Newton 脳と意識: 最先端の脳科学が,最大の難問に挑む
Newton 天才の脳: 創造性,直観,卓越した記憶力が生まれる仕組みとは
Newton 生命とは何か<大特集>: リチャード・ドーキンス博士「生命はつくれる」
今書いているものの関係で意識とか、心とか、幽霊とか、その辺の本ばっかり読んでいる。前から気になっていたんだけど、ちょうど99円セールだったので即買した。意識については過去に一度ブログに書いていて、意識とは宇宙に対するロックンロールという内容だ。
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まさかとは思ったが、この本にも命はエントロピーに反していると書いてあってちょっと嬉しくなった。人間考えることはみんな同じらしい。私もニュートンだ。
ええっと、たしか指を動かす前にまず脳内で予備電気が何とか書いてあったはずだけど、その話にはまだ続きがあるのを何かの本で読んだ。脳内で指を動かそうと意識してから実際に動かすまでに、人はいつでもそれを止めることができるそうだ(間違っていたらごめん)。
指を動かす(無意識)→指を動かす(意識)→(いつでも止められる微かな時間)→指を動かす(実際に指を動かす)
そう考えると意識とは何かをするのではなく、何かを禁止するためにあるのかもしれない。何かをしない理由は色々思いつくけれど、何かをした理由はなかなか言葉にできないもの。法律だって禁止事項ばっかりじゃないか。案外的を得ているかもしれない。
ということは下手なものを書いてはいけない、普通のものも書いてはいけないと意識していれば自然と名文が頭に浮かんでくる? 確かに文章を整えることはできても、生み出すこと自体は無意識だなぁ。
死なないと思っていれば本当に死ななかったりして……その前に馬鹿にならないようにって意識しておこっと。
天才の本で脳みそが白黒で載っていたのは気持ち悪かった。東大に行けば夏目先生の脳みそがあるらしいけど絶対に生で見たくないなぁ。見せてもくれないだろうけど。まぁ、天才についてはっきりと分かることはないけれど、天才はなるものじゃなくて、なっているものだからジーニアスであって努力でなれるものだったらありがたみがないなとも思った。でも、ある日突然頭がどこか変な場所に落ちて「私は一時間で一万字書きます。一日で12万字。体力さえあればいくらでも」なんて言えるようになっていたら嬉しいけどね。もちろんちゃんとした文章で。
死ぬのが恐いとはよく言うけれど、時々生きていることが怖くなる。無から自分が発生したことは最高のミステリーであり、ホラーだ。あんまり真剣に考えると頭の裏側がふわふわして危険な感じがするから、あんまり深くは考えない。
上のブログにも書いているけど別に意識というか、心なんて必要ないわけだ(もっと言えば人間だって必要ない)。だけど、意識がある。生きている。元々無かったら何も感じないのだけど一度生まれてしまったからには死ぬのが恐い。なんて面倒なことをしてくれたんだろうと思う。
異形の者が自分の脅威になるかもしれない。それは見た目だけじゃなくて考え方もそうだろう。直接的な危害を加えられなくても居場所を奪われることもあるのだから人として素直な反応なのかもしれない。何だかんだで親しくなれるのは自分と相手との共通点を見出した時であり、異なるところが気になりだしたらすれ違いの始まりだ。でも、いつかその異形の者が自分達を救う存在になることだってあるかもしれない。
NTRは一体誰が考えたのか。正直このジャンルはあんまり好きじゃない。そこから物語が派生するならともかくただNTRれるなんて。って、それが元々現実にあることか・・・・。
自分を指差すとき、だいたいの人は鼻を指差す。自分探しをしている人は鼻毛をきれいに抜いて鼻の奥をよくよく覗いてみれば本当の自分を見つけることができるかもしれない。というのは冗談だが、自分で鼻を見ることができないように自分で自分を見ることは難しいようだ。人のことを平気で利用できる人が、自分は世間並みよりマシな人間と思っていることは大いにある。
かといって相手の事を見るというのもなかなか難しい。普段頼りがいがあるように見える人がいざ事が起こると我先に逃げていたり、自分の意志があるんだかないんだかよく分からない人が愚直に事をやり通して石に矢を通すようなこともある。
しょせん人の見た目は、その人が見せたい自己の影でしかいない。でも、本当の自分なんてあるのか? 影が本当になることだってあるかもしれない。
3年前までこの人の名前を知らなかったが、本人が自分でマイナ(マイナーのこと、森先生は何故か語尾は伸ばさない)とおっしゃっているので知らなかったのも当然かもしれない。でもスカイクロラは知っていた。原作があることも。ちなみに村上春樹も3年前は知らなかった。初めて名前を聞いた時は村上龍のニセモノか何かだと思っていて、なんだか変に持ち上げられているのでおかしいなと感じていた。1Q84がニュースになったことは覚えている。ノルウェイの森が映画化されたことも。それと高校の時に毎朝汽車の中で海辺のカフカをハードカバーを読んでいる人がいて、それも記憶に残っていた。でも作者の名前は全然記憶に残らなかったし、興味も湧かなかった。ニュースなり、口コミなりで伝わってこなければ有名な作家もこんなもんである。森先生も小説の世界はマイナなので当たり前のことだとおっしゃっていた。
森先生いわく、小説にテーマは必要なし。曲がりなりにも小説を書いている私は、おお、なんだこの先生わかってるじゃないか。さすが有名な人だと胸の中で手を打った。
次に文体の話が出た。先生は文体も必要なし、とおっしゃられた。曲がりなりにも小説を書いている私は、なんだこの先生、全然わかっていないじゃないか。小説ってのはつまるところ文体を読むのであって、それが合っていればしょうもない話でも面白くなると私は思っている。何を書くかではなくどう書くかだ。
えっ、じゃあ文体って何? しばらくキンドルを脇に置いてしばらく考えてみた。好きな文体、肌に合わない文体色々考えてみた。結局、文体とは物事の見方、視点のことじゃないか? そういう結論が出した。
とりあえず答えが出たので、さらに読み進めると、なんとそこには視点が大事と書いてあったので、その文章を二度見したあとで吹き出し、そのあと声を出して笑った。そりゃもう大爆笑よ。結局この先生わかっているじゃないかと感心すると同時にプロの犯行を見せられた気分だった。恐るべし森博嗣。でもマイナらしい。小説はまだ一冊も読んでいない。
人間関係は直接影響しあっているのではなくて、真空を通して伝わる何かがあるのかもしれない。たとえば空気とか?
個人的には女の人を誘うには焼き肉に誘えばいいというのが頭に残っている。ずっと残っている。フィクションとは思えない響きがあって、その日はもうこれだけが頭に残った。いつか機会があれば使ってみたいと思う。本当に効果はあるんだろうか?
誰かがターンワールドをロードムービ的だとかなんとかと言っていて、この本もロードムービと書いてある。もしかしてネタが被っていたのかなぁと不安になって読み始めたが、文体が違うから大丈夫だろうと思ったし、内容も全然違っていたからほっとした。そもそもロードムービという言葉があるぐらいだから、なにかそれっぽいカテゴリに入るようなものがあって、でもそれが重なるなんてことは、ロックというジャンルで不思議と被っている曲がないのと同じなのかもしれない。 矢井田瞳を最初に見た時は椎名林檎に似ていると思った。でも二人は違う。それと同じ。
この本とはあんまり関係ない話だけど、小説の主人公って子供か、職を失った人か、失恋した人ぐらいしかないような気がする。職業小説といって思いつくのは半沢直樹ぐらいか。あとミステリだと探偵や刑事。あっ、意外に他にもあった。事件が外にあれば大丈夫っぽい。でも主人公自身が事件となるとやっぱり上の3パターンなのかな。
KDP界隈ではなにかと話題だった悪魔とドライヴ。読みやすいとの評判だった。確かに読みやすい。でもヘリベさんの書く話は難しすぎて私には内容を理解することが困難だった。まるで悪魔とドライヴしているみたいだ。どうして久太郎が小説を書いているのかよく分からなかったし、それが何かのメタファなのかもしれないと考えてみたがさっぱりだった。神にでもなったつもりか、ヘリベマルヲ、そして辻久太郎よ。
最後は燃えてドンパチするわけだし、ちありなんて必要なかったんじゃないかなって思ってしまうんだけど・・・・。どうせアクションするなら、彼女を巫女にして悪魔と戦う物語はどうかと考えてみた。あの小説には悪魔が宿っていて、久太郎とちありが悪魔祓いしていくという話。・・・・考えてみただけ。もし件の悪ドラ会でこんな提案をしたらへリベさんに殺されていただろうな。
私には理解できない深遠な物語だった。
ニーチェは言っている。
”深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ”
あんまり深追いすると虚無の谷に落ちそうなので分からないまま置いておくのがいいのだろう。
月狂さんの震源シリーズ。じゃなかった、箴言シリーズ。 もしかして誰かに向けて語っているような気もしないでもないけど気にしてはいけない。たったひとりに向けた言葉が誰にでも刺さる言葉になることもある。
そうそう、悪口も何を言うかではなく、どう言うかというのは小説の文体問題と同じだった。結局どんなことでも目の付け所が大事ってことなのだろう。意外にも森先生と繋がってしまった。全ての結論がここにつく。
(以上、おわり 2月25日 牛野小雪が記す)








