオ。本棚にテレビ。大きなクリスタルの灰皿があった。昔風の趣味だが、ここにはまだ人が住んでいるのかもしれない。
 レツヒトは大きく咳払いをして、壁を手のひらで何度か叩いた。
 続けて声を出そうとしたが、もうずいぶん長いこと言葉という意味で声を出していないので、自分でも言葉が浮かんでこなくてとまどった。それでもう一度壁を手のひらで叩き大きな音を出した。
 しばらく待っても声は聞こえなかったし、何かが動く気配もなかった。
 レツヒトは鼻から短く息を吐いて、さらに家の奥へと進んだ。和室が一つあって、そこにはこたつと皿に盛られたミカンがあった。ミカンは干からびている。胸の中にかすかな違和感が湧いた。今までいくつも干からびた野菜や果物を見てきたが、こんな場所で見るのは初めてだった。
 さらに進んで廊下の突き当たりまで来た。二つの部屋はドアが開いたままだったが、ここだけはドアが閉まっていた。念のためにドアをノックする。
「誰かいるか?」
 久しぶりに出した声は意外にも大きく滑らかに出たので自分で驚いた。もう一度ノックをする。返事も無く、物音も無かった。
レツヒトはドアをゆっくり開けると、部屋にある物を見た瞬間ドアを閉めた。
 体中の血が勢い良く巡る音がした。それに合わせて顔が熱くなる。部屋の中には首を吊った死体があったのだ。
 記憶の中でもう一度部屋の中を見ると、死体はやはり干からびていて、目玉の無い黒い目でレツヒトを見下ろしていた。
もう一度部屋の中を見ようとドアをゆっくり開けたが、その途中で濃厚な死臭を嗅いだので、レツヒトはえずきながらドアを閉めた。
 壁に手をつきながらソファーのある部屋に戻って、ソファーに体を投げた。ほこりが高く舞ってまた咳き込む。
 それも落ち着いてくると、両手を頭の後ろに回して目をつぶった。こんな世界でもソファーは柔らかい。久しぶりの柔らかい感触だった。
 よし、今日は良いねぐらを見つけた。ここを拠点にしてこの町を探索しよう。今までの経験からこういう場所では食べ物が見つかる。歩きづめの野宿生活は疲れたから、まだ日は高いけれど、ここで眠ってしまおう。
 そんなことを考えながら眠りに入ろうとしたが、さっきの首吊り死体が見下ろしているような気がして何度も目を開けた。
 長い野宿生活で墓地に寝たこともある。レツヒトは幽霊をすっかり信じなくなったが、それでも気になるものは気になる。墓地で寝たのも暗くて気付かなかったからだ。もし気付いていたならさらに歩いて、違う場所で寝ただろう。
 しばらく何の考えも頭に浮かばない静かな時間があって、レツヒトは突然立ち上がると本棚から本を一冊抜き出して部屋を出た。
 ザックに本を放り込むと、すぐさまこの家を出ることにした。
 レツヒトはドアノブに手をかけると、ドアの内側に張り紙があることに気付いた。そこにはこう書かれている。
『侵入者に災いあれ 永遠の呪いを受けろ』
 白い半紙に墨と筆で書かれていた。
恐怖に駆られてその張り紙を剥がそうとしたが、その寸前でやっぱり止めた。
 すぐさまその家から出て、逃げるようにそこから離れた。何度も後ろを振り返り、その家が見えなくなると、やっと胸の中が落ち着いてきた。
 日陰があったので、そこにザックと腰を降ろして一息着いた。
 
 体を休めて再び歩きだすと、すぐに大きな四角い建物が見えた。スーパーだ。看板には『セブン』と書いてあった。 
 玄関のドアは破られていて、店の棚には干からびた果物さえ無かった。それでも何か使えそうな物はないか入ってみることにした。無ければ無いで、ここを今夜のねぐらにするつもりだ。
 店内を一通り巡ると食品棚は掃除したみたいに何も無かった。缶詰の棚も同じだ。併設の小さな薬局に風邪薬の箱が三つ残っていたのでその内の一つを手に取った。包帯の箱はあったが、蓋は開いていて小指より小さくなった包帯が一巻きある。誰かがここを拠点にしていたようだ。
 一度店から出て倉庫に入った。ここもやはり人が入った跡があって、ざっと見たところ目ぼしい物がなかった。倉庫の隅に綺麗に積みあがった発泡スチロールの箱があったので、不思議に思って中を見ると、すっかり干からびた秋刀魚が詰まっていた。干物ではなく、無加工の丸太状態だ。どうりで誰も手を付けていないはずだ。
 ひっくり返ったダンボールを1つずづ調べていった。略奪する時は誰もが急いでいるので意外と残っているものだ。その証拠に3つ目のダンボールを持ち上げると、スナック菓子の袋が1つ落ちてきた。
 空のダンボールは畳んで隅に積んでいく。日が暮れるまでそれを繰り返して缶詰が10個とスナック菓子を3つ見つけた。
 その日の夜はスナック菓子を食べてから、倉庫の隅に積んだダンボールのベッドに潜りこんで眠る。ダンボールも積み上げればそこそこ柔らかく、侮れない寝心地の良さが味わえる。久しぶりにぐっすりと眠り、朝日が登るとスーパーを出た。
 コンビニに立ち寄り、新聞があったので立ち読みをしてみると3年前の日付だった。それに以前読んだ記事だと気付いた。それでもレツヒトはその新聞をザックの中に入れた。新聞紙は軽くて役に立つことが多い。
 昼になった。日陰を探して昨日のスナック菓子を二つ食べた。それと服も一枚脱いだ。夏は過ぎて冬になろうとしているが、歩いていると体が熱くなってくる。冬でも太陽の下なら半袖で過ごす事ができるほどだ。世界が変わる前は想像もしたことがなかったことだ。
 それからまた歩き続けて、夕方になる前に建物が途切れ始めた。今度は町を抜けて野原をあるくことになりそうだ。
 町と野原の境目に頂上が開けた小さな山を見つけたのでレツヒトはそこに登った。通る人がいないので草が膝より伸びていて、ジーンズの表面をずっと撫でた。
 夕方になる前に焚き木にできそうな枝を集めた。それから山の頂上に立っていた銅像のそばで枝を組む。そこは玉砂利が敷かれていたので、寝るにはちょうどいい場所だった。焚き木を組んでから気付いたが、銅像は源義経だった。銅版に謂れが書かれてある。ここから四国に上陸して屋島に向かったらしい。
 太陽が半分以上沈んだがレツヒトは火を付けなかった。それどころか焚き木から離れて町をずっと見ていた。太陽が沈んでから完全に闇に包まれるまでそれを続けた。
 暗い闇を見渡し、どこからも明かりが出てこない事を確認すると、レツヒトはやっと焚き木に火を着けた。今夜は月の無い晩で辺りは完全なる闇だが今まで何度も繰り返してきた事なので、目をつぶっていてもできることだ。
 焚き付けから小枝へ、小枝から太い枝へ火が移ると辺りが明るくなった。それでも星が見える程度には暗い。レツヒトはもう一度立って山から辺りを見渡したが、空の端で山の形に星空が切り取られているのが解るぐらいだった。炎の色も蛍光灯の色も見えない。
 彼は鼻から落すように息を吐くと焚き木に戻った。
それからザックから小鍋を出すと、昨日スーパーで見つけたガルバンゾーの缶詰を開けて汁ごと鍋に入れた。鍋を火のそばに置く。そこは石を三つ置いてコンロのように使える。火が通ってくると次にトマトの缶詰を入れて、さらにオイルサーディンの缶詰も入れて一度混ぜた。鍋の側面からふつふつと泡が立ち始めると、最後にプロセスチーズを一つ、ちぎりながら鍋に放り込んだ。チーズからは良いダシが出るのだ。
チーズが完全に溶けたのを見ると火から鍋を離した。
 大きなスプーンで鍋の中身をカップへ移していく。チーズのダシが利いていて、スープが美味かった。
 豆とトマトのスープをカップ三杯食べるとお腹が膨れたので鍋の蓋を閉めた。残りは朝に食べる。
 レツヒトはザックから寝袋を出して横になった。上を見ると星空の真ん中に天の川が見える。世界が変わる前は写真でしか見た事がない光景だ。どの星も目に飛び込んでくるような明るさだった。ふと小学生の頃に理科の宿題で探したオリオン座を探してみた。当時はそれほど苦労した覚えはないのだが、その時はこれほど星が多く見えなかったからだろう。今は空を埋め尽くすほど星が見えているので、かえって探しづらかった。
 焚き木の燃える音を聞きながら星を見ていたのだが、結局オリオン座は見つからず、レツヒトはいつの間にか眠っていた。
肌寒さで目を覚ますと焚き木はすっかり消えていた。久しぶりの熟睡だった。
 まだ暖かい豆とトマトのスープを腹に入れると、レツヒトは山を降りてまた歩き始めた。山から見た限りではこの先誰も耕すことがなくなった田んぼの野原が広がっている。
 今日は風のない日でレツヒトの歩く音だけが静かに聞こえた。

(おわり) 
 
この世が最悪の世界だと見抜いたタクヤは、
夜行バスに乗り徳島へ家出したが
彼の乗ったバスは徳島へ到着しなかった。


『修羅になったタロウ/牛野小雪』


修羅になったタロウ

題名:修羅になったタロウ
作者:牛野小雪

     1

 タロウは物心が付いた時にはもうその家にいました。
 主さんとその奥さんと二人の娘のエミちゃんが住んでいて、タロウはそこで飼われている犬でした。全身真っ黒で肉球まで黒い犬です。大きい耳は下に垂れていました。
 エミちゃんは学校から帰ってくると、タロウを散歩させる決まりでした。いつもは家の中にいるけれど、散歩のときだけは外へ出ることができたのです。 
 タロウは外の世界を見るのが好きでした。エミちゃんが帰ってくると尻尾を振りながら玄関で彼女を出迎えます。
 エミちゃんがランドセルを降ろすが早いか、タロウはリードを咥えて彼女の足元に座りました。
 時にはずっと外を出歩きたいと思う日もあるけれど、長く歩いているとエミちゃんが疲れたにおいを出すので、そんな時はすぐに家へ足を向けます。
 エミちゃんが友達の家へ遊びにいった日でした。その日は主さんと奥さんが家にいて、タロウは早くエミちゃんが帰ってこないだろうかと窓の外を見ていたら、主さんが言いました。

「タロウ、散歩へ行こう」

 エミちゃんがいない時は主さんか奥さんが散歩をしてくれることがあったけれど、この時は何だか酸っぱいにおいがして、嫌な気分がしました。それでも散歩へ連れて行ってくれるというので、リードを自分で咥えてタロウは玄関で主さんを待ちました。
 その姿を見て主さんは言いました。

「タロウは賢い。これならきっと大丈夫だ」

 何だか分からないまま外へ出ると、家の敷地を出ずに車に乗りました。遠い場所へ行く時は車に乗るのだけれど、そんな時はたいていエミちゃんも一緒です。何だか変ですが、主さんが車の中で待っているのでタロウも車へ乗り込みました。
 車が動き出しました。助手席から外の景色を眺めていると、いつもと違う道を通っているのに気付きました。車は川を越え、山を越え、海ばかり見える場所まで来たのです。
 白い砂浜の前で主さんは車を停めました。

「タロウ、ここで遊ぼう。楽しいぞ」

 主さんはそう言いましたが、何だか様子がおかしいので、タロウは助手席から動かずにいました。

「どうしたんだ。お前の好きなボールもあるんだぞ。ここなら思いっきり遊べる」

 主さんがボールを振りながら外へ誘うと、それに釣られてタロウは車から降りてしまいました。

「よ~し、行け!」

 主さんがボールを砂浜へ向かって投げると、タロウはそれを必死に追いかけてボールを口に咥えると主さんの所へ戻ってきました。

「よ~し、よしよし、タロウは良い子だな」

 主さんはそう言いながらタロウの頭と顔をくしゃくしゃに撫で回しまた。それから口からボールを受け取ると、また砂浜へボールを投げました。それをタロウが拾ってきて、撫でてもらう。それを何度か繰り返しました。

「よ~し!今度は取れるかな?」

 主さんは思いっきり振りかぶって、ボールを遠くまで投げました。ボールは目がかすむぐらい高くまで上って、波打ち際に落ちました。
 タロウは風のようにボールへ突進しました。ボールは波でゆらゆら揺れています。なかなか咥えることができず足が海水で濡れました。 タロウはやっとのことでボールを咥えると後ろを振り向きました。
 主さんがいません。
 タロウは元の場所まで戻ってみましたが、主さんも乗ってきた車がありません。あまりの不思議さに咥えていたボールも落としてしまいました。



        2

  場所を間違えたかもしれないと辺りを歩き回りましたが、主さんも車もいっこうに見つかりません。そうこうしている内に日が暮れてきました。
 砂浜を出てしばらく歩くと、タロウは公園を見つけました。ただし、いつも行っていた公園とは違う場所のようです。
 夜もふけてきたので公園の茂みで体を休めようとすると、後ろからヒタヒタと足音が聞こえてきました。鼻に胸に刺さるような臭いがします。

「おい、お前。何をしている」

 後ろを向くと、一匹の赤犬がタロウをにらんでいました。

「迷子になってね。ちょっと疲れたから休もうと思って」
「疲れた?そうか。そりゃ災難だったな。だが、そんなことは関係ねえ。さっさとここから出ていきな。ここは俺の縄張りだぜ」
「そんなことを言ってももう疲れたから。今日一日ぐらい構わないだろう?」
「うるせえ!さっさとここから出て行け!臭うんだよ!お前は俺と同じじゃねえ!」
「とにかくもう疲れたから、その話は明日しよう」

 タロウが言うと赤犬が首を噛もうとしてきました。しかし、タロウはとっさに避けて、逆に赤犬に飛びつきました。彼の威勢は激しかったのですが力は大した事が無く、あっさりと押さえ込むことができました。

「とにかく今日はここで寝るから邪魔しないでくれ」

 タロウが言うと、赤犬は「ちくしょう!」と捨て台詞を吐いて、尻尾を垂らしながらタロウから離れていきました。
 朝目覚めると、昨日と同じ場所へ行きました。砂浜を端から端まで歩いてみましたが、主さんは見つかりません。
 公園へ戻ると、そこにはおばあさんがいて、赤犬にパンをあげていました。タロウは昨日の昼から何も食べていないので腹が減っています。
 おばあさんがこちらへ来たので、足元へ近寄ってみると「あら、あなたもいたの。ごめんなさいね。今日はもう無いの。お終い」と声が降ってきました。
 後ろからヒタヒタと足音がします。

「何だ、お前。まだいたのか」

 昨日の赤犬でした。

「うん、まだ見つからなくてね」
「おめでたい奴だな」
「何が?」
「早く気付けよ。お前は捨てられたのさ」
「そんなはずない!」

 とっさに出した言葉があっという間に色褪せていきました。本当は昨日から捨てられた事に気付いていて、それを認められずに砂浜を歩いていたのかもしれなかったからです。

「なに、捨てられたのはお前が初めてじゃない。俺ぐらいこの辺で生きているとそんな奴には何匹も出会う」
「いや、でも僕を忘れたのかもしれない。きっと迎えに来るはずだ」
「ハハハ、みんなそう言うのさ。まあ、もう少し待ってみなよ。嫌でも間違いだって気が付くさ。実を言うと俺もその口でな」
「お前とは違う!一緒にするな!」

 タロウは牙を剥いて赤犬を噛もうとしましたが、昨日のうちに勝負は済んでいたので赤犬は一目散に逃げ出ました。タロウは空腹のまま夜を過ごしました。次の日も赤犬の言う通り主さんは見つかりませんでした。
 公園に行くと、きのうのおばあさんがいて、タロウを見ると手招きをします。

「ほら、今日はあなたの分も持ってきたから食べなさい」

 おばあさんはパンをくれました。ソーセージまで付いています。しかし、タロウはそれを食べませんでした。もし、このパンを食べれば、主さんが一生迎えに来ないという気がしたからです。むしろ、このまま腹を空かせて死にそうになれば、主さんがきっと迎えに来てくれると信じていました。

「おい、食べないと体に毒だぜ」赤犬が言いました。
「どうしたの?食べないの?」おばあさんも言います。

 それでもタロウがパンを食べなかったので、赤犬が横から全部食べてしまいました。それを見たおばあさんは「あらあら、大変」と言います。彼女はタロウと赤犬の頭を撫でると公園から出ていきました。
 太陽が真上に昇って暑くなってきたので、タロウは赤犬と日陰で横になっていました。

「次は何か食わないと死んでしまうぞ」と赤犬が言いました。
「いや、このまま何も食べずに待っていれば、それを見かねた主さんが迎えに来てくれる」とタロウは答えました。
「馬鹿だなあ。主さんは迎えになんか来ないさ。ここまで車に乗ってきただろう?それも長い時間をかけて。それはお前が絶対家に帰ってこれないようにするためさ。ここは元居た場所よりうんと遠い場所さ。空でも飛ばない限り、一生家には帰れない」
「まさか。ほんのちょっと忘れただけさ。きっと疲れていたんだ」
「嘘だと思うのなら確かめてみな。ほら、あそこに山が見えるだろう?あの山の頂上から向こうの町を見下ろしても全然知らない場所だって分かるはずだ。それだけ遠い場所で捨てられたってわけさ」
「よし、それじゃあ確かめてくる」
「おい、太陽がまだ熱いぜ」

 赤犬の言う事は無視して、タロウは山を登り、その頂上から町を見下ろしました。全然知らない場所でしたが、思えば山から町を見下ろしたことはありません。とにかく山を降りて町へ入ってみましたが、やはりそこは知らない場所で、そもそも済んでいた町とはにおいが違いました。元居た場所はこんなに塩辛いにおいはしません。
 道路の水溜りで水を飲んだ事までは覚えていました。そこから後の記憶はありませんが、タロウは気付くと元の公園に戻っていました。すぐそばには赤犬がいます。

「なっ、俺の言ったとおりだろ」
「うん・・・・・・」

 タロウはそれだけ言って、茂みの陰に横たわりました。何もする気が起きません。かといって眠れるわけでもありません。じっと横たわったまま夜が過ぎました。 そばで寝ていた赤犬は明るくなると、茂みから一度出ていきましたが、すぐに戻ってきました。

「今日はあのばあさん来ないらしい」
「毎日来るわけじゃないのか」
「毎日エサをくれるのは主さんだけさ。あとは気まぐれよ。雨の日や風の日は来ないし、冬になって寒くなるとまず来ないな」
「詳しいね」
「三年も暮らしているとさすがにな」
「今日はどうする?」
「なに、いざというときの食い繋ぎ方は心得ている。お前もついてくるか?」

 あまり気乗りはしなかったけれど、空腹に耐えられずタロウは赤犬についていくことにしました。



      3  

 砂浜を歩いていると白い猫が一匹いました。

「なあ、お前。俺はここにいるから、後ろからあいつの後ろに回ってくれないか」
「どうして?」
「あいつの後ろに立っているだけでいい。そうすればあとは俺がやるから」「何を?」
「ちょっと驚かせてやるのさ」

 腹が減っているときに何を言うのかと思いましたが、タロウは猫を遠回りに避けて、その後ろに立ちました。猫がタロウを気にして後ろを向きます。 する、と突然けたたましい足音とうなり声が聞こえました。赤犬が白猫に突進していたのです。猫はもちろん逃げようとしましたが、その方向にはタロウがいたので一瞬動きが止まってしまいました。
 赤犬は猫の頭にかぶりつくと、背中に足を置いて、首を横に振りました。ゴリッ!という固い音がすると、猫の体は一度跳ねて柔らかくなりました。

「君、何しているんだ!」
「こいつはびっくりしただろうよ。なにせ死ぬことも気付かずに死んだんだから」
「いくら猫とはいえ、ひどすぎる。殺すことはないだろう」
「猫なんかいくら死んでもいいさ。それより食っちまおう。新入りだから腹を食って良いぞ。俺は頭と足を食うから」
「えっ」

 赤犬は頭からかぶりついて、ずるっと顔の皮を剥がして、血にまみれた肉を一筋食いちぎりました。その様を見るとタロウは恐ろしくなってきて、空腹を忘れて公園まで走り帰ってきました。 タロウは茂みの陰に隠れて、さっき見た事は本当だろうかと疑いました。夢ではないかとさえ思いました。しかし、夢にしては鮮明でにおいまであったのです。
 昼頃になるとヒタヒタと足音が近付いてきました。それに混じって血のにおいが鼻を突きました。茂みに現れたのは赤犬でした。

「お前なんで逃げたんだ。お前に腹はやるって言ったのによ。残すのはもったいないから全部食ってきたぜ」
「君はあの猫を食ったのか」
「ああ、エサをくれる奴がいない時はそうやって食い繋ぐのよ。でも猫は不味いほうだな。もっと美味い物がある。まあ、俺はごちそうを最後までとっておくタイプだから今は熟成中さ」
「でもかわいそうじゃないか」
「そうでもしなけりゃ生きていけないだろうが。お前は主さんに捨てられて野良犬になったんだから、野良は野良らしく生きていかなきゃ駄目だぜ」「それならもう生きたくない」
「へっ、勝手にしろや」

 また一日が過ぎました。このまま死んでしまいたいとも思いましたが、腹が減るのはどうしようもありません。茂みから出て、公園を歩き回っていると、一昨日のおばあさんがいて、「今日は食べるかしら」とパンとソーセージをくれました。
 タロウは何も考えずにそれを食べました。気付くと横に赤犬がいて、パンとソーセージを前にして座っています。

「まあ、これも食べとけ。俺は昨日猫を食ったから三日は食わないでも平気だ。というより腹が減ってないんだな」
「本当に良いのか」
「ああ」

 タロウは赤犬の分も食べました。食べたあとに、これでもう主さんは迎えに来ないだろうと思いました。タロウは満腹になった腹で自分は野良犬になったことを理解しました。



    4

  タロウと赤犬は公園で一緒に暮らすようになりました。力ではタロウが上でしたが、野良暮らしの知恵は赤犬が上だったので、タロウは自然と赤犬に頭が下がりました。
 あるとき、エサをくれる人がいないので食べ物を探しに行くと、畑に大きなスイカがいくつも成っていたので、タロウがそれを食べようとしたら、赤犬はすぐにそれを止めました。

「おい、そこのは食うんじゃない。いいか、四角に区切った場所、真っ直ぐな線が引かれた場所は人間の場所で、俺達が何かをすると人間がすっ飛んでくる。変なことはするんじゃないぞ」

 またある時は、子供がいたので一緒に遊ぼうと近くに寄ろうとすると、赤犬はそれも止めました。

「おい、人間に近付くんじゃない。もし何かあれば、何でも犬のせいにされるぞ。人間を見たらすぐ逃げろ。いいな。近寄っても良いのはエサをくれる人間だけだ。他のに関わると保健所に連れて行かれるぞ」
「保健所ってなんだい?」
「さあ、知らねえ。ただ保健所に連れて行かれた奴等は一匹として帰ってこねえ。たぶん食われるか何かされているんだろう」

 雨の日はたいていカエルかバッタを食べました。晴れの日はエサをくれる人がいましたが、それもないときは猫を食べることもありました。タロウは初め食べる気が起きませんでしたが試しに一度食べてみると、猫は肉が柔らかくて意外においしい味がしました。メスの子猫などは姿を見かけるとよだれが垂れそうになります。
 やがて冬がきました。
 外が寒くなると、家の外に出る人も少なくなります。公園にいつも来ていたおばさんもやってきません。池にカエルはいないし、草むらにもバッタはいません。幼い猫と年老いた猫、それに頭の足りない間抜けな猫は冬になる前に全て食べてしまったので、残っているのは若くて賢い猫ばかりです。そうやすやすと食べさせてはくれません。それどころか向こうから襲ってくることもあります。

「ここから離れよう。収穫が少なくなってきた」

 赤犬が言いました。タロウはどこへとも聞きません。空腹と寒さで口を開くのも面倒でした。それに今まで赤犬の言う通りにしてどうにかなったので、今回も彼の言う通りにしていればどうにかなるだろうという心積もりでした。
 タロウと赤犬は町から離れて山へ入りました。
 山の斜面に穴を見つけると赤犬はそこを掘りました。するとそこには白いウサギが体を丸くしていました。赤犬はウサギの頭にかぶりつくと、首を振ってすぐに骨を折ってしまいました。

「こいつを食っちまおう」
「君が見つけたウサギだろう。僕が食べてもいいのか?」
「俺達は協力して冬を越さなきゃならねえ。俺が見つけることもあればお前が見つけることもある。どっちにしても二匹で分け合うんだぜ」
「そういうことか」

 タロウと赤犬はウサギの皮を残して全部食べてしまいました。ウサギは猫より美味しい物でした。骨は次の獲物が見つかるまで口にくわえてしゃぶります。 次も赤犬がウサギを採りました。今度は茶色のウサギです。 さらにその次はタロウが採りました。また茶色です。
 どちらが採るにしてもウサギは二匹で分け合って食べました。一番美味い太ももの骨も二匹で分け合います。 冬の間はウサギと猫みたいな茶色い生き物を食べました。赤犬が言うにはイタチという名前だそうです。あっという間に殺さないとお尻から臭いガスが出て、とても食べられません。 二匹は山で狩りを続けていましたが、徐々に収穫は落ちてきました。腹が鳴るのはそう珍しい事じゃありません。骨ですらしゃぶり尽くしてしまう日が何度もありました。
 タロウと赤犬は二手に分かれて獲物を探すことにしました。どちらかが獲物を採れば遠吠えで知らせることになっています。しかし、タロウはまだそれを聞いた事がないし、遠吠えをしたこともありませんでした。
 昼の日向は暖かいときもありますが冬はまだ終わりません。
 タロウと赤犬は体力を使わないように昼の明るいうちに歩いて、夜になると枯葉に体を沈めてじっとしていました。夜は寒くてとても眠れません。眠るのはいつも太陽が出てからです。
 その日は珍しく夜でも暖かい日だったので、タロウは枯葉に包まって夜の内から眠りました。
 しかし、タロウは夜中に目覚めました。寒いからではありません。何かの気配を感じたからです。草むらの向こうからガサッと枯葉を踏む音が聞こえました。気のせいではありません。足音から猫より大きいようです。
 タロウは言いました。

「誰だ?」

 すると、草むらの向こうから走り去る足音が聞こえました。
 こんな夜が何回も続きました。タロウが眠っていると必ず草むらの向こうから何かがやってくるのです。しかも昼夜の区別はありません。おかげでタロウは寝不足になりました。そうするとただでさえ採れなかった獲物が余計に採れません。


      5  

 また暖かい夜が来たのでタロウは夜から眠ることにしました。一度枯葉に体を静めたのですが、用心して木の影で眠る事にしました。今夜は幸い暖かいので何とか寒さはしのげそうです。さっき体を静めたところには後ろ足で枯葉をかけてタロウが埋まっているように見せました。
 さてタロウが眠っていると、突然物凄いうなり声と枯葉を蹴散らす騒がしい音が聞こえました。タロウはすぐに身を起こして、さっき枯葉を積み上げた場所を見るとそこには赤犬がいました。

「毎日草むらの向こうから僕の様子を伺っていたのは君だったのか」

 しかし、タロウはそこから言葉をなくしました。夜の闇の中で赤犬の目がするどく光っていたのです。 
 赤犬は一声うなるとすぐさまタロウに襲いかかってきました。

「うわっ、なにをする、やめろ」

 赤犬は襲い掛かるのをやめません。それでタロウも抵抗して赤犬の背中や腹を爪で引っ掻いたり、口で噛んでやりました。お互い傷つけあって、息が切れてきたので二匹は一度距離を取りました。

「君、あまりにしつこいぞ。それに本気で噛んでいる。ただごとじゃないぞ」

 タロウが言うと赤犬は言いました。

「俺はお前を食う」
「なんだって?」
「あと一回肉を食い繋げば春になる。そうすれば生き延びられる。だからお前を食いに来た」
「ウサギは?」
「もういない。この山にいるのは俺とお前だけ」

 赤犬はそれだけ言うと、すぐにまた飛びかかってきました。タロウも負けじと抵抗します。以前は軽々と赤犬を撃ち伏せる事ができたタロウも今は空腹で力が入りません。それに対して赤犬は元気がありました。どうやら見つけたウサギは独り占めしていたようです。
 このままでは負けてしまう。負けてしまえば食われてしまう。タロウは必死で抵抗しましたが、ついに赤犬の牙がタロウの首筋に刺さりました。タロウも首をひねって赤犬の首筋に噛み付きました。 お互いの首を噛み合っていると目の前が暗くなってきました。首には赤犬の牙と暖かい息、口には赤犬の暖かい首筋。感じるのはそれだけでしたが、それもやがて無くなりました。
 タロウが風の冷たさで目を覚ますと、まず最初に見えたのは枯葉でした。次に首の痛みで意識が戻ってきます。すぐに赤犬の事を思い出して首を回すと、タロウのすぐ横には赤犬が横たわっていました。
 タロウは彼の体を揺すってみましたが反応はありません。それに体が冷たくなっていて、石のように動かなくなっていました。赤犬は死にました。 しかし、タロウはすぐには彼を食べませんでした。そのまま三日が経ちました。
 タロウは赤犬の毛を一度なめてみると意外に美味しかったので、さらになめつづけていくうちに段々と勢いがついてきて、とうとう赤犬の体に牙を立てました。 赤犬の体は固く冷たいので、中々肉が離れません。それでもしゃぶるように削るように彼の肉を食べていくうちに、とうとうタロウは皮と骨を残して全部食べてしまいました。
 ちょうどその頃、冬の寒さが遠のいて春の暖かい風が戻ってきました。
 タロウは赤犬の太ももの骨をくわえると、山を降りて町へ向かいました。それ以来タロウは、強きものには尻尾を振り、弱きものには牙を剥きました。猫を殺し、バッタを殺し、時にはカラスを殺して食べました。これからもそれは続くことでしょう。タロウの散歩はまだまだ続きます。


 (終わり)

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こどものどうわ 『ぷりぷりものがたり/T・S・カウフィールド』

プリプリものがたり
さくしゃ:T・S・カウフィールド
 
 むかし、むかし へいあんじだい。
 あわの こくふ というまちに プリスカという おんなのこ がいました。
 かのじょは としごろの うつくしいむすめでしたが おかあさんにきらわれていたので
 まいにち トイレや だいどころの そうじを させられていました。
 おかあさんはいいます。
「ほら、かおがうつるまで きれいに みがくんだよ」 
 プリスカは しぶしぶながらも おかあさんの いうとおり トイレや だいどころを
かおがうつるまで ぴかぴかに みがきました。
 
 そんな あるひ かのじょの いえの まえを ぐうぜん きこうしが とおりました。
 さだいじんのむすこで スケコマシン という かっこいいだんせいです。
 かれは うつくしい プリスカを みたしゅんかんに ひとめぼれ しました。
 また プリスカも かれを みて ひとめぼれ しました。
 それいらい ふたりは ひとめを しのんで ひみつのデートを しました。
 ひにひに なかよくなっていく ふたりですが それを きに いらないひとがいます。おかあさんです。
 おかあさんは ふたりの なかを じゃましようと あるけいかくを たてました。
 
 プリスカのすむまちには ケムクジャルという らんぼうものが いました。
 かれは かみのけがもじゃもじゃ すねげはぼーぼー えりのすきまから むなげがとびでています。
 おかあさんは かれのところへいくと いいました。
「ケムクジャルさん、あんた およめさんが ほしくないかい?」
 ケムクジャルは こたえました。
「うん、ほしいことはほしいが、おれのようなけむくじゃらに よめにくる おなごなど おるまい」
 おかあさんは いいます。
「それじゃあ、わたしのむすめの ぷりすかは どうだい? あのこは おまえさんのことが すきだそうだよ」
 ケムクジャルは いいます。
「ばかを いうんじゃない。ぷりすかの ことは しっているが かのじょが おれを すきなはずがない」
 しかし、そんなことであきらめる おかあさんでは ありません。
「いいや、それが ほんとうのことなのさ。あのこは はずかしがりやで きもちを おもてに ださないこ だけど ははおやの わたしには ちゃんと わかっています」
 
 にわかに しんじられないはなしですが、プリスカのははおやが いうことなので ケムクジャルは そのはなしを しんじました。
 ケムクジャルは いいます。
「けっきょく おれに どうしろと いうのだ」
 ははおやは いいました。
「あのこを よめにして このいえに むりやり つれかえってしまいなさい」
 ケムクジャルは さらに いいます。
「なぜ そんなことを しなければ ならない」
 ははおやは こたえます。
「あのこは すなおじゃないから きもちを かくしているけれど わたしには すべて おみとおしなのです。あのこだけが おまえをすきなら ほうっておいてもよかったけれど りょうおもいなら くっつけてあげなきゃ かわいそうだよ。あんたは ぷりすかの ことは すきかい?」
 ケムクジャルは かおを まっかに しながら うなずきました。
 それを みて ははおやは ケムクジャルに いいました。 
「あのこは ほんんとうに すなおじゃないから あんたの ことを きらいだって いうけど けっして しんじちゃいけませんよ。あのこの ばあい きらいだってことは すきってこと おなじなんですから。もしあのこが きらいだって いえば このいえに もちかえりなさい。それとは ぎゃくに すきだと いえば あきらめて かえりなさい」
  
 みっかご ケムクジャルが プリスカを ごういんに さらうひが きました。
 おかあさんは おとうさんを うまく いいくるめて プリスカを ひとりのこして となりまちへ でかけました。
 いえには プリスカ ひとりだけです。
 そのひは スケコマシンが プリスカの ために べっこうのかんざしを もってきてくれる やくそくを していたので なんて ぜっこうのひ なんでしょう と プリスカは ないしん よろこびました。 

 よるに なって あたりが くらくなりました。 
 すると いえに ひとりの おとこが やってきました。ケムクジャルです。
 かれは いえの とびらを あけようと しましたが、プリスカは ちゃんと とじまりを していたので かぎがかかっています。
 ケムクジャルは いいました。
「おーい、あけてくれー」
 こえを きいた プリスカは げんかんまで いくと いいました。
「どなたでしょうか」
 ケムクジャルは こたえます。
「おお、そのこえは プリスカか。おまえの だんなに なる ケムクジャルだよ。おまえを むかえにきたから ここを あけてくれ」
 そのこえを きいた プリスカは ケムクジャルの みにくい すがたを おもいだして からだじゅうが ふるえました。
 かのじょは こたえます。
「わたしは あなたの およめさんには なりません。だって あなたのことは きらいですもの」
 プリスカに きらいと いわれた ケムクジャルは おちこみましたが すぐに おかあさんの いったことばを おもいだしました。
 プリスカは すなおではないので きらいということは すきだということとおなじで、ケムクジャルは ゆうきが わいてきました。
 ケムクジャルは いいます。
「おれは おまえのほんとうの きもちを しっているぞ。おまえは おれのことが ほんとうは すきなのだ。しかし、すなおになるのが はずかしいので きらいといっているのだ」
 プリスカは とびらごしに こたえます。
「なにを いっているのですか。ばからしい。わたしが きらいと いっているのだから ほんとうに きらいなのです」
 プリスカが なんども きらいと いうので ケムクジャルは どんどん きが おおきくなってきました。
 
 ケムクジャルは もう まようことなく プリスカを いえに もってかえろうときめました。
 ごういんに とびらを あけようとします。
 それに きづいた プリスカは あわてて とびらに つっかえぼうを はめたり いりぐちに タンスを たおしたりして ケムクジャルが いえのなかに はいれないように しました。 
 
 ケムクジャルは らんぼうもので ちからが つよいのですが さすがに つっかえぼうを はめた とびらは あけられませんでした。
 かれは とびらごしに こえを かけます。
「おお、プリスカ。うつくしい プリスカ。おまえを およめさんに できて おれは しあわせものだ。おれは まえから おまえの ことが すきだったのだ。だから ここを あけてくれ」
 プリスカは いいます。
「あなた ひとちがいでは ありませんか。わたしは ぜったいに あなたの およめさんには なりません。もし いえのなかに はいってきたら ほうちょうで あなたのからだを さします」 
 ケムクジャルは かんがえました。けっして あなたの およめさんに ならないという ことは ぜったいに あなたの およめさんになるということだ。
 あまりに うれしくなって ケムクジャルは おおいに わらいました。
 それとは はんたいに プリスカは おそろしさで からだが ふるえました。
 
 
 とびらごしに ふたりが いいあらそっているうちに ちょうど スケコマシンが かのじょの いえに やってきました。
 プリスカは かべのすきまから かれが きたのを みたので ああ たすかったと あんしんしました。
 かのじょは おおごえを だしました。
「あなた わたしがすきなあなた。わたしは あなたのかおを まぢかで みたいのですが いまは このいえを でられません。どうにかしてください」
 そのこえを きいた スケコマシンは いったい なにごとかと かのじょのいえのようすを とおくからうかがうと、そこには らんぼうものの ケムクジャルが いるではありませんか。
 どうやら かれは ごういんに かのじょの いえに はいろうと しているようです。
 じぶんのちからでは どうやっても ケムクジャルには かなわないし はなしあいを するにも かれの しょうめんに たつところを そうぞうしただけで とてもおそろしくて できそうにありません。
 それどころか まだかれに なにかされたわけでもないのに スケコマシンは なみだを ぽろぽろ ながしました。
 おまけに もってきた べっこうのかんざしまで じめんに おとして しまいます。
 それを みた プリスカは なんて ふがいのない だんせいなんでしょうと ぷりぷり おこりました。
 
 プリスカと ケムクジャルは あける あけないの もんどうを なんども くりかえしました。
 スケコマシンのすがたは いつのまにか きえていました。べっこうのかんざしだけが ぽつんと じめんに おちていました。
 ケムクジャルは ずっと いえのそとに いたので だんだん つかれてきました。
 それに いまは なつですが あきのちかいきせつでも あったので よるのかぜは つめたく ケムクジャルの からだも しんから ひえていました。
 からだは ふるえるし おなかも ひえて いたくなりました。
 ケムクジャルは とびらごしに いいます。
「プリスカ すまないが ここを あけてくれないか。ちょっと トイレを かしてほしい」
 プリスカは いいます。
「どうして あなたに トイレを かさなければ ならないの?」
 かれは こたえました。
「もう げんかいだ。はやくしないと もれてしまうんだ」
 かのじょは いいました。
「それなら あきらめて あなたのいえの トイレで どうぞ。うちのトイレは かせません」
 ケムクジャルは とてもくるしそうに こえを ふりしぼります。
「いや とても いえまでは もちそうにない。どうか ここをあけて トイレをかしてくれ。それに かさないということは かしてくれるということ じゃないか」
 プリスカは ぴしゃりと こたえます。
「いいえ わたしが かさないといえば かさないという いみです。それいがいの いみは ありません。それに わたしが あなたを きらいといえば きらいなのです」
 ケムクジャルは いいます。
「わかった。わかった。おまえが きらいでも なんでも いい。とにかく いまは ここをあけて トイレを かしてくれ。そうしたら きょうは かえるから」
 しかし、とびらのむこうは しずかなまま です。
 
 それからケムクジャルは なにも いわなくなりました。
 とびらのむこうが しずかになったので ケムクジャルが どうなったのか プリスカには わかりません。それで とびらに みみをつけてみました。
 じめんに あしをこすりながら だれかが もがいている おとが します。
 まだ とびらのむこうに ケムクジャルが いるのをしって プリスカは いやになりました。
 いっそのこと とびらをあけて ほうちょうで さしてやろうかとも かんがえましたが らんぼうものが あいてなので やはり そのかんがえは むねに しまいました。
 もがくおとは だんだん ちいさくなっていきました。
 もしかすると そとのさむさで かれが しんでしまったのかと プリスカが おもったそのしゅんかんに とびらの むこうから ケムクジャルの こえが きこえてきました。
「あっ、あっ、あっ」
 という こえに あわせて
「ぷりっ、ぷりっ、ぷりっ!」
 と おとが します。
 さいごに ケムクジャルが
「あああああああ~」
 と ながく こえを だすと
「ぷりぷりぷりぷり~」
 と ながく おとが つづきました。
 
 また とびらのむこうが しずかに なりました。 
 それから もうしばらくすると あしを ひきずるような おとがして いえを はなれていきます。
 プリスカが そっと とびらを ひらくと ズボンを ちゃいろに よごした ケムクジャルが さびしそうに あるきさる ちいさな うしろすがたが みえました。
 こうして プリスカは おかあさんの やぼうを うちくだき ケムクジャルの てから うまく のがれたのでした。

 めでたし、めでたし
(おしまい) 

 
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